その221からその230まで
予告なしにやってくる村の行事は
お葬式です。
冬場の方が
亡くなる方は多いともいますが
忙しいとかいえません。
ひとたび
村の人が亡くなれば
総出で
お葬式をします。
村のお葬式は
を簡単に説明しますと、
誰かがなくなると
家人が村の世話役に届けます。
直ぐに届けるのです。
村の世話役は
連絡網を使って
村の全員に知らせます。
もちろんお寺の住職さんにもです。
夜間であろうが深夜であろうが
直ぐにです。
村人たちは
連絡があると
まず直ぐに
お悔やみに伺い
帰っていきます。
これは仕事着で充分です。
深夜なら早朝まで待ちます。
簡単なお悔やみを言います。
多くの人は
「ごもごもごも」と
はっきり言いません。
言わない方が
いいのかも知れません。
はっきり言わないのが
お悔やみの言い方だと
村人は思っていたのかもしれません。
それとも
正式なお悔やみの言い方を
知らなかったのかもしれません。
中学校の行ってた
市蔵でさえ
「もごもごもご」
ですから
他の村人も
やっぱり
「もごもごもご」です。
でも滑舌よく
お悔やみを申し上げたら
少し元気よくなって
その場に合わないように思います。
お悔やみはそんな状態ですが
いざ
お葬式の実務になると
村人たちは
一糸乱れず
お葬式を
行います。
今で言う
葬式業者は使いませんから
すべては
村人が行います。
市蔵の村は
小さい村でしたが
年に3ないし5人程度の人が
亡くなります。
それを
さっさと片付けていくのです。
あらかじめ決められた
世話役が
この後
お葬式のすべてを
決めます。
勘定帳を作って
どのように行うか
住職さんにいつ来てもらうか
お料理はどのようなものを出すか
お葬式はいつ行うか
お墓はどこがいいか
まで決めてしまいます。
もちろんお金の管理もします。
世話役の下に
数人の世話役がおり
食事の係りや
お墓の係り
人の手配や
お寺の管理などをします。
それは良くできた
葬式の会社のように
動きます。
いやそれ以上に
よくできていて
今風に言えば
すべてボランティアだったのです。
無給で
お料理も作れば
墓も掘るのです。
少し前まで
「むら」は自己完結的です。
多くのことは
家の中で
少し大きなことは
村の中で
もっと大きなことは
地域で行っていきます。
お葬式は
村単位で行う
一大行事です。
でも
お葬式は
大変な仕事です。
食事について言えば
食材をすべて調達して
人数分その家の台所を使って
作ります。
村の人全員ですので
相当量です。
お葬式の料理ですから
精進料理を
作るのです。
野菜が主ですので
大方は
村の中にあるものを
利用します。
料理を作るのも
分業です。
昔はガスとかありませんので
火をおこす人とか
水を調達する人とかも
必要です。
量も多いので
大変です。
たとえば大根を
畑からとってきて
川で洗って
皮をむいて
切って
大きな鍋に入れて
炊きます。
園田村には
木が生えている
入会地という物はありませんので
薪という物はありません。
へっついさんで炊くのには
稻わらを使うのが普通です。
稻わらは火力は強いですが
すぐ燃えてしまうので
火の番をしていなくてはなりません。
というわけで
料理を作るのは
村の夫人方が分業となります。
その分業には
決まりがあるのです。
誰がどれをするか
それは家の格で決まります。
調理をする係も
味を見る人を筆頭に
火の番・水くみに至るまで
家の格で
その役が決まります。
そして亡くなられた日から
葬式が終わる日の夕食まで
友引を挟まない限り
4食か6食作ります。
もちろん家人の分も
作ります。
メニューは
季節ごとに
収穫物が変わりますので
少し違いますが
同じような物です。
什器もその家のものを使いますので
各村人は
村の人数分の皿や茶碗を常に持っていないといけません。
世話役の采配の下
食べて片付けて帰ります。
そんな場所で
だらだらとしていたら
ほかの村人に何を言われるかわからないので
きびきびと働き
「一糸乱れず」の表現が
ぴったしです。
悪く言えば
葬式があると
付近の人が
バーとやって来て
勝手に食事を作って
食べて片付けて帰っていくのです。
それも一糸乱れず
統率がとれています。
手慣れていて
それほどの指示もなく
大方無言で
黙々と
決まったことをやるのです。
お葬式に出席するのは
もちろん村人だけではありません。
故人の親類縁者も
やってきますので
その数は
相当なもので
その人たちに
お料理を出します。
これらの費用は
すべて家人持ちですが
香典なども
すべて算入されますので
少しの黒字ぐらいでしょうか。
もちろん
この香典と
費用の支出の計算をするのも
村の世話役です。
電卓もない時代ですので
そろばんで
計算します
お葬式は
そんな風に村人によって
執り行われます。
もちろん
今で言う告別式
も執り行われます。
お寺の住職さんが
読経する中
親族親戚村人が
お焼香します。
そのご
隊列を組んで
お墓まで行きます。
今は霊柩車までの
少しの距離ですが
当時は
お墓は村はずれにあって
村人によっては
相当の距離があります。
いろいろな持ち物を
親族の各人が持って
並びます。
持ち物は
かなり多種で
正確には言えませんので
ここでは書けません。
ほかの宗派なら
鐘や太鼓を打ち鳴らして
お墓へと進んでいくのですが
門徒はそこまでしません。
今と大きく変わっているのは
棺桶が
寝棺ではなく
その名の通り
「桶」なのです。
丸く木で作られ
竹で輪がけがされています。
棺桶は
樽の大きなもので
座るのように入れます。
墓地を丸く掘って
入れます。
深さは1m20cmくらいの
丸い穴です。
竿で棺桶を担いでいくのです。
読経の中
そーと丸い穴に入れて
埋めます。
戦後になるまで
園田村一帯は
土葬でした。
戦後間もない頃
藻川が改修になります。
当時の藻川は
右に曲がり
左に曲がり
そこら中に蛇行して
大きな三日月湖をが
空き地になって
ここに
墓地と斎場がつくられたのです。
高い煙突のある
斎場=火葬場です。
そうなると
土葬はすぐになくなります。
村はずれの
土葬専用の墓が
使えなくなると
土葬は
自然となくなります。
アメリカの民俗学者が
「土葬が
突然火葬に変わるとは
理解できない。
アメリカでは考えられない。
日本独特のどのようなことにも
素早く対応できる
民族性であろう」と
言っていたことを
覚えています。
この大変革の
墓の移動ですが
すべてが移動したわけではありません。
一つだけ
新しいところに
移動しなかったのです。
何故かというと
その墓が
兵隊さんの墓で
高さが
3m近くあって
重くて移動できなかったからです。
一つを残して
村はずれの墓が
移動した土地は
市蔵の弟が買い取ります。
こんな風に
園田村の一年は過ぎていきます。
江戸時代から
それほど進歩もなしに
一年が過ぎていくのです。
世話役の市蔵は
各場面で重要な役割や
責任を任されてしまうのです。
まじめにやればやるほど
責任は重くのしかかります。
そうして逃れなくなるのです。
その重荷から
逃れるために
村八分になっても
それをやめたのです。
その代償は
家族も大変でした。
こうして市蔵は
村の中で
生活しながら
村から独立した存在になったのです。
こんな市蔵ですが
50歳になっても
子供がいなかったのです。
村八分になってからの市蔵の暮らしは
市蔵の言うには
平穏そのものでした。
元々のお金持ちですので
晴耕雨読
雨の日は
強いて農作業をする必要もなく
程々の
働きで
充分な生活をしていました。
でも
50歳になっても
子供に恵まれませんでした。
そこで
養子をもらって
継がせることになりました。
なかなか利発な
御養子さんで
その学年では
園田村一と
言う評判でした。
それから
数年後
養子に嫁をもらって
後を継がせたのです。
それは戦後間もないことでした。