その119からその130まで
舞台は今津ですが
時代は
少し戻って
清兵衛が
生きていた頃になります。
清兵衛が
人生の大事業を果たし
それでもなお
その事業を指揮していた頃
清三は
なにもせずに
ぶらぶらしていました。
清三には
9人の子供がいたと前に書きましたが
10歳を超えて
大きくなったのは
長男の武蔵
次男の勇治
次女
それと末っ子のけい
の4人のみです。
次女はさておき
武蔵と勇治について
第4部では
お話していきます。
ふたりは
本当に正反対の人生を歩みます。
武蔵は
隔世遺伝か
清兵衛にそっくりの
誠実で働き者その上他人に優しい子供でした。
遺伝というものもあるかも知れませんが、
長男としての自覚が
そうさせたのか
あるいは
清兵衛の期待がそうさせたのかもしれません。
清兵衛は清三が
体が弱く
何の仕事もできないので
その子の武蔵に
期待をかけていたのです。
まだ歩けないようなときから
清兵衛やゆかは
武蔵の面倒を見ながら
武蔵にいろいろなことを教えていました。
清兵衛は
武蔵に
自分の人生訓というようなものを
教えていたのです。
その教えの概要は
「人生は山あり谷あり
しかし努力は必ず報われる。
人に優しくしておけば
必ず自分に跳ね返ってくる。
うまくいかないのは
自分の努力が足らないからだ。
人がいうことを聞かないのは
自分に誠実さがないからだ」
などと
難しいことをおしえたのです。
武蔵はそれがわかったか
わからなかったか
わかりませんが
おじいさんの精神が
のり移ったように
まじめな男子に育ちました。
一方
勇治は
清三を
生き写しにしたような
性格でした。
もしこれが遺伝的だとすれば
そのような遺伝子が
清兵衛やゆかにあったことになります。
まずそんなことは考えられないので
勇治の性格は
後天的なのでしょう。
武蔵が
清兵衛やゆかの期待を受けていたのに対して
勇治は
受けていなかったと感じていたのです。
清兵衛は
思慮深い人間でしたから
孫を差別しないように
意識的にしていました。
でも
惣領はひとりで充分ですので
その意識が
孫とのかかわりに
影響したのかもしれません。
勇治は
怠惰な性格で
学業もさっぱり
その上悪い友達がいて
そそのかされることもありました。
清三のように優しい性格だったのでしょうか
悪い友達のために
色々な悪いことをやって
近所では有名になってしまっていました。
清兵衛が亡くなって
清三の代になると
その性格の違いは
もっと顕著になります。
武蔵は
学業優秀で
家業もよく手伝い
母親の千代の手伝いもします。
勇治は
尋常高等小学校さえ
途中でやめてしまいます。
尋常高等小学校は
義務教育ですが
戦前は
相当難しかったのです。
今の中学校のレベルの
勉強を
小学生に要求するため
落第・中退は
よくあったそうです。
勇治はそんな頃より
ぐれはじめ
2年も経たないうちに
やくざの下働きのようなことをやっていたのです。
清三が賭場へ通うようになった頃には
武蔵は近くのお百姓さんの
手伝いに行っていました。
一方勇治は
一端のやくざになっており
家にも帰りません。
たまに家に帰ると
金の無心です。
清三が家にいる時は帰らず
千代の居る時に来るのです。
千代は
あっちからもこっちからも
金の無心をされて
本当に困り果てたのです。
千代にとっての
唯一の頼りは
武蔵だったのです。
武蔵が
立派に成人し
川野家を継いだら
こんな状態も
解決するというのが
千代の希望だったんです。
それから何年間かそれが続いて
武蔵が
20歳になる少し前
武蔵は
兵役検査に行きました。
武蔵は
農作業で鍛えた体で
背丈は6尺(1m80cm)でした。
もちろん武蔵は
甲種合格で
翌年の春
福住の連隊に入営しました。
当時は兵役は国民の義務ですから
仕方なく兵役に就く人もいれば
すすんで兵役に就く人もいます。
武蔵は誠実な人間でしたから
心の中では
母親をおいて
そんなところに行くことは
とてもいやでしたが
そんなことは口には出さずに
潔く行ったのです。
まず入営すると
新入りはすべて初年兵
二等兵になります。
二等兵は
一等兵にひとりずつ付きます。
一階級しか違いませんが
二等兵は奴隷
一等兵は神様です。
一等兵の身の回りの世話
洗濯なんかをするのです。
少しの落ち度があれば
なくても
精神注入と称して
叩かれます。
「悪い」一等兵に付けば
それはもう最悪の結果です。
偶然にも
武蔵は
心の優しい
一等兵に付けて
幸せでした。
入営から6ヵ月後
家族のものに面会が許される
機会が訪れたのです。
武蔵の
手紙を見た千代は
ない金を工面して
けいを連れて
福住まで行くことにしました。
千代は けい の手を引いて阪急夙川から
宝塚まで行き
省線に乗り換え
福知山線で
篠山まで行きました。
客車は
蒸気機関車で
引っ張られています。
途中武田尾に
トンネルがいくつもあり
トンネルが近づくと
大急ぎで
窓を閉めます。
さもないとすすが
客車に入ってきます。
昔の蒸気機関車は
無煙炭のような良い石炭ではなかったので
真っ黒になってしまうのです。
篠山から
福住線に乗り換え
終点の福住に着きました。
終点の福住は
町と言えるような
ところではあいりません。
駅の近くには何もないというか
連隊しかありません。
千代は何人か降りた後に続いて
降りていきました。
連隊の門で
名前を告げて
中に入りました。
平屋建ての木造の面会所で
武蔵を待ちました。
面会所には
他のたくさんの家族もやってきていました。
見るからに
お金持ちの家族もいれば
野良着で
面会所に来ている人たちもいました。
千代は隣に座った
女性と気が合って
色々と話していると、
武蔵が
軍服姿で
現れました。
大柄で
精悍な武蔵でしたが
より日焼けして
たくましくなっていました。
頬に
すり傷がありました。
武蔵は
敬礼し
席に座りました。
席に座っても
背もたれにもたれず
直立の姿勢です。
武蔵は
清三のことなども
気になったのか聞いてきました。
千代は
本当のことを言わずに
武蔵に心配のないようなことを
言ったのです。
千代は
もっと武蔵のことを知りたかったので
色々なことを
立て続けに聞きました。
それによると
毎朝 起床ラッパとともに起きて
身の回りを片付け
付いている一等兵の世話をするのです。
朝食を大急ぎで食べ
隊列を組んで
訓練に出かけます。
野山を駆け巡り
へとへとになるまで
走り回ります。
帰ってきて
大急ぎで食事をして
集団でお風呂に入って
就寝ラッパで寝ます。
時々夜間行軍と称して
寝入りばなにたたき起こされ
服を着替えて
走り回り
夜明けとともに
宿営するような訓練もあるそうです。
根が強健な武蔵ですから
すべてのことに如才なくこなしていました。
しかし一等兵のしごきというか
いじめにはほとほと
困ったということでした。
千代は家より持ってきた
重箱を開け
武蔵の前に出しました。
実はその重箱の中身を作るために
本当苦労したのです。
軍隊の食事は
白米です。
いつもは麦飯の人でも
白米なのです。
武蔵も子供の頃から
麦飯でしたが
白米だけは美味しいものでした。
しかし
やはり軍隊は窮屈というか
息の詰まるようなところです。
古兵の果てしないいじめ
に耐え抜くことが
初年兵の
心得なんです。
時間は直ぐに過ぎて
武蔵は帰る時間になりました。
武蔵は
「お母さん
お元気でお暮らしください」
の言葉を残して
出て行ってしまいました。
千代は
頼りにする
武蔵が
このようなところに
囚われの身で
本当に嘆かわしいとあらためて
思いました。
千代とけいは
また汽車に乗って
帰って行きました。
武蔵が かごの鳥になっている時
一方勇治は
やくざの道に進んでいたのです。
ホンマもんの
やくざを
めざしたのです。
勇治が
親分と考えていたのは
けいには後でわかるのですが
園田に住んでいた
「よねいち」(漢字でどのように書くかわかりません)
と呼ばれるやくざです。
その
「よねいち」の
収入源は
今で考えると
少し替わっていますが
この手の商売は
こんなものかもしれません。
よねいちは
藻川の堤防の岸に
一家を構えています。
二階建てで
藻川が一望できます。
だからといって
そこで魚を獲っているというわけではありません。
じっと藻川の砂を見ているのです。
当時は前にも言いましたが
車というものが
発達していなかったので
砂を買うのは大変でした。
それで川の砂を
使うのです。
でも今も昔も同じように
川の砂を無許可で
盗ることは
禁止されています。
誰かが藻川の砂を取りに来ると
警察に通報するのです。
それで
砂を取りに行くときには
よねいちに
お金を持っていかなくてはならないのです。
お金を持っていくと
警察に通報されないのです。
言うなれば
他人のものを
売ってお金を儲けているような
商売です。
よねいちは
やくざがよくするような
賭博とか
出店の場所決めや
用心棒代などというものを
あまりやっていなかったのです。
その理由は簡単で
園田は、
見渡すかぎりの
田んぼが続く
田舎ですから
そんなことをする
人や店がなかったからです。
そんなやり方を
勇治が憧れる
やくざの世界だったのでしょうか。
勇治が
ちょっとおかしな
やくざにあこがれていたのは
親譲りでしょうか。
熱病のように
そして慢性の病気のように
やくざに憧れているのですから。
よねいち組みに入った
勇治は
背中に
大きな代紋が染めてある
はっぴを
もらい上機嫌でした。
組長は
勇治に
正業にも就くように
すすめたのです。
「やくざと言うものは
弱きを助けて
つよくをくじく、、、
決してかたぎさんの
迷惑になってはいけない。
そのためには正業に就け」
と言ったのです。
もちろん言葉は矛盾してますが
この言葉には
裏もあったのです。
よねいちの組長は
少し変わった収入源がたんのですが
組員は
数人で
そのすべては
にわかやくざです。
そして
彼らのすべては
正業を持ち
普通に仕事をしていたのです。
組長は
毎月
組員に
上納金を
収めるように言いました。
もちろん役に応じてです。
組長はたくみに
やくざに憧れている
若者から
悪い言葉で言えば
お金を巻き上げていたのです。
勇治にも正業につくように言ったのは
し の ぎ というのですが
上納金を
捻出するために
お金を儲けるためです。
尊敬する組長のためですから
生業に就くことになりました。
清兵衛の孫ですから
本当は努力家です。
勇治が選んだ職は
左官です。
そんな少し焦点が
ずれていますが
職についた勇治を見て
千代は安心したのです。