その31からその38まで
清兵衛が60歳の普通で言えば
老人の域に入っていた頃
日本は日清日露戦争に勝利して
好景気になっていました。
清兵衛は、
今までは
夏は米作 冬は麦を
作っていましたが
大阪や近くの尼崎に
たくさんの人が集まってきたので
今までは少ししか作っていなかった
野菜を多量に作り始めました。
人を雇って
都会に売りに行ったのです。
今で言えばニュービジネスです。
その商法は、大当たりして
今までにないような膨大な利益を生み出したのです。
そのお金を
田んぼの購入につぎ込む
拡大再生産で
清兵衛は、巨万の富とまでは行きませんが
それなりに蓄財をしたのです。
だからといって
清兵衛が贅沢な生活をしたかというと
そうではなく
以前と同じような服装をして
先頭に立って
田んぼに出かけていきました。
もちろんゆかも
家事を千代に任せていましたので
清兵衛と一緒に出かけていきました。
六甲から寒い風が吹いてきて
真っ暗になるまで
働いたのです。
2人揃って
家に帰り着くと
千代が作った
粗末な夕餉を
家人のみんなと食べて
お風呂に入って寝るだけの生活でした
でも清兵衛もゆかも
幸せでした。
清兵衛が幸せだったと言っても
それは
清兵衛がお金持ちになったという理由ではないと
自身は思っていました。
ゆかも同様です。
清兵衛は
幸せだと思う理由は、
清兵衛の言を持ってすれば
「元気に働けて
家族の者みんなと
暮らせる。
その上
雨露がしのげる家で
満足な
食事ができる
それは幸せなことだ」
と言うことです。
最低限のことだけあれば
『人はそれで幸せだ』と
清兵衛は考えていたのです。
清兵衛もゆかも
極貧の小作人の子供として生まれ
その日の食事が
心配な環境で育った者なので
そう考えるのが
自然かも知れません。
いやもっと言えば
日本中の人たちは
ごく一部の人たちを除いて
そのような考えを
持っていたとしても
過言ではありません。
心の底から今の生活を
『幸せ』と考えていたのです。
清兵衛とゆかは
幸せであったけど
60歳を越えた
体には
寒い冬の朝
布団から出て
仕事に出かけるのは、
今も昔も同様に
大変なことです。
まだ真っ暗なうちに
家を出発するのです。
どんなに気丈な者でも
それは大変な試練です。
清兵衛もゆかも
休みなくそのように続けるのは
大変です。
だからといって
「今日は休み」
と言うわけにはいかないのです。
もちろん戸主の
清兵衛が
そう言えば休むこともできるし
休んだとしても
番頭が
しっかりやってくれることと
思います。
でも
『生きているかぎりは、
それはできない』
とふたりは考えていたのです。
清兵衛もゆかも
休めるのは
死んだ時と
考えていました。
清兵衛は
清三のために
財産と番頭という人材を残すことができたので
心配はないとはいえませんが
一応安心していました。
清三は
自分が親から信頼されていないと
感じ取られていましたので
寂しく思っていました。
もう30歳を過ぎた清三を
心配するのが
間違いなのか
30歳過ぎても
そんな自縛に
悩まされる
清三が悪いのか
たぶん両方とも
善意だったんですが
結末をこのとき知る者は、
一人もいません。
そんな清三に
最後の子供けいが生まれました。
上の3人がすぐ亡くなったので
清兵衛も清三ももちろん ゆか や千代も
大事に育て始めたのです。
特に清三は
熱心にけいの
世話をしました。
今までにないような
努力をするのです。
働きに田んぼに出かけ始めたのです。
それを見て
清兵衛らも
すべての心配が
吹っ飛んでしまいました。
安心した清兵衛は、
今までの目標がなくなったような気がしました。
本当は目標がなくなったのではなく
目標が達成できたんだと思うのですが
安堵した清兵衛は、
和らいだ顔になって
「超人」から「普通人」になったのです。
普通のおじいさんに戻った清兵衛は、
体も心も弱ってしまいました。
田んぼに働きに出かけるのも
何やかやとゆかに言って
休みたがりました。
でも最後に働きに出かけるのです。
けいの生まれた
大正5年ごろは、
日清日露戦争に勝利したのち
第一次世界大戦では
日英同盟を理由に
連合国側について
ドイツに宣戦布告をしていました。
戦線から遠く離れた日本は、
戦争特需で
好景気そのものでした。
何をやってもうまくいく時代だったんです。
清三のやり方でも大丈夫と
清兵衛が思っても
無理はありません。
急に弱った清兵衛は、
死んだときのことを
ゆかに話しました。
ゆかと相談することは、
清三のことのみでしたが
初めてほかのことを話したら
死んだこととは、
ゆかは少し驚いたと同時に
寛容なゆかも
少し腹立たしく思いました。
清兵衛の言うのには、
「わしが死ぬまで
決して死んではならぬ。
死んだときは
小作人と同じように
おくって欲しい。
それから火葬にしてくれ。」と
弱音を吐くようになってから
少し時間がたった冬の寒い日の朝
清兵衛は、亡くなります。
ゆかは
あっという間になくなった
清兵衛を恨みました。
「せめて『患い 四十日』くらいの
面倒をかけてくれれば
未練が残らないのに」
と思ったのです。
ゆかは
清兵衛に言われたとおりの
粗末な葬式をとりおこないましたが、
参列者は遠くからでもやって来て
清兵衛の人望の高さを現しました。
初七日から七日七日そして四十九日になると
ゆかは清兵衛がいない事に
本当に困り果てました。
清兵衛が生きていた時は
寡黙でゆかと話したことなど
数えるぐらいしかありません。
ただ単に清兵衛の後を
ついて行っているだけだったんですが
ついていく者がなくなると
どうしていいのかわからなくなるのです。
もちろん清兵衛が育てた番頭がいるので
家業の経営には、なんら差し支えないのですが
ゆかは毎日どうしていいのかわからなくなったのです。
千代はそんな
ゆかを見て
とても心配になりました。
すっかり弱ったゆかを見て
千代は心配だったんです。
でも千代には何もできませんでした。
ゆかは、元気はなかったですが
いつものように仕事をこなしていました。
清兵衛がなくなった翌年の冬
寒い日に
いつものように
味噌を作り始めました。
千代が作るといったのですが、
ゆかは作り始めました。
まずお米を蒸して
人肌の温度になった時に
小さな袋に入った
麹菌を混ぜます。
コタツを入れた布団でくるんで
人肌の熱を
保ちます。
二日たつと
お米から毛が生えたように
なります。
少し黄色い色で
食べると
少し甘い味になります。
この米麹を
鍋に水を少し入れて入れて
炊くと甘酒です。
清兵衛はそれが大変好きでした。
ゆかはそれをご仏壇に供えました。
それから大きな釜で
大豆を炊いて
臼で大豆をつぶしていくのです。
その日は北風が吹く寒い日で
北風に向かってその仕事をしているのを見て
千代はもっと心配しました。
大豆をつぶして
麹と混ぜて
塩を入れて
樽に仕込みます。
大きな樽いっぱいの
味噌が6ヵ月後に出来上がりです。
樽を味噌蔵に入れ
できあがったのは
日が沈んでいました。
ゆかは何か寒そうに
弱って家に入ってきました。
食事もそこそこにして
寝床に入りました。
翌日心配して
千代が寝床に行くと
ゆかはしんどそうに寝ていました。
朝からの高熱に
千代はお医者様に往診してもらいました。
医者は「肺炎かもしれない
部屋を暖かくしておく様に」
と言って帰りました。
それから
1週間後
息を引き取りました。
清三や千代・武蔵はよく看病しましたが
もう衰弱しきっていたのでしょうか
眠るような最期でした。
小柄な千代は、
大男の
清兵衛と一緒に働くために
相当無理をしていたのかもしてません。
清兵衛に言いつけを最後まで守って
清兵衛より
一年だけ長生きした
本当によき妻だったと
村中の女たちは、
口々に言いました。
清兵衛と同じような
質素なお葬式を挙げ
火葬にふされました。
二人の墓は、
今津の村にあったのですが、
戦後墓地改葬により
夙川の奥の
山の頂上辺りに
ひっそり祭られています。
春には、桜が咲き乱れるその墓地で
清兵衛とゆかはどのように子孫を見ているでしょうか。