その181からその190まで
3月ごろになると
川普請と言って
川の清掃をします。
伊蔵の話のときに言いましたが
園田村の農業用水路は
大井組と
三平組に分かれています。
市蔵の村は
大井組で
水は貴重でした。
藻川の上流から分水されており
市蔵の村に来るまで
たくさんの枝分かれがしていました。
村を通って次ぎの村に行きます。
川は農業の生命線
コンクリートで
護岸されていない時代は
草木が生えて
水の通りが悪くなると
生命線が
なくなるのと同じです。
水が必要になる
3月ごろ
川を掃除するのです。
水路には
「どろあげば」という場所が横についています。
この時期に
一年でたまった水路の泥や
草を
とっておいて置くのです。
まだ寒い頃ですが
川の中に入って
揚げる人もいます。
市蔵は大井組の世話役もやっていたので
大井組の水の取水地点や
分水点の点検協議をします。
取水点は
藻川に堰があって
その場所や
その高さは
事細かに決まっていました。
分水点も
水路のあちこちにあって
その構造は
細かく決まっていました。
水を公平に分けることが
必要ですので
堰そのものも大事ですが
堰の上下の状態で
水の流れは大きく違います。
もちろん
水路が大きいほど
よく流れますから
川普請は
その意味でも大切な
行事です。
川の水を
決められたように
分けるためには
堰を石やコンクリートで
正確に作るのはともかく
もっと大事なことがあります。
堰以降が
同じ勾配で
流れていないと
うまく分けられません。
急に低くなっている方には
たくさん流れるでしょうし
あまり勾配がない方には
たくさん流れます。
園田の各村は平坦なところにありますので
用水を公平に分けるためには
それなりの工夫が必要です
それで園田の各村の川は
各所で農業用水路は
平行して流れています。
そうすると
流れが
同じになって
公平に分配されるということになります。
小さな川が
土手で仕切られて
2本流れているのです。
多いところでは
3本流れているところもあります。
これらを決めるのも
市蔵らの仕事だったのです。
同じ頃道普請と言って
農道の整理や草の除去をします。
市蔵が世話役をやっていた頃の
当時の道路は
有馬道の県道と
里道と呼ばれる
道幅の狭い昔からの道で
村々や家々を結んでいます。
その他田んぼへ行く道があります。
それは他の畦や
川の泥揚場を兼用しています。
当時は自動車で田んぼに行く必要はありませんから
田畑を広く取るために
道をできるかぎり狭くしていました。
県道はそれなりに
公が整備していましたが
もちろん舗装はなく
地道です。
でも
道の真ん中には
草が生えることなどありません。
道路のふちは
近くの田んぼの持ち主が
草刈をします。
里道は
人が良く通るので
それほど草は生えないけど
わだち跡が
へこんだりして
通りにくくなるので
この機会に
直したりします。
田んぼに通じる畦は
放っておくと
草の生え放題になります。
そんな道を
修理するのです。
田んぼの畦は
時間がたつと
移動します。
これは、よく知られた事実ですが
あってはならぬのも事実です。
田んぼは
のしろつくりの段階で
上の田んぼの持ち主は
水が下に漏れないように
畦を補強します
補強するのは田んぼの土ですので
畦はその時点で
上の田んぼの方に近づきます。
下の田んぼの持ち主は
少しでも広い方が良いと考えるのは
当たり前ですから
その少し太くなった
畦を削って
自分の田んぼの土地にします。
そうすると
畦は
一年に
ちょっとづつ
上の田んぼの方に
移動していくようになります。
こんなことが
数十年も続けば
畦は移動して
わけのわからぬようになってしまいます。
それで
世話役の
出番となり
道普請であるのです。
のしろつくりや田植えと言う農家にとっては
大行事を片付けます。
村としては
水の分配に細心の
注意を払います。
水を公平に
分配することが
村のお米の収量を
最大にできるのです。
田植えは
水が
分配される時期が同じですから
村の間で
助け合うことは
できません。
それで
他の村から応援を頼みます。
世話役の人がいて
日にちを決めて
やってきます。
田植えをする人を
早乙女と言います。
小作人は
早乙女として働きに出ます。
田植えは大変な仕事です。
かがんで
ひとつひとつ植えていくのです。
ところで田植えの時
後ろに下がって植えるのが
園田村の習慣です。
と言うか
関西では
後ろに下がって植えていきます。
関東や東北では
前に進んで植えつけます。
いずれにせよ
田植えは大変な仕事です。
大変な仕事をしながら
暑い夏が来ます。
水不足がひとたび起こると
ため池からの水のくみ出しや
川の水の管理
他の村の人たちとの協議など
市蔵は
大わらわです。
発動機がない時代は
川やため池から水のくみ上げは
水車を用います。
当番制で
水車を動かします。
水車は何台も
村に出現します
水車は
階段を上っていくように
歩く
もので
ウオーキングマシーンを
もっと坂にしたようなものです。
一時間も踏んでいると
足は棒になってしまいます。
それを
公平に
仕事を分配するのも
市蔵の役目だったのです。
そんな重い責任を
市蔵は果たすのがいやだったのです。
農業を
村を
うまく回らせるのは
本当に大変なことなんです。
三番草の時期を過ぎると
暑い夏も
終わりに近づきます。
稲は
大きくなって
もう小さな草が
生える余裕がなくなっていしまいます。
それに
田んぼに水をはる必要がなくなるのです。
そんな盛夏のころ
旧暦の7月7日がやってきます。
関西では
お盆は月遅れですから
8月7日に七日盆の行事があります。
普通でしたら
7月7日は
七夕ですが
園田村では
そのような行事はしません。
さて
七日盆は
何をするかというと
ご先祖の供養です。
具体的には
お墓の掃除です。
まだ日が昇らない時間に
村人は
村はずれの
墓地に集まります。
市蔵の家からは
50mほどの距離でしょうか。
村人はお墓周りの草を
抜いて
掃除をします。
広くはない墓地ですから
朝の間の仕事です。
暑くならない時までにするのです。
お墓はすぐ近くにあっても
土葬でしたから
あまり墓地には
近づく人は少なかったのです。
8月の15日になると
月遅れのお盆です。
旧暦の7月15日に行うのですが
新暦で行うと
梅雨のうちで
天気はうっとしいし
農業の仕事は
まだ山ほどある時期なので
月遅れでするのです。
お盆は正月と並んで
休日です。
今なら週休2日制ですが、
市蔵が働いていた頃は
休みは盆と正月のみです。
それ以外に日は
朝は朝星夜は夜星
で働いたのです。
それが当たり前と考えていましたから
別に苦にも思っていませんでした。
今で言えば
農業は個人事業者ですから
何が起きてみ自己責任です。
極端な場合は
一瞬の判断の誤りで
収量が大きく変わります。
収量は生活そのものですから
収量が減ると
生活が破綻してしまいます。
休んでおられない理由が
農業だったのです。
何しろ生き物ですから、、、
そんな生き物を相手にしていて
市蔵は
雑用で手間を取っていたのです。
世話役を辞める
ひとつの理由です。
盆は仏事です。
しかし村人のすべてが
門徒ですが
これといった大きな行事はしません。
盆に行う
迎え火や
送り火
精霊流しや
その他色々な行事は行いません。
真宗のお寺が
園田村のあちこちにあって
どこかの檀家になっている
村人たちですが
信仰が薄いわけではありません。
「南無阿弥陀仏」の
を唱和するだけで
あの世は保証されるという
この教えは
忙しい農家にとっては
申し分ない教えです。
その上
「門徒ものいらず」で
なにもしないのが
その信仰なのです。
忙しくて
貧しい村人には
本当に都合のいい
宗教なのです。
経費のかからない
信仰も受けたのかもしれません。
何度も言いますが
信仰が薄いわけでは決してありません。
前にも阪神東組の
話をしたように
村人たちの信仰は
あついのです。
つかの間の
休息が終わり
また忙しい
仕事が始まります。
10日ほど経つと
二十四日盆
になります。
二十四日盆は、
地蔵祭りで
具体的には
神社の前にある
お地蔵さんに
わずかばかりの
お菓子を供えて
夕方
子供に配るのです。
お地蔵さんは
現世の仏様の化身で
子供の
守り神と信じられていたので
子供の死亡率が
高かったこの頃には
貧しさは置いておいても
そのような行事はしたのでしょう。
ひな祭りや
端午の節句
七夕はしなくても
地蔵祭りは行ったのです。
それから忙しい収穫の秋がやって来ます。
その前に
十五夜が
行事としてあります。
十五夜は
お月様の
お祭りです。
お月様は
水の神様というのが
民間信仰ですので、
豆まきをしなくても
十五夜を行います。
どんなことをするかというと
簡素そのものです。
うるち米で
団子を作って
畑で取れた
小豆の餡で
月見団子を作るのです。
それから
その辺りの
ススキを飾ると出来上がりです。
ただそれだけで
お酒があるわけでもありません。
酒もないのに
お月見の歌なんかも歌って
お開きとなります。
そんな日が過ぎると
台風のシーズンで
農家にとっては
大変な時期になるのです。
大雨が降ると
各世話役は大変です。
大河川が
氾濫しないことを
祈りつつ
すごすのです。