第1章 (7)
羽祐は翌日、少し早めに起きて駅に向かった。10時ちょっとすぎの上りで西谷平に向かわないといけないので、それが来るまでに掃除や諸々を終わらせておきたかったからだ。
ピンと張り詰めた空気の中、自転車をこぐ。朝の陽射しが霜柱に当たり、畑一面が光を放っている。
首をすくめながら、立ち漕ぎで漕いでいると体が暖まってくる。ようやく全身がほぐれたころに駅に着き、持参した水筒の熱いコーヒーを飲んでさらに体を暖める。
暖房は小屋の中の小さなストーブ1台だけ。そんなものに頼れないので、体を動かし続ける。以前の、ひたすらじっとしていたときには考えられなかったことだ。
まだ通勤時間には早いのに、ひとり客が改札を通る。都内まで通うサラリーマンの沖野さんだ。
「おはよ、寒いね」
沖野さんは厚手の手袋をはめている右手を小さく上げる。羽祐は箒の手を止めて、頭を下げる。
沖野さんはこの駅を日々使う客の中で、もっとも早く出て最も遅く戻ってくる人だ。ときおり都内で泊まってくるようで、帰ってこない日もあった。沖野さんが帰宅する最終電車では羽祐は引き上げてしまっているので、そこでは会わない。朝、ホームに現れないとき、沖野さんは都内に泊まったんだなと気付くのだ。
だから沖野さんは、普段、ハム駅長を見ない。ごくまれに午前中から駅長を連れてきたときと、沖野さんの休日にわざわざ駅まで見に来たとき。それくらいしかなかった。
わざわざ来たときは犬の散歩も兼ねていたので、そばには寄ってこなかった。沖野さんは3匹の犬を飼っていて、大の犬好きなのでこんな田舎にひっこんだと教えられた。自然が溢れるこのあたりを犬と一緒に駆け回っていると、遠距離通勤のたいへんさも吹き飛ぶと笑顔で羽祐に言った。
「もう一匹ね、スピッツも飼ってるけどねぇ」
含み笑いで沖野さんが言い、羽祐はその笑いの意味が分からず受け流していたが、そのときちょうどいた社長が、意味に気付いて大人2人で笑いあった。
「うちにだっていますよ、キャンキャンと、ね」
社長が付け加えてさらに大笑いしていた。