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夏わたり  作者: 成瀬 透
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後編:恋はほろほろ

 明日の部活までこの苦しい気持ちを引きずりたくない一心で、私はその日のうちに亜沙実にラインで報告をした。

『例の件聞いたんだけど、結局はぐらかされちゃった』

『えー、やっぱ好きな子いるのかなあ』

『どうだろうね、もしかしたらそうかもね』

 亜沙実とのやり取りを終えて、私はスマホを握り締める。

 胸がじくじくと腐っていくような感じがする。これが良心の呵責ってやつだろうか。

(私、最低)

 でも、もう引き返せない。何もかもが。これからどうなるか、自分がどうするのか、私は喜びと後ろめたさと不安を抱えて迷路の中で立ち尽くしている。

 翌日、私は部活を休んだ。


 日曜日。ピンポンとチャイムを押すと、羽田のお母さんが感激した様子で出迎えてくれた。

「まあまあまあ、久しぶりねえ!」

「おじゃまします」

「いつ以来かしら? すっかりお姉さんぽくなっちゃって、びっくりしちゃった」

 私は曖昧に笑って見せた。

 羽田の家は大きくて綺麗で、小学校の頃なんかは皆でよくここに集まったものだ。それにこのおばさんが子供好きなのか優しくて、両親が留守がちの私はこの家に随分入り浸っていた。

「あの子、二階にいるから、勝手に上がってちょうだいね」 

 数年ぶりに上がった羽田家は壁紙や家具の配置など、所々が細かく変わっていた。

 一応ノックしてから、そろそろと部屋のドアを開ける。そこには記憶とは全然違う、男の子の部屋があった。

「いらっしゃい」

「お邪魔、します」

 昔はプラモデルやお菓子のおまけシールとかが散乱していたのに、今ではすっきりと片付いていて、いっそ殺風景なくらいだった。その奥で、椅子に座って柔らかく微笑む同い年の男の子。

「座ったら?」

「あ。うん」

 私は折りたたみ式のテーブルの前に置いてあるクッションの上に腰を落とした。

 何だか今さらながら緊張してきた。そんな必要、全くないのに。

「じゃ、始めよっか」

 これが友達だったら、えー、もう? と不満を言ったかもしれないけど、今回ばかりはむしろ有難いくらいだった。勉強してれば、少しは気が紛れる。

 関節にじわりと滲んだ汗に、早く乾いてと私は懇願した。


「あ、解った。ここでこの公式を使うんだ!」

「そうそう。な、簡単だろ?」

 勉強開始から休憩を挟んで約四時間。

 私はすっかり優秀な生徒気分になっていた。頭の中はもうパンパンだったけど、曖昧だったりうろ覚えだったところがどんどん解決して行くので、大嫌いな数学に多少は歩み寄れた気がする。

「それにしても羽田凄いね。期末なんて余裕って感じ? 朝勉、毎日頑張ってたもんね」

 さすが毎日朝勉しているだけあって羽田は私の質問に何でも答えられた。説明も丁寧で簡潔。その手腕といったら学校の先生にも見習ってほしいくらいだった。

「頑張ってたっていうか、勉強するの楽しいからね」

「えっ!? ほんとに!?」

 そんな人が実在するなんて、と私は魂消た。この人本当に、頭でも打ったんじゃないだろうか、と逆に心配になってしまう。

「楽しいよ。こんなに努力が結果に直結することなんて、なかなか無いだろ?」

「えー……。そうかなあ」

 もっともらしく言ってるけど、その意見は素直に受け入れられない。

「そうだよ。でも、知花も凄い集中力だね。びっくりした。普段から勉強してたら、かなり上位狙えるんじゃない?」

「それは無理」

 口を尖らせた私に、羽田はおばさんが持って来てくれたサイダーを注いでくれた。シュワシュワと喉の奥で弾ける泡が、心地好い。

「今日、七夕だよね。短冊、書いた?」

 短冊? と私は聞き返す。

「書いてないよ、そんなの。短冊を吊るす笹も無いし」

「小学生の頃は、短冊に願い事書いて、皆で校庭の笹に掛けてたよね」

「ああ……」

 そういえば、そんな行事があった。低学年までは可愛らしい願い事を書くものの、高学年になるにつれ、現金で実用的な内容に変貌していく、そんな面白い祭事が。

「あの頃って、どんな願い事してた?」

 私は目線を斜め右に泳がせてみた。あの頃の願い事。短冊に込めた想い。

「さあ……。覚えてない」

「本当?」

「うん。本当に覚えてない。ケーキがいっぱい食べれますように、とかじゃないかな」

 私は笑って見せた。知花らしい、と羽田もふふふと笑ったので、私は安心する。

 からん、とサイダーの中の氷が崩れた。一瞬、お互いがお互いを真顔で見つめるおかしな間が出来た。

 どきりとして、息苦しいのに、どうやって目を逸らせばいいのか分からない。

 風鈴が、ちりんと鳴る。日中よりは随分涼しくなったというのに、私は脇に大量の汗をかいているのを自覚した。苦しい。苦しい。私は喘ぐ。

 正面の羽田の顔も、苦しそう。

「知花は、嘘ってつくことある?」

 窒息しそうな空間の中で、先に言葉を吐いたのは羽田の方だった。感情を抑えたような、少し悲しそうな、いつもより低い声で。

「小さい嘘ならある、かも」

 まさに今、嘘をついている。あるかも、どころじゃない。ここ数週間は大から小まで嘘嘘嘘の大嘘つきなくせに。

「俺も。実はつい最近も、嘘ついた」

「誰に?」

「西岡さん。登下校、西岡さんが言うとおり俺は知花と二人が良かったよ」

「亜沙実のこと、苦手なの?」

 どうして? どうして私と二人がいいのと、私は心の中で問いただしていた。でも、それとは裏腹に実際はわざととぼけてこんなずるいことしか言えない。

「そうじゃないよ。じゃあこう言えば分かるかな。俺はもう一つ嘘をついた。柔道を始めたのは自分のためじゃない。知花を守れる男になりたかったからだ」

 私の心臓はばくんと跳ねた。

 言われてしまった。

 とうとう、言われてしまった。

 好きっていう単語こそなかったけれど、これが告白じゃなくて何だろう。ここまで言われてもう鈍感な演技を続けることなんてできない。第一、私に彼の気持ちが伝わっていると、彼自身が気付いている。

「そんなこと、言われても困るよ……」

 でも、それが共通の認識になったからといって、私が素直に応えることは無理だ。だって、私には……。彼氏が、いるんだから。

「じゃあ、十津川と私が揉めるのが嫌だっていうのは? あれは本当なの?」

 私は精一杯冷静さを装って羽田に訊いた。羽田が十津川の存在をどう思っているのか、私は前々から不思議で堪らなかったから。

「それは嘘じゃない。知花が嫌な思いするのは、俺も嫌だから」

 その返事は私を少々驚かせた。

 確かに羽田は今まで私たちの仲を邪魔しようとしたことは一度もない。むしろ気を遣っていたと思う。でも、私が好きならそんなのおかしい。そうでしょ?

「意味、分かんない。どうしたいの? 私と十津川が別れればいいって思わないの?」

「別れる? どうして。十津川と両想いなら十津川と付き合えばいい。知花が誰と付き合おうが誰を好きだろうが関係ない。俺が勝手に知花を好きなんだから」

 ますます理解できない。羽田は一体どうしたいんだろう?

「私の幸せが俺の幸せとか、そういう事?」

「シンプルに言えば、そうだね」

 本当だろうか。私は顎を引いて、羽田を疑わしそうに睨んだ。

「そういう気持ち、映画や小説の中だけのものだと思ってた」

「どうして?」

「だって、好きなら自分のものにしたいじゃない。そんなの、綺麗事に聞こえる」

 気を悪くされると思ったのに、羽田はそこで困ったように微笑んだ。

「……知花は、真っ直ぐだね」

 少し目を細めて、指先を私の髪に伸ばした。私の肩にかかった髪を掬い、それを自分の顔にゆっくりと持って行く。そして私の髪に目を瞑って口付けをした。

「だって仕方ないだろ。俺がどんなに知花を好きでも、知花が好きなのは十津川なんだから」

 顔を上げた羽田の瞳は、容赦無かった。

 そんなの勝手に決め付けないでよ、と言いたかったけど、私が今ここでそれを言うのは許されない。

 私は何も言えずに、ぐりっと唇を噛んだ。胸が相変わらずばくばくと鳴っているけれど、これはさっきとは違うばくばくだ。単純な喜びとか興奮とかじゃない、悔しさとか焦れったさとか敗北感とか、そういうもの。

「もう六時だよ。行かなくていいの?」

 羽田の指から私の髪が滑り落ちる。まるで、それが別れの合図みたいに。

「行けない」

 私は床に正座したまま、太ももの上で両手を握った。

「だってまだ、数学の範囲終わってないもん。応用の解き方、教えてもらわなきゃ」

 俯いて教科書を睨みながら、やっと搾り出した私の声は、少し震えていた。

 白状するまでもない。私は、恋をしている。抑えられないくらい、激しく。

 それは十津川を好きな気持ちとははっきりと違う。あんなほのかでじんわりとした、甘ったれたもんじゃない。足元が崩れそうな、自分が溢れて爆発しちゃいそうな、どうしようもないこの熱情。

 羽田は、暫く黙っていた。風鈴の涼しげな音が聞こえてくる。風が出てきたのだ。

 どうして何も言ってくれないの、という気持ちを抑えきれなくなった私は、教科書から顔を上げようとした。その途端、柔らかな手の平の感触と一緒に、羽田の穏やかな声が頭の上にそっと置かれた。

「また今度、教えてあげるよ」


 羽田家を出てから一時間後、私は陽の落ちた川原で人ごみに混じって花火を見ていた。

 隣には、十津川。周りには、色々な年代のカップルがいっぱい。

 浴衣を着て来ると約束していたにもかかわらず、ただの私服で現れたことに、十津川は特にふれなかった。

 彼の着ているブルーのシャツは可愛くて、細めのブラックジーンズは脚の長さを強調していた。その姿は制服より道着より数段かっこ良く、どこから見ても自慢の彼氏だ。

 空には、色とりどりの火花と色とりどりの轟音が瞬いている。

「綺麗だね」

 十津川は私の方を向き、嬉しそうに言った。

 そうだね、と答えた私の顔は、空の一点を見つめて動かない。十津川の様子は視界の端に入ってはいるけど、決して正面で捉えることはない。彼はきっと、私が花火に見とれているとでも思っているだろう。

「知花知ってる? この七夕の花火にカップルがそれぞれ心の中で願い事して、それがもし同じことだったら叶うんだって」

「そうなんだ」

「試しにやってみない? 本当に叶うかも」

「いいよ」

 私の左手は、十津川の右手にしっかりと握られている。横を見上げてみると、花火を見つめる十津川の目が閉じられたところだった。その口角はうっすらと上がっている。きっと今、花火に願いを託しているんだろう。

 私は正面を見上げて夜空に輝く花火をじっと眺めていた。

(どうしよう)

 私は泣きたくなった。

 全然、願い事が浮かばない。彼の願うような、私たちの明るい未来を夢見る願い事が、何一つ。

 その代わり、頭によぎるのは古い記憶。小学生の時に短冊に書いた、「お向かいさんのお嫁さんになれますように」という淡い願い事。その文面は四年生になったら「また仲良くなれますように」に表現が変わった。

 美しく咲いては一瞬で散っていく儚い花火たちが、潤んだ瞳にぼやけて見えた。


 私は幼い頃から「ユータ」が好きだった。それこそ、物心がつく前から、自然に。

 距離が離れてからは段々その気持ちも薄まったけれど、それでも私の中で羽田はいつも特別だったのかも知れない。

 いつも下を向いているか外を退屈そうに眺め、親しい友達もいない高校生の彼は、正直私を落胆させた。それどころか想い出を汚されたようにすら感じた。

 それに引き換え、私の高校生活は充実そのもの。とてもそんな地味な幼馴染の変容に気をかけている暇は無かった。

 でも、本当はいつも気にしていたのだ。可哀相な扱いを受ける彼を助けたいと、話しかけたいと思っていた。

(そうだ。私は、気付いてたんだ、初めから。自分の気持ちに)

 あの日、二人で帰った時から。ううん、ノートを運ぶのを手伝ってもらった時から、私は特別な喜びを感じていた。

 流されるふりをして、私は彼から想いをちらつかされることに甘い楽しみを味わっていた。地面に膝をついて求愛してくる騎士を、塔の上からうっとり眺める姫のような気持ちで。

(だからって、こんな気持ちになるなんて)

 高いところから余裕を持って眺めてたつもりだったのに、いつの間にか私の方が振り回されていた。

 私は自分を奪って欲しかったのかもしれない。そんなに私が欲しいなら、王子を倒してここまでおいで、と。

 でも、騎士は王子と戦うことを望まなかった。代わりに彼は草の上で両手を広げたのだ。

 僕の想いに応える気があるのなら、君がそこから降りてごらん、と。


 もうダメだ、と私には解っていた。自分がこれからどうすべきか、ということも。

 月曜日の昼休み、私は金曜日にされたそのままに、亜沙実を屋上へ連れ出した。

 そして、お互いがお弁当を食べ終わった後に、やっとこう切り出した。

「あのね。羽田に好きな子いるのか訊いた時、本当は羽田、ちゃんと答えてくれてたの」

「え、うそ、好きな人いるの? 誰?」

 手すりに寄りかかり、コンクリの床にお尻を着けていた亜沙実は、上半身を乗り出して驚いていた。

 これからもっともっと亜沙実を驚かせると思うと、覚悟はしているものの忍びない。でも、言わなきゃいけない。言わなきゃもっと残酷なことになる。

「ずっと片思いの相手がいるんだって。だから、他の子とは付き合えないって、言ってた」

「そっか……。そおかあー。でもその相手って、誰なんだろう?」

「相手が誰かは、聞いてない、から」

 私は故意に黙った。言えないんだよ、察して、という意思を込めて。

 亜沙実を眉を寄せながら見つめる私の顔は、感情がダダ漏れだったに違いない。案の定勘の鋭い彼女には、それで十分だった。

「ねえ、知花。どうしてあのとき、はぐらかされたなんて言ったの? 羽田君の言ってる相手って、もしかして知花のこと?」

 亜沙実の表情がみるみる私に詰め寄るものに変わっていく。

「何それ」

 私はぎゅっと目を瞑った。

 ごめんねって、言いたい。許して欲しいとは思わないけど、せめて一言謝りたい。

「ずるいよ。みんな知花が持ってくんだね」

 え? と、私は目を開けた。亜沙実の反応が、思いがけないものだったから。

「何でだろう。知花ばっかり」

 亜沙実は膝を抱えて両手の上に額をつけ、顔を伏せていた。ゆるくウェーブのかかった髪で、私からはその表情は見えない。

「私が弓道部に入ったのはね、十津川が好きだったからだよ。中学の時からずっと好きだった。本当は一つランクが下の高校に行く予定だったけど、十津川がここ受験するって知って、猛勉強して入ったの。弓道だって随分迷ったけど、諦め切れなくて結局入部した。でも、自信無くて告白出来ずにいたら、知花を好きって言い出して。いつの間にか付き合っちゃって」

 私は返す言葉がなかった。そんな話は完璧に初耳だったし、あまりにも突飛すぎて。

 確かに、言われてみれば私が十津川と仲良くなったきっかけは、亜沙実だった。十津川と仲の良かった亜沙実が私を十津川に紹介したんだから。

「十津川のこと、忘れようとしたよ。知花のこと好きだったし、せめて友達として二人を応援しようって、せっかく始めた弓道も三年間頑張ろうって。それでやっと新しく好きな人が出来たっていうのに」

 そこで亜沙実はバッと顔を上げた。

「でも、知花には十津川がいるじゃない。だったらさっさと羽田君のこと振っちゃってよ、私のために、それくらい出来るでしょ?」

 ごめんごめんごめんごめん!

 私は心の中で思いっきり叫んでいた。何度謝ってもどうにもならないけれど。自己満足でしかないけれど。

「亜沙実、私……。私も、羽田のこと、好きなの。好きに、なっちゃったの……」

 亜沙実の顔から、一切の表情が消えた。

「うそ。あんた、それで、どーすんの。十津川のこと、どーすんの……?」

「わか、れる」

 こんな簡単な言い方をするつもりじゃなかったのに。口から零れ出た言葉に、私たちは二人揃って絶句した。

「何なの、もう」

 一呼吸置いて、亜沙実は心底呆れたように言い捨てた。

「何で何もかも私から取り上げてくの? 私にはチャンスすらくれないつもり?」

「亜沙実……」

「ごめん、しばらく口ききたくない。顔も見たくないから」

 すっくと立ち上がると、お弁当箱を乱暴に掴んで屋上から出て行ってしまった。

 ひとり取り残された私は、座ったまま空を見上げる。太陽の光が降り注ぐ夏の空に、もくもくとした入道雲が浮かんでいた。

 ――さあ、本番はこれからだ。


 いつもの時間より少し遅れてコンビニに行くと、羽田は当然のごとくこう訊いてきた。

「あれ? 今日西岡さんは?」

「来ないと思う」

「どうして」

「友情が壊れちゃったみたいよ」

 私はコンタクトが零れるんじゃないかってくらい眼を見開いている羽田を置いて、勝手に歩き出した。

 後から羽田が小走りで追いかけてくる。

 蝉の声は相変わらずうるさいし、暑さも全然和らいではいなかったけど、下校時のピークはもう過ぎていて、周りにあまり人はいなかった。

「三人で帰らなくて、彼氏はいいの?」

「うん、いい。別れたから、解決した」

 私の言葉に、羽田は小さく息を吸い込んだ。

 そう、私はついさっき、十津川と別れ話をしてきたのだ。何故と問う彼に私は他に好きな人が出来たと言った。いつも一緒に帰ってる羽田君? と訊かれたので、うん、そう、と答えた。

 それから十津川は色々言ってきたけど、内容はあまり覚えていない。ただ私は、ごめん、十津川が悪いわけじゃないの、とだけ繰り返していた気がする。

 そして私たちは「友達」になることにした。

「……いいの?」

「うん。別れるって、自分で決めたの」

「それは、何で、って訊いても、いいのかな」

 そんなこと、わざわざ訊かなくても解り切ってるくせに。でも、私はあえて彼の質問に答えることにした。言葉が欲しい時だってある。相手に、言わなくてもいい言葉をぶつけたくなる時があるように。

 私が立ち止まるとそれに合わせて彼も立ち止まる。私たちは陽炎の踊る道の真ん中で、緊張しながら対峙した。

「ユータが、好きだから」

 私は毅然と言い放つ。

「……ユウ」

 こわばっていた顔を緩めて、「ユータ」はそう呟いた。

「やっと言えた」

 私はか細い声でそれだけ搾り出すと、両手で顔を覆い、俯いてしまう。

 私の名前は、知花美夕(ちか みゆう)という。

 子供の頃私たちはお互いを「ユータ」「ユウ」と呼び合っていた。私の呼び名に関しては、ミユウがミューになり、ユウと落ち着いたのだ。

 友達から下の名前で呼ばれることはまずない。「ミユウ」より「チカ」の方が断然言いやすいし、私にとってはむしろ「チカ」の方がファーストネームという感覚だ。

 いつの間にか、何となくお互いを名字で呼んでいた私たち。だからこの呼び名には特別な意味が込められていた。特別な、親愛の意味が。

 ユータは私の手を取り、そして繋いだ。いつも手を繋ぐ時は夜だったから平気だったけど、今日はまだ暑いので密着した手がお互い汗ばんでいる。でも、全然不快じゃなかった。いっそこのまま溶け合ってひとつになりたいくらいだった。

 住宅街を抜けて辺りが物言わぬ木だけになった時、私たちはどちらからともなくキスをした。それは今さら味わう、背徳的でありながらも純情な、初恋の味だった。


 それから三日。そう、三日間は夢のように幸せだった。亜沙実とはあれきり一度も口をきいていない。十津川とは会ってもいない。 でも、私は幸せで幸せで堪らなかった。後悔なんてする暇もないくらい。

 ただ、私にはひとつだけ、気にかかることがあった。それはユータの日に日に増す落ち着きのない様子。単なるハッピーとは違う、時には悲しそうであり、時には怒っているような。でも、話しかければ微笑んでくれるし、ちょっぴり意地悪で優しいところはそのままだ。だから私はきっと心配事でもあるんだろう、くらいに軽く考えていた。

 七月一二日、金曜日。しかしその日の彼のピリピリ度合いは限度を超えていた。朝だというのに、まるで世界滅亡の危機に瀕しているような雰囲気を放出させまくっている。

「どうしたの? 何かあった?」

 私は我慢しきれずにとうとう訊いてしまった。いや、何でもない、という答えが返ってはきたものの、そんな厳しい表情と固い声で言われても、到底信じられるわけがない。

 それ以上問いただすことはしたくなかったので、私は様子を見ることにした。でも、学校でも終始彼は張り詰めていて、下校時ともなると更に尋常じゃなく険しい顔つきになっていた。

 私は努めて楽しい話題を探したけれど、何を話しかけてもどことなく上の空で、適当な相槌しか返って来ない。ここまで来ると、私は不安になってきた。もしかして私に対して気に入らないことがあるんじゃないか、とか。

 私たちの家がもう遠くに見えている。私はこのまま別れるのは嫌だと思った。せめて、私に原因があるのかどうかだけでも、教えてもらわないと。

「ねえ、ユータ」

 とうとう、私が呼びかけても返事が返ってこなくなった。慌てて隣を見ると、ユータは真正面を凝視している。

 何かあるのかと私がその視線をたどると、前から知らない男の人が歩いてきていた。三十代半ばくらいの、背の高い痩せた人。

 この辺で見ない人だなあ、あの人がどうしたんだろう、と何となく眺めていると、急に小指が強く引っ張られて、私は驚いた。

「ユウ。あの人と目を合わせないで。そのまま、歩いて」

「え?」

「いいから。言うとおりにして!」

 彼の声は唸るように低く、緊迫していた。

(なになになに? 何なの? どうして?)

 私はすっかり怯えて困惑していたけれど、彼のあまりの迫力に声を失い、その指示に従うしかなかった。

 やがてその男の人とすれ違った時には、私は身体中にじっとりと嫌な汗をかいていた。ユータを恐る恐る見上げると、彼は正面を見据えながら私以上に脂汗をかき、顔色も真っ青になっている。

 やっと私の家の前に着くと、ユータは後ろをゆっくりと振り返った。私もつられて後ろを見ると、もう誰の姿も見えなかった。

「今すぐ家に入れ」

 抑揚のない小さな声で、ユータが言った。

 私は不安が爆発して彼の腕を掴み、「何? どうしたの?」と、半泣きで訴える。

「ドアも窓も鍵をかけて、今日は一歩も家から出るな。親以外、誰が来ても絶対に応対するな。戸も開けるな」

「え? 何で? どういうこと?」

「早く!」

 最後は半ば怒られるような形で、私はわけが分からないまま、家に入った。それでもドアの隙間から小さく手を振ると、ユータも神妙な面持ちのまま振り返してくれている。

(何なの、もう。何がどうしたっていうの!)

 釈然としないまま、それでも私は家中の戸締りをして、両親の帰りを大人しく待つことにした。ユータに説明を求めるラインを打ったけど、返信はなかった。


 その日の十一時頃だったと思う。ルルル、と家の電話が鳴った。

「あら、こんな時間に誰かしら」

 仕事から帰って寛いでいた母親が、その電話を取る。

 私は何だか不吉な予感がした。ユータのあのおかしな態度。返ってこないライン。こんな夜更けに電話。

 リビングのソファの上でじっと様子を窺っていると、二言三言話してから、母親はいきなり私に向かって「ちょっと」と言った。

 私はぎょっとして「何?」と答える。まさか本当にこの嫌な予感が当たってしまう?

「祐太君のお母さんからなんだけど、祐太君まだ家に帰ってないんだって。あんたどこに行ってるか知らない?」

「知らない、けど」

 私の声は上擦っていた。そんなのこっちが百倍知りたい。

「ごめんなさい、知らないって。心配よね、……でも男の子だし。もう少し待ってみる? ……うん。それからでも遅くないわよ」

 私は全身から血の気が引いていた。不安と心配で胸がはち切れそうで、唇が震えだした。

 昼間の件を、話すべきだろうか。でも何て? 知らない男の人を警戒して、私に戸締りするよう言いつけた後、そのままどっかに行っちゃったって?

(どこ行ったの、もう!)

 しかし、私がじりじり思案して、やっぱり些細なことだけど言ってみよう、と決心した十二時頃、ユータは見つかった。ただし、到底無事とは言えない形で。

 十一時半ごろ、半狂乱になったひとりの女子高生が民家に飛び込み、救急車とパトカーを呼ぶよう頼んだらしい。彼女の指定した場所には二人の人間が転がっていて、気絶している片方が例の男、もう片方がユータだった。

 彼は左腕を骨折、右腿を骨に達するまで切り裂かれていた。


「ちょっと今朝の新聞見た? 怖いよね! この近くでこんなこと」

「つーか羽田マジすげえ。尊敬するわ」

 月曜日から期末テストだったけれど、学内は騒然としていて、誰も彼もそれどころじゃないって感じだった。

 ユータはあの日、何故か私たちの家の近くにある雑木林の中にいた。そこは人気のない気味の悪い場所で、滅多に誰も近寄らない。

 彼はそこで偶然、怪しい男に女子高生が襲われているのを目撃し、助けようとその男に掴みかかった。その拍子に腕を折られ、刺されてしまった。二人が揉み合っている隙に女子高生は逃げ出し、助けを求めた、ということだった。

 午後八時頃、帰宅途中の女子高生は歩いてたところを車の中に引っぱり込まれ、数時間連れ回された後、あの雑木林の中で襲われたらしい。幸い彼女は数発殴られ、軽く首を絞められただけで、軽傷で済んだ。

「羽田君大丈夫なの?」

 教室で、亜沙実が一週間ぶりに話しかけてくれた。そのこと自体は嬉しいけれど、私の虚ろな気持ちは全く晴れない。

「怪我はしてるみたいだけど、まだ病院には行ってないの。警察の人とかが来るからって……。今日やっとお見舞いに行けるんだ」

「そうなんだ。よろしくって、言っといて」

 心配そうにそれだけ言うと、亜沙実は自分の席に着いた。

 チャイムが鳴り、答案用紙が配られる。

 私は廊下側の斜め後ろを見た。そこには誰も座っていない椅子と、空っぽの机がぽつんと在った。


 学校から制服のまま、私は全速力で病院に行った。一秒でも早く顔が見たい、と急いていたわけだけど、しかし私はいざ彼の様子を見るや否や、その様子に唖然としてしまった。

「やあ、ユウ。そろそろ来るんじゃないかと思ってた。おみやげある?」

 金曜の鬼気迫る様子とは打って変わって、彼は個室のベッドの上で、満面の笑みを披露してくれたのだ。左手はギプスをはめられ、右脚も膝下まで包帯でぐるぐる巻きにされている。でも、ひらひらと暢気に振られている右手には緊張感がまるでなかった。

 訊きたいことも言いたいことも怒涛のようにいっぱいあって、ここへ来たらどうするかってことも散々イメージしてたのに、それでも最初に私のしたことといえば、何と、情けなくもヒイヒイと泣き出すことだった。

「おい、泣くなよ」

 私は涙をこすりながらベッドにつかつかと歩み寄り、彼のほっぺたを思いっきりつねってやった。

「いてっ」

「もう、バカバカバカぁ! 何でこんなことになってんのよッ」

「まあ落ち着けよ」

 ユータは半笑いでつねられた頬を撫でている。

 私はその余裕のある仕草が悔しくて嬉しくて堪らなかった。  

「落ち着いてなんていられないよッ! 犯人ってあのときすれ違った人でしょ? どうしてあの人が犯人だって分かったの?」

 そうなのだ。私たちが彼とすれ違ったのは午後四時頃。あの時点での彼は、まだ犯人ではなかったのに。

 そこでユータは少し苦笑して、自由になる右手で私の頬に指を滑らせた。

「俺は、あいつのこと知ってたからね」

「知り合いなの?」

「うん、まあ……。知り合いっていうか……。とにかく、俺はあいつが今年の七月十二日に女子高生を襲うことを知ってたんだ」

 ますますわけが解らなかった。彼の言ってることは全然辻褄が合っていない。でも、あれは恐らく、絶対に、単なる偶然なんかじゃないのだ。

「謝りたいことがある」

 説明を求めて次の言葉を待っていたのに、ユータはふと真顔になって、いきなりそんなことを言い出した。

「謝りたいこと?」

「その前に、すごく突拍子のない話をしてもいいかな? できればあまり驚かないで欲しいんだけど」

「ええっ、これ以上?」

 私は既に充分混乱してるっていうのに? この期に及んで何を言われても、もう驚きようがない、と私は呆れた。

 けれど、彼の以下の話は確かに突拍子がなく、確かに私を驚かせることとなる。

「俺さ、祐太じゃないんだ」

「は?」

「少なくともこの時代のユウの知ってる祐太じゃない」

「やめてよ。こんな時に何の冗談?」

 驚きを通り越して非難めいた私の眼差しを無視し、ユータは穏やかに、尚も続けた。

「俺は、十年後のコイツなんだ。つまり中身は二七歳。外資系企業のサラリーマン、現在海外赴任中。だから英語も話せるし、柔道は大学から始めたんだ」

「何、言ってんの」

 私は堪らず苦笑する。ふざけるのもいい加減にして欲しい。

「入れ替わったのは、三週間前の六月二一日から。心当たりあるだろ? 人が変わったよう、って言ったのはユウだもんな」

 私はここでハッと息をのんだ。

 六月二一日? あの、ユータがガラリと印象が変わった、あの日から?

「ピンときた?」

 ピンときたどころじゃない。

 私は口元に手を当てて、この三週間の不思議な出来事を思い起こしていた。性格の豹変、英語に柔道、事件のことも、何もかも。

 私の中で、穴だらけのパズルが一気にうめられていくようだった。確かにそれが真実ならば、全ての事実に破綻はない。でも、そんなことが。まさか本当に?

「ちょっと待って。もしそれが仮に事実だとして。どうして? 何しにここに来たの?」

「さあ? 俺にも解らない。気付いたら十年前に飛んでたんだから。聞き覚えのある目覚まし時計で目が覚めたら、実家の自分のベッドに寝てたんだ。部屋は過去の記憶のまま、親も若い。制服とか完璧コスプレ気分だったよ。友達も懐かしい顔ばっかでさ。当時言えなかったこともじゃんじゃん言えて、愉快だったなあ。でも一番嬉しかったのは、ユウに会えたことだよ」

「私に?」

「そう。未来では、ユウにはもう会えなかったから」

「どういうこと?」

 そこでユータは眩しそうに目を細めた。

「俺の世界では、君は高校二年の七月十二日に、死んじゃったんだ」

 私は息が止まった。

 次の瞬間、ぞぞぞ、と全身に鳥肌が立つ。

「……それって、もしかして」

「そう、俺が捕まえた犯人に。十年前、俺が一七歳を過ごした七月一二日では、奴に襲われて殺されるのはユウだった。君はあの日、本当は十津川とデートしてから、日が暮れた後に帰るはずだったんだ。俺は犯行状況の情報を全部知っていた。だから捕まえに行ったんだ。あいつは別に誰でも良かったって言ってたから、ユウじゃないなら別の被害者が出ると思った」

 ユータが「羽田」のままだったら、私は勿論十津川と付き合ったままだったろうし、部活がなくて会えない時間をそういう風に補うことも充分ありえただろう。

 そして、あんな男にあんな場所に連れて行かれて乱暴されていたのなら。

(死んでたんだ、私)

 ユータが、いなければ。

 私は彼の右手を取り、自分の震える両手でそっと包み込んだ。

「未来から私を、助けに来たの?」

「どうだろうね。でも、もしかしたら本当にそうなのかもね。ユウの命日の三週間前にかえって来るなんて、出来すぎだろ。あの朝教室で初めてユウを見たときの感動は、誰にも解らないだろうな」

 夢見るようにうっとりしているユータ。そんな彼を見て私はやりきれない想いを抑えることができなかった。

「だからって」

 折れた腕。抉られた脚。どれだけ怖かっただろう。どれだけの勇気で立ち向かったんだろう。

「だからって、こんな怪我して。時間と場所が判ってたなら、一人で現場に行かなくたって、事前に通報すれば良かったじゃない」

「まだ起こってもいない事件を、どうやって? それに、こんな危険なことに他の誰も巻き込みたくなかったんだ。下手すりゃ死ぬ。そうだろ?」

 諭すように言い返されて、私はそれ以上何も言えなくなった。

(この人は、最初から死ぬ覚悟だったんだ。私のために)

 彼の右手を強く握り締めた私を見て、ユータはくすりと笑った。そして私の左手を痛いくらいに握り返してくる。

「自分がどうなろうと、守るって決めたんだ。時代を捻じ曲げようと歴史が歪もうと知るかってね。この十年間、いつもユウのことを考えてた。だから、最後に神様が哀れに思って願いを叶えてくれたのかも」

「最後に、願い?」

「俺は、あっちの世界で死んだから」

「え?」

 私は驚きのあまり声が裏返った。

「いや、もしかしたら死んでる途中かな。海外赴任先がアメリカでさ。住んでる家がテロに巻き込まれて、爆死。あ、死んだ、って思ったらタイムスリップしてんだもん。かっこいいだろ?」

「かっこいいって……」

 漫画のストーリーでも話すかのような軽快で楽しそうな口調に、私は戸惑い、どう反応すればいいのか分からなかった。

「で、謝りたいっていうのはさ。俺のせいで運命変えちゃってごめんねってこと。彼氏と別れることになっちゃったしね。予定では二人を温かく見守るつもりだったんだけど、ユウを目の前にしたら積年の想いがさ。止められなくて、つい、ね」

「そんなの、どうでもいいよ」

 ユータは苦い顔をしてたけど、むしろ謝ってなんて欲しくなかった。彼の一挙一動、その全ての裏側を露わにされた今となっては。

「でも、ま、一応俺が勝手にやったことだから、念のため謝っとこうかと思って。どう? 少しは信じられる?」

「信じられない」

 そう言いつつ、私は彼の話を九割方信じていた。だって信じなければ、逆にこの状況が信じられない。

「第一、それじゃあ一七歳のあなたはどこに行っちゃったのよ」

「この中にいるよ。コイツ、って言っても自分だけど、俺、いつも心の中で話してるんだ」

 ユータは笑いながら自分の胸を人差し指でトントン、と突いた。

 じゃあ、もしかしてあんなこともこんなことも、もう一人の彼に筒抜けだったのだろうか。それは恥ずかしい。かなり滅茶苦茶恥ずかしい。

「じゃあ、そっちのユータは迷惑なんじゃないの? 私とこんなことになっちゃって。怪我もしたし……」

 私が口を尖らせていじけると、ユータはぷっと吹き出した。

「うーん、そうじゃないんだよな。この当時こいつが何考えてたか。いつか本人に聞いてやってよ」

 ユータはそこで、にっこり笑う。

 けれどその笑顔はみるみる崩れ、彼の瞳にはゆっくりと涙が溜まっていった。

「ユウを、助けられて良かった」

 右腕でゆっくりと抱き寄せられた私は、宝物を扱うように恭しく頬ずりをされた。私の瞼に、彼の涙がしっとりと伝う。

 私たちは見つめ合う。それはとても切なくて刹那的なひとときだった。

「ずっと君が好きだったんだ」

 その甘く真摯な囁きに、私の瞳からも涙がこぼれ落ちる。ふたりの涙が溶け合い、ひとつになり、滴っていく。

 そして私たちは、最後の口づけを交わした。


 翌日。月曜同様、火曜日の試験も散々だった。せっかく勉強したのに勿体ない気はするけれど、こればっかりは仕方ない。

 放課後になると答え合わせをしてる皆の横で、私は鞄にとにかく一切合切を適当に詰め込んで、一目散に病室行きのバスに乗った。

 病室を覗くと、ベッドの上でユータはすやすやと眠っている。

「ユータ」

 私が傍に寄って話しかけると、彼はまどろむようにとろりと目を開けた。隣に佇む私に気付くと、彼は何故か狼狽し、視線を下に落とす。そしてよそよそしく身を捩り、掠れた声で、「久しぶり」と言った。

「え? 何で? 昨日も来たじゃない」

「ごめん。俺は、そう呼んでもらえる資格ないと思う。知花をユウとも、呼べない」

 その言葉の意味することを。

 私は瞬時に悟った。

「ごめん」

 私は床にへたり込み、羽田の弱々しい声をかき消すように、声をあげて泣いた。


 あの事件から三ヶ月。衣替えも済み、街はすっかり秋色に染まっている。

「さすがに朝は寒いね」

「真冬よりはずっとマシだよ。嫌なら付いてこなくていいし」

「またそーいうこと言う」

 ユータがいなくなり、羽田が退院した後も私たちは相変わらず二人で登下校している。

 羽田曰く。彼は六月二一日からずっと、身体を乗っ取られたままだったらしい。気付いたら知らない人が自分の中にいて、何故かそいつが主導権を握って動いていたのだ。

「でも、すぐに信じられたよ。だって自分しか知らないことをどんどん並べられたら、そりゃ納得するしかないもんな」

 何をもって彼が納得したのかは知らないが、私の人生の顛末を聞いて焦った彼は、その異邦人に運命を委ねたのだという。

「でも学校であんなに大活躍されちゃったのは正直焦ったよ。戻った時にがっかりされるだろってさ」

 しかしそれは杞憂に終わったことになる。羽田はいつの間にか英語も柔道もそこそこ出来るようになっていたのだ。身体が覚えたみたい、いい置き土産だ、とのこと。それより何より、彼は以前と較べて格段に社交的になっていた。

「すっかり変わっちゃって。また内気な子に戻るかと思ったのに」

 私も今ではそんな嫌味も平気で言えるようになった。夏と変わったことといえば、彼より私の方が立場が強くなったということだ。二七歳相手では太刀打ちできなかったけれど、同い年相手に私が下手に出る理由はない。

「根暗でいじめられるなんてつまらないって叱られたんだよ。今まで特に取柄もないし身長も低いし、自信がなくてどうすればいいのか分からなかったけど……。あいつに、人との接し方教えてもらったから」

「あっそ。いいことづくめじゃない。まあ、怪我の傷跡は残っちゃったけどね」

 結局、羽田の足には凄惨な傷跡が生々しく残ってしまった。でも、納得して身体を提供したわけだし、ちゃんと歩けるようになっただけ幸運だと本人は気にしてないようだが、正直私は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

「それは別にいいよ。まあ、あとはユウが俺を好きになってくれればね」

 私たちの関係は今、とても曖昧だ。友達以上恋人未満。まさにそんな感じ。ちゃっかり私をユウと呼ぶけど、そこは寛大な措置として許してやっている。

「悪いけど私は今それどころじゃないの。部活に情熱注いでるんだから」

 私はフンとそっぽを向いた。

 八月、インターハイで直前まで絶不調だったにもかかわらず、私は本番で神がかり的な的中を見せて、五位入賞を果たした。だから目下来年を目指して猛練習中だ。

「言っとくけど、私の本当の命の恩人はユータであって、あんたじゃないんだからね」

「解ってるよ。そこに付け込むようなことするなよって、あいつにも言われたし」

「……そんなこと、言ってたの?」

「うん。それは俺もそう思ってるから」

 私の顔はついほろほろと緩んでしまう。羽田からユータの話が出ると、嬉しい以上にどうしようもなくまだ、切ない。あれ以来、私が好きになった彼は今度こそこの世から本当にいなくなってしまった。

「やっぱ言うことが違うよね。優しいっていうか、思いやりがあるっていうか」

「だから、俺だっていつかああなるってば」

「そうかなあ。ユータは私を失った喪失感でああいう人格になったんじゃないかなあ。外資系勤務でアメリカ駐在だよ。かっこいいよねー」

「そりゃあ、俺は日本の企業に就職しようと思ってるけど」

 私が苛めると、羽田は少しむっとした。

 彼は「ユウが生き延びたんだから、俺だって死にたくない」と、早々と就職先の変更を宣言している。

「勝手にすれば? でもあんたじゃ世知辛い中小企業が精一杯かもね」

「いや、五年後競馬で連勝する馬の名前と急成長する会社いくつか教えてもらったから、競馬と株で大金持ちになるかもよ」

「そんなの分かんないよー。私が死ななかった影響で未来が変わるかも」

「そんな、どんだけ影響力あるんだよ」

 そこで羽田は、へにゃっと笑い、つられて私もアハハと笑った。

 ギスギスした時間を乗り越えて、最近の私たちはよくこんな会話をする。二人だけの、大切な秘密の話を。

「そういえば羽田は小学校の頃、短冊に何て書いたの」

「さあ……。自分のは忘れたな。ユウがなんて書いたかの方が覚えてる」

 衝撃の告白に、私は「え?」と素っ頓狂な声を出してしまった。

「短冊に私、自分の名前書いてなかったのに。何で? 嘘つかないでよ!」

「字でわかるよ。何ならここで発表しようか、一年生から六年分」

「ちょっ、ちょっと止めてよ!」

 私は鞄で羽田をバスッと叩いた。にやりと笑うその顔は、嘘をついているとも思えない。

(ということは……。ユータも、部屋でこの話してた時、短冊の内容、知ってたんだ……)

 私は顔が真っ赤になった。今更ながらにこういう新事実がぽろぽろ出てきて、そのたびに私は穴に入りたい気持ちにさせられる。

「あ」

 校門前に着いたところで、羽田が不意に声をあげた。

 俯いていた顔を上に上げると、そこには同じく朝練に来た十津川がいた。

「おはよう!」

「……おはよう」

 羽田が明るく挨拶すると、十津川ははにかむように笑って返した。

 あれから、私と十津川はまだ少し微妙な関係だ。むしろ私より羽田の方が積極的に彼と接触を図っている。最初は戸惑っていた十津川も、今や英雄と化した羽田を邪険にはできないようだった。まあ、元々そんな陰険なことする人じゃないんだけど。

 以前、その奇怪な行動に何故? と尋ねた私に、羽田は衝撃的な一言を放った。

「俺たち、親友になるらしいよ」

「えっ、どういう繋がりで?」

「十津川はユウの事件で責任感じてボロボロになってたんだって。それを俺を立ち直らせたとか何とか」  

 ははあ、と私は嘆息した。成るほど、もし私が殺されていれば直前まで一緒にいた十津川だって間接的な被害者に違いない。

「じゃあユータは結果的に十津川のことも救ったんだね」

「うーん……。でも、こっちでは俺はただの彼女を奪った嫌な奴なんだよなあ……」

「親友は難しいかもね」

 まあ、卒業までには何とかなるさ、と羽田は肩をすくめた。

 そうそう、何とかなるといえば、私と亜沙実の仲はすっかり回復した。フリーになったんだから十津川狙ってもいいよね、と言い出した彼女に、もちろん、と私は答え、今更ヨリ戻すとか言ったら今度こそぶっ飛ばすよ、と念を押されたので、私は笑って「大丈夫」と答えた。 

「じゃあ、朝練頑張ってね」

「そっちも朝勉頑張ってね」

 私たちは校舎と弓道場への分かれ道で声を掛け合った。

「あ、そういえば」

 私はそこでふと、前から言おう言おうと思っていたことを思い出した。

「もう秋なんだから、部屋の風鈴外してくれない? 窓から見えるだけで寒々しいのよ」

 すると、何故か羽田はそれを聞いて、あんぐりと口を開けた。

「何言ってんだよ。外すわけないだろ」

「何で? 季節はずれもいいとこじゃない」

「あれは大事な風鈴なんだ。あいつだってアメリカに持ってったくらいだぞ」

 え? と私は驚いた。そんなのは初耳だ。

「憶えてないの? 小学二年生の七夕に、ユウの両親仕事だからって、うちの親に花火大会へ連れてってもらったろ。そこの出店でお揃いの風鈴、買って貰ったじゃないか」

「えー? そうだっけ?」

 一応記憶をたどっても、やっぱり心当たりはない。花火大会に行ったのは憶えてるけど。風鈴なんて、そんなの、全然記憶にない。

「もしかして……失くしちゃった?」

「え……。えーと、部屋のどこかにはある、と思うけど」

 羽田が疑わしそうにジロリと睨む。

 これはまずい。私は完全に劣勢に追い込まれている。ああ、どうしてこんな余計なことを思い出しちゃったりしたんだろう。

「えー、ユウにとってはその程度なんだ。あいつと一緒に吹っ飛んだ形見みたいなもんなのに……。報われないなあ、可哀相だなあ」

「もう、うるさいわね、チビのくせに!」

 ここぞとばかりに嫌味ったらしく攻撃してくる羽田に、私はつい言い返してしまう。こうなったら子供の喧嘩だ。でも、羽田はいつもみたいにつっかかっては来なかった。代わりにフフンと胸を張る。

「ユウ。そんなこと言ってるけどね。俺、一八〇センチ超えるからね」

「うそっ、あんたが?」

 そういえば夏から少し背が伸びた気がする。もう百六十センチは軽く超えただろう。

 羽田が百八十センチに達する頃には、彼をユータと呼んでいるかもしれないな、と私は思った。あと、とりあえず今日は家に帰ったら風鈴を探してみよう、とも思った。

「もう行きなよ。遅れるよ」

「うん。じゃあね」

 私は弓道場に向かって走り出した。

 試しにくるりと振り返ると、そこには愛しい幼馴染が、両手を振って微笑んでいた。


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