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第三回 観光

6. 7月13日(金)午前


 今日の予定で確定しているのは、午前中に秋芳洞見物、午後に荷物を宿に置いた上でGさんのお店襲撃。これだけだ。

 まずは秋芳洞。ところが「Sロイヤルホテル」は、秋芳洞まで歩いて行ける場所にある。なら、チェックアウトしたのち、車は引き続き駐車場に置かせてもらい、徒歩で秋芳洞に入った方が楽。そう思って宿の人に聞いてみた。ら。

 秋芳洞は、出口が三つあるのだそうだ。南側(秋芳口)と北側(黒谷口)、そして途中からのエレベーター。そのエレベーターが、宿のすぐ近くになる。

 で、宿のバスが、8時30分に秋芳口まで出るのだという。これに便乗させてもらうことにした。

 装備は、カメラ一式。一眼レフカメラを首から提げ、肩にはウェアラブルカメラをマウントし。鞄は写真撮影用の装備一式を入れたもの。ちなみに、秋芳洞内は光量不足でカメラは殆ど使えなかった。またウェアラブルカメラは夜間撮影用レンズを装着し忘れていた(無事撮れていたかどうかは7月17日現在未確認)。


 そして秋芳洞。ここに来たことで、これまでの勘違いを知ることになった。私はこの鍾乳洞のことを「しゅうほうどう」と読んでいたが。そこにあるフリガナをよく見てみると「あきよしどう」が正しい読み方だったようで。

 そして中は、ひんやりと涼しい。洞内に流れ込んでいる川があるが、こちらは決壊危険水域。Gさんが言っていた「秋芳洞は水没」が、実は現実の危機のようだった。

 途中にあるエレベーターで帰る予定だったけど、その時間帯まだ他には観光客がおらず、気が大きくなった私は一旦黒谷口まで歩いた。黒谷口側は、鍾乳洞の出口から人工の坂道である程度登り、その先に黒谷口入口案内所があるのだが、案内所の手前でUターン。実は、この坂道が「3()億年のタイムトンネル」といわれ、両側に地球46(・・)億年のパノラマが描かれているのだという。まぁ期待して行ったら期待外れだというのはお約束だが。

 ともかく。秋芳洞内は川の影響で、かなりの湿度だった。だから早朝の時間帯ならむしろ涼しかったのだが、この「3億年のタイムトンネル」を(くぐ)りながら地上に近付くと。湿度そのままに気温だけが上がる。一気に地上以上に不快指数が高まるという、酷い環境だった。それもあってUターン。エレベーターで出口へ。


 秋芳洞を出て、そこから歩いて秋吉台展望台に上る。気温と湿度で全身汗だくになったので、展望台の喫茶店で小休止しながら、今日の予定を立てる。

 今日は午後2時に宿に荷物を置き、そこからGさんのお店を襲撃する。現在確定しているのはこれだけだ。その一方で、辺境県にはいってみたいところは多い。

 それでも萩や津和野といった町を散策するのは、相応に時間がかかる。食べ歩きをしたいのなら一つの町に半日かけるスケジュールを練る必要がある。だから今回は、街の散策は全て無しとした。代わりに、インスタ蝿(笑)を見込んで、ビューポイントに限定する(インスタどころかブログもやっていないけど)。と思って色々見ていたら。

 辺境県北方に、「青海島」というのを発見。そして、そこにある「鯨墓」の文字。

 時間を計算したら、ちょうどいい。その為、次の目的地を青海島に決定した。


 青海島。そこは、金子みすゞの生誕地でもあるらしいけど、どうでもいい。この地に来るまでそんな名前も知らなかったから、どうでもいい。一時期ブームになった「みんなちがって、みんないい」はこの人の詩の一節らしいけど、知ったこっちゃない。

 そして、鯨墓。そこにある、くじら資料館。まぁ言ってしまえば、「地方の流行らない民俗資料館」でしかないのだけれど。でも私にとっては面白かった。

 クジラ漁をする地方で、くじらを供養する話は多い。獲った全てのくじらに戒名を付けて、なんていう話もある。それは凄く立派な話だと思う。

 けれど、ここ、青海島(かよい)の鯨墓は、そのくじらの胎の中の胎児を祀ったものだった。


「鯨としての生命は母鯨と共に終わったが、われわれの目的はおまえたち胎児をとることではなかった。むしろ、海へ放してやりたいのだが、広い海へ放たれても、 独りではとても生きてはいけまい。それ故に、われわれ人間と同様に念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを得てくれるようにお願いする」(照誉得定師解説)。


 この解説が、人間のエゴと慈悲、そして自然の掟を顕したものと思えてむしろ感動した。

 クジラを獲るのは生きる為。それは、人間が生物としての自然な在り方だ。それでも、生きる為に殺す相手は母鯨であって胎児ではなかった。だから胎児は、人間流の供養を以て祀る。

 そこに偽善があることに、気付いていないはずがない。人間同士でさえ、異教の祭典を以て祀られたら嬉しくないというのだから。仏教の念佛など、くじらの胎児には何の意味も持たないだろう。けれど。それでも。


 胎児殺しを「無益な殺生」と考え、それを弔う。その在り方は、誇って良いモノだと思う。

(2,026文字:2018/07/17初稿 2018/07/23投稿予約 2018/07/26 09:00掲載予定)

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