その201からその210まで
麦飯と言っても
全部麦だけを炊くと
まず食べられません。
半麦米として食べるのです。
麦とお米を
半分ずつ混ぜて炊くのです。
麦と言っても
大麦です。
麦はお米と違って
皮は硬く簡単に取れません。
しかし内部はやわらかいのです。
そのため
お米のように
籾殻だけを取って
内部だけを食べると言うことは
当時の技術ではできませんでした。
だからと言って
外の皮をそのままにして
炊いたとしても
中に水が回らないので
食べられません。
それで
どうするかと言うと
押しつぶすのです。
圧扁機で押しつぶすのですが
そう簡単には押しつぶせないので
いろいろと前処理熱処理後処理するのです。
そんなに大変な工程を経て加工したのに
食べると
皆様ご存知のように
お米のように美味しくないのです。
市蔵が毎日変わらず
半麦米を食べていた頃
一日だけ
麦の入っていない白いご飯を
食べるときがあるのです。
それはお米を
出荷した日に
麦を入れないご飯を食べるのです。
でもやっぱり
貧乏性の市蔵いや村人たちですから
麦の代わりに
増量するために
あるものを入れます。
年に一度だけ食べる
麦の混ざっていないご飯の日は、
朝から家族はそわそわしています。
ズボンのベルトを緩めて
食べる用意をする者さえでます。
しかし白いご飯だけを食べれるかというと
そうではありません。
大根を混ぜて炊くのです。
もちろん風味を増すためというより
量を増すために入れているのです。
今でしたら
出汁にカツオや昆布
それに油揚げを入れて
しょう油で味付けすると
もう本当に美味しい炊き込みご飯ができるのです。
でも昔は
そのようなもの入れません。
塩味だけなのです。
でもこれが市蔵をはじめ
家族のものみんな
美味しくてお腹が
はちきれるくらい食べるのです。
1升5合のご飯は
一食でなくなります。
そんな一年に一度の行事も
あっという間に終わって
また農作業です。
それから数日経つと
秋祭りの時期がやってきます。
園田村では各村々にある神社ごとに
お祭りをします。
市蔵の村の祭りは
一番遅くて
10月月末の頃です。
お祭りは
村で一番の大行事です。
だからといって
農作業をほっといて
金を投じてするようなものではありません。
何事も倹約家ぞろいの
村人たちですので
祭りだからと言って
羽目をはずしたり
深酒をしたりしません。
祭りは
前日の昼頃から始まります。
早朝からは
それなりの仕事をしました。
昼過ぎに
村はずれの神社に集まって
お神輿を
倉庫から引っ張り出します。
それから
倉庫の中においてある
丸太を
6本取り付けます。
それは担ぎやすいように
するためです。
そのあと
村の子供が
お神輿に4人乗って
大きな太鼓を叩く練習をします。
叩き方は
3拍子です。
園田村の村々の
お神輿は
どういうわけか
3拍子で叩きます。
3回打って少し休んで
また打つのです。
これが宵宮の行事です。
その日はそれで終わりです。
翌日は本宮で
神輿が巡行する日です。
その日は
朝の間の仕事だけして
お宮に行きます。
家族のもので参加しないものは
もちろん仕事に出かけます。
神輿を担ぐのです。
神輿は子供4人が乗り
大きな太鼓と
担ぐための大きな丸太
それに神輿本体の重さで
合計は1tonあまりでしょうか。
男の人30人あまりで担ぎます。
日ごろ重い米俵とか
牛を操っているので
力自慢の面々には何のことはないと思いでしょうが
これが一日中となれば
結構大変なのです。
市蔵も
朝から夕方までお神輿を担ぐと
肩がパンパンに腫れあがってしまいます。
そんな大変なことでも
村人たちは
それが楽しかったのです。
神輿を駆け足で運んだり
隣村で
他の神輿とぶつけたり
と結構楽しんでいたのです。
しかし市蔵は
それが楽しくなかったのです。
まだ父親の伊蔵が生きていた頃は
よく担いでいましたが、
市蔵には
子供がなかったので
みこしで太鼓を叩くこともなかったので
なんか冷めて祭りを見ていたのです。
現在のお神輿の巡行は
警察の事前の許可が要るので
巡行は一度だけ村の主な道を回るだけですが
当時はの祭りは
お神輿が
村のあちこちを回って行きます。
夕方になると
神社に帰っていきます。
その日のうちに
担ぎ棒をはずし
神社の横に
仕舞ってしまいます。
それから担ぎ手は
集まって
酒を飲みます。
ご祝儀にもらった
お酒で
即ちただ酒ですから、
平素は
全く飲まない
村人たちも
ここぞとばかり
飲みます。
平素は
お金がない
倹約家の集まりの
村人たちですので
酒など家では飲みません。
市蔵も
父親の
伊蔵の反面教師で
全く飲みません。
ただの酒でも
お酒に抵抗があったのですが
付き合いで
市蔵は飲む会にも出なければならなかったのです。
そんないろいろな
年中の付き合いにうっとしくなってしまったのです。
祭りが終わると
秋は深くなってきます。
籾殻を焼く煙が
村々のあちこちたなびきます。
六甲の夕日に照らされ
稲のボートの陰が
長く田んぼの切り株の
落ちます。
そんな平穏な時間に
村人たちは
伊勢講と呼ばれる
宴会というか
行楽をするのです。
それは江戸時代から続く
おかげ参りの
習慣です。
江戸時代の旅行は
お伊勢参りしかありません。
伊勢参りすると言えば
どのような障害があっても
伊勢参りができるのです。
何年かに一度は
隊列を組んで
お伊勢参りに行きますが
倹約家の集まりの
村人たちが
度々行く事はできません。
それで
村人たちは持ち回りで
宴会をするです。
村全員が集まると
人数が多すぎるので
村を
南と北に分けます。
その日は
朝早くから
当番の村人は
用意をします。
江戸時代の中ごろから
続いている幟を
庭に立てます。
その他の村人は、
昼まで普通に仕事をして
昼になると
紋付はかまに着替えて
出かけます。
村人の
フォーマルな服装は
男性なら
着物に紋付
それにはかまです。
足袋はそのころは履きません。
女性なら
着物に簡単な帯
それに紋付です。
当番の村人のところにやって来て
宴席です。
だからといってそれほどのものでもありません。
当時としては
貴重品の
魚の煮付けに
野菜や豆の煮付け
それに酒くらいでしょうか。
これにかかる経費は
帳面に書かれていて
村の費用から支払われます。
何事も
倹約の精神から
控えめです。
酒と言っても
みんなが酔っ払える量はなく
しゃべってあまり飲まないように努めて
2時間でお開きとなります。
当番でない村人は
それから帰って
また仕事をして
その日は終わりです。
当番の村人は
帳面に調達したお料理の食材や
お酒の数量と代金を
記入し
それを次にする当番の村人に渡すのです。
もちろん幟も渡します。
大体10年に一度回ってきます。
ものすごく大変です。
それに什器が必要です。
村人たちは
お葬式や結婚式それに伊勢講のために
必要な什器を買い揃えているのです。
倹約家の村人たちにとっては
相当な重荷です。
皿や茶碗 箸や御膳など
を箱に入れておいて置きます。
それから
火鉢やお座布団なども
揃えなければならず
それも重荷です。
市蔵の家は
昔からの旧家だったので
蔵の中にはそんなものが
山ほどあって
新たに買うことはありませんが
探したり
出したり
洗ったり
また仕舞うという
ことの繰り返しです。
そんなことも
市蔵はいやだったのです。
木枯らしが吹くほど寒くなると
田んぼを耕し
麦を蒔きます。
園田村一帯では
冬作に麦を作っています。
もちろん野菜も作りますが
田んぼの大方は
麦畑になります。
見渡すばかりの
寒々とした田んぼに
麦が植えられます。
冬には雑草が生えないので
麦作りは手がかからない作物です。
しかし村人たちは
手がかからないのが
いやなのか
無理やり手を加えます。
麦が冬の間に
大きくなって
寒さに負けないように
麦踏をするのです。
現代は温暖化の影響で
冬でも殆ど
雪が降りません。
しかし
当時は雪も良く降るし
藻川が凍ってしまうほどの
寒い朝もありました。
過酷な自然の中
園田村の村人は
生活を営んでいたのです。
麦踏の時期になると
戸外でする農作業は
勤勉な村人たちにとっても
少なくなってしまいます。
それで園田村の村人は
内職をします。
いろいろな内職があるのですが
園田村特有の内職としては
酒樽のこも編み
こも磨きでしょうか。
園田村の北側には
伊蔵もよく通った伊丹があり
そこには
日本で始めて清酒を造った
白雪の酒蔵があります。
その酒樽を保護するように
こもを掛けます。
それを園田村では
内職でするのです。
酒樽のこもは
藁を原料にして作ります。
藁をかって柔らかくし
いいものだけを選んで
編んでいきます。
それを別の村人のところに回して
こも磨きをします。
こもに商標を描くために
つるつるにするのです。
ふのりを炊いて
塗りつけ
そのあと
磨くのです。