その175から180まで
小説の舞台は
園田村に帰ってきます。
伊蔵の家は
代々庄屋で
大金持ちでした。
しかし
仕事をするために
お金を使い
また人に頼られて
お金を使い
人を助けるために
金を使って
段々となくなってしまいました。
気が付いたときには
先祖代々の財産の
大方を使い果たし
家と少しの田地だけになってしまっていました。
そこで気が付いたところが
清三と違うところです。
それと同時に
伊蔵のふたりの息子が
清三の
子供特に勇治と違うところです。
伊蔵がなくなってからこの話の
第5部がはじまります。
伊蔵がなくなると
伊蔵の長男市蔵が
松野家の本家を継ぐことになります。
市蔵は
父親を半面教師にしたのでしょうか、
人とあまり交わらない性格です。
相当逼塞したと言えども
松野家は母屋株で
地主である市蔵は
村の世話役を
伊蔵に代わって継ぐことになります。
園田村々では
母屋株は世話役になれる
大きな条件なのです。
他の世話役と
村の行事を再三協議するために
寄り合いにも出なければなりませんでした。
寄り合いは
寒い村の集会所で
冬なんか隙間風が入る
寒いところです。
寄り合いでは
市蔵に言わせれば
どうでもいいことを
事細かに協議して
時間を浪費していくのです。
市蔵は
田畑の仕事や
夜なべの仕事を
犠牲にして
出かけていたのですが、
相当我慢していました。
毎年
世話役の改選の時には
辞退したいと
言っていましたが
市蔵の意見は
通りませんでした。
他になる適材がいなかったということも一因ですが
市蔵は段々いらいらとなってきました。
何年かいやいやでも
世話役を務めました。
寄り合いにも
必ず出席し
村への陳情や
太井組みの水利組合の寄り合いや
立会いにもこまめに
出なければなりませんでした。
日照りが続いた年には
ため池のかき出し等の割り当てをしたり
太井の堰の
監視なんかで
家にいるひまもなかったのです。
それどころか
自分の田んぼの
水の管理もできない有様で
家族のものに
しわ寄せが
いっていました。
その年の翌年の
世話役を決める会で
市蔵は
強く辞退を言いました。
市蔵のごんを借りれば
「村のためにつくすのは
この当たりで終わりにさせて欲しい。
これからは
家のためにつくしたい」
のがその目的でした。
村のほかのものも
そのことはわかっていましたが
他に適任がいなかったので
市蔵にお願いするしかなかったのです。
押し問答の
寄り合いは
きりがなく続きました。
温和な市蔵も
もう問答無用とばかりに
中座して
帰ってしまいました。
何年かいやいやでも
世話役を務めました。
寄り合いにも
必ず出席し
村への陳情や
太井組みの水利組合の寄り合いや
立会いにもこまめに
出なければなりませんでした。
日照りが続いた年には
ため池のかき出し等の割り当てをしたり
太井の堰の
監視なんかで
家にいるひまもなかったのです。
それどころか
自分の田んぼの
水の管理もできない有様で
家族のものに
しわ寄せが
いっていました。
その年の翌年の
世話役を決める会で
市蔵は
強く辞退を言いました。
市蔵のごんを借りれば
「村のためにつくすのは
この当たりで終わりにさせて欲しい。
これからは
家のためにつくしたい」
のがその目的でした。
村のほかのものも
そのことはわかっていましたが
他に適任がいなかったので
市蔵にお願いするしかなかったのです。
押し問答の
寄り合いは
きりがなく続きました。
温和な市蔵も
もう問答無用とばかりに
中座して
帰ってしまいました。
市蔵が
寄り合いから
みんなの止めるのも
聞かずに帰ってきました。
その日は家族になにも言わずに
寝てしまいました。
翌日
村人の代表が
家にやってきましたが
なにも言わずに
田んぼに出かけてしまいました。
そして
昭和のはじめの頃
もう寄り合いには
出席しないようになりました。
いくら村のためにつくしても
市蔵の親の伊蔵のようになっては
なにもならないと
家族の者に言っていたのです。
でも
本当はどうだったんでしょうか。
人間嫌いになっていたのでしょうか。
子供のときから
父親の伊蔵のことを
よく見ていました。
父親が
よく伊丹に飲みにっていたことや
村人が訪ねてきて
お金を貸していたこと
などをその目で見ていたのです。
貸したお金なんか
殆ど返ってきたことなどありません。
これらのことから
そう思うようになったかもしれません。
この時代には
どのようなことを
村のお百姓が
していたかということを
村の行事から
書いてみましょう。
昔の村は
農業をするために
運命共同体です。
農業はひとりではできないのです。
たくさんの人が
力を合わせなければならないのです。
それと
人智の及ばない自然現象が相手なのです。
まず年が始まって
正月1日は
神社にお参りして
扉を開けて
ご開帳します。
園田の各村々には
概ねひとつずつ神社があります。
神社は村のはずれにあって
村の貧富によって
その神社の造りは違います。
伊蔵の村は小さいので
隣の小さい村と共同で
その村とな境に
神社がありました。
その造りは
神棚の少し大きなつくりで
三間社の流れつくりです。
そんな小さな神社ですので
少し大きな建物の中に
納められていました。
その神社は
お産の神様が祭られています。
そして
世話役は
村人が
氏神様に初詣でするまでに
神社の扉を開けておきます。
1月15日は
小正月です。
その日は
神社に集まって
「とんと」と言って
古いお札やしめ縄を焼きます。
その火で
正月の餅を
焼いて食べるそうです。
でも、餅をついてから
17日も経つので
現在なら
かびている事も多いです。
しかしこの頃は冬は寒く
かびることは少なかったのです。
かびていたら
水に浸けておいて
水餅にしたのです。
今なら
いやちょっと前なら
1月15日は
成人の日ですが
成人の日になる前は
小正月といって
神社の儀式の日です。
七草粥の習慣は園田村にはありません。
いつも雑炊をすすっていて
ご飯の粥を食べるなんて
贅沢なことだったのかもしれません。
同じように
2月3日の節分の習慣もありません。
食べ物の
豆をまくなんて
園田村の農家の人々には
絶対できません。
貴重な食料品を
投げるなんて
できないのが当たり前です。