「山神」
※ここで出てくる花はこの世界にある花ではありません。作中の世界で夏から秋にかけて咲く小さな五弁の白い花です。
昔、心優しい若者にあったことがある。
他人の心配ばかりする、どこか放っておけない人間に。
***
「退屈。やることない。暇」
ぐたりと手足を投げ出して、床に寝転がる。
西陽が部屋に差す。
蝉の声がただ響く。
「あー…つまんねぇな……また周ってみるか
…」
俺は独りごちると身を起こした。
小屋を出る。
ぽくぽくと人里に続く道を歩いた。
人は嫌いではない。
好きでもないけど、暇つぶしにはちょうどいいから。
だけど、たとえ俺がどんなに人が好きだったとしても、俺は人の中で暮らすことはできない。
それが、俺があの壊れかけの小屋で暮らしている理由だ。
陽は遠くの山に沈む。
それをぼんやりと枯れかけの柿の木の上から眺めていると、騒がしい声がした。
「どうした?」
「シラネ様っ……人が、倒れていましてっ」
「人が?なんでまたこの山に…」
「し、知りませんよっ。あぁ、シラネ様、後
はお任せします」
「おいおい…」
人が行き倒れていようが構わない。
少なくとも、俺はそうだ。
けれどこの山に棲まう者たちはどうもそうはいかないらしい。
俺はため息を吐いて、柿の木から飛び降り山へ戻る道を歩く。
そう歩かないうちに、行き倒れはいた。
「ありゃあ…こんなに怪我して…」
ほっときゃ明日の朝には死んでいるかもな。
呑気にそう思いながらその男の顔を覗き込んだ。
「なかなか良い男じゃあないか」
身なりは貧しいが、整った顔をした若者だ。
多分すぐ下の村で暮らしているやつだろう。
そんなやつがなんでまたこの山に入ったのか…。
足と脇腹の傷がひどい。
おおかた獣にでも襲われたのだろう。
さて、どうしようかとしばし迷った。
あいつらが俺に任せた理由はわかっている。
こいつを生かすのか、殺すのか決めろということだ。
殺すのは簡単だ。
放っておくだけ。
でも生かすのは難しい。
いろいろ面倒だ。
そう思っていると、その男はほんの一瞬目を開けた。
驚いたように俺のことを見たかと思うと、ふっ、と微笑んだ。
「こんなところで美しい人を見るとは。最後に見る夢は良いものだというから、これがそうなのでしょうか…」
そう呟いた彼の目は、とても澄んでいた。
ああ、殺すのはもったいないな。
そう思った。
「…死にたいのか?」
「……できれば、もう少し長生きしたかったんですがね…」
彼はそう言ってまた目を閉じた。
俺は一つだけため息を吐く。
ーーーー
「ここは…」
「よお。気が付いたか、行き倒れ」
「あなたは、昨日の……夢じゃなかったのですか…?」
「夢かもしれんぞ?」
「…どちらでも構わないです。…ここ、どこですか?」
「俺の家」
「こんなところで…?」
「悪かったな」
「いや、そういう意味ではなくてですねっ」
彼は起き上がれないくせに、よく喋った。
「あの、あなたの名は…?」
「……好きに呼んでくれ」
「…じゃあ………ユキミ。ユキミは、どうですか」
「…いいんじゃないか?」
「助けてくれてありがとうございます、ユキミ」
「高いぞ?」
「えっ…金とる気ですか」
彼は俺のことをユキミと呼んだ。
理由を一度だけ、聞いたことがある。
「ここに来る途中で…雪見花を見ました。僕はあの花がとても好きなのです」
あの男は笑顔でさらりと言った。
彼の怪我はなかなか良くならなかった。
もともとこの山の下の村の人はそれほど体が丈夫ではないのだそうだ。
「皆、貧しくて。食べるのも大変なんです」
そうだろうな、と思った。
昔から、そうだ。
この山に入れたならば、まだ飢えることはなかったかもしれない。
けれど、この山はそうそう入れない。
獣に守られている。
それにたとえ入ることができたとしても、この山にあるものは毒のあるものばかりだ。
よほどの知識がなければ、毒かそうでないかは見分けられない。
あの村は、人が生きるには難しすぎた。
彼は半年ほどしてからやっと歩けるようになった。
それでも、山を無事に降りれるほどではなかった。
彼が少し離れたところで花を摘もうとしているのを見ていた時に、一度山に棲まうものに聞かれた。
「生かしたのですね」
「…ああ」
「あなたにしては珍しい。何かあったのですか?」
「いや。ただの気まぐれだ」
「そうですか…。拾うのはいいです。けれど、忘れないでくださいね」
ーーー人は、去ってしまうものですよーーー
「ユキミ。どうぞ」
「あ、ああ…ありがとう」
「ユキミは白い花が似合いますよ」
「…そうか?」
彼はよく笑った。
つられるようにして、俺も笑った。
彼は俺のことを綺麗だと言ってくれた。
それはとても照れくさかったが、少しだけ嬉しかった。
そんな風に毎日を重ねて…。
そしてある冬の日、彼は山を降りた。
「いままでありがとう、ユキミ」
「…どういたしまして」
「ユキミ、僕はあなたのことが好きですよ」
「…そりゃどうも…」
「嘘じゃないですよ。…本当はあなたと山を降りたいのですけど、きっとあなたは山から出ないでしょう?」
「よくわかってるじゃないか」
「そりゃあ、一年以上一緒にいたのですからね。ユキミのことは結構わかってきましたよ」
彼は何度も俺を振り返っては、手を振った。
俺も、ずっと彼を見送った。
もっと一緒にいたかった。
けれどそれは俺のわがままで。
そのわがままは許されない。
「内心、ついて行ってしまうかと思いましたよ」
「何言ってんだよ。俺はこの山にいないとじゃないか」
「…そうです。あなたはここにいてくださらなくては。…山神様」
「お前らを放り出しては行けないよ」
1人になってしまうと、すべてがつまらなく思えた。
寂しく思うようになってしまった。
この俺は、神であるというのに。
厄介な想いに振り回されたが、なんとか平気なふりをした。
普通でいようとした。
「シラネ様…。ついて行っても、俺らは恨まないのに」
「俺はこの山を出て行けないよ」
「あのバカ狐の言うことは気にしなくていいんですよ。山神だからって…山神なのに、自由にできないなんて」
「俺は自由だよ。いつだって。あれは、俺が決めたことだ」
あいつは気が付いていた。
俺が人でないことに。
この銀色の髪は、どう考えたって普通の人にはない。
そうじゃなくとも、俺の言動は人とは違うだろう。
それでも、あいつはそばにいてくれた。
それだけで嬉しかった。
彼に、迷惑をかけることなどできはしなかった。
時は流れる。
彼がいなくなったという隙間がようやく埋められるようになった頃に。
俺は知った。
「村人は、死んだそうです」
「……は?」
「伝染病で。…一人、残らず…」
「……あ…………」
俺は泣いた。
泣き続けた。
いつかは死んでしまうこと、わかっていた。
どうやったって、人は俺より早く死んでしまう。人は俺を置いて行ってしまう。
わかってた。
わかってた、はずなのに。
「伝染病で…って……あいつも、それで死んだのか……?寒さに凍えて…死んだのか…?……悲しすぎるじゃねぇか…そんな死に方…悲しすぎるっ………」
自分でも驚くほど、涙が出た。
枯れるほどなかったはずの涙は。
とめどなく溢れて、溢れて。
彼を失ったことは、俺にとって大きなことだった。
……それでも。
俺が死ぬことはなかった。
ずっと後になってから、やっと俺は認めることができた。
俺はあいつのことが好きだった。
あいつの優しさが、どこか抜けているところが。
「ユキミ」と呼ぶ声が。
痛いほど、愛しかった。
もう、戻らない人が。
***
それからもう何百年もたち。
俺があの山を離れ、〔神の庭〕ですごすようになっても。
俺は忘れられないでいる。
あいつの声と、その暖かさを。
シラネ(今回はユキミと呼ばれる)
銀の髪を持つ山神さま。
女神ではあるけれど一人称は“俺”。
結構男勝りな性格。
お気に入りだった人間を亡くしてから暫くして〔神の庭〕に行き、友人(神)も割と多い方。
現在もたまに人の世に降りているらしい。
後日談もあるにはあるけれど蛇足かな、と思いやめました。