その141からその150まで
武蔵は
それからも
働き続けました。
そんな日々が続いていましたが
武蔵のもとに
縁談が来ました。
武蔵は
すでに
数えで29になっていましたので
遅すぎるといえば
遅すぎるのですが、
武蔵のまじめなところや
おじいさんの
清兵衛のことを良く知っている
人が
良い相手を
世話してくれたのです。
武蔵は
清兵衛の
出世が
清兵衛だけの
力ではなく
ゆかの
おかげであることを
よく知っていましたから
伴侶に選ぶ人には
大変慎重になっていました。
相手がいい人
千代もその話に
大変賛成だったので
年が明けて
初春に祝言を上げることにしました。
結婚が決まって
武蔵にも
やっと春がきそうなとき
日本をめぐる
国内外の状況は
風雲急を告げていました。
アメリカが
大不況を迎える前から
日本は不況でした。
昭和の始めの
大恐慌が
やってくると
日本はますます大変な状況になり
軍は
独走するようになります。
強国は
植民地に頼るようになります。
日本も
周辺国に
その食指を伸ばし始めて
隣国と紛争状況に陥ります。
そんな中で
日華事変が始まると
軍は
予備役の招集を
始めます。
予備役の招集は
その能力に応じて
召集がはじまります。
軍は
必要な能力をもった兵士の
要求を出すと
予備役の中から
それを選び出すのです。
当然ですが
優秀なものから
徴用されます。
武蔵は
背丈は
六尺あまり
酒蔵の
仕事で鍛えて
筋骨隆々の
若者で
頭も明晰
その上誠実と
予備役を選び出す係りには
申し分ない兵士でした。
当時の戦線は
中国の大平原で
満足な車両が無い時代ですから
もっぱら重量物の
輸送は
馬に頼っていいたので
馬を扱える
屈強の若者の要求をだしたのです。
もう少しで結婚の日となるときに
市役所の
担当者が
恭しく
敬礼して
千代がいる家に
やってきました。
担当者は
いわゆる赤紙を渡して
印鑑をもらって帰っていきました。
武蔵は
酒蔵から帰ってくると
召集令状を渡され
愕然としました。
武蔵は
新聞や
中国から来た人たちの
言葉から
この戦争は
長く続くと
読んでいたのです。
それで結婚は
急遽中止し
出征することになりました。
式だけ挙げて
出征する人も
多かった中
武蔵は
何か予感していたのかもしれません。
武蔵は
多くの人に送られて
中国へと
出征していました。
(著者注:
以下の文中には
今では差別用語となる
支那という言葉に由来する
北支 中支という言葉が出てきます。
当時の日本の状況を
現すものとして
敢えて用いています。
関係者の方々
お許しください。)
武蔵は
直ぐに
外地に行ってしまい
千代は会うことができなくなりました。
武蔵は
北支の部隊に
入隊し
野砲兵として
馬で
大砲を引っ張る
係になりました。
馬は貴重品ですが
何分生き物ですので
その世話をするのは
大変です。
馬は
牛とは違い
力が強くて
よく言うことを聞きますが
牛より
ずっと扱いの難しいもので
特に戦地で
その世話をするのは
並大抵ではありません。
武蔵が世話を命じられた馬は
食べ物の具合でしょうか
よく便秘になります。
馬が苦しそうにするので
手を突っ込んで
排便することも
ままあったのです。
武蔵の所属する部隊は
歩兵の後を付いて
転戦に次ぐ転戦を重ねます。
満足な補給もなしに
転戦ですので
文字道理兵馬は疲弊しきってしまいます。
そんな中でも
律儀な
武蔵のことですから
馬の世話を
万全にします。
召集されて
2年目になると
位も
兵長になり
責任だけが
増していきます。
上官の
「兵は一銭五厘で新しいものが来るが
馬はお金がいるのだ」
という言葉に象徴されるように
軍隊とは
非人間的な
世界だったのです。
戦争は収まるどころか
ますます広がります。
戦線は拡大し
点と線の戦いが始まります。
それに応じて
部隊は
北支から
中支へと転戦します。
除隊して
西宮に帰るなど
もう武蔵には無理のように思いました。
これより少し前
勇治は兵役明けで
西宮に帰ってきたのです。
兵役から帰ると
勇治は
前と同じような
状態になります。
金がなくなると
左官で少し働き
金がある間は
やくざな稼業についていました。
戦争を経験して
もっと粗暴になっていました。
そんな勇治は
ある女と同居し始めたのです。
勇治を男にしたような
女で
二人そろって
酒は飲む
博打はする
というものでした。
二人はいろいろなことをやっていましたが
千代のところには行きませんでした。
千代のところには
武蔵がいて
勇治は
武蔵が苦手だったのです。
武蔵が
西宮にいた頃は
何か張り合いでもあったのか
それなりに
勇治も
生活しており
ふたりの子供をもうけて
真っ当な生活をするかのように見えたのですが
武蔵が西宮から去っていく日が来ると
事態は一変します。
中支の戦線で
武蔵が戦っているとき
一方勇治は
どのようにしていたかというと
千代やけいには
悲惨というしかない状況に陥ってしまいました。
日本に大恐慌がやってくると
勇治の左官業も
殆ど仕事はなくなったのです。
今まで
「ぱっとも儲けて
ぱっと使う」を旨としてきた
勇治にとっては
蓄えがないと
女から
せっつかれて
困っていしまったのです。
それで武蔵がいない
千代の家に行きまた。
千代の家には
武蔵が儲けた
お金があるのです。
その金を
勇治は
無心するのです。
もちろん千代は
渡そうとはしませんが
時には暴力に出て
あるいは
泥棒のように不在のときを狙って
取りに来るのです。
そんなことを
1年もすると
蓄えもなくなってしまいます。
それでも取りに来て
けいが働いて
得たお金も
とって帰ります。
家賃も払えなくなって
千代とけいは
また甑岩の
実家の納屋に帰ることになります。
勇治は
千代が実家に行ってしまうと
そこまでは
追いかけて
お金を取りにいけなくなります。
千代の兄が
地元の有力者で
あったからです。
武蔵の所属する砲兵隊が
中支で
大きな戦いをやっていた頃
ついに勇治は
日本を逃げ出します。
女と子供を置いて
まず満州へ渡っていきます。
後に残された
女は子供を
千代に預けて
これもまた上海に行ってしまいます。
勇治の子供は
上が女の子で
下が男の子です
下の男の子は
まだ3歳になったばかりで
その世話を
千代と けい は
しなければならなかったのです。
この時けいは
15歳で
僅かなお給料で
老いた母と
幼い いとこの子供ふたりを
養っていくことになります。
その頃勇治は
満州で左官をしながら
やくざな稼業をしていました。
それ以外に
色々とやっていました。
勇治が
満州で
日本人を相手に
あるいは
中国人を相手に
些細な悪行をしていた頃
武蔵の
部隊は
中国軍の奇襲作戦に遭遇します。
細い谷あいを
行軍中に
山の上から
攻撃されたのです。
部隊は
組織的抵抗ができないまま
離散してしまいました。
攻撃が
不意をつかれたので
先頭の歩兵部隊は
逃げるように
撤退し
後方の砲兵部隊が
敵と対峙することになってしまいました。
大砲や
砲弾
馬やその他の装備が
大きかったので
砲兵隊のみ取り残されたのです。
指揮官の下
部隊は
付近の小高い丘に
やっとこさ逃げます。
逃げる間にも
大砲や馬を
置いて逃げることなど
許されることがなかったのです。
武蔵の部隊は
丘の上に
陣をはります。
壕を掘って
敵に備え
援軍を待ちます。
もちろん補給はありません。
持ち運んでいる
食料のみです。
敵方は
夜になると
どことなく忍び寄り
攻撃をかけてきます。
砲兵部隊は
小銃を持つものが
少ないので
小火器で
各方面より攻撃されます。
大砲で応戦することはできません。
武蔵の部隊は
夜眠ることなしに
敵に備えます。
そして
野宿するのです。
一週間もすると
食料は底をつき
兵馬は疲れ切ってしまいます。
援軍は
やってきません。
しかし降伏することは
当時の日本軍には
許されません。
「生きて辱めを受けず」
というのが
基本ですから
玉砕しても
耐えるしかなかったのです。
酒蔵で鍛え
ながく異国の地で
転戦した武蔵です。
これまでも
大変な戦闘に遭遇していました。
しかし
命冥加があったのでしょうか。
そのつど幸運にも
助かったのです。
この度のこの窮地に遭遇して
士官の中には
一気に敵に突入し
玉砕しようという
極論を述べるものもいます。
しかし隊長は
伝令を本隊に送って
救援を求めたので
持久戦の覚悟になっていました。
しかしその季節は
野営するには
大変な季節で
雨が降り続いていました。
満足な雨具もなく
敵がいつ攻めてくるかもわからず
壕の中で
息をこらえて待っているのは
兵は疲弊します。
屈強の若者であった
武蔵の体力も
限界に達します。
食料もなく
夜も眠られず
その上
雨が降り続く状況下で
人は何日生きれるというのでしょうか。
律儀の武蔵ですから
余計にその疲れは
増します。
陣をはってから
10日目に
武蔵は
発熱してしまいます。