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起・元極道は空を仰ぐ

◇━◇━◇━◇━◇


 長い、長い時間を、1つの場所で過ごした。

 

 見える光景は大概同じ。同じ狭い部屋に、同じ無機質な食堂、同じ芝生、同じ空。

 ただ20年の時の中で『人』だけは変わっていったた。

 自分よりも先に『この場所』に入れられた者も、後から入れられて来た者も。多くは自分よりも先に何らかの形でこの巣から飛び立っていった。

 それを自然の摂理だと思って男は大して気にはしなかったが、初めの頃、外に出たいと焦がれたことは紛れも無い確かな事実でもある。


 いつかもう一度あの分厚い壁の向こうへ。そう思って何度も手を伸ばした。




「374番、立て」


 いつも通りの昼休憩。食事を終え、午後の作業までの安らかな一時を邪魔するかの如く、鉄格子の向こう側から看守の声が響く。

 番号で呼ばれた男は壁にもたれ掛かっていた巨躯を起き上がらせると背筋を伸ばして鉄格子の前まで歩いていく。

 男は紛れもない日本人であったが、その平均離れたした身長と厳つい顔面から放たれる威圧感は何処か人間味を超えた何かを帯びており、決して破れない筈の鉄格子を間に隔てているのに看守が思わず一方躊躇いでしまう程だった。


「め、面会だ。外に出ろ」


 やや脅えながらも職務を全うしようと鉄格子の扉を開く看守を他所に、この時初めて終始仏頂面を崩さなかった男の表情が微かに揺ぐ。

 面会。此処10年以上誰も来なかったというのに、突然誰が自分に会いに来たというのだろうか。

 疑問を抱きながらも小さな独房から廊下に出た男は、2人の看守に挟まれるようにして面会室へと向かう。

 途中、前を通り掛かった独房の中の受刑者達が次々ドミノ倒しのように頭を下げていたが、男は大して目もくれずただ黙って歩いていくのみだった。



 面会室に足を踏み入れた時、男は表情を変えずとも内心首を傾げていた。

 最も本人が意識してそういう表情にしている訳ではなく、元々の強面の顔の作りに無表情が合わさると、たまたま尋常離れした威圧感を出すというだけなのだが。

 何故男がそんな心境になったかというと、強化硝子越しに座っている黒服の男に全くの見覚えが無かったからだ。

 服の上からでも分かる鍛えられた身体からして『元同業者』であることは間違いなかったが、それだけでは判断はつかない。

 さて、自分から話し掛けるべきか。

 内心手をこまねいていた男の心情を知ってか知らずか、面会人の黒服の男が姿を見るなり椅子から立ち上がると、両足を広げて太腿に手を乗せ特徴的な挨拶で頭を下げた。


「お初にお目にかかります。真殿の兄貴」

「……」


 懐かしい呼び名だった。

 それは男がまだ、青州会と呼ばれる任侠組織の一片だった時に使われていた呼称。それを口にするということは、言わずもがな黒服の男の正体は明白だった。


「本日はお迎えに上がりました」

「……数年も音沙汰無しで、突然使いを寄越してくるなんてどういう風の吹き回しだ」


 頭を下げながら会話する黒服の男と、無意識な威圧感を全く抑えないまま返答する男。硝子一枚を間に挟んで座らずに会話する2人の奇妙な男の姿に、看守だけが目を奪われて何も言えずにいた。


「神童の叔父貴も、菅原さんも兄貴をずっと心待ちに」

「堅苦しい建前だけの挨拶は必要ねぇ。質問に答えやがれ。今更こんな老害に話すことなんか何もねぇだろ」


 男は自身を老害と自称するが、傍目から見ても男の筋骨隆々とした立ち姿は肉体的衰退を意味する『老い』を全く感じさせず、四十代手前の渋さと人間離れした力強さを感じさせる。

 その気になれば囚人と面会人を隔てる分厚い硝子1枚ぶち破って胸ぐらを掴んでくる。

 下手に口を滑らせればそんな未来が現実になってしまうような気がして、面会人の若いヤクザの首裏にはじっとりと嫌な汗が流れていた。

 この緊張感が密集する空間から早く抜け出したい。心の中でそう何度も願いながら、若いヤクザは震える手で胸ポケットから1枚の封書を取り出し、その中身を口に出して読み始めた。


「真殿さん。青州会は今貴方に帰って来て頂きたいと考えています」

「……そいつはどういう了見だ」


 男の剣幕が僅かに引き締まる。

 少し考えてみればわかる矛盾した話なのだ。まだ刑期を終えていない元極道に対して、組に帰って来いと提案するなど。

 どちらにしても一度極道から自分の意思で足を洗った男からすれば、組に戻る気など更々無いのだが。

 しかし、面会人の若いヤクザはそれを承知の上でという程で話を進める気は無く、視線だけを相手に悟られないように看守にへと向ける。

 訳を話さない若いヤクザの答えを知るにはそれだけで十分だった。


「此処じゃ訳は話せないってことか」

「話が早くて助かります。手引きは伊鶴来会長が」

「親父が……?」


 囚人の男と男が親父という人物は、本当に血縁関係がある間柄というわけではない。

 それは形式上の親子関係。役所で手続きを済ませるのではなく、盃と盃を酌み交わし義理と人情で結んだ擬似的な親子の関係。極道の上司と部下が結ぶ親子関係における親という意味だ。

 古いヤクザほどこの仕来りを重く考えており、今の時代には珍しいが、親からの命令を受ければ迷わず命を落とすなどという一種の宗教染みた考えまで持つヤクザまでいる。

 

 実際、この無機質な監獄に閉じ込められた元極道の男もまた、親━━つまり青州会会長が下した命令を受けて、十数年もこんな場所に居るのだ。

 

 長期間、退屈な監獄生活送る。

 そのことに全く疑念を感じなかったと言えば嘘になるが、それでもかつての男は親に役に立てるという喜びで気を紛らわし、臆することなく刑務所に入った。

 それから十数年。自分を監獄に送り込んだ男が、自分を引き出そうとしている。

 奇妙な感覚に呑まれそうになりながらも、囚人の男の硬い表情が砕けることはなく、神妙な空気で会話は続く。


「俺が刑務所を出て良いってことは、色々と話はついたのか?」


 当時、男が起こした事件は世間を震撼させる大事件と化した。


 ある宗教団体そのものを壊滅させた大量殺人事件の容疑。

 加えて1ヶ月にも渡る逃亡。


 勿論事件を起こしたそれなりの理由は在るのだが、端に刑務官も居るこの空間でおいそれと語るわけにはいかず、男は多少言葉を包みながら尋ねたのだが、硝子越しの若いヤクザは首を横に振って答えを口にはしなかった。


「俺は何も。ぺーぺーの新米ですから」


 そう語る若いヤクザの額からは絶え間なく汗が流れている。

 よっぽどこの状況に緊張しているのだろうか。

 権力や策謀には疎い囚人の男も、流石に自分が先代の組長と鏡一枚越しで喋らなければならないという気まずい空気を想像し、目の前の後輩に同情せざる負えなかった。

 これ以上目の前の若者を追い詰めても仕方がない。そう思って男は用意されたパイプ椅子に腰を掛けながら他の質問を投げ掛けた。


「で、すぐにでも出られるのか?」

「え、あっはい。伊鶴来会長が随分と前から根回しされてましたので」


 囚人の立場にあるのだから当然ではあるのだが、勿論男は自分の未来が裏で左右されていることなど全く知らなかった。

 確かに、何十人単位の殺人を犯したという容疑を掛けられている自分が今の今まで世間的には隠蔽されながら実刑を免れて来たかといえば、説明をつけるには外部の力が働いていたとこじつけるしかない。

 そのことに微妙な疎外感を感じながらも、久しぶりの外の世界を想像して少しだけ胸を弾ませる。


「外か。俺が居た時とは随分と変わってそうだな」


 思い浮かべるのは懐かしい光景。

 21世紀に突入したのを機に人も社会も経済もお祭り騒ぎをしていたあの日常。『記念すべきミレニアム』だのなんだの、毎日毎日テレビが同じ言葉を言えば、便乗して人々が金を落として騒ぐ。

 騒がしくも好ましい喧騒は今もまだ残っているのだろうか。

 目の前の若いヤクザは真実を知っているのだろうが、男は自分の目で確かめたいと敢えてその疑問を口にはしなかった。

 極道としては20年以上の先輩が子供のように胸を弾ませている姿を見て、外に出た後の愉しみということで取っておくことにしたのだ。

 内心の穏やかな気持を隠しながら若いヤクザは徐に立ち上がるとパンチパーマの頭を深々と下げた。


真殿(までん)の兄貴。どうぞ外に出てくだせぇ。会長がお待ちです」





◇━◇━◇━◇━◇


 永遠のように感じられた牢獄生活の終わりは、反して一瞬で終末を迎えた。

 真っ当なに刑期を迎えた訳ではなく何らかの横領を受けての釈放に、看守達は皆良い顔をしていなかったが、それでも決定は覆らない。

 不服そうな看守に導かれながら外の世界を目指して歩き出す。 

 納得して入った刑務所だった。組の未来を思ったが為に、親父への義理を果たす為に、男は自由の剥奪を甘んじて受け入れた。

 しかし、その間一度も外の世界を夢見て居なかったといえば嘘になる。

 知り合いはどうしているだろうか。行きつけの店はまだあるだろうか。入る前まで見ていたドラマの続きはどうなったのだろうか。

 どうでもいいことばかり頭に浮かんでは、どうせ知ることはできないのだと何度も諦めた。


 それが今、知れる。

 自分を刑務所に送り込んだ親父(おとこ)の手によって、外の世界へと再び脚を踏み出すことが出来る。

 複雑な気分の中、一歩、また一歩と脚を進めて行くと次第に人工的ではない光が目を眩ませた。

 刑務所での運動時間中に中庭で何度も見た日の光が、今は何十倍にも眩しく感じられる。日除け代わりに自分の手を翳したその指の隙間からは、男の耳には懐かしい『日常』が入り込んでいた。



「この間のテレビ見たー!?あの映画の監督近々来日して十王字ビルでイベントやるらしいよー!」

「連続爆弾魔!まだ捕まってないんだってー!」

「ここらへんの有名な大学も爆発しちゃったんでしょ!?やばくない!?」

「見て見てー。ボールにめっちゃ可愛い子の写真載ってる。チンピラボコボコにしてるんだけど」

「うわっ、べーはこれ。マジべー。ドラマの撮影?」



 人。人。人。車。車。車。建物。建物。建物。

 暫く見ていなかっただけで、見慣れた筈の光景が男━━真殿(までん)隆一(りゅういち)にはあまりに眩しく写った。

 刑務所から出てぐる真殿の姿など誰も見ていないというのに、彼自身は行き交う人1人1人に視線を向けていて、その表情は若干呆けているようにも見えた。


「真殿の兄貴!」


 先行してきた刑務官も刑務所の中へ戻っていき、残された真殿に面会に来ていた若いヤクザが呼び掛けて来る。

 どうやら元組長の出所に群城組は総出で出迎えなんて目立つ行為はしなかったらしく、出迎えは若いヤクザと彼の乗ってきた軽自動車だけだった。

 昔以上に極道が住みにくい世の中に変わっていることは真殿も聞いていたので、特に迎えが少ない事実についてはあまり疑問を持たず若いヤクザの呼び掛けに応えて頷く。


「すいません。出迎えが俺1人だけで。でも他の兄貴達も」

「構わねぇよ。それより早く行こう。親父の顔も見てぇが」

 

 其処で一度言葉を止めて反対側の道路を見据える真殿。

 穏やかな笑顔で何かを見据える真殿の視線の行く先が気になって目で追う若いヤクザの視界に入り込んだのは、何の変哲もないラーメン屋だった。

 一体、あれが何だというのかと首を傾げる若いヤクザの前で真殿は少年のような笑みを浮かべながら片手で麺を箸で啜るような仕草をする。


「久しぶりの娑婆だ。美味いもん、先に食わせてくれよ」

「っ!は、はい!」


 気さくに話し掛けてくれる目上の男に漸く緊張が解けてきたようで、実に嬉しそうな表情で頷く若いヤクザ。

 真殿も入所する前に持ち歩いていたバッグを肩に背負い、車に乗り込もうと踏み出したのだが、その運命に再度不運が降り掛かる。


 真殿が歩き出したのを確認してから車にエンジンを掛けた若いヤクザ。

 その男の右太腿が、突如として飛来した何かによって貫かれ、赤い血飛沫を上げたのだ。


「あっっ!!?」

「!? おい!!」


 悲鳴を上げてその場に倒れ込む若いヤクザに、何者かによる高所からの狙撃だと気付きながらも走って駆け寄る真殿。

 若いヤクザを車の助手席に乗せながら周囲を確認すると、近くの立体駐車場に一瞬影が見えた気がしたが、交差点を挟んだ場所に位置した為追いかけられない。

 そもそも発泡音すら聞こえなかったのだ。相手は長距離から狙っていて、なおかつ消音器を銃に装備している可能性がある。そのような装備を持っている相手が素人とは思えない。

 身の危険を感じて運転席に座って扉を閉めたのも束の間、真殿は再度、目の前に出現した数人のSMG(サブマシンガン)を持った黒服の集団の出現に目を見開くこととなる。


「ッ!!? ふざけるなっ!!」


 背筋に駆け巡る悪寒。

 ほぼ本能的に真殿がアクセルを踏み出したのとほぼ同時に、黒服達が繰り出す弾丸の大雨がほぼ新品の軽自動車の表面をなぞる。

 

「あぁ……ローンが……」

「死にたくなかったら頭下げてろ!」


 太腿を貫かれて血が抜けたからか、やけに冷静な口調で己よりも車の心配をする若いヤクザを言葉だけで制して、2人を乗せた軽自動車が公道に出た。

 公道に出てからは黒服達が追ってくる様子は全く無くなったのだが、最初の狙撃手がいつ何処から狙ってくるかも分からない為、なるべく元居た場所を離れるつもりでアクセルを踏み切る。

 

「あぁ……5代目……気を付けて、ください……」


 銃弾に脚を貫かれた若いヤクザがか細い声を捻り出す。

 太腿の傷は相当酷く、貫かれたというより肉が弾き飛ばされたと例えた方が的確なほどで、車の床には刻々と血液が密度を増していく。


「人の心配してる場合か!!気を強く持て!すぐに親父に!」

「あ、いえ、そうじゃなくて……」

「?」


 この状況で他に何を心配することがあるのだろうか。

 疑問に思いながらもそれは心の片隅で最小限気に留めておくことにして、十年以上ぶりの運転とは思えないドライブテクニックで次々と前の車を追い越していく真殿。

 若いヤクザの心配は実は其処にあった。

 真殿は知らなかった。彼が刑務所に入った十数年の間に様々な人間が成人し、そしてこの街で新たな力として蔓延っていることを。

 それをよく知る若いヤクザは血が抜けていることよりも、別の意味で刻々と近づいてくる死神を恐れて顔を徐々に青冷めさせては必死に真殿に忠告する。


「そ、速度。落としてください……ヤツが、来ます」

「ヤツ!?お前、狙撃手の正体知ってるのか!?」

「ち、違います……そうじゃなくて━━」


 若いヤクザの忠告も虚しく、突如騒がしいサイレンの音が穏やかな昼の街に鳴り響き、とうとう自身の予感が的中してしまったと目を瞑りながら若いヤクザは言葉を紡いだ。


「あ、あぁ……白い死神……」


 バックミラー越しに真殿が見たものは、フルフェイスヘルメットを被り、明らかに警察のルール遵守に反したカスタマイズをされたバイクに乗る━━謎の女白バイ隊員の姿だった。

 

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