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その21からその30まで

天気の良い日曜日

清三は、父に「田んぼに行こうか」

と言われました。


清三も

一人で家に居るより

仕事に出かける方が

家族と一緒に居れるので

よいと思いました。


軽い仕事と言うことで

野菜畑の

草引きをすることになりました。


10時ごろより

昼までしました。


昼からは清三は、家で

居ました。


心配することもなく

清兵衛とゆかは夕方まで

仕事をして

暗くなったので

帰りました。


帰って

清三を最初に見た

ゆかは、

清三が元気がないように

見えました。


急いで

額に手を当てましたが

熱はない様に思いました。

しかし大事を取って

寝かしました。


清兵衛は

寝ている清三を見て

心配と不安を感じました。


翌日は

元気に清三は、学校に行きましたが

清兵衛とゆかは

「清三には仕事は無理だ。

学問の道で生きていくしかない。

そのためには、

大地主になるしかない。」

と考えたのです。


単に清三は疲れただけかもしれないのに

ずいぶん安直な考えに、

清兵衛たちは行き着きました。




清兵衛が

「清三は、学問で身を立てる」

というように決断するのも

時代の流れでしょう。


福沢諭吉の「学問のすすめ」が

世に出て

学問で身を立てるという

ことができる世の中になったのです。


大変な百姓の仕事をしていた

清兵衛は

自分の息子には

こんなつらい仕事させたくないと

考えに至っても

不思議なことはないでしょう。


ゆかもそれに賛成しました。


しかし清兵衛とゆかは

自分たちの子供である清三が

「その器」を持っているか心配でした。

もし重労働ができなくて

かつ 学問でも身を立てられないなら

どのようなことになるか

火を見るよりも明らかです。


清兵衛は結婚してから

18年経ち

田んぼ7反の自作地がある

百姓になっていました。


しかしこの程度では、

清三が一生仕事をせずに

暮らせるものではありませんでした。


それで清兵衛とゆかは

明治18年の初夏のにある日

大きな夢を絶対に実現させなければならないと

強く思ったのです。


小作人の次男として生まれた

清兵衛の大きな夢は

前にも言いました

大地主になることです。


ゆかもそれにもろ手を挙げて賛成し

今までにないくらい

二人は働き始めるのです。




清兵衛とゆかは

本当に無謀なとも考えられるような

努力を行うのです。


自作地を人力で耕し

田んぼでは、お米を作って

すべて売って

自分たちはひえ粟の雑穀を食べました。

畑では野菜を作り

遠くは大阪の市場まで売りに行きました。

庭では鶏を飼って卵や鶏肉を

買いに来る業者に売りました。


農閑期には、

酒樽のこも編みや

荒縄編みなどのわら細工もしました。


家で出来る内職なら

どのようなこともやりました。


清三は働く両親の後姿を見て

おとなしく家で勉強をしていました。


毎年のように

田んぼを買って

また仕事を増やしていったのです。


清兵衛はもう超人としか言いようがありません。

小柄なゆかも人の5倍は働き

いつ寝ているのかわからないくらいです。




清兵衛とゆかは

働き過ぎるほど働いていました。

清三もそれなりに

がんばって勉強していましたが

才能がなかったのでしょうか。

大学受験に失敗してしまいます。

近くの私塾に行くことになります。


その年には

清兵衛の家は、1町3反の地主になっていました。

とても二人ではできないので

牛以外に人を雇うことになりました。


いわゆる作男と言われる人たちでしたが

よく働く清兵衛やゆかには不満がいっぱいでした。


もちろん良く働く人たちでしたが

自分たちに基準では、もっと働けるのに

と言う不満でした。


でも自分たちが全部できる量ではないので

目を瞑っていました。


清兵衛やゆかに休みは、

盆と正月と祭りぐらいです。

その他休むのは、

村の人のお葬式ぐらいです。


行楽など絶対にありません。

魚取りと言っても

無料の食料の供給のために行うものです。


その頃の一般的な行楽の

芝居見物・花見・舟遊び

などしませんし

ましてや飲む打つ買うなどありえないことでした。



清兵衛とゆかは

もう脇目もふらず

働き続けます。

清三に手がかからなくなったので

それはそれは朝早くから

夜遅くまで

働き続けます。


近くの村人は、

清兵衛の家で働く

牛がかわいそうだと

思うくらいです。


そんな両親を見て

清三は、

私塾に通っていました。

清三が

二十歳になった時

清兵衛は、西宮の少し奥の

甑岩こしきいわの農家の娘

千代を

清三の嫁に迎えます。

特に清三が望んだわけでもないのですが

年になったので

結婚しました。

千代は、

ゆかのようによく働く女性でしたが

ゆかのように芯の強さは感じられませんでした。

しかし忍耐強く夫の清三に

生涯従順に尽くしました。


もちろん結婚しても

清三は、

私塾に通い続けました。

周囲の人は、

勉強が好きなんだろうと考えていました。


しかし清三は、

勉強が嫌いではありませんでしたが

特に好きと言うこともなく

他にすることを見いだせなかったため

勉強をしていたに過ぎないのです。




千代は、よく働いて

清兵衛やゆかを良く助けました。

炊事や洗濯お風呂の水運びなどの家事や

作男の世話などすべて良くこなしました。

それでゆかは清兵衛と

安心して仕事に出かけられるようになり

ふたりの超人的な働きは、

より一層増したのです。


また

清三・千代の夫婦には、

すぐに子供ができました。


1番目が武蔵

2番目が勇治

3・4・5番目は幼くして死亡

6番目が女の子で

7・8番目は幼くして死亡

最後の9番目が

女の子で

この物語の主人公の

けいです。


最後の

けいが生まれたのは、

大正5年のことです。


清三は、6番目の女の子ができるまでは、

私塾に通っていました。


でも、30歳になった時

清兵衛は、

「清三に家の手伝いでもしてみてはどうか」

と言いました。

清三も

勉強に対して

何か壁のようなものを感じていたので

私塾を辞めて

家の手伝いをすることになりました。


清兵衛とゆかの両親は、

その時でも

超人的に働いていましたが

清三には、

簡単な用事を言いつけていました。


千代の方がもっと働いていたと思います。




清兵衛は、ただ単に

働いていたのではありません。


如何にすれば効率的に

子供や家族が幸せになるかを

考えていました。


清兵衛は、

農業を効率的にするために

当時としては珍しい

足踏み式の脱穀機も導入したし、

牛も2頭飼ったりも。しました

それから

家も新しいものを建てました。


地主の家とまではいきませんが

家族が増えたので

大きな家になりました。

台所のそばに

新しい井戸も掘って

台所の流しも

木製ではなく

銅板のものを作り付けました。


トイレも陶器製のものを付けました。


その時代では、非常に衛生的な

家になったのです。


辰巳の角に

それなりの大きさの蔵も建て

清兵衛の同輩の者からは、

羨望の的になりました。


でも誰も清兵衛を

ねたむものなどいませんでした。

清兵衛は、

自分の仕事も充分にしましたが

村の仕事である

道普請や川普請日照りのときの

水掻き・村祭り労を惜しまず

率先してやったので

清兵衛は

他の村人に

尊敬されていました。


もちろんゆかも

村の中では、

「『あの』夫に仕えて

よくできた嫁」と評判でした。


千代も同じような評価でした。

清三は、残念ながら、、、



清兵衛は、

大きくなったと言うか

もう父親になった

清三が今も可愛かったのです。


もちろん千代や

孫の武蔵や勇治も可愛がっていました。

特に勇治と遊んでました。


遊ぶといっても

ほんの数分ですが

それが清兵衛にとって

唯一の楽しみだったかもしれません。


勇治の次の子供が

相次いで3人生まれるなり

亡くなったので

清兵衛は、本当に悲しい気持ちになりました。


なくなった理由は、

清兵衛の子供と

同じような

病状でした。


今なら遺伝的にアレルギー体質として

片付けらて

薬で緩解するのですが

当時は本当に大変なことでした。


そのため清兵衛は

大切の育てたのです。


特に勇治には、

あえて言えば

甘やかして育てたかもしれません。

清三のように



清兵衛は、立派な地主になっていましたが

それほど生活が

良くなったと言うものではありません。

質素倹約の極みです。


毎日の食事は、

雑穀の稗粟から

大麦に変わっていました。

それは、二毛作が一般的になったからです。


麦ばかり炊いたご飯は、

本当に食べにくいものですが

食べていたのです。


清三や孫も食べていたのですが

清三はともかく

孫は不満がいっぱいでした。


でも孫が可愛いからと言って

食事については、清兵衛は甘やかしませんでした。


なぜか頑固にお米を食べなかったのです。

もちろんゆかも清兵衛と同じように食べなかったですが

清三が出かけるときに作る弁当には、

白米のご飯を入れていました。

清兵衛には、内緒でしたが

清三はいつも弁当は美味しいと

母親に感謝していました。


清三のはとても友達が少なかったのですが

その殆どは、

大阪に住み込みで働きに行ってしまって

清三は普段は、寂しい思いをしていました。

そんな清三を元気付けるために

ゆかは白米のお弁当を入れていたのです。


清兵衛も

うすうす知っていましたが

黙認していたのです。



清兵衛は、清三が独り立ちして

立派な学者になると期待していましたが

残念ながら

その望みもたたれ

清兵衛は、本当にがっかりでした。


でも清兵衛は、寛容な性格でしたので

清三にはそのようなことを気付かれないように

していました。


清三はそれがわかっていたので

心の中では、

イライラしていたのです。


清兵衛は、清三のその気持ちがわかるので

余計にどのようにしていいかわからなくなって

仕事に一心に働いたのです。


誰の目に見ても頼りない清三が

地主として生活できるように

がんばって働いたのです。


それから

清兵衛は、

地主としての素養が

清三になくても

下で働いてくれる

「番頭」を育てていたのです。

清三よりも少し若い者で

よく気がついて

誠実なその番頭でした。


この番頭が居たから

心置きなく

清兵衛は、

60歳を超えても

元気に働き続けたのです。



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