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その191からその200まで

園田村の真ん中を流れる川は

猪名川の支流藻川です。


市蔵が

世話役をしていた頃は

藻川は整備されておらず

堤防も

自然堤防を少しかさ上げしたものです。

また川は自然にできたため

右に曲がり左に曲がって

いました。


また土地は貴重なので

堤防の中の

土地も耕して

畑に使っていました。


水の流れる

川自体は

今の藻川よりも

狭かったのですが

堤防は

今よりずっと

外にあって幅広でした。


そこのとところは

普段は畑として利用し

ひとたび

川の水が

多くなると

遊水地となって

氾濫を防ぐのです。


もちろん川のこちらと

向こう側は

利害が対立しています。

即ち

向こう側が氾濫すると

こちら側が氾濫することはりません。


それで

できるだけ堤防を高くしようとします。




今は河川の管理は

一級河川なら国が

二級河川なら都道府県が

行っていますが

当時は

付近の者がやっていたのです。


藻川の堤防の

両側は

西側の村々が

持っていました。

その関係で

意図的に

東の堤防を

西側の堤防より

低くしていたのです。


秋になると

大雨が降りました。

幸いにも

市蔵が世話役をしていたときには

堤防が切れるほどの

大雨はなかったのは

幸運でした。


でも

大雨が降ると

全体的に平地な園田は

水が

海に流れていってくれません。

そのために

田畑は冠水するのです。

一年に何度も

浸水します。

浸水しなくなるのは

昭和35年ごろに

防潮堤が出来て

大きなポンプ場が出来るまで続きます。



大雨が降ったら

田畑をはじめ家々のうち

低いところに建った家も

浸水しました。


市蔵の家は

前にも話しましたが

石垣で

高い位置に建っていたので

家は古かったですが

浸水することはありませんでした。


この

浸水した水は

元々は雨水で

透明な水ですから

浸水はさほど汚れることはありません。


昔は今と違って

泥流が流れ込むというようなことはなかったように思います。


田畑が

緑のダムで

洪水はあっても

穏やかにしていたのかもしれません。

だからといって

浸水してもたいしたことがないということはありません。

壁は落ちるし

トイレの肥溜めは

あふれるし

汚い話ですが

「みそもくそも一緒くた」

(関西の方言で味噌と糞尿が一緒なってしまった)

になってしまうのです。


こんな浸水が起きるのは

粗末な家に住んでいる

小作人です。

市蔵は先祖伝来の

家があったからよかったですが

市蔵の弟の

子供の弟の家は

貧しい家なので

いつも浸水していました。





川の堤防が

決壊しないように

政府に働きかけるのも

世話役の仕事です。

園田村の村人は

藻川が国管理の河川になるように

政府に絶え間なく陳情していたのです。


そして陳情がかなうのは

戦争に負けて

ジェーン台風が来て

園田村が

だぶつかりになった時です。


市蔵はそのときは村とは殆ど関係がなくなったときでした。


機械のないときは

収穫も大変です。

のこぎりがまで

稲を刈って行きます。

中腰で疲れるし

それを

だてに干して

それから脱穀し

倉庫にしまってから

籾殻を取り除き

藁で作った米俵に

60キロずつ袋詰めにします。


米俵も

自作品です。

俵を締める道具で

藁縄をぐるぐる巻きにするのです。

藁で作ってあるものですから

こぼれるのと

コクゾウムシの被害を

防ぐためにもそうするのです。





稲刈りは重労働な仕事です。

稲刈り機がなかった時代

どの工程も大変ですが

稲刈りも大変な仕事です。


まず稲刈りの衣装は

地下足袋に

短い着物

手甲ににきはんを付けます。


今なら絶対に

軍手なんですが

軍手などという高価なものは

はめません。


腰に去年取れた稲わらを

下げます。

腰を曲げて

左手で左端の稲の根元を掴みます。

右手の鋸がまで

ザックと切ります。

切られたいな藁を持ちながら

直ぐ右の稲わらを掴みます。

同様に鋸釜で切り取ります。

5株切ったら

腰の古い稲わらで

稲をくくります。

これがすばやくて

よく説明できないのですが

くるくると回し

その端を突っ込みます。


こうしてできた

稲束を直ぐそばに置きます。

5束程度重ねます。





稲を刈る動作は

単調です。

左手で持って

右手で切る。

始めのうちは

腰も痛くないし

鋸釜も良く切れるし

手も疲れていないので

サーと一発で切れますが

段々疲れてくると

腰は痛くなるし

手も疲れるし

鋸がま切れなくなって

力を入れるようになると

間違って

手を切ってしまうことがあるのです。


軍手でもはめていると

かすり傷程度になるのですが

そんなものがなった頃は

大変です。


切られた

稲束は

乾燥するために

だてに干されてます。

だてとは

この地方で言う

稲木のことです。


地方地方には

独特の

稲木があります。


園田村では

竹で作った

「だて」というものを使います。

どんな風に作るかというと

長さが180cmばかしの竹を

3本稲わらの縄でくくったものと

2本くくったものを用意します。

3本くくったものを

足を開いて

少し田んぼに打ち込むように

立てます。

ピラミッドのように立てるのです。

その次に

2本をくくったものを

開いて立てます。

交互に立てていき

その上に

長い竹を渡すのです。

それを稲わらの縄で

くくれば出来上がりです。


乾燥を良くしないと

脱穀が困難であるのと

等級が下がって

買い取り価格が下がるのです。





園田村の

「だて」の作り方は

独特です。

この3本の竹と2本の竹をを組み合わせるやり方は

市蔵の甥の龍蔵が考え出したといわれていますが

その真偽は定かではありません。

そしてだてに干した

稲わらを

脱穀するのです。


さて脱穀は

市蔵が村の世話役を辞めた頃に

エレベータ式脱穀機が売り出されたのです。


それまでは

足こぎ式ガラガラ

です。

足を踏むと

硬い針金が

への字型に外に付いた

木のドラムが

回ります。

そこに乾いた

稲を入れると

お米が取れて

飛んで出ます。


それに対して

エレベーター式脱穀機は

稲を挟み込むと

同じように回るドラムの中を通って

脱穀します。


脱穀した藁は

田んぼに

棒を立てて

藁束を

半分に分けて

棒の周りに

引っ掛けていくのです。


そうすると

稲わらの元は

太いので

棒の中心ほど

高くなっていきます。


これを

園田村では

「ぼーと」と呼びます。

ぼーとが

田んぼのあちこちにできると

もう秋です。


一方

お米は

リヤカーに乗せて

もちろん家に持って帰り

むしろを敷いた

倉庫に

しまい込みます。






倉庫に筵を敷き詰めて

仕舞い込まれた籾は

天気の日に

庭に筵を引いて

広げられます。


ぬらすと大変なことになるので

天気に注意しながら

乾燥させます。


よく乾燥させると

もみすりをします。

園田村では

もみすりを

うっすりと言います。


もみすり機がない時代は

臼で籾殻を取ったので

「うすすり」から

「うっすり」になったのでしょうか。


籾殻を取ったものが

玄米です。

この玄米を

藁で作った

米俵に

詰めたのです。


今では1俵は

60kgということになっていますが、

当時は重さを計るより

嵩を計った方が簡単だったので

1斗枡で4杯量りました。


1斗枡は公定の枡があり

丸型で取っ手が付いており

縁が鉄でできた木製の器です。


すりきり棒も一緒についています。







1斗枡は、公定の印があって

村には少ししかありません。


みんなで使うのです。

だから

早く計ってしまわなければなりません。


この俵につめるという作業は

他の農作業がそうであるように

これも重労働です。


1斗枡にお米を入れると

18kgになります。

それを持ち上げて

米俵の中に入れます。

4回入れると

米俵はいっぱいになりますので

俵のふたを

絞り込むようにして

藁縄で閉じます。


その後

米俵を

鉄のてこの様な

道具で

締め付けます。


そのためには

60kgを超える米俵を

あっちにこかしこっちに向けて

作業をするのです。


市蔵は

大柄な男でしたが

他の村人の殆どは

160cm程の小柄な人間です。

60kgはたいそうな重さです。

それを肩に掛けて運ぶのです。


それだけでも昔はすごいです。






60kgは今は重過ぎるので

40kg入りになっています。

それも重いので

もっと小さな小袋が

作られているのです。


一反から

6俵から12俵位の

お米が取れます。

園田村の

平均的な農家は

7反から1町位の

田んぼを耕していますので

50俵から100俵くらいでしょうか。


しかし小作人は

その半分以上を

地主に小作料として渡さなければなりません。

また税として納めなければなりません。


残ったお米も

現金に換えて

農業をやっていくのに

必要な用具や牛・機械・種・苗を買うために

備えるのです。


園田村の小作人の手元には

お米は殆ど残りません。

というか残しません。


お米を食べることなど

贅沢だと思っているのです。


では何を食べているかと言うと

麦飯や雑炊・芋などです。


小さな自作農の

市蔵はもちろん

他の小作人より少しは豊かでしたが

同じように

麦飯を食べていたのです。




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