プロローグ1・学者は隠す
◇━◇━◇━◇━◇
無数に存在する人生の出来事において、全てが終わった時、説明責任が果たされる事象は一体どれぐらいあるのだろう。
空に浮かぶ円盤の正体は?
行方不明になったあの人の行方は?
古くからの伝記に残り続けて来た神話の真相は?
殆どの人間がその存在を知っていながら、確信へと迫れずに人生を終えていく。
万人が真相に辿り着くことはなく、また限られた一握りの人々でさえも謎の全貌を掴むのは容易では無い。
わからないことはわからない。
そう当然のように割り切れる人間が正常なのであり、諦めきれない探求者は、社会から除外される異常者へと成り下がる。
◇―◇―◇―◇―◇
東京都、囲炉仔区、仙水大学。
季節は夏。
「暑い」
低い男の声が空間に木霊することなく空気に溶けていく。
ほぼ物置状態の部屋に居るのはそう呟いた男1人。
暫く風呂にも入っていない為か臭いもきつそうだったが、孤独であるがためにそれを咎める者は誰もおらず、男は白衣姿でソファの上に寝転がるし連日の猛暑に耐える術を持ち合わせていなかった。
物置と比喩するのであれば、クーラーとまでは言わずとも、扇風機やうちわぐらいあるのではないか。
管理者である男は長らく放置していた部屋の有様に嘆息をつきながらも必死に探したのだが、結果として見つかりはしなかった。
そもそも大学側が用意した備え付けのクーラーが去年まで設置されていたのだが、学校側の意向で一部の教室を除き節電対策のために撤去されたのだ。
この部屋もその被害教室の1つで、白衣の男は現在進行系で被害を受けている被害者の1人ということになる。
「ったく……あの学長……異常気象などというくだらん障害のせいでオレの栄光ある研究に支障が出たりしたらどうするつもりだ……てめぇの残り少ない毛根じゃ支払えんぞ……」
革のソファの上で愚痴を言っても熱さは変わらない。
気晴らしに一服しようと白衣の中の煙草を探したが見当たらない。
悶々とした気分は更に膨れ上がり、少し離れた場所にある四脚テーブルの上に置いてあるのが見えて、手を伸ばした拍子にソファから転げ落ちた。
「やっほー!!志村センセー元気ィー!!」
丁度同じタイミングで喧しい声が部屋の中を反響して、更に男の苛立ちは募っていく。
整理されずに床に転がった蔵書の上に寝転がる白衣の男と、如何にも楽しんできましたと言わんばかりのアロハシャツと褐色の肌が特徴的な低身長の少女。
この2つの存在を対比するべきか些か迷うところではあるが、『志村』と呼ばれた白衣の男の溜息混じりの半目の表情は確かに少女の陽気な笑顔と対になっていた。
「霜北か。旅行から帰省したであろうお前にオレから贈る言葉は3つだ。うるさい、邪魔だ、帰れ」
「おわっ!?辛辣!?ハワイの人達の優しさと穏やかさに触れた後だといつもの5倍は冷たく感じるよセンセー!!」
開幕一番に突っぱねられようともハイテンションを止めない少女はキャリーバッグ片手にズカズカと室内に入り込んでいく。
勿論、蔵書の床の上をキャリーバッグのキャスターが無理に進めば紙を巻き込んだりするのだが、部屋の主の志村は大学からの借り物ばかりだとあまり気にしてはいなかった。
むしろ気になったといえばキャリーバッグを引く少女本人に対してだ。
勝手に暫くぶりの志村の研究室内を散策し始める霜北を観察していると、どうにも無視できない箇所が彼女にはあった。
「霜北。なんでお前、靴履いてないんだ?」
それは目に見えてわかる明らかな異常だった。
一体何処から歩いてきたかは定かでは無かったが、所々土塊が付着している点から大学の敷地内の芝生を悠々と歩いてきたのだろう。
同年代の異性から見れば褐色の肌が蠱惑的にも写る活発な少女は、なんと素足だったのだ。
紀元前から人類が歩行する上で発明した靴という文明の利器を脱いで野外を出歩くというのは、何か重大な理由がなくてはありえない行為である。
しかも霜北は人生の花の舞台。只今絶賛女子大生中なのだ。小学生の男子が靴を抜けば足が早くなるという迷信を信じて実行するのとはわけが違う。
普段から死んだ魚の目の教師として女子に忌み嫌われている志村もこればかりは気になって真剣な表情で尋ねたのだが、返ってきたのは霜北の何ともマヌケな驚嘆の声だけだった。
「靴……?えぇっ!!?あれ!?ウチのビーチサンダルは!?」
「気づいてなかったのか……というか空港からビーチサンダルで来たのかお前!?」
「いやハワイから」
「余計おかしいわ!!」
いくら拘束性の低いビーチサンダルが脱げやすいといっても普通気付くだろうに。
教え子の天然加減にほとほと肩を落とす志村を見て、霜北は名誉を挽回するように両手をバタつかせながら慌てて話を逸らそうと言葉を発した。
「あっ、あーそういえばセンセー知ってる!?旧館で爆発事故が起きたって!!しかも原因不明の!!センセーそういうの好きで……しょ?」
廊下で立ち聞きしたボヤ騒ぎの噂を意気揚々と語りだした少女の表情が、アルマジロの如く床に丸まった中年男性の姿を見てみるみるうちに渋っていく。
「何してんのセンセー?」
「知らないのか。お前がハワイに行っている間に日本で流行ったアルマジロ体操だよ。目と腰と内蔵と頭が良くなる。お前もやってみろ、ちょっとはその残念な脳みそがマジになるかもしれん」
「なんでまだ辛辣なこと言うの!?」
驚きながらも何かを察し、自分達以外に誰もいないと分かっていても霜北は少し小さめの声で微動だにしない中年アルマジロに声を掛けた。
「センセー。もしかして犯人?」
アルマジロの肩がわかり易く揺れる。
霜北は予想が当たってしまったのかと微妙な表情をするものの、あまり喜べない状況に肩を落として志村のすぐ側で膝を折って屈む。
「なーんでそんなことしたのセンセー。ヤケ?」
「お前までオレを疑うのか……人生糞だな」
「あら、真犯人は別にいるパターンなの?」
実年齢よりも遥かに下の中学に入りたての女子ぐらいにしか見えない顔付きで首を傾げる霜北。
そんな彼女に視線を向けることなく蔵書の上で丸まったままの志村は、テーブルの上のリモコンを手にとって適当にボタンを押してテレビの電源を付ける。
すると、調度テレビでは志村達の居る大学の爆破事件についてニュースが流れていた。
『先週ありました東京都囲炉仔区仙水大学で起きた爆破事件ですが、連日捜査は続いているものの、未だに容疑者を掴めずにいる模様です。警察は以前から不定期に起こっている爆破事件との関連性も考え慎重に━━』
画面上の女性アナウンサーが読み上げる文字の羅列は見事に研究室内で交わされていた会話の内容と合っており。
それを聞いた霜北はより一層哀しそうな顔で恩師の肩を叩く。
「自首しよ」
「だから違うっての!」
なおのこと自分を犯人だと断定する教え子に、漸くアルマジロ状態から胡座に姿勢を変える志村。
霜北も面白半分の楽しげな笑みを浮かべているもの真剣に話を聞こうと対面して正座で座る。
志村が落ち着いて煙草を吹かし始めた後、季節も相まってまるで怪談話でも語るかのような口調で志村は話始めた。
「1週間程前だ。オレはある女から超重要なアイテムを買ってな」
「ごめんセンセー。全く話が見えてこないよ。今旧館の爆発の話してなかったけ?」
「だからそうだって言ってんだろ。まずはモノローグだ、黙って聞け」
煙草を吹かし窓の外を眺める志村。
役者さながらの神妙な顔持ちに一体どんなドラマティックなモノローグが語られるのか、うすうずしながら待ち受ける霜北だったが、僅か5秒足らずでその場に転げ落ちるハメとなった。
「オレは事件の夜、ある古物商から研究対象に成り得る貴重なサンプルを買い付けた。調度その日の夜、警備員に黙って研究室に引き篭もったオレの耳に爆発音が響いたんだよ」
「えぇ……説明がアバウト過ぎるよセンセー。そりゃ容疑者にもされるって」
「されてない。俺を犯人扱いしてるのは学長だけだ」
半目になる霜北の言い分は最もなのだが、彼女の残念な脳味噌にどんな丁寧な説明しても無駄だと理解しているからこその志村のこの判断なのだ。
しかし、それで好奇心な旺盛な十代そこらの少女の気が収まる筈はなく、霜北は取り敢えず適当にそこらに転がっている蔵書やらがらくたやらを投げつける。
「おーしーえーろーよーーっ」
「はっはっはっ。シューティングゲーム全盛期を生きたこのオレにその程度の弾幕通用せんわ」
単行本、雑誌、灰皿、コップ、ティシュの箱。
大凡投擲してはいけないものばかりが空を舞うも志村は良識のある大人として咎める様子もなく煙草を咥え、上半身の動きだけで避けるばかり。
「……ん?あっ!!ま、待て霜北!!それは投げんなっ!!」
その余裕な表情が崩れたのは、口を『3』の形にして拗ねる霜北の右手に、明らかに本やがらくたとは呼べない重厚な物体が乗った正にその時だった。
硝子製の手触りからしても、重さからしても、そこいらに転がっている蔵書とは全く別だろうに投げる寸前までいったのだから、志村は自分の教え子のガサツさにある意味感心せざるおえなかった。
「え?なに?なになに?……なにこれ?」
自分が何を投げようとしていたのかも把握していなかったのだろう。志村の慌て様が愉快で、嬉しそうに目の前の男にとっての爆弾を眼前まで持ってきた霜北は思わず首を傾げた。
人間の頭ほどの円柱型の硝子の筒。
内部には培養液らしき液体が限界まで注がれており、その中心には赤のポルシェのミニカーが浮かんでいた。
何処をどう見てもわけがわからない。断片的な意図すら掴めない。
首を左右に何度も何度も傾げながら筒を観察する霜北だったが、結局答えが出ない内に落ち着きを取り戻した志村によって取り上げられてしまった。
「あっ!?うちの!!」
「何がお前のだっ。いいか、こいつには二度と触んな。身体消し飛んでもしらねぇぞ」
わけのわからない物体に、教育者のわけのわからない付属説明。
ますます頭を悩ませる案件となってきた筒の正体に霜北が必死に頭を悩ませていると、不意に彼女の携帯が着信音を鳴らす。
今時珍しく、スマートフォンを所持していても使用頻度の低い志村にはよくわからなかったが、恐らくは『ボール』という人気SNSアプリだろう。簡単な操作で遠くの人間とコミュニケーションが取れるのだという。
全く持って便利極まりないが、それ故に何かと問題にもなりやすい。
無愛想な志村も自分の教え子がトラブルに巻き込まれれば流石に虫の居所が悪くなるのを禁じ得ないので、だからといって父親のように口煩く注意するのも気恥ずかしく、密かに心配していのだが。
「お前、それ。あんまり変な奴と絡むなよ」
「えっ? 何心配してくれてんの? センセー、パパみたい。きもーいっ」
「うっせっ」
毒を吐きながらもその表情は見るからに嬉しそうで。
クルリと舞うように立ち上がると、霜北は放置していたキャリーバッグを手に取って出入り口へと踵を返した。
「じゃ、取り敢えず今日のところは帰るねっ。家にも帰らず来ちゃったからママがちょー心配してるみたいっ」
「どうにも格好がおかしいと思ったら、帰宅せずにそのまま来たの……さっさと帰れ! 阿呆!」
にししっ、と年齢に似合わない少年のような活発な笑みを浮かべながら霜北は叱咤を背中に受けて去っていった。
1人取り残された白衣の男は嵐が過ぎ去ったことに対して市松の寂しさを感じながらも、一変した無表情で手にしたガラス瓶を比較的整理されている棚の上に置く。
「オレとしたことが、これまで他の有象無象と同じように転がせてしまうとはな」
生気が抜けかけていた中年の瞳と声色に僅かに熱が籠る。その意識は前方のガラス瓶、その中に浮かぶ赤いポルシェの玩具にのみ向けられていた。
「お前がオレを導くんだ。……頼んだぞ」
そう言って指先で軽くガラス瓶を小突いてから部屋を出る志村。
━━赤いポルシェの玩具のボンネット辺りにいつの間にか浮き出ていた【眼球】のような物体は、研究室からその背中が消えるまでずっと凝視し続けていた。