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夏わたり  作者: 成瀬 透
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前編:恋はぐらぐら

 ユウがいなくなってから、もうこの夏の日を何度迎えたことだろう。

 部屋のベランダから夏の燃えさかる夕焼けを眺めていると、頭上の風鈴が涼やかな音色を奏でだした。

 もしあの頃のように二人が近くにいたのなら、今頃どんな関係だっただろう。友達? 親友? もしかして連絡を取らないほど疎遠になっているだろうか。それとも……?

 目を瞑るとユウの若木のような瑞々しい姿が、瞼の裏に鮮明に浮かび上がる。

 このままもっとユウの姿を見ていたいけれど、目を開けた時の悲しみと虚しさが一層増すので、いつも物足りなさを感じる程度に抑えていた。

 ユウに会いたい。

 一目でいいから会って話をしたい。

 もう叶わない、夢。

 それでも願わずにはいられない、あの時に戻れたら、と。

 赤い光に照らされて、風鈴がまたチリン、と鳴った。


 ビュッ、と空を切る音がする。音、というよりも振動が聞こえる。

 矢が弦から離れた瞬間、入ったな、と私は確信した。

 一呼吸置いて、的の中心からは、タン、と小気味良い音が響いてくる。

知花(ちか)、調子いいね」

 後ろからポンと肩を叩かれ、私は首を後ろに傾けた。

 そこには声の主である十津川(とつかわ)がいた。私たちはほんの一瞬、視線を絡めて小さく微笑み合い、すぐにお互いから首を背ける。私は的に向かって弓を引き、十津川は道着の袖で汗を拭いながら更衣室の中に消えていった。

 剣道部ほどではないにせよ、真夏の弓道部も辛いものがある。袴は暑いし、ゆがけをはめている右手はムレムレだ。

 瞼に伝った汗がかゆい。それでも私は姿勢を崩さず、次々と矢を放った。

「おーい、朝練終わり、皆上がれー」

 遠くで主将が声を張っている。

 私の耳にもそれは届いてたけど、私は半身の構えを解かずにもう一度弓を引いた。

 ジーワジーワと蝉の鳴く声も、炎天下に揺らぐ陽炎も、全ての音と光景が放った矢に射抜かれて、違う次元に切り取られていく。

 暑さも疲労も関係ない。私はこのままずっとずっと、力尽きるまで射ていたかった。


「いいなあ知花は。おっきい目標があってさ。私なんてもうすっごい気ィ抜けちゃって。早く夏休みになんないかなって感じィー」

 二年A組の教室の中で、同じく弓道部の亜沙実が私の前の席で口を尖らせていた。帰りのホームルームも終わって、これから二人で部活に行くところなのだ。

「亜沙実だってあと少しだったじゃない。一年頑張れば来年は行けるよ、インターハイ」

「だといいんだけどおー」

 高校二年生の夏。私は超多忙だった。それは決して受験勉強を始めたからではなく、主に部活と恋愛に。

 中学から始めた弓道は、地道な努力の成果がやっと表れたのか、この夏ぐんぐん調子が上がっている。去年はあと一歩のところで崩れてしまって県大会止まりだったのに、今年は六月の地区予選でインターハイ出場を決めた。団体はダメだったから、我が校からの出場者は女子個人の部で二位だった私一人だけ。皆の期待を背負って、私の頭の中は弓道のことでいっぱいだった。

「何かさ、やっぱ上手い人は見てて分かるよね。知花もさ、すっごく凛々しくてカッコいいもん。弓道やってるときはさ」

「えー、普段は?」

「普段はかっこいいってゆーか、まあ、せいぜいカワイイ、かも? ってとこ?」

 私はもうッ、と言って、亜沙実と笑った。

 亜沙実は一番仲のいい友達で、弓道は高校から始めた。お世辞でカワイイレベルの私と違い、くっきり二重に長い巻き髪を栗色に染めた、派手な外見をしている。どうしてこんな地味な部活に入ったのかと聞いたら、「だってあんまり大変じゃなさそうだから」とのこと。それが事実かどうかは別にして、彼女は結構筋がいい。

「でも十津川は知花のこと可愛いって言ってたよ。ひたむきで明るいところも良いってさ。相変わらずうまくいってんでしょー?」

「うん、まあね。毎日ラブラブだよ!」

「うえっ、聞かなきゃ良かった」

 彼氏がいない亜沙実には悪いけど、十津川の名前が出て私は口の端が自然と緩んでしまった。付き合って二ヶ月半。私たちの仲は順調、そのものだと思う。

 机の中のものを鞄に詰めて教室を出ようとすると、入り口で男子二人が絡まっていた。絡まっている、と言うより、一方が一方の首に腕を絡ませている。

羽田(はねだ)ァ、掃除当番替わってくれよォ」

「う、うん……」

 その場面を見て、あ、まただ、と私の足は急に重くなった。

「ちょっと、どけてよ。通れないじゃん」

 亜沙実が言うと、絡んでいた方は「悪ィ」と教室から出て行った。絡まれていた方は、教室の隅でボーっとしている。 

「ったく、いい加減羽田君可哀相だよね。いっつも面倒なこと押し付けられてさー」

「そうだね……」

 私たちは廊下に出てからヒソヒソ話した。

 小柄で気弱で黒縁眼鏡、いかにも苛められそうなタイプの(はね)()(ゆう)()

 実際、目立って苛められてはいないけれど、一部の男子からはちょくちょく便利に使われている。高校生ともなると誰もあえて助けないので、きっと卒業するまで彼の運命はこのままだろう。

(気にはなる、けど。だからって、私に出来ることなんか無いし)

「誰か助けてあげればいいのに」

 そうだね、と言って、私は胸の奥の小さなしこりから眼を背けた。


 部活が終わると、家に着く頃には午後八時近くになってしまう。いくら夏とはいえ、辺りはもう薄暗い。

(嫌だなあ……)

 私は鬱蒼と茂った木々に囲まれる一本道を、気味の悪さに脅えながら歩いていた。この辺に一緒に帰れる友達は誰もいない。開発し損ねたムダに緑の多いヘンピな土地は、マイホームを持てるというだけで何をするにも不便なだけだった。

(あーあ、せめてチャリ乗れればなあ)

 しかもうちの学校は原則自転車通学禁止。生徒のマナーが悪くて学校周辺の住民から苦情が来たり、交通事故があって禁止になったらしい。ああ、何て残念な校則だろう。

「きゃあッ!」

 ガサッという物音に、私は思わず悲鳴を上げて飛び上がる。物音のした茂みの方からは、カラスが一匹、ギャアと鳴いて飛び立って行った。

 何だ、脅かさないでよ、とびくびくしながら空を見上げて固まっていると、後ろにふっと気配がした。今度こそ本当に驚いて振り返ると、そこには微妙な顔をした羽田が気まずそう立っていた。

「……」

 流れる沈黙。

 お互い意識はしているものの、何も言葉を交わせない膠着状態が数秒続く。

 そして彼はさっと私から眼を逸らすと、下を向いて一人で歩き出してしまった。

(何よ、今の見てたんでしょ? 何か言えばいいのに……)

 私は羽田の後ろ姿を軽く睨んでしまう。カラスに驚いたところを一方的に見られた恥ずかしさと、無言のまま置いてけぼりにされたことで、沸々と八つ当たりに近い不満が湧いて来たのだ。

 だからと言って私は彼を追いかけたりしない。もう、そんな仲ではないから。仕方が無いので五メートル後ろをつかず離れず間隔を保って私は歩き出した。

 実は、羽田祐太と私は幼馴染だ。家が斜め向かいのご近所で、幼稚園に入る前からの仲。

 今となっては特に接点がないけれど、お互い一人っ子だったし、近所に歳の近い子供がいなかったせいもあって、これでも昔はよく一緒に遊んだ。

 小学四年生でクラスが離れてからあまり話をしなくなり、中学校でもずっと違うクラスだったから、そのまま遠い存在になってしまったけれど。

(私たちが昔みたいに仲良くなることなんて、もうないんだろうな)

 その漠然とした思いは、半ば確信だった。そう、この日までは。


 六月二一日。もう少しで試験週間に入り、部活禁止になってしまうので、今日も私は弓道場に一番乗りで練習をしていた。道着に着替えて肩まで伸びた髪を結んだところで、誰かが道場に入ってきた気配を感じた。でも、その足音で私にはそれが誰だかすぐに判る。だから私は飛びきりの笑顔を用意した。

「おはよう知花。今日も早いね」

「十津川。おはよう」

 にこりと笑う涼しげな目元。そこには真面目で優しい私の彼氏がいた。

 彼は私の側に寄ってきて、「頑張るのもいいけど、あまり無茶するなよ」と、頭をナデナデしてくれた。身長一五三センチの私に一七七センチの十津川がそうすると、まるで大人と子供のよう。

 彼はいつも私のことを考えてくれている。私は彼に支えられている。その幸福感が私を包み込む。この時間が、私は好きだった。私はA組で彼はF組。校舎も違うし、合同授業もなかったので、校内ではこの弓道場が私たちの大事な場所。

 十津川とは中学は違ったけれど、弓道の大会で何度か顔を合わせていたので、高校に入学する前から顔見知りだった。そして同じ高校になり、同じ部活になり……。最初はただの部活仲間だったけど、十津川が私を好きだと一年の終わりに噂が立って、二年生の四月に告白された。

「知花の前向きで頑張り屋なところが好きなんだ。もし良かったら、俺と付き合ってくれないかな」

 私は「うん」と即答した。

 正直、今まで何度か他の男子に告白されたこともあったけど、何だか付き合う気になれなくて全部断ってきた。同世代の男子なんてうるさいだけで子供っぽくて恋愛感情を持てなかったから。

 でも、十津川は違う。同い年なのに何歳も年上みたいに大人びていてしっかりしている。今の三年が卒業した後は、多分十津川が主将になるだろう。

 私を撫でる手の動きが止まったので、ふと顔を上げると、そこにはくっきりと切れ長の十津川の瞳があった。いつもより少し潤んだそれは、少しずつ、私に近付いて来る。

「あ……」

 もしかして、と思ったところで、奥からおはようございまーす、と元気な一年生の声が聞こえた。

 私たちはそれぞれ小さく驚いてから、顔を見合わせてくすりと笑った。


 朝練を終えて教室に行くと、いつもと雰囲気が少し違うことに気付いた。静かで、ピリッとしたような、刺々しい空気。

 訝し気に席に着くと、亜沙実が隣の子にコソッと「何かあったの?」と聞いていた。こういう時の彼女は感心するほど好奇心に対して素直で積極的だ。

 あのね、と小声で話された内容によると、どうやら羽田に男子数人が絡んだらしい。それ自体はいつもの光景だったのだが、何と羽田が今朝は「朝からうるせえよ」と言い返したと言うのだ。

「うそっ!」と亜沙実と私は同時に叫んだ。

 でも、私の方が亜沙実の数倍驚いていたに違いない。あの羽田が、「うるせえよ」?

 先生が入ってきてホームルームが始まってしまったので、私はこっそり首を捻じ曲げて斜め後ろを窺った。

 教室の廊下側一番奥の席には羽田がいつも通り座っている。でも、今の話を聞いたからか、いつものビクビクオドオドしている彼とは何だか違って見える。何だろう? もっと堂々としているような? 落ち着いているような?

(あっ)

 盗み見していたつもりなのに、いつの間にか凝視していたようで、羽田と眼が合ってしまった。慌てて前に体勢を戻したけれど、羽田は何故か私に向かってにっこりと笑った。

(え? 何?)

 それは、私がこれまでに一度も見たことのない表情だった。


 何だか羽田の様子がおかしい、というクラス全体の認識は、英語の時間にさらに確固たる事実となった。

 リーダーの先生はいかにも中年男、という肥った油っぽいおじさんなのだが、陰湿な授業をするので有名だった。授業中いきなり教科書の内容について英語で質問し、指された生徒が答えられないと「予習不足」と言って、授業が終わるまで立たせるのだ。

 そして今日指されたのは羽田だった。

「Mr.Haneda.Question.」

 その後に続く先生の言葉に、うわ、と、多分誰もが思ったに違いなかった。私はヒアリングはまあまあ得意な方だけど、これは質問自体が長くてややこしくて、答えにくい。

 これは起立のコースだね、運が悪い、と心の中で同情していると、斜め後ろから突然、信じられないような英語が流れて来た。

「Sure. The hero should express gratitude to this elderly person. This end was……」

 淀みの無い、まるでネイティヴのような流暢な英語。考えながら話すたどたどしいものではなくて、早口言葉でも喋ってるかのようなスラスラとした言葉の波。

 気付くとクラス全員が体を傾けて羽田に注目していた。それでも彼のスピーチは止まらない。呆気に取られているその場の全員がやっと我に返った頃、やっとその口が閉じられた。

「……OK.Good」

 先生は青ざめたまま、かろうじてそう言うのがやっとだったみたいで、そんな先生を羽田はにやにやと不敵に見上げていた。


 昼休み。私と亜沙実を含む女子グループではお弁当を囲みながら羽田の話題で持ちきりだった。

「何あれ? 別人? 二重人格?」

「こっそり英会話でも習ってんのかな? それとも外人の友達が出来たとか?」

 教室の隅々であけすけに噂されているのに、当の本人は一人でさっさとお弁当を平らげて、少年漫画雑誌を熱心に読んでいる。誰かが発売日に買ったまま、二週間くらい教室後ろの雨具掛けの下で転がっていた、ボロボロのやつを、今更。

 確かに今日の羽田はおかしい、と思う。イメチェンとかデビューとかそんなレベルじゃなくて、話し方も態度も、放つオーラまでもが気味が悪いほどに全然違う。

「あ、ねえ、そういえばさっき、A組は生物の課題ノートまだかって先生言ってたよ。日直、知花だったよね?」

「あ、いっけない!」

 そうだった。亜沙実に言われて私は飛び上がる。生物の授業で、課題ノートを集めて生物室に持って行くよう頼まれていたんだっけ。全員分を回収した後、教室側面の棚の上に置きっぱなしにして、そのまま忘れていた。

「私、生物室行ってくるね」

 空になったお弁当箱を片付けて、私は立ち上がった。ノートの束を両手でしっかりと抱え込んで、教室のドアの隙間に肩を捻じ込んで廊下に出る。B5の薄っぺらいノートとはいえ、クラス全員分となると結構重い。両手は塞がっているし、バランスを崩すとノートの山をこぼしてしまいそうだ。

 と、そのとき、目の前のノートが半分以上、視界から消えた。

「持つよ」

 ノートの奪われた左方向には、何と羽田がいて、何と積まれていたノートを持っていた。

 私はその得体の知れない親切に違和感が湧きまくりだったけど、まさか取り戻すわけにもいかず、「ありがとう」と言って、正面を向いた。

 生物室までは、結構遠い。何も話すことなんてないけど、このまま無言っていうのも変だ。この奇妙な空気を何とかしようと、私は仕方なくさっきの謎を解明しようと試みた。

「ねえ、羽田って英語、あんなに得意だったっけ」

「ああ。最近得意になったんだ」

 横目でちらりと窺った羽田の様子は、謙遜するでもなく自慢するでもなく、まるで全然どうでもいいことみたいな口ぶりだった。

「何て言ってたの? いっぱい喋ってたし、早くて分からなかった」

「普通に質問に対する答えと、先生に対するちょっとした提言」

「提言?」

「訛りがひどくて質問の意味を理解するのに時間がかかりました、もっと発音に注意してください、みたいなこと」

「……ほんとに?」

「それでグッドって言うんだからなあ、あれは笑えたね。ま、多分後半は聞き取れなかったんだろうけどさ」

 ははは、と羽田は愉快そうに眼鏡の奥の眼を細めた。

 私は、驚きを通り越して唖然としてしまった。これは、誰? この話し方。この腹黒さ。これが昨日までの彼と同一人物なの?

 私の頭の中がぐるぐると渦巻いたところで、いつの間にか生物室に着いた。準備室の机の上に無事ノートを置くと、腕は軽くなったけど、状況は更なる謎がどんどん精製されている。

「手伝ってくれてありがと。助かった」

 私の中ではもっと羽田を探りたい気持ちと気味の悪さが混同している。でも、どちらかといえばあまり関わりたくない気がした。だってこれってちょっと、病的な変化にしか思えなかったから。

「別にいいよ、これくらい。それより部活って七時に終わるんだっけ」

「え? そうだけど」

「じゃあ7時すぎに正門の角曲がったコンビニで待ってるから。一緒に帰ろう」

「は?」

 にこ、と微笑まれたものの、いや、意味解んないし、と私はたじろいだ。

「十津川の家は真逆だから、正門前でバイバイだよね」

 そういう問題じゃない。それ以前に私が気にしてるのは、どうしてわざわざあんたと二人で帰らなきゃいけないの、ってところだ。

「どうせ同じ方向なんだから、たまにはいいだろ。じゃ、放課後」

 そう言うと、羽田は足早に私を置いて教室の方向へ歩き出してしまった。私は追いかけもせず、彼の小さく振られた左手をただ、ぼーっと眺めていた。


 午後の授業中も部活中も、正直羽田のことが気になって仕方がなかった。どうしていきなり? 何か話したいことでもあるの? そもそもあの豹変ぶりは何? などなど。

(今さら、何なのよ……)

 久しぶりに高校で同じクラスになった時には、彼はすっかり別人に成長していた。根暗で、大人しくて、存在感の薄い男の子。

 昔の彼も確かに活発では無かったものの、もっと陽気で人懐っこかった。近所の草むらで笹舟を作ったり、沼に石を投げたりした無邪気な彼はもういないのだと、こっちは小さな胸を人知れず痛めてたっていうのに。

「どうしたの? 今日調子悪い?」

 休憩中、弓道場の壁際に座り込んでる私の横に十津川が腰を下ろした。

「えーと……。そうだね。ちょっと力んで疲れてるのかな。試験も近いし……」

「そっか。あんまり頑張りすぎるなよ」

 十津川はとても心配そうな顔をして、私の小さな手をその大きな手で緩く覆った。

「うん、ありがとう。大丈夫」

 笑顔で肩をすくめて見せると、十津川は耳元で「今晩ラインする」と囁いてから立ち去って行った。

(……何で?)

 その後ろ姿を見ながら、私はじわじわと自分で自分に青ざめる。

(今、つかなくていい嘘をついたんじゃない? 十津川に隠し事、したよね?)

 胸がドキドキした。それが、期待なのか不安なのかやましさからなのかは分からなかったし、分かりたくもなかったけれど。


 部活が終わった後、言われたとおりに私は一人でコンビニに向かった。わざわざ「教室に忘れ物した」と嘘ぶいて皆を撒いてまで。

 コンビニの外から中を覗いていると、後ろから「知花」と羽田の声がした。

「さっき弓道部の奴ら通った時にいなかったから、先に帰ったかと思った」

「ちょっと、忘れ物して……」

「そっか」

 そこでまた羽田はにやにやした。

 私は何もかも見透かされているようで、急に恥ずかしくて悔しくて顔が赤くなった。もう暗いから、顔色までは分からなかっただろうけど。

「これ、あげる」

 私の先を歩き出した羽田が、こちらに向かって拳を差し出した。開かれた手の平の上には、味の違うチロルチョコがみっつ、転がっている。

「部活で疲れたろ」

 これは嬉しい。確かに嬉しいんだけど、これが十津川や亜沙実だったら、いや、そこまで行かなくても友達の誰かだったら、きゃあ、ありがとう、と言って有難く頂戴したところだけど。今回ばかりはちょっと素直に手が伸びない。

「食べろよ。チョコ好きだろ」

 そう言って羽田は私の手を引っ張って、無理やり手の中にチロルチョコを握らせた。

 この強引なやりかたに、私はますます面食らってしまう。この距離感は、何なの?

「何でそんな顔してるの?」

「顔?」

「眉間に皺が寄ってる。そんなに不思議?」

 羽田はとても楽しそうに、私の様子を観察している。

 それは、激変した人格についてかこのシュチュエーションについてか、あるいはどちらもか。しかしいずれにせよ、私の答えは変わらない。

「そりゃあ、そうだよ。一体どうしちゃったの? 今日の羽田、別人みたい」

「いやあ……。やっぱさ、言いたいことは言うべきだと思ってさ。今まで心の中で思ってたことを口に出した。それだけだよ」

「一緒に帰ろうっていうのも? この前、家の近くで会った時は無視したじゃない」

 私が少し恨みの込もった非難をぶつけると、羽田は一瞬キョトンとしてから、ああ、と頷いて申し訳なさそうな顔をした。

「あのときも、本当は一緒に帰りたかったんだけど、恥ずかしくてさ」

「で、いきなり恥ずかしくなくなったの?」

「うん、すっごく反省したからね」

「何を?」

「知花を無視したこと」

 一見理屈には合ってる気がするけど、そんな単純なものだろうか。何だか腑に落ちない。

「だから、これから毎日一緒に通学しようと思うんだ。もちろん、朝も」

「えッ? どうしていきなりそんな話になるわけ!?」

 これには心底驚いた。今日は色々驚いたけど、今日と言わず今年で一番驚いた。

「俺が、そうしたいと思うから。迷惑?」

「迷惑っていうか……。皆に誤解されるよ。そんなの、困る」

「家が近いからって言っとけばいいじゃん。最近、家の近所で痴漢が出たらしいよ」

「あ、そういえばお母さんも言ってた」

 そうだ。痴漢。その話には実際困っていた。うちの両親は共働きで帰りも遅く、とても部活の後に車で迎えになんて来れないのだ。

 弓道部で一番家が近いのは亜沙実だが、それでも分かれた後一人で一キロ弱は人通りの少ない暗い道を歩かなければならない。

「そうだろ。知花可愛いんだから、狙われたら俺が困る」

 私は真面目に考え込んでいたのに、そのふざけた台詞に口が半開きになった。

(可愛いって、困るって、どういう意味!?)

「何、どうしたの」

 ウキウキした様子で羽田が私に訊いてくる。

「何でもない」

 私はその視線から逃げるように早足で羽田を追い抜かした。

「照れてんの?」

「照れてなんかないよッ。何で急にそんなこと言うのかって思っただけ!」

 口ではこう言ってても、私は思いっきり照れていた。

 それに引き換え、羽田は全く平気な顔で、むしろ私の反応を楽しんでいるように飄々としている。

「だから言っただろ。思ってることは口にするようにしたんだって」

 だからって、出しすぎでしょうが! 一体どんな悟りを開けばそんな心機一転出来るわけ?

「変なの!」

 私が照れ隠しから怒ったように声を荒げると、羽田は急に寂しそうな顔になった。

「別に変でいいよ。ただ俺は、昔みたいに知花と話したかったんだ。こんな簡単に出来るなら、もっと早く勇気出せば良かった」

 羽田の台詞に、私は何と返せばいいのか分からない。だっていきなりこんなこと言われたら、勢いで余計なことを聞いてしまいそう。

 家路までの最後の角を曲がり、お互いの家が見えて来た。私はホッとするのと同時に、少し名残惜しい気持ちになる。

 じゃあね、と言った私の顔を、羽田はじっと見据えてこう言った。

「じゃあ明日の朝、待ってるからね」

「え? あ、ちょっと、羽田」

 私の呼びかけには応えずに、また明日、と言い捨てて羽田は家の中に入ってしまった。


 その日の夜、予告通り十津川からラインが来た。いつも通りのお互いを気遣う内容、ちょっぴり胸をくすぐるラブな言葉。

『好きだよ』

『インハイで活躍できたときのご褒美考えとくから。俺もすぐに追いつくからね』

 十津川の気持ちが、少し苦しい。

 結局、迷った末に羽田の話題を私は避けた。


 翌日きっかり六時半、私が家から出ると、斜め前の家の前に羽田の姿があった。

「おはよう」

 にこっと微笑んだ笑顔が、朝日を燦燦と浴びて眩しい。

「……おはよう」

 返事は返したものの、私の足は玄関前から動かない。

「ん? どうした?」

「本気だったんだ、と思って」

「そりゃ本気だよ。知花にわざわざ嘘なんて言わないよ」

 そう。そうだろうな、と、私も思ってはいた。九十、いや百パーセント、羽田は私を待ってるって確信してた。でも、実際彼をこうやって目の当たりにすると、お腹の底からぞわぞわと複雑な気持ちが静かに込みあがって来るのだ。

「羽田、帰宅部でしょ? そんな早く学校行ってどうするの?」

 私はやっと羽田と並んで歩き出した。今日もジーワジーワと蝉の音がうるさい。

「勉強するよ。朝練ならぬ朝勉。受験なんてあっと言う間だからさ」

 勉強……。私は呆れた。うちの学校は別に進学校じゃない。進学と就職が半々くらいの中くらいの中途半端な学校で、二年の夏から受験勉強してる人なんてほとんどいない。

「知花は、卒業したらどうするの?」

「今は、インハイのことしか考えてない」

「そっか。そうだよな」

 私がきっぱり言い切ると、羽田は何故か安心したような、穏やかな表情で頷いた。


 それから一週間以上、私たちは本当に毎日二人で登下校している。教室ではお互い話し辛いので、ラインのアドレスを交換して、頻繁にやりとりするようになった。

 平日だけでなく、土日も「学校で勉強した方がはかどるから」とついて来てくれた。最初こそ何であんたなんかと、と反発したけど、正直夜道を一人で歩かなくていいというのは心強い……だけじゃなく、私の彼に対する気持ちも大分変化していた。

 五月までの暗い彼はどこへというくらい、羽田は明るくよく喋るようになっていた。さり気なく優しく、話す話題も豊富。音楽、映画、歴史、外国のこと。こちらがサッパリなことでも、解りやすく教えてくれたり面白く説明してくれる。

 けれど、羽田への見方が変わったのは、何も私だけではなかった。

 大きなきっかけは、七月一日、月曜日だったと思う。そもそもその日、羽田はださい黒縁眼鏡を外して、日曜日に作ったというコンタクトをしてきたのだ。ついでに髪もさっぱりと切り、顔を隠していた長い前髪はほとんど無くなって、外見もかなり爽やかに変わってしまった。

「えー、やだ、眼鏡より全然いい! 髪も似合ってるじゃーん」

 朝練の後、教室で羽田を見た亜沙実は本人に聞こえるように開口一番、そう叫んだ。

「ありがとう」

 にこっと笑われて、亜沙実は照れていた。

 こうして見ると、羽田は身長こそ百六十くらいしかないけれど、顔は眼がパッチリしていてキュッと締まった口元が賢そうだ。清潔感があってかわいいというか、もしくはかっこいいというか、全体的に全然悪くない感じだった。

 一、二時間目はB組との合同体育だったから、体育館への移動中、私は羽田にこっそり耳打ちをした。

「好評じゃない。主に女子に」

「そうだね。知花も含めてね」

 軽く意地悪しようとしたのに逆に言い返されて、私は自分から話しかけておきながら、うっと言葉に詰まってしまった。

「だろ? 朝、絶賛してたじゃないか」

「ちょっと、余計なこと言わないでッ」

 私は焦って羽田を追い抜き、早歩きで体育館に向かった。振り向かなくても分かる、羽田は今いつものように楽しそうに私の背中を眺めているに違いない。私は火照る顔を誰にも見られたくなくて、下を向いた。

 しかし、羽田のこの外見の変化はまだまだ序の口だった。体育の種目は女子はバレーボール、男子は柔道だったのだけど、そこで彼は鮮烈デビューを飾ることになる。

「羽田すげえェェ!」

 隣から発せられる喚声が気になって、女子の誰もが体育館の中央で仕切られているネット越しに男子コートを注目していた。

「一本!」

「やったああああ羽田あああああ!」

 マットの上で、羽田は数人の男子に飛びかかられて埋まっていた。その脇には、呆然としたB組の男子がへたり込んでいる。

「信じらんねー!」

 私も、信じられなかった。さっきの最後の一本で、羽田はクラス対抗試合を十人抜きしたのだった。自分より高くて重い相手の懐に入り、バッタバッタと投げ飛ばし、更にそのうち二人は柔道部だった。

 ちなみに去年は見ているこっちが哀れに思うほどの腕前だったと思う。

 女子の間でも、試合がたびたび中断するほど、皆が羽田を気にしていた。

「羽田君て、最近ホント、いいよね」

 ぽつぽつとそんな声が私の耳に入ってきた。特にA組女子は前の週の英語の件もある。私は羽田に対する皆の目が、徐々に好意的なものに変わっていくのを肌で感じていた。


 気弱で目立たなかった彼の変貌ぶりは噂となって、学年全体に徐々に広まりつつあった。A組では皆最初は戸惑っていたものの、今では男女問わずちょっとした人気者になっている。

(ふんだ、楽しそうにしちゃってー)

 私と話したかったとか可愛いとか言っといて、他の女子と仲良くしてるのを見かけると、何となく面白くない。でも、私は他の皆とは違うと、心の中で小さな優越感を持っていた。毎日一緒に通学しているのは、私だけ。

 私はそのことをまだ誰にも言ってなかったし、羽田もそうしているみたいだった。

 でも、それにもいよいよ終止符が打たれる時が来てしまった。

「知花、私、見ちゃったんだよねえ」

 朝練が終わった後、教室に戻る途中で亜沙実が擦り寄って来て、こう囁いた。そして含みのある目つきで、ぐいぐいと私を小突く。

「あんた、何で羽田君と学校来てんのさ! 私、今日あんたたちの後ろにいたんだからね! びっくりして声掛けれなかったけど! 仲良さそうにお喋りして、何アレ? 教室で話してんの見たことないけど?」

 やっぱり隠し事というのは完璧には出来ないものなのだ。ここが年貢の納め時と、私はしぶしぶ正直に告白した。

「あの、実は私たちって家が近くて、幼馴染なんだよね。で、最近近所で痴漢が出たから、一緒に登下校しようって言われて」

 事実なのにちょっと嘘くさい私の説明を聞いて、亜沙実は目を丸くした。

「へえー、そうだったんだぁ、幼馴染ねえ、意っ外ー! でも羽田君いいとこあるじゃん! ちょっとかっこいーね」

「そうだね。一人で帰るの、今までも嫌だったから、お願いすることにしたんだ」

 別に悪いことをしてるわけでもないのに、亜沙実にまでつい弁解がましくなってしまうのは何でだろう。

「そっかー、そうだよね、知花の家、山の中だもんね。じゃあ心強いじゃん、羽田君。結構強いっぽいし。でも、ところでこのこと十津川は知ってるの?」

 亜沙実は急に神妙な顔になった。

 やっぱり、耳の痛い話題が出てしまう。そうなんだ、きっと十津川という彼氏がもしいなかったら、私はこんな後ろ暗い気持ちになる必要なんて無いんだろうなあ。

「まだ、言ってない。やっぱり言いにくくて」

「うーん……。そっか。じゃあ俺が知花の家まで送るよ! とか言い出しかねないもんねえ」

 言われてみればそうだ。だって痴漢が出ようが熊が出ようが、部活をせずに早く帰るなんて、無理なんだから。でも、そうなると十津川の通学時間は片道二時間を超えてしまう。

「あ、じゃあ、こうしたら? 私と三人で登下校するの! 私がいるのは途中までだけど、これなら十津川も何も言わないっしょ」

 亜沙実はバチンと片目をつぶる。

 私は目からウロコが落ちた。そうだ。一人が嫌なら二人以上で通学すればいいだけのこと。

 それは名案かも、と私が言ったところで、教室に着いた。

 ちらりと羽田の席のほうを見遣ると、当然のように目が合ってしまう。私が目線を前に戻した後も、右半身に羽田の視線を感じた。


「ということで、お邪魔しまーす」

 いつも通りのコンビニでの待ち合わせ。でも、今日からは亜沙実が私たちに加わることになった。こうなった経緯をラインで羽田に説明すると、羽田は快く承諾した。人数が多いほうが楽しくていいよ、と。

「ああ、西岡(にしおか)さん。こちらこそよろしく」

 にこにこと笑う羽田。近頃の羽田は、本当に良く笑顔を見せるようになった。それは意地悪そうだったり優しそうだったり、とにかく何だか大人びた表情で、昔の人懐っこい笑顔とは少し違ったけれど。

「ごめんね、知花と二人きりが良かった?」

 え! と私は心の中で叫び声を上げる。

(亜沙実、何言い出すの!)

「いや、俺も十津川のことは気になってたし。知花と十津川が揉めるのは、俺も嫌だから」

(え……?)

 へー、そうなんだ、と返事する亜沙実の横で、私は胸の奥が微かに痛んだ。

 そうなの? と思わず言いかけて、慌てて言葉を引っ込める。何を考えて、何を期待していたんだろう。私は自分が恥ずかしくなる。いつからこんな自惚れ屋になったんだろう。

「ねーねー、この前の体育の時間凄かったね。どうしてあんなに柔道強くなったの?」

「実は近くの道場に通ってたんだ。苛められるのも飽き飽きだったから」

 こっそりと口を結んだ私をよそに、二人は旬な話題で盛り上がっている。私は二人の会話の中に入るタイミングを逃してしまい、黙って話を聞いていた。

「へー、すっごい! 勉強も頑張ってるんでしょ? 行きたい大学もう決まってるの?」

「うん、だいたいはね。西岡さんは?」

「ぜーんぜん決まってないよ、あはは!」

 明るく笑い飛ばす亜沙実を、羽田はふと真顔になってじっと見つめた。

「西岡さん、声が綺麗だからそういう学校行ったら? アナウンサーとか、声優とか。社交的だから、イベントの司会業とかもいいかもね」

 羽田がとっても真面目にとっても力強く言い切ったので、私たちはきょとんとしてしまった。まさかいきなりそんな話になるとは思わなかったのだ。

「そんなこと、初めて言われた」

 亜沙実は本気で驚いているようだった。無理もない、だって二人がちゃんと話したのは多分今日が初めてなのに。

「そう? 聞き取りやすいよ、西岡さんの声。よく通るし。俺、好きだな」

「あ、ありがと。覚えとく」

 珍しく亜沙実がペースを乱されている。羽田の傍にいると、まるで磁場が歪んでいるようなおかしな感覚になってしまうのだ。私も身に覚えがあるけれど、この変な強引さというか図々しさは、こちらの調子を狂わせる。

 やがて亜沙実の家が近付いて来て、私たちは手を振って別れた。明日の朝、また三人で登校しようと確認しながら。

「どうしたの? 今日無口だね」

 二人きりになってから、羽田が私の顔を覗き込む。

 私はぷいとそっぽを向いた。その拍子に、私の手が羽田の手にぶつかった。

「別に。二人がいっぱい話してたから、私の話す隙が無かっただけ」

 言った途端にちょっとカンジ悪い言い方になっちゃった、と私は後悔したけど、ふーん、と羽田はそれ以上何も言わなかった。

 その代わり、さっき掠った私の手を、素早く攫ってそっと握った。


 亜沙実と羽田はすぐに打ち解けた。通学だけじゃなく、学校でも時々二人で楽しそうに話している。

「羽田君って全然今までとイメージ違う。すっごい落ち着いてるし話しやすいわ! 仲良くなれて良かったー!」

 溢れんばかりの嬉々とした様子で、ありがとうと繰り返す亜沙実に私は「良かったね」と笑顔を送った。

 亜沙実の加わってくれた功績は大きかった。お陰で私は二週間言い出せなかったこのことを、ようやく彼氏に報告出来たんだから。

「そうなんだ。知花の家の辺り、物騒だって言ってたもんな。気をつけて帰れよ。もし一人で帰らなきゃならないことがあったら、俺が送るからいつでも言って」

 ああ、こんなんで良かったんだ、と、その反応に拍子抜けした私は、つい脱力してしまった。あんなに悩む必要なかったかもしれない。亜沙実に感謝。

 でもそれとは別に、内心少し面白くない部分があるのも確かだった。独占していたものが共用になってしまったような子供じみた不満が、どうしても拭えない。だから、私たちの家と亜沙実の家までの十五分が、私にとって日に日に貴重な時間になりつつあった。 

「もうすぐ期末試験だね。勉強してる?」

 暗い道を、微かな街灯に照らされて私はわざとトボトボ歩く。部活で疲れてる私を気遣って、羽田はいつも歩調を合わせてくれた。

「ううん、あんまり。今回は結構ヤバいかも」

「そう。試験期間に入るから、日曜から部活休みだろ? 良ければ日曜日教えるよ?」

 登下校以外の誘いを受けたのは初めてだった。私の胸は小さく高鳴る。

 きっと羽田も期待している。そういう熱っぽさが、ひしひしと伝わってくる。

「でも……。日曜日は、花火大会だから」

 毎年、七月七日の七夕には川原で大規模な花火大会がある。屋台も出展し、近隣からカップルがこぞって集まる、特別な夏の夜。

「ああ、そっか。十津川とデート、ね」

 私の言葉に、羽田の表情が曇った。

 その顔を見て、私の気持ちもどっと曇る。何ともいえない重苦しい沈黙が流れて行くのを、私は耐えられなかった。そう、耐えられなかった。だから、仕方がなかったのだ。

「ねえ、羽田。待ち合わせは七時なの。だから、それまでなら時間、空いてるけど」

 口が勝手に喋ってしまっていた。私は他人事のように、自分の声を聞いていた。

 羽田は一瞬黙った。それからいつもより少し早口で、言葉を繋げた。

「じゃあ、一時から俺の家来れる?」

「うん」

 自分の力ではどうにもならない引力に引っ張られて行く。私は足元にぽっかり穴が空いて、その奈落に吸い込まれて行くような気分で返事をしていた。


 その日の夜。私は色々考えたあげく、十津川に何度も推敲した文を送信した。

『日曜、やっぱり現地集合でいい? 今回の試験本当に何もしてなくて、勉強したいの』

 一分もしないで返事が来る。

『じゃあ、一緒に勉強する?』

 私はこれまた頭の中に用意してあった文章を引っ張り出し、文字を綴って行く。

『勉強道具持って移動するの大変だし、集中したいから申し訳ないけど家で頑張る』

『了解。残念だけど俺も家で勉強しとくよ』

『わがまま言ってごめんね。ありがと』

 パタン、とスマホを伏せて、私は安堵の溜息を吐いた。

 日曜日の最初の約束は、私たちの行きつけのカフェに、二時だった。

(バチが、当たるかな)

 羽田も確かに変わったけれど、私も随分変わってしまった。毎日毎日、少しずつ色々な人に嘘を重ねている。こんなこと、以前は考えられない。

 十津川を嫌いになったわけじゃない。今でも変わらず彼のことは好き。ただ、今の私の心を乱すのは、別の人だ。

 部活でも、矢の調子がいまいち良くない。六月までは絶好調だったのに。これは集中力を欠いてるからか、迷いが表れているのか。どちらにしろ心当たりがありすぎる。でも、今すぐはどうにもならない。そんなの無理だ。

(こんなんじゃ、駄目だよね)

 私はスマホをベッドに放り投げ、ついでに自分もベッドの上に勢いよく倒れ込んだ。


「私、羽田君のこと好きみたい」

 金曜日の昼休み。普段は教室で机を合わせてお弁当を食べているのに、亜沙実が突然「今日は屋上に行こう」と言ってきた。誘われるままについて来ると、黙って床に座り込み、お弁当にも全然手をつけない。心配になって「どうしたの、悩み事?」と尋ねた返事が、これだった。

「自分でもびっくりなんだけどさ、どうやら本気みたいなんだよね」

 乙女のようにもじもじしている亜沙実の横で、私は目玉をまんまるにして箸を持った手を硬直させていた。危うく箸を落としかけ、慌てて我に返ったほどだ。

「え、え、え? ほんとに? な、何で?」

「実は私、もともと声の仕事したいって、昔から思ってたんだ。でも、何だか人に言っても笑われそうで、誰にも言ってなかったの。それを羽田君がこの前言い当ててくれたでしょ。単純だけど、すごく嬉しかったんだ」

 その熱っぽい声色はどうやら本気みたいだった。この急展開に頭も心もついて行けない私は不甲斐なくオロオロするばかりだ。

(ちょっと待ってよ、こんなのってアリなの? 亜沙実が、羽田を好き? ほんとに? 本当に、ほんとに?)

「でも、他にも結構狙ってる子いるみたいなんだ。茜もそうだし、B組の池脇さんも好きみたい。ねえ、羽田君て、好きな子いるの?」

「え、わかんない。私は知らない、けど……」

 亜沙実の前のめりな勢いに反比例して、私の口調はすぼまって行く。

 それにしても、羽田ってそんなにもてるんだ。……いや、もてるようになった、か。

「じゃあ、今日の帰り、私が別れた後に聞いてみてくれない?」

 そんなこと、出来るわけがない。でも、それを正直に説明なんてもっと出来ない。

 気は重かったけれど、私は断れずに曖昧に首を縦に振るしかなかった。


 その日の帰り道、私たちの態度は微妙におかしかったと思う。私が全然話さないのを補うように、亜沙実はずっと喋りっぱなし。羽田は私の様子を気にしてたけど、私は「疲れてる」で通した。あながち間違ってもいない。

「羽田さ、最近女子から人気あるみたいよ」

 二人きりになって、家まであと五分というところで私はやっと切り出した。

 羽田はちらりと私を一瞥してから、へえ、と興味なさそうに相槌を打った。

「そうなんだ。まあ、ちょっと目立ったからね。一時的なもんじゃない?」

「嬉しくないの?」

「だって関係ないもん」

「何で? 好きな子、いるの?」

「いるよ」

 あまりに呆気なく返事をされて、私はしまったと思った。これ以上聞いてはいけないと、もう十分だと、頭の中で警鐘が鳴っている。

「子供の頃からずっと好きな子がいる。だから他の子とは付き合えない。たとえその片想いの相手が俺のことを好きじゃなくても」

 羽田は真正面から私を見据え、一気に台詞を棒読みした。

 私は心臓を射抜かれて脚が止まってしまい、その場に立ち尽くす。

 羽田も立ち止まり、睨むようにじっと私を見つめていた。それから私の手に指を絡め、軽く引っ張った。私の身体が、少し揺れる。

「どうしてわざわざそんなこと訊くの?」

 羽田の口調は穏やかだけど、それが逆に凄みを感じさせた。

 友達に、頼まれて、と言い訳をする私の声は上ずっている。親に叱られている子供みたいに。

「で、その子に知花はどう報告するの?」

「羽田の、言った通りに」

「止めた方がいいんじゃない?」

 さっきからずっと羽田の声色に含まれていた侮蔑の色が、ここで一気に濃く表れた。

「友情、壊れるでしょ」

 私は俯いた。恥ずかしさの中に鈍く光る汚い喜びを隠すために。

 身体の芯から昂ぶる、悶えるようなこの感じ。内側からじわじわと侵食されて、不謹慎なほど甘い溜息が出る。

「知花のそういう馬鹿正直なところ、嫌いじゃないけど」

 羽田は最後に緩くはにかんで、指をほどき、家の中に入って行った。

 私はその指を、こっそり唇に持っていき、そのぬくもりと熱い想いに目を閉じた。


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