その1よりその10まで
今からもう140年前になるのでしょうか。
平和な江戸時代から
大変革の明治時代になった頃から
このお話は始まります。
西宮の今津郷に
小作の子供として生まれた
清兵衛は幼いときより
親譲りの努力家でした。
物心付いたときから
親の手伝いのために
野良仕事に出かけました。
その頃の誰もがそうであったように
朝は日の出を待たずに
仕事に出かけ
日が西の六甲の山並みの中に消えて
真っ暗になる頃家に帰ってきたのです。
清兵衛が18歳になったとき
同じ村のゆかと所帯を持つことになりました。
清兵衛は弟身分でしたしが
小作人の身分で
とても分家など許されませんでした。
清兵衛とゆかは
納屋に住みながら
親の手伝いをしながら
暮らしていく身分でした。
清兵衛の住んでいる
今津郷は、灘五郷のひとつで
清酒醸造で今も有名なところです。
江戸時代から
明治の御世になって
物流が盛んになると
灘の清酒は
全国に出荷され
多量生産されることになります。
しかし灘の清酒は、
「宮水」と呼ばれる
井戸からくみ上げられる
水から作られますので
「宮水」が多量に必要でした。
井戸から
今津郷の蔵元までは
かなりの距離があります。
明治の初めには、
運送手段としては、
大八車のみで
人力に頼るだけです。
農閑期になると
醸造の時期になるので
清表衛の村の誰もが
大八車に
水桶を積んで
井戸と蔵元を行ったり着たりしたのです。
清兵衛も
大八車を引っ張りました。
そして もちろん ゆかが大八車の後ろを
押したのです。
もちろん朝の早くから
夜遅くまで
運んだのです。
清兵衛達が運ぶのに使った
大八車というのは、
時代劇に出てくる
木の車輪に
鉄の輪を入れたものです。
今のリヤカーのように
軽いものではありません。
もちろんベアリングもないし
グリースアップするようなこともなかったので
本当に重いものでした。
それに木桶に水を
満載して
運べば
どれほど重いものだったでしょう。
また道路は
もちろん地道で
舗装などありません。
大八車の細い車輪が
少しの穴に取られることも
多々ありました。
その上運ぶ道には、橋が
ふたつあって
その坂を登らなくてはなりませんでした。
こんな大変な事でも
ふたりは一言の文句も言わずに
運んだのです。
黙々と引っ張る
清兵衛は小柄でしたが
子供の時から
よく鍛えていたので
がっちりした体格でした。
大八車の後ろを押す
ゆかも女性でありながら
力持ちでした。
朝の早くから
夜遅くまで六甲下ろしの
西風が舞う
道を運んだのです。
清兵衛達にとって
唯一よかったのは、
重い水を運ぶ時が
追い風になったことくらいです。
他の村人が
四回運ぶところを
清兵衛は、
ゆかの助けで
六回運ぶことができたのです。
くたくたになって家に帰ってきても
清兵衛達には仕事が待っています。
清兵衛は藁をかってわら細工の準備です。
藁をかつとは、
藁をわら細工するのに適した
やわらかかさにするため
叩くことを言います。
藁はそのままでは堅くて
折れやすく
また不要な葉っぱも付いているので
それを取り除いて
しなやかにするのです。
小一時間も
薄暗いランプの下で
しごとをすると
ゆかが作った夕餉を取ります。
ヒエやあわの雑穀と
畑で取れた
野菜の煮物
それから今津の浜で取れた
小魚が時々お膳がの上に載っています。
腹八分目で食事を終えて
母屋のお風呂に時々入って
一日の終了です。
清兵衛の住んでいた納屋についても
少し詳しく説明すると
現代風に言えば
木造平屋建て板葺き
床面積五〇平方メートル
と言うことでしょうか。
清兵衛の家
いや納屋は
どんな造りかというと
柱の下にひとつ石を並べて
その上の柱を立てて
貫で柱を繋ぎます。
それから小舞竹で塗り壁の下地を作り
荒土にわらを混ぜて
下塗りをします。
下塗りと言っても
中塗り上塗りはないのですが、、、
柱の上に
桁を回し
その上に梁を載せて
束立てして
母屋を支えます。
母屋の上に直接板を張って
板葺きとします。
その上に瓦を載せもしませんし
何もしないのです。
その代わり板を
重ねて打ちます。
屋根がいただけで水が漏らないのは、
不思議です。
と言うわけで雨が漏ります。
今なら釘を一本も使っていないと言うのが
家の売りかもしれませんが
この時代は、
釘が高価なため
使っていなかったのです。
そんな納屋に
少しだけ
床を作って
お布団を敷いて
清兵衛とゆかは寝ていたのです。
時候のいい季節なら
この納屋は
最高かもしれません。
でも寒い冬には
暖房もないのに
冷風が吹き込み
凍れてしまいます。
夏ならもっと大変です。
清兵衛の家は、
夏は大変です。
何しろ板葺で
熱が直接入ってきます。
それから 屋根の上には、
石が載っています
屋根が飛ばされないように載っているのです。
この石夏のかんかん照りの日は、
卵でも焼けそうなくらい暑くなります。
日が落ちたとところで
直ぐに冷えたりしません。
すなわち天然の
懐炉が載っているようなものです。
暑い上に暑いのです。
それだけではありません。
夏には、
蚊の攻撃に脅かされます。
今のように蚊取り線香がない時代
どのようにしたのでしょう。
普通 蚊取り線香がない時代は、
蚊帳を使うのが当たり前ですが
残念ながら
小作人の次男坊には、
そんなものがなかったのです。
あるのは、団扇くらいのものです。
清兵衛とゆかは団扇をパタパタしながら
寝ていたのです。
なにぶんひどく疲れているので
眠ることに大きな障害はなかったようです。
清兵衛にとっては、夏も冬もありません。
清兵衛が結婚した時は、
名字はありませんでした。
江戸時代名字が許されるのは、
武士階級のみですから
小作階級の清兵衛の親が
名字を持っているわけではありませんでした。
明治政府が
戸籍を編纂することになって
名字がないと
困るので
至急に全国に名字をつけるように
したのです。
今津の村でも
お寺の住職さんが
村人に
名字をつけることになりました。
場所でつけるのが
普通ですので
清兵衛の
親には、
川の側という意味で
川野とつけたのです。
清兵衛も
川野清兵衛と名乗ることになりました。
始めは、その名前を呼ばれても
ピンときませんでした。
もちろんゆかも川野ゆかです。
ところで
清兵衛はどの様なわけで
ゆかと結婚することになったかというと
とても簡単なことなんですが
それは次回に
清兵衛がゆかと結婚したのは、
特にこれと言った事があったわけではありません。
江戸時代には、一生結婚せずに
暮らす男女も多い中
清兵衛とゆかが結婚できたのは、
単に清兵衛が働き者であったからに尽きます。
清兵衛の家では、働き手が必要だったので
結婚した。
ゆかの家では、
あまり言葉にはしたくはないが
「口減らし」のために結婚させたのです。
そんなふたりですが
寡黙な清兵衛と
よく気が付くゆかは
本当に仲がよかったのです。
結婚式は次男の身分ですので
全くしていません。
よき吉日に
ゆかが納屋にやってきて
結婚生活が始まりました。
もちろん僅かの金銭が結納金名目で
ゆかの家に渡ったらしいのです。
ゆかは少しの荷物を持ってきて
それで始まりです。
狭い村の中ですから
お互いに知っていたと言えば知っていたけど
そのような大事になるとは、
結婚の話が出るまで
意識もしなかった仲でした。
清兵衛とゆかは、
夫唱婦随で
貧しい生活を
少しでもよくなるように
それが『当然のよう』に
働きはじめるのです。
清兵衛が住んでいた
今津は
今の住所で言えば
兵庫県西宮市今津○○町です。
名神高速道路と阪神高速神戸線が交わる
西宮インターチェンジの辺りです。
今は道路が3階建てになって通っていますが
清兵衛が生きていた頃は
南は今津の浜
北には六甲が見える
どこまでも続く
田んぼの中にありました。
所々に
古い酒蔵が甍をならべていました。
そんな本当にのどかな田舎ですが
この今津が
他の田舎 例えば
丹波杜氏がのふるさとの
丹波と違うところは、
お酒を造っていると言うこと以外に
当時でも大都市だった
大阪に近いことにあります。
今津のお百姓さんは、
江戸時代から
大阪に持って行って
農産物を売っていたのです。
商品野菜を作っていたのです。
そのために農家は、現金収入が入るので
よく働けば
他のところより貧しくはありません。
飢饉で幾度の餓死者がでた
東北地方とは違うのです。
そう言う点で
清兵衛達は恵まれていました。
今津郷が豊かだからと言って
その利益を享受できるのは、
少数の地主のみです。
清兵衛のような小作人は
特別な利益などなく
年貢を納めるために
四苦八苦しているのです。
小作人だったら
望むものは
やはり地主になることです。
いつしか地主になってみたいと
考えるのは当然のことです。
清兵衛とゆかも
言葉には出しませんが
心の中で強く
望んでいたのです。
寡黙な清兵衛とゆかは
同じ目的に向かって
前進するんだという
心が通じていたのかも知れません。
辛い農閑期の宮水運びも
そのような望みがあったからこそ
出来たのかも知れません。
いずれにせよよく働いて
3年後には、
そこそこに金額を貯めていました。
そのお金で
家を買って
納屋を出るか
田んぼを買って
地主になるか。
ひとつの選択をする時が
やって来たのです。
清兵衛は、、、、
清兵衛は少し貯まったお金で
村はずれの田んぼを買ったのです。
小さな田んぼで6畝 180坪しかありませんが
水の管理がしやすい良田でした。
でもこの田んぼのために
清兵衛とゆかは
本当に大変な仕事が増えたのです。
清兵衛は兄の手伝いもして
内職もし
自分の田んぼも耕すのです。
機械も何もない時代
本当に大変です。
畦造り 田おこし
のしろ造り 田植え
草取り 稗取り
刈り取り 脱穀
等数えたらきりがない工程を
やってやっと収穫できるのです。
機械といえるものもない時代
本当に大変でした。
草取りを例に挙げれば
現代では、除草剤を
撒いておけばよいのですが、
除草剤のない時代は、
手で取っていたのです。
手で取ると言っても
水を張っている時期には、
あまり多く生えて来ないので
田んぼを歩きながら
取っていきます。
一番草、2番草と言って取ります。
3番草の時には、
もう田んぼに水を張らない
水がない時期になりますので
後がよいように
すべて小さい草まで除きます。
その方法は
撫で草といって
手で田んぼの土を
撫でるようにして
すべての草を取り除くのです。
中腰になってする大変な仕事で
三番草の頃は、
夏の盛り土用の内で
一番熱い時です。
そんな作業が
田んぼを買うことによって
増えてしまったのです。
でも清兵衛には
夢がありました。
朝の早くから
夜の遅くまで
野良仕事をしたのです。
もちろんゆかも
家事をこなしながら
清兵衛と同じ仕事をしました。