その131からその140まで
勇治が選んだ
左官という職は
今では少し光の当たらない職業になってしまいましたが、
当時はなくてはならない仕事でした。
壁を土塗り壁で作るのが
当たり前のことでしたから。
最近健康上の事柄で
呼吸する壁の代表である
しっくい壁を
左官屋さんを
作っていたのです。
勇治は
直ぐに上手に塗れるようになっていました。
当時の左官の仕事を
少し説明すると
まず壁土に
水を混ぜ
こねます。
適宜わらや
古縄を切ったものを
混ぜます。
そのこねた土を
なるべくながく放置します。
一年以上おいた方がいいそうです。
それを竹を格子状に編んだ
竹小舞の下地に
左官ごてで塗っていきます。
高いところは
下から放り上げます。
それは職人技のようです。
それから
藁を加えない土で中塗りをします。
上塗りは漆喰です。
当時の左官屋さんが
漆喰を塗るときには
少し変わっているかも知れません。
まず海の海草の
ふのりを
大きな釜で炊きます。
ふのりを炊くと
ねっとりした液体になります。
その液体で
石灰を練ります。
麻の繊維であるすさを混ぜて
もっとねっとりさせて
塗る素を作ります。
それを
左手に持った
板のようなこて台の上に載せます。
それから
右手の左官ごてで
巧みに練って
こてにつけて
中塗りの上に
薄く塗ります。
厚さは
一分(3mm)です。
それで別名一分と言います。
単純に
塗ると言っても
素人ではもちろん塗れません。
すばやく均一の厚さに塗るのは
難しいのです。
ゆっくり塗れば
直ぐに水が引いて
硬くなって
均一に塗れません。
左官屋さんは素人ではなかなかできない
仕事です。
昭和40年頃まで
日本の建築は
湿式工法即ち
左官で行う工法が
主です。
壁や床はもちろん
かまどや
お風呂
等も作ったのです。
かまどは
ずっと昔は
土と漆喰で作り
レンガやコンクリートで作るようになります。
いずれにせよ
左官屋さんの仕事で
勇治の仕事が
無くなることはなかったのです。
ところで
左官屋さんは
さかんと読みますが
勇治の住んでいる
地方では
少しなまって
「しゃかんや」
と言うのが普通でした。
仕事をすれば
必ずお金が入る
勇治でしたが
入ったお金は
すぐに使ってしまいます。
その上あまり働かないので
いつもお金が無くて
年老いた千代や
けいを養うことなど無かったのです。
勇治がやくざの世界に入って
わけのわからぬ
組に属していた頃
兄の武蔵は
兵役が二年目になりました。
二年目になると
一等兵になります。
そして二等兵を
いじめる役になるのです。
奴隷から
王様に
二年目になる日を境目に
変わるのです。
普通のものは
厳しい一等兵になりますが
心の優しい武蔵は
面倒見のいい古兵になったのです。
今で言えば普通の先輩なのですが
当時その世界では
大変優しい先輩だっとのです。
そのうわさは
連隊すべてに広まっていました。
その付いていた二等兵の家族から
大変感謝され
面会の日には
おはぎを山ほどもらったそうです。
そんな軍隊の生活でしたが
武蔵が入営中は
戦争がなかったのですが
段々と
外国との関係が
危うくなって
軍隊の力が
台頭してきたのです。
武蔵が
軍隊から帰ってくると
もう今津には家はなかったのです。
母親の千代と一番下のけいは
甑岩の実家の
納屋に住んでいました。
武蔵には
大方予想されたことですが
残念でなりません。
だからと言って
優しい武蔵のことですから
父親の清三を責める気にもなりませんでした。
武蔵は
今津の近くの
酒蔵に住み込み
下働きのようなことをして
母親の生活を
少しでも助けるようがんばって働き始めたのです。
しかし
兵役から帰ったばかりで
経験がなくて
技術もない武蔵の賃金は安いものでした。
その上
千代に送ったお金の大方は
勇治が持って行ってしまうのです。
それでも武蔵は
勇治を責めることもしなかったのです。
底のないバケツに水を入れるようなもので
武蔵の努力は
徒労に終わることになるのです。
武蔵が兵役から帰ってきたとき
勇治は
わけのわからぬ
組長に貢いでいたのです。
はっぴを着て
武蔵のところにも
見せびらかしに来ました。
勇治のことを良く知っている
武蔵ですから
適当に勇治をやり過ごしていました。
兵役から帰って
数ヶ月経ったころでしょうか。
清三が死んだのです。
時々
清三のところを
見に行っていた
武蔵ですが
そんなそぶりはひとつもなかったので
驚いてしまいました。
一方勇治の方は
清三の死を
間近なものに感じていました。
あまり清三とは
会っていなかったのに
清三が死ぬことを
予感していたのです。
でもそんなふたりですが
いずれのふたりも
清三の葬式には
出ませんでした。
ふたりは別々の理由で
清三を恨んでいたのです。
そして懐かしんでいたのです。
清兵衛の孫である
武蔵は
努力家で
勤勉で
勉強熱心です。
清兵衛とは
時代が違いますのが
武蔵は同じように
働き始めたのです。
酒蔵で
杜氏の下働きからはじめました。
もの覚えが良くて
人あたりが良い
武蔵ですから
直ぐに
杜氏に認められ
重用されます。
3年目の春になったとき
それなりの給金を
もらうようになり
寮から出て
家を借りれるようになりました。
そこで
武蔵は少し無理をして
大きめの家
と言っても
6畳が二部屋ですが
借りることになったのです。
千代やけいを
呼んで
一緒に住み込みはじめたのです。
けいにとっては
転校ですが
不安はなかったのです。
がんばって働いた武蔵は
それなりの
努力が報われ
平和な毎日を過ごしていました。
武蔵がいると
勇治は
千代には近づきません。
けいも
「武蔵兄さん」と言って
大変なついていました。
背丈は六尺もある
武蔵に
おんぶされると
けいは
大変 気持ちが良かったのです。
肩越しに見る
景色は
晴々として
甑岩に住んでいた頃とは
本当に一変しました。
武蔵は
学問が好きでしたが
親の清三に対する
反発もあったのでしょうか。
高等小学校を卒業すると
すぐに
奉公にでて
家を後のしていたのです。
そんなことで
武蔵は
けいには
がんばって
学校に行くように勧めたのです。
それに答えるように
けいの学校での成績は
良かったようです。
一方勇治は
武蔵と入れ替わりで
同じ
福住の連隊で
兵役につきます。
一年目から
勇治は
要領よく動いて
新兵を
いじめる役の
片棒を
担ぐことになります。
軍人勅語
もじって
「要領をもって本文とすべし」
などと考えていたのです。
2年目になると
ますますエスカレートしていきます。
そして
2年目の夏に
北支に転戦すると
その
矛先は
現地住民に
向かうのです。
(著者注:
帰ってから
けいに
この従軍の詳細を
話すのですが
あまりにも非人間的で
残酷なので
割愛します。
読者の皆様は
類推してください。)
こんな勇治だったからでしょうか
勇治は
2年で除隊し
その後予備役で
一度も召集されることはありません。
かたや 武蔵の方は
努力というか
がんばりというか
ふたり前いや さんにん前の
働きをいます。
清兵衛が夫婦ふたりで成しえたものに対し
武蔵は一人で短期間に
相当な財を貯めたのです。
武蔵には
夢がありました。
清三が
散財してしまった
川野家の再興です。
いつしか大地主とまでいかなくても
地主になりたいと考えていたのです。
千代やけいも
そんな武蔵の
夢を理解して
無駄使いなどしませんでした。
除隊して
5年が経ったときには
少しの土地ならかえるぐらいためていたのですが
農業と酒造会社の勤務とは
兼業をできないと考え
もう少しお金を貯めてから
ということにしたのです。
それから少し経って
けいが尋常小学校を
卒業するとしになりました。
父親代わりの
武蔵は
女学校に行くことをすすめましたが
けいは武蔵の夢がわかっているので
働き始めたのです。
武蔵にとっては
悔しい思いで
12歳から働く
けいを見ていました。
でもこの けい の決断は
結果的には
良い判断だったんです。