その61からその70まで
昔の人は
仕事も遊びも
真剣です。
如何にして
「ただ酒」を飲むか
そんなことを考えていると連中は
伊蔵に近づいてきました。
「伊蔵さん
助役辞められたんですね。
残念です。
伊蔵さんがいたから
園田村がこんなによくなったのに
辞められたら
この園田村はどうなるのですか」
と言うような
歯の浮くようなお世辞を
言ってくるのです。
伊蔵もお世辞とわかっていても
うれしいものです。
ついついまた
伊丹に連れて行ったりもするのです。
そんな噂が立つと
我も我もと
同じようなことを
言って来るものが後を絶ちません。
本当にお人好しとしか言えないのです。
それで夜な夜な
伊丹に通うことになります。
伊丹に遊びに出かける
伊蔵は
家族も困惑していました。
別に伊蔵は
家に居る所がないということはありません。
戸主として
夫として
父親として
みんなに慕われていました。
特にふたりの子供には
子煩悩で
特に可愛がっていたのです。
昔は子供が多いのが
普通ですが
松野家は代々
子供が少ない家系です。
伊蔵の父親に言わせれば
「貧乏人は子だくさん
子だくさんで貧乏に拍車をかけるものだ。
わが家は少数精鋭主義だ」
そうです。
事実松野家は
代々子供が少なく
時々養子を迎えていることさえありました。
その子供がすくないのも
財産を分ける必要がないので
松野家が
江戸時代の初めから
続く理由からかもしれません。
伊蔵も
男の子が二人しかいなかったですが
本当にふたりとも可愛がっていました。
伊蔵の子供は
父親を慕っていました。
ふたりとも競うように
伊蔵が家にいるときは
後を付いて回ったり
あれこれと
おねだりしていました。
子煩悩な伊蔵のことですので
本当に面倒を良く見ていました。
特に助役を辞めてからは
家にいることが多くなって
子供とよく遊んだりしていました。
ふたりを分け隔てなく可愛がっていたのが
当時としては非常に珍しかったです。
というのは
当時は
旧民法下家督相続制度が
一般的で
関西地方では
長男が相続し
その他の子供は
養子として出るか
一生結婚もせず
家に下男としているか
の選択しかなかったのです。
そのため
長男は家督を相続するものとして
大事に扱われ
次男以下は
その他の大勢組みですので
ほったらかしにされるのが普通です。
食事のときも
長男と次男は
食事の内容が
少し違っていました。
第1部でも書きましたが
江戸時代には
家なしには暮らしてはいけません。
戦国時代には足軽として出仕して戦死するのと
村にいて餓死するのとが
同じくらいであったのです。
時が流れても
明治維新になっても
何か守ってくれるものがないと
少しの間も生きることができなかったのです。
家があればこそ
生きていけると考えるのが当然です。
家にはご先祖から受け継いだ
生活の糧があるのです。
それは、
お米の蓄えであったり
家であったり
田畑でもあるのです。
もっと広く言えば
信用でもあるのです。
親は子供のことを考え
仕事に精を出し
少しでも子供が
腹いっぱいご飯が食べられるように
なるようにしているのです。
もし子供のことを考えない親がいれば
その子供は
食べ物さえない。
即ち多かれ少なかれ子供は
いずれ餓死する運命になります。
そうなれば
子供のことを考えない親の子孫はいなくなります。
こんな厳しい時代が
何百年何千年と続くと
子供のために
働かない親はいなくなります。
つまり子供のことを考えない親が存在しなのです。
大きく言えば
「子孫のことを考えない
祖先は存在しない。」
ということになります。
伊蔵は子供を可愛がりながらも
伊丹通いを止めはしなかった。
頼りにされると
断りきれない伊蔵の
気質が
災いしたのでしょう。
そんな取り巻きの連中の中には
もっと要求が大きくなってきます
激動の明治時代
困窮する村人もいます。
その日の生活にも困った人たちは
伊蔵にお金を借りにきたり
保証人を頼み込んできたりします。
伊蔵は一人ひとりの話を
よく聞きます。
やさしい
お人よしの
伊蔵のことですから
必ず同情します。
そして少額ですが
お金を貸します。
貸したお金は
大方返って来ません。
お金を借りれたという話が
村中に伝わりました。
お金が借りられる言う
うわさが広まると
村中のそれなりの
連中は
我も我もと
押し寄せました。
時代が大きく変わった明治維新
お金に困る小作人は
多くいました。
激しい労働からの病気や
天候不順
技術力不足・労働力不足などの
ちょっとした理由で
お米の収量が
違ってくるのです。
ぎりぎりの生活を余儀なくされている
小作人には
お米の収穫のちょっとした減少や
お米相場の乱高下で
生活が破綻してしまうのです。
いい加減な努力しかしなかったから
お金に困っている
ひとはほとんどいません
そんな話をきいて
伊蔵は
お金を融通したのです。
伊蔵は
ますます「おひとよし」になって
しまいます。
そのために
松野家は
先祖伝来の
田んぼを手放すことになります。
伊蔵は
そんなに
財産がなくなってくるのを
気にも留めませんでした。
家族の中にも
止めるものがいなかったのが
不幸を大きくした原因なのかもしれません。
でも
松野家にとっては
不幸でも
伊蔵に頼る人たちには
大きな幸せです。
助けられた人は
多いです。
そんなことを
やっていた
明治22年に
長男が結婚します。
次男の結婚について伊蔵は
考え込みました。
長男が結婚すると
次男の立場は
急に悪くなります。
長男は惣領息子
次男は部屋住みの身です。
伊蔵はその顔の広さから
養子の口を捜しました。
しかし「帯に短したすきに長し」
で見つかりません。
伊蔵のお人よしも災いして
養子の口が少なくなってしまったのかも知れません。
なかなか適切な養子口が
見つからないことに
伊蔵はいらだちました、
そんなことを一年続けましたが、見つかりません。
伊蔵はいい養子口が
見つからないので
考え込みました。
伊蔵は世間が
「米糠3合あれば養子に行くな」
ということわざも
よく知っていました。
次男のことがかわいそうになったのです。
次男に養子の口がないことで
伊蔵は次男のゆきすえ
のことを真剣に考えました。
このまま部屋住みで一生暮らすのか
不本意な養子に行くのか
そして最後に
分家するか
の道を
選ばなくてはなりません。
「現在なら
勤めに出て
独立する」
という方法が
一般的ですが
明治時代のこの頃
たいした技術や学歴・社交術を持たない
者の独立など
殆ど不可能です。
次男のことを考えると
分家が最善とと考えられますが
分家させるのには
大きな問題がありました。
それは
「たわけもの」という言葉に
集約されます。
分家させることは
先祖よりしていなかったのです。
皆様ご承知のように
「たわけもの」は
時代劇に出てくる言葉ですが
「田分け者」と書きます。
田を分ける者が
「たわけもの」で
無分別の者の代名詞なのです。
田畑は限られています。
どの様な努力をしようとも
収量は努力と比例して
増加しません。
既に十分な努力をしているので
収量は既に最大限に達しています。
即ち土地は限られていますので
収量は同じです。
即ち満足に食べられる人数は
決まっています。
昭和の始めの頃なら
1反300坪で少なく食べて
ふたり分程度の人しか収量がありません。
年貢や地租などのためになくなる分を入れれば
一反でひとり弱の収量しかないと考えられます。
平均的に7反ぐらいあれば
一家は最低限の生活が可能でしょう。
終戦後に行われた農地改革では
1町2反までしか所有できなかった事実と合わせて考えても
一家が生活できるためには
7反程度が必要だったんです。
それを分家して分かれると
段々細分化し
7反を下回ると
みんな共倒れの憂き目を見ることになります。
そんな理由で
分家→田分け→たわけもの→無分別
の構図になります。