第4話 「緋色の機体」
ピクリ、と指先が震えた。
「ぅっ……」
痛みが全身を襲っていた。チリチリという音が耳を引っ掻いている。トオルはなんとか身体を起こした。そこにあったのは……変わり果てた町の景色だった。
「……んだ、よ。これ……」
――地獄。
そんな言葉が浮かんだ。
視界が緋い。周囲に何かが散乱していた。なぜか異様な程にはっきりと、鉄臭さと生臭さ、そして何かが焦げるような臭いを感じた。チリチリという音は物が燃える音だったのだと気付く。
「あ、アイ……」
彼女が無事かと周囲を見渡そうとして、地面に着いていた手が何かにぶつかった。丸いボールみたいなそれに、トオルは見覚えがあった。さっきまで生きて演説をしていた、御心会の男だった。
「……あ、」
トオルは気が付く。気が付いてしまう。これは……”死の臭い”だ、と。
「あ、あぁあ……ぁ、ああああ」
トオルはみっともなく後ずさり、吐瀉した。
――緋い。緋い。緋い。血が、臓物が、肉が、緋い。
さっきまで普通の日常だったのに。こんな短時間で世界が様変わりした。大勢が、死んだ。
トオルが生まれた時にはもう、既にECHOとの戦いが始まっていた。だから日本のどこかで誰かが戦っているのは当たり前で……どこかそれを楽観視していた。でも、違う。
――”死”が、当たり前であっていいはずがない。
ふと、トオルは気付く。少し離れた場所に、見慣れたウエストポーチが転がっていた。その先にはアイが倒れていた。しっかり掴んでいたはずの彼女の手は、いつの間にか解けていた。
――寝てるだけ……そうに決まってる。
トオルは彼女へと腕を伸ばし……。
「うぅっ……いたたたた……」
手が届くよりも先、アイが自分で身体を起こした。
「……はぁぁあああああ〜」
トオルは深く、大きく、息を吐いた。痛いほどに跳ねていた心臓がゆっくりと収まっていく。足に力を入れてみる……身体中が痛むものの、問題なく動けそうだ。幸いにして、アイもほとんど怪我がない。
――大丈夫だ、助かる、逃げられる。
「アイ……」
逃げよう――そう、トオルが言おうとしたその時。
「――助、けて」
血まみれの女性がこちらへと手を伸ばしていた。
「……っ」
悲痛と懇願がないまぜになったその目に、トオルは怯んだ。と同時に気付く。アイと二人で逃げるという事はつまり、ここにいる残りの全員を見捨てるという事なのだと。だが……同時に仕方ない事なのだという割り切りが、トオルの中には浮かんでいた。なにせ、
――助ける術がない。
トオルは人々から視線を逸らす。
――これは仕方のない事なんだ……人は、その人に出来る事しかできないんだから。
言い訳のように思ったトオルは、背後から遠方から伝わってくる足音に気付き、振り返った。そこにはこちらへと向かってくる1体の蜘蛛型。
――時間がない。
アイを連れて逃げよう……とした時、トオルは気付いた。すぐ近くに、損傷し、横倒しになった赤い運搬車があった。着弾する直前にハンドルを切っていた所為か、投擲はコンテナの腹部分を掠めるに当たったようだ。
――当たりどころが、よかった。
腹部分に当たったおかげで運搬車が吹き飛ばされ、自分達が轢かれずに済んだのか……なんて事をトオルは考え、それが現実逃避だと気付く。トオルが見たのはもっと別のもの。
コンテナ腹部にできた大きな裂け目。人が通れそうな程のそれの、奥。
――暗闇の中で光る”緋い眼”が、トオルの目と合っていた。
まるで誘われるかのように立ち上がった彼。その足がゆっくりと横転した運搬車へと進みかけ……。
「どこ、いくの?」
アイがその裾を引いていた。彼女の表情はこれまでトオルの見た事がない程、真剣なものだった。
「ねぇ、もしかしてトオルくん……今、すっごく危ない事を、してない、かな?」
トオルは彼女の背後を見た。そこには大勢の、縁も所縁もない他人。怪我を負い、あるいは瓦礫に埋もれ、あるいは意識を失い、あるいは足が竦んで動けなくなっている……助けを求めている大勢の他人がいた。
それから視線を手前に戻す。そこには、たった一人の幼馴染である、アイ。
「早く……逃げようよ、トオルくん」
アイの言葉にトオルはゆっくりと目を閉じた。
――俺は……。
ほんの数秒。
「ぁ……」
アイがまるで大切な宝物を失ってしまったかのような、悲痛な声を零した。
トオルは一歩、彼女から離れていた。トオルが目を開けたそこには、愕然とした表情のアイがいた。
――アイの指先はもう服の裾になかった。
トオルは踵を返し、走り出していた。
「待って……待ってっ! トオルくん、待って……ダメっ……! お願い、止まって! すごく、嫌な感じがするの……わたしっ。だから、お願い! 待って!」
「お前は皆と逃げろ! 俺が時間を稼ぐ!」
叫びながらトオルは思った。
――何やってんだ、俺はッ!?
頭ではわかってる。アイだけでも背負って逃げるべきだと、そう頭ではわかっているのに……身体が動いていた。自分でも理解不能な行動。しかし足は決して止まらない。トオルは運搬車へと駆け寄り、コンテナをよじ登り、裂け目を潜り抜けた。カツンと、金属の床を踏んだ音がコンテナ内に木霊した。
暗闇に包まれているコンテナ内。裂け目から差し込む光だけが、スポットライトの如くトオルを照らし出していた。
「はぁ……はぁ……」
なぜか、酷く息苦しかった。心音が早かった。トオルが腕輪の巻かれた腕を持ち上げた。アイフォンの縁をタップする。ライトが点灯し、周囲の景色を照らし出した。
暗闇の中にソレが浮かび上がった。
「これ、って……」
トオルの口から、無意識に言葉が溢れていた。見開かれた目が捉えたのは、
「――シュウ、エン?」
”英雄”が乗っていた、あの緋色の機体に見えた。
「いや、違う……シュウエンそのものじゃない。シュウエンに似せて造られたのか……?」
歩み寄る。カツン、カツン、ピチャリ、カツンと足音がコンテナ内に響いた。近付くと、まるでトオルを待ち受けていたかのように、プシュゥウと空気を排出する音が響き、胸部装甲が開く。コクピットがせり出してくる。コクピットの中も緋一色だった。
コクピット内のディスプレイには既に電源がついており、起動鍵も刺さりっぱなしだった。コンテナの外から見た時――この新型機の眼が緋い光を灯しているのを見た時、もしやとは思った。だがやはり……。
「やっぱり……こいつ、動くぞ!」
そう呟いたと同時、世界が揺れた。
「……っ!?」
トオルが振り返った。コンテナの裂け目から見えた空――そこに、プッシュバックがあった。巨大な腕に掴まれ、天高く掲げられていた。
――いつの、間に。
投石機型だ。それが市街地にまで入り込んでいた。そして、
――グシャリ。
音が響いた。プッシュバックが握り潰されていた。クズ鉄となったそれが地面へと降り注いだ音が、地面を通じて伝わってきた。
「……っ!」
のんびりしている暇はない。
トオルはコクピットを閉じようとシート脇のレバーを掴み――ぬめりとした感触に気付く。見れば手のひらは真っ赤に染まっていた。いや、手のひらだけじゃない。背中も足も真っ赤に濡れていた。
「ひっ……!? こ、これ……」
人間の、血――そう言いかけた次の瞬間。
「……あ、れ」
そこには普通に、ただ緋いカラーリングなだけのコクピットがあった。
「錯覚……か? いや、そんな事どうでもいいだろッ」
止まっている余裕などない。トオルは今度こそレバーに手を掛け、引いた。血に濡れてなどいない――当然、ぬめりとした感触などない。きっとさっきのあれは、暗いコンテナ内だから見間違えてしまったのだ。ぬるりとしたのも汗だろう。
コクピットが胴体に引き込まれ、胸部の装甲が閉じた。プシュゥウと音が鳴り密閉される。 足音がすぐ近くで聞こえる。と同時に、裂け目にちらりと肌色が見えた。通り過ぎようとしている。その先にはみんなが、アイが。
「間に、合えぇええええ」
トオルはフットペダルを踏み込んだ。機体の関節がキィィインと音を立てた。機体が跳んだ。コンテナの壁を突き破る。その向こうにいる蜘蛛型へとぶつかった。
揉み合うようにして両者は転がっていく。回る視界、凄まじい振動。どこかでパーツが壊れたのか破砕音が聞こえた。
そして、衝撃。
「っ……か、はッ……!」
トオルは痛みに息を吐いた。
痛みで霞む視界を見れば、トオルは自身がビルに突っ込んでいる事に気付く。蜘蛛型も近くの別のビルに突っ込んで止まっていた。しかしすぐ、もぞもぞと五指を動かし這い出そうとしていた。
「……くそッ」
荒い息を吐きながらトオルは機体を立ち上がらせる。真っ赤なその身体が光に照らし出される。ビルのガラスにその身体が映っていた。
緋色の身体。シンプルだが洗練されたデザイン。目立つ特徴は何もない。シュウエンとの違いは、ややスマートになった体格くらいに思える。量産型のプッシュバックと大差ない……と思いかけ、違う、と自分の思考を否定した。
シュウエンが似ているのではない。
――他の全てのEXMが、シュウエンを模して作られているのだ。
と、ディスプレイの最上端にある文字列に気付く。
『SYUEN-EXM-X』
「シュウエン……改?」
トオルは口に出して言う。と同時に、沸々と内から湧き上がる感情があった。
「俺、今……EXMに乗ってる」
高い視点。それに足が竦みそうになる。しかし同時に、歓喜を叫んでいる自分がいる。
「ずっと、叶わないと思ってたのに……」
――トオルには昔、夢があった。
今でこそ無気力で怠惰に日々を過ごす高校生だが……昔はEXMのパイロットに憧れ、必死に努力をしていたものだ。ただ、パイロットになるには”適正”が必要で……トオルにはそれがなかった。ただ、それだけのこと。どこにでもある挫折話の一つ。
だからこんな状況は間違いなくイレギュラーなのだが、それでも……。
「俺、こんなにも……」
――心が、高揚していた。
ビルから這い出てきた蜘蛛型が姿勢を整え、こちらへと突進の構えを見せる。あれをどうにかしないと。だが、
――ここでは、戦えない。
視界の端には皆の姿。ここから引き剥がさないと――トオルは機体が反転させ、蜘蛛型に背を向けて一歩進む。ただそれだけで、凄まじい衝撃がトオルの身体を貫いた。
その背後では……。
「……追ってきて、くれたか」
蜘蛛型が後を追いかけてきていた。ガシン、ガシン、と地面を駆ける。その度に一歩ごとに衝撃が身体の芯を貫き、トオルは呻く。だが問題はそれだけじゃない。気を抜くと今にもすっ転びそうだった。
トオルは痛いほどに操縦桿を握りしめながら思った。
――せめてパイロットスーツがあれば。
パイロットスーツには身体を締め上げて耐G能力を向上させる機能と、それ自体が操縦桿としての役割がある。スーツの各部にあるセンサにより機体の操縦が補正され、また、ある程度の触覚フィードバックがあったはずだ。
それがあれば、この五感をなくした身体を動かしているような感覚も、マシになるだろうに。
「いつまで、保つか……」
少なくとも今は、機体はきちんと立って、走っていた。もちろんそれだって、トオルが天才的な技術を持つからではなく、凄まじく優秀な姿勢制御システムのおかげだ。
一歩を踏み出す。また一歩を踏み出す。そのまた次の一歩を踏み出す。背後を見る余裕はあっという間になくなった。それでも、迫ってくる”死の気配”が未だこちらを追ってきてくれている事を教えてくれていた。
人気のない方を目指して走る。方角を気にする余裕はない。ただ、一歩でも遠くへと。
「はぁッ……はぁッ……」
足を一歩前に出す度、衝撃に意識を刈り取られそうになる。しかしまだ、倒れるわけにはいかなかった。今ここには自分しかいないのだ。
走る。走る。走る。時間の感覚がない。1秒が何分にも感じる。辛い。苦しい。どれだけ進んだ? 違う、まださっきから一歩しか進んでない。ゴールはどこだ? ……やがて、そんな心の弱音を受け取ったかのように、ガクン、と機体が沈んだ。
「ッ――!」
転んだ、と認識した瞬間、衝撃。意識が黒と白に交互に明滅し――。