その39からその50まで
時間がまた逆戻りして
今から140年前になります。
場所は今津から
徒歩で約1時間強程かかる
園田村です。
明治時代なったから
兵庫県川辺郡園田村という住所になりました。
江戸時代には、
もっと小さい集落ひとつひとつが
村になっており
その村毎に旗本領で領主が違いました。
それらは武庫之荘の代官が治めていたのですが
村々のことは
大地主を庄屋として
任せていたのです。
即ち庄屋は最も小さな行政機関を果たしていました。
園田村の中で
最も小さい村のひとつに
庄屋の松野家があります。
松野家は、江戸時代の初期に
始まります。
代々庄屋の職についていました。
江戸時代の中頃
それは大変な力を持っていました。
松野家の先祖は、
園田村で有名な水争いの
首謀者の一員であった時もありました。
松野家の属する
大井組は
多数派で
少数派の
三平組と
猪名川からの取水を巡って
幾度となく争いました。
農業は水が命です。
園田村一体は、弥生時代より
豊かな猪名川に育まれて
有数の穀倉地帯で
承久の乱の原因となった
椋橋庄も園田村と隣村にあります。
そんな豊かな土地でも
日照りはやってきます。
暑い夏田んぼに水がないと
稲は枯れてしまいます。
猪名川には豊かな水量があっても
猪名川は、園田村の上流で
猪名川の本流と藻川に別れます。
そのため
時々によって
水は、猪名川と藻川に分かれて流れます。
水を藻川から取る太井組と三平組は
時には少ない水をめぐって
争いあうのです。
少しでも上流で堰を作って
呼び込もうとするのです。
もちろん争いを好まない農民の集まりですから
そのために
ため池をあちこちに作って
貯めているのですが
当時ポンプと言ういいものがなかった時代で
池の表面の少しの水しか利用できなかったのです。
戦国時代の終わりごろ
多数の死傷者を出した争いがあったと言う資料も残っているくらいです。
きっと松野家の先祖も
それにいやおうなく加担したのでしょう。
水をめぐって死人まで出る騒ぎになるとは
大変なことです。
もっとため池の水が
有効利用できたらいいのにと考えるでしょう。
しかしため池が
もう少し高いところにあれば
それは簡単なことなんですが
園田村一体は、
殆ど平坦な土地だったんです。
ため池の水を利用するためには、
水を掻い出さなくてはならないのです。
田んぼに使う水は多量です。
勺のようなもので汲みだしていては、
らちがあきません。
それで道具を使います。
ずっと昔はもちろん松野家の先祖は使ったかもしれないのが
龍骨車です。
今でも博物館に行くとあるらしいのです。
江戸時代の中ごろになると
足踏み水車が普及します。
足踏み水車はとても合理的な構造で
水が良く上がり
便利だったので
昭和30年ごろまで使っていました。
この足踏み水車を
器用な人は自作したものでした。
松野家の
子孫で
けいと結婚した松野時蔵もそのひとりで
水が良く上がることで
有名で近所の人に頼まれて作っていたのです。
エンジン式の
バーティカルポンプが
すでに普及していた時代でも
使われていたそうです。
初夏から盛夏までの間
田んぼのあちこちに
足踏み式水車が立ち
竹のつっかい棒を持って
足で水車を回している光景が見られます。
遠くから見ると
のどかな感じがしますが
足踏み式水車は
とてもしんどい物です。
今で言えば
段差のあるルームランナーのようなもので
水を含んで水車を回すためには相当の重さがいります。
そのため乗り手は
水車の真上近くではなく
水車の勾配のきつい
端に乗らなければなりません。
ルームランナーと言うより
下りてくるエスカレーターを
登ると言った方が適切かも知れません。
そんな水車で水かきを
する様な日照りは、
本当に困りものです。
収穫が減っても
武庫之荘の代官所に
納める年貢は、変わらないので
貧しい百姓は、
借りることになります。
そのようなことが続くと
本当に大変なことになるのです。
村を預かる庄屋の松野家は、
保証人となることもあったのです。
園田村には真宗のお寺が点在しています。
真宗門徒の多いところです。
今から400年以上前
大坂の石山本願寺を
織田信長が攻めた時に
園田村の門徒は、
石山本願寺へ
駆けつけ
多数の人々が戦死します。
その功により
園田村の属する阪神東組と呼ばれる
門徒の集団は、
今も本願寺では高い地位にあります。
今から400年以上前は
毎日生きていくことと
徴兵されて戦死することが
同じくらいの
確率であったのです。
だからこそ
積極的に
石山本願寺に
駆けつけたのでしょう。
そんな中に松野家の
先祖がいたかどうか分かりませんが
その子孫の血が
松野家に混ざっていることは確かです。
そんな園田村と
松野家が
幕末から明治維新
大正時代へ続く物語を始めましょう。
松野家の当主は
明治時代始めに
若くして亡くなり
長男に当主の座は移りました。
若くして当主になったのは、
伊蔵です。
伊蔵は
清兵衛と同じ年に
近くの大地主の娘と
結婚しました。
伊蔵とその妻は
いわゆる「お坊ちゃんとお嬢ちゃん」育ちで
よく言えば
人間が良い
悪く言えば
お人好しでした。
それから
伊蔵は
どちらかというと
体が弱い方で
農作業などの重労働は
下男の者にやらせていました。
伊蔵は
そう言う
身分だったのです。
先代の当主も
そんな生活でしたから
別に伊蔵は、
違和感もなく
あまり働かないのが
当たり前だと思っていたのです。
伊蔵が住んでいた頃の
松野家の家は、
清兵衛の家と
正反対の
立派な物でした。
敷地は、
有馬道の
街道沿いにあり
付近の田んぼより
3尺ばかり石垣を積んで
高くなっています。
園田村一帯は、
平地なので
大雨が降ると
水がたまりやすく
少しの雨でも
川があふれるのです。
高くしてあるのは、
そんな浸水を防ぐためです。
周りに土塀を
回していて
街道沿いには、
長屋門があります。
門の東側が牛小屋
西側が
下男の家になっていました。
門は、
ケヤキで作られた
立派なもので
松野家の力を表しています。
門をくぐると
左側に庭
右側が農作業用にスペースです。
正面の母屋は
2階建て庶民の家としては、
非常に珍しい瓦葺きです。
大きな木戸を開けて母屋にはいると
広い土間があります。
広い土間があって
左側が4間取りの座敷になっています。
奥には、
格子戸があって
その扉の向こうには、
また土間になっており
へっついさん(かまどのこと)が3つ並んでいます。
ずーっと奥に
木の流しがあって
その隣に井戸がありました。
お風呂は
土間続きの
左の奥です。
裏口から出ると
裏庭があって
左側に
蔵が建っています。
庭の向こうには
土塀に小さな門が付いていて
その門を開けると
石垣を下りる
階段があります。
その下に
農業用水路が流れています。
この水路は、
先の大井組の
水路ですが
三平組の
水路も注いでおり
日々の洗濯などは
ここでしていました。
この家の
トイレは、
門を入って
右の
牛小屋の
斜め前くらいに
建てられており
白壁で塗られていました。
母屋の造りを
具体的に言うと
大き目の礎石を土を固めて
並べます。
5寸の柱を立てて
地長押で固めます。
太目の貫を楔で固め
これまた太目の竹で
塗り壁下地を作ります。
土壁に下げ緒を付けて
塗りこみ
中塗りをしたのち内側は
座敷は砂壁
その他は白漆喰塗りです。
外壁は、
腰は板壁
上は黒漆喰塗りです。
座敷は、長押を回し
天井にも天井長押を回して高い天井です。
天井は杉の一枚板で
幅は1尺5寸です。
柱の上は、桁を回し
その上に
低い2階があります。
2階は女中さんや
倉庫になっています。
すべての木部は、
柿渋が塗られています。
柿渋は、濃い茶色です。
時間が経つと真っ黒になります。
ところで柿渋とは、
渋柿を
水の中に漬けておき
余分なものが腐ってなくなります。
オイルステンのように
木に塗って
着色します。
塗ったときは、
すごく臭いものですが
時間が経つと
もちろん臭いがなくなり
木の耐久性が増すのです。
そんな家で一人っ子で
育った伊蔵は、
明治元年に結婚します。
結婚してからの伊蔵は、
結婚する前とあまり変わりない生活です。
朝は家人の中で一番遅く起き
朝の間の仕事に行くこともなく
顔を洗って
お膳の前に座ると
女中が
給仕をしてくれます。
両親と黙って
ご飯を食べて
その後
服を着替えて
農仕事に出かけます。
田んぼに着くと
下男が働いているのを
最初は、畦に立って見ています。
日もだんだん高くなると
畦に座って遠くの六甲山や
空の鳶を見て過ごします。
もっと高くなると
畦に横になって
寝てしまいます。
お寺の鐘が鳴って
昼になると
下男と一緒に
家に帰って
昼ご飯を食べ
昼からも同じように
田んぼに出かけます。
両親が
田んぼに出ない限り
伊蔵は実際働くことはありません。
伊蔵があまり
いや全くと言っていいほど
仕事をしないのは、
親譲りというか
先祖由来なのです。
何しろ
伊蔵が継いだ時には、
相当少なくなっていましたが
昔は大金持ちで
働く必要がなかったのです。
と言うか働かない方が良かったのです。
大金持ちの当主自ら働くと
下にいる人たちは、
それ以上に働かなければなりません。
一番下の人など大変ですので
「思いやり」から
働かなかったと言っても良いのかも知れません。
結婚して2年後子供ができるのと
相前後して
父親が亡くなります。
それまで父親がやっていた職を
すべて引き継がなくてはならなくなったのです。
当主になったのは、
明治3年なので
庄屋という職はなくなっていましたが
それに代わって
園田村の助役の職に
若くして就くことになります。
伊蔵は公職に就くと
なおさら家業はしなくなります。
別に家業は下男に任しておいても
支障はないのです。
しかし、松野家の家計は
収支のバランスが
悪くなりました。
公職に就くと
出て行かなくてもよいお金が
出て行ってしまうのです。
先々代には
こんな事がありました。
天保の大飢饉の折
冷害と洪水のために
何年もお米が少ししか獲れない年がありました。
東北地方では、餓死者累々の記録も残っていますが
豊かな大阪平野は、そこまでひどくはなかったのですが
松野家の村でも
相当ひどかったのです。
このような年でも
五公五民で年貢を納めることになっていました。
それから少々の不作や豊作でも
平均して
納めることになっていました。
何年も不作が続くと
お百姓は困ることになります。
特に水飲み百姓と言われる
最下層の小作人は、
年貢を納めるために
借金します。
それから食いつなぐために
また借金するのです。




