9 見微知著(けんびちちょ)
「病み上がりに出歩くから、こうなるの」
シン・ク・ロウの口に突っ込んでいた体温計を抜き取り、市夜は肩をすくめる。
お客様用布団にくるまるシン・ク・ロウは、赤い顔でしおれていた。
体調が回復しない状態で、初めての地下鉄に乗り、初めての大学へ行き、初めての図書館へ乗り込んだため、見事に寝込んでいた。もはや、ぐうの音も出ない。
塩に漬けられた青菜のような宇宙人を、市夜は呆れた目で眺める。
「新しいウィルスを摂取させるために、お小遣いを渡したわけじゃないのですけれど」
「……面目なし……」
「三十八度。あんたたちの平熱は知らないけど、顔を見る限り、元気じゃなさそうね」
体温計を一瞥し、市夜は有無を言わさず彼の額へ手を伸ばす。
ネイルで着飾っていない、短い爪の並ぶ手は、ひんやりとしていた。
「市夜殿、手が冷たいでござる。末端冷え症か?」
「悪かったね。これでも生姜飲んだり、一応努力してます」
余計なお世話を焼いたシン・ク・ロウの額を、ペシリと叩く。
なお彼の首には、ゴツゴツとした首輪が巻かれていた。未来製であり、シン・ク・ロウの行動を追跡・把握するためのものだ。もちろん、カズサ以外に取り外しは不可。
体温計をウェットティッシュで拭いながら、市夜は隣で正座するカズサを見た。
「宇宙人に、市販の風邪薬を飲ませていいの? この人保険に入ってないから、病院に連れて行きたくないんだけど」
カズサはニコリ、と艶やかに笑った。
「彼らの臨床データは、とても貴重です。ぜひ、片っ端から飲ませてみて下さい」
「うん、分かった」
「分かった、ではござらん!」
淡々と恐ろしい画策をする義姉弟へ、シン・ク・ロウはかすれ声で割り込んだ。全身を襲う震えは、決して熱のせいばかりではない。
「貴殿らに、慈悲の心はござらぬのか!」
市夜はにやり、と彼へ視線を落とす。
「慈悲の心があるから、こうやって家に置いてやってるんじゃない。宿泊料代わりと思って、実験に協力してあげなさいよ」
この状況を、なかなか楽しんでいるらしい。力の入らないシン・ク・ロウの顎を、がっしと掴む。
そして茶色い瓶の入り口を、無理矢理押し付ける。
「なっ、何をするっ……ぐぬぁぁぁっ!」
「子ども用シロップで、いちいち大袈裟な」
抵抗するも、喉が焼けるように甘ったるい液体を、全て飲み干す羽目となった。
「……拙者の体はもう、地球人に汚されたのか……」
「何よその、妙にいやらしい表現は」
空になった瓶をゴミ袋に入れながら、市夜は心外そうに眉を潜める。
カズサは嬉々として、薬局のビニール袋から次々と風邪薬を取り出し、ローテーブルにずらりと並べた。そのうちの一つを、びしりと示す。
「じゃあお昼は、漢方系を試しておいて下さい。僕はこれから、大学がありますので」
「誰が貴殿の指図を受けるか──むっ」
ふん、と吐き捨てたが、また市夜に額を叩かれた。
叩いたその手でスーツの袖をまくり、市夜もバングル型の腕時計をのぞいた
「それでは私も、会社があるので。飲まなかったら、分かるからね。ちゃんと飲むように」
「ぐぬぬ」
「あと、カッとなって閃光器官だっけ? アレ、使わないでね。今度カーテンを切ったら容赦しないよ」
聞き分けの悪い子供をたしなめるように、釘を刺す。カズサもそれに便乗し、未来から持ち込んだ『近・現代史』を開く。
「今度暴れたら、これ飲ませますからね」
彼が開いたページには、某カルト教団がしでかした、化学兵器テロの詳細が書かれている。化学兵器の名前をのぞき見て、市夜は顔をしかめる。
「それ、私たちも死ぬからさ。絶対作らないでよ」
カズサの腕を引っ張り、二人で玄関へ向かう。
しかし、途中で市夜が、ぐるりと振り返った。
「そうそう。暇つぶし用に、アニメ借りてるから。それでも観ていなさい」
指は、薬の軍団横に置かれた、不織布の手提げへ向けられている。首を伸ばしてそれを見とめ、シン・ク・ロウは眉根を寄せた。
「アニメ、でござるか?」
聞き慣れぬ単語だ。
「そう、アニメ。この国で、一番熱い文化の一つ」
「ふむ」
それは興味深い。真面目くさった顔でうなりながら、シン・ク・ロウは二人を見送った。
一人になり、彼はホッと息を吐く。
つい最近まで、命の奪い合いをしていた種族と同居しているのだ。緊張するな、と言う方が無駄である。
四面楚歌としか言えない状況下だが、冷淡とさえ表現できる、市夜の落ち着き過ぎた性質は、その中でも特に油断ならない。こちらが脅しても全く動じず、むしろ切り裂いたカーテンの見積もりを取り出し、お経のような口調でそれを読み上げるのだ。
誓ってシン・ク・ロウは、あのカーテンがオーダーメイド製だったと知らなかった。
また、こんな薄っぺらい布地が、食料品の百倍程の価値があるとは思えなかった。
あの時の恐怖を思い出し、彼はまた怖気に襲われた。
気を紛らわせるものは……木製のローテーブルの上にあった。重い体をひきずり、レンタルショップの袋から、DVDケースを引きずり出す。
「ふむ、魔法少女……魔法とは、科学以前に信奉されていた学問、でござったか」
暗灰色の瞳を閉じ、タイトルの意味を考える。
おそらく、人類史における中世時代を舞台にした、おとぎ話の類であろう。地球人の基本的思考を学習するには最適かもしれない。
幸いにして、室内の電化製品の扱い方は、市夜より教え込まれている。難なくプレイヤーとテレビを起動し、DVDをそっとケースから取り出す。
「ターレ製の記録晶と比べ、これは脆弱でござるからな」
両手で支え持ちながらプレイヤーのお皿へ載せ、読み込みを開始。
予想に反し、このアニメなるものは現代を舞台としている、らしい。
ただしそこに魔女や、魔法少女なるものに変形する少女たちが登場するので、おとぎ話の様相も呈している。
「地球人はどこまでも夢見がちなのだな」
暗黒の宇宙空間と、数多の星々を渡り歩いて来たシン・ク・ロウにとっては、まさしく砂糖のように甘ったるい。
小馬鹿にしながらも、他にすることがないため、横たわったままぼんやりと見続ける。
だが、その体が途中で、飛び跳ねた。
目もクワリと見開いて、テレビへ食らいつ……こうとしたが、市夜の「テレビからは離れてみるように」の言葉がよぎり、思いとどまる。
代わりに力なく、画面の前へへたりこんだ。
「なんということだ……マミ殿が……」
主人公とその親友を守り、魔法少女としてのいろはを教えてくれていた先輩魔法少女が、惨殺されたのだ。
主人公たちの目の前で、魔女──と呼ばれているが、とても女はおろか、人とは思えぬ異形だ──に頭部を食われた。こんなのって、あんまりだ。
熱の気だるさも忘れ、シン・ク・ロウは先輩魔法少女の死を悼んだ。そして、熱心に続きを観た。
話が進めば進む程、主人公を始めとする魔法少女たちは、不幸街道をまっしぐらであった。不幸に見舞われては、どんどん死んでいくのだ。
甘ったるいと表現したことを、訂正する。彼女たちの境遇は、ターレ人より酷い。
しかも、小動物の皮を被った宇宙人にたぶらかされていたことまで、終盤に発覚した。
連中は「宇宙を救う」というお題目の元、少女たちを欺いていたのだ。
少女たちの逆境ぶりに自分を重ねていたため、シン・ク・ロウはこのマスコットもどきな侵略者を、テレビから引きずり出して賽の目切りにしてやりたかった。
緑の長髪を無意識に握って歯噛みしていると、彼はふと、気付いた。
それは前触れなく降り注いだ、天啓。
熱と怒りでもやつく頭は、残酷な事実に行き当たった。
「彼ら人類にとって……拙者はこの白い詐欺師と、同等ではないか?」
閃きを口にすれば、そうに違いないという確信が、再び全身を貫く。
ターレ人とて、加虐的性質で以って侵略を始めたわけではない。母星を失い、やむを得ず地球へ来訪したのだ。
ここならば、重力に差はあるものの、大気や自然環境は酷似している。移住地としてはもってこいだったのだ。
贅沢は言わない、この星の片隅で暮らせればよかった。
だがこんな理由は、人間たちにとっては知ったこっちゃあない、程度のものだろう。
それに彼らは、既に地球上の隅から隅まで、自分達の生活環境となるべく作り変えていた。
ターレ人が入る余地など、あるわけがないのだ。
図らずも、アニメなる地球文化を通じて己を客観視し、シン・ク・ロウはうなだれた。
うなだれながらも、シン・ク・ロウはちゃっかりアニメの続きを観賞していた。
なんだかんだで主人公は可愛いし、陰気さが癖となるのだ。
そして、安価な造りの扉が、ゆっくり開かれることにも気づいた。
会社へ出向いた市夜は、夜にならねば帰って来ない。シン・ク・ロウは素早く一時停止ボタンを押し、体内の閃光器官へ力を込める。
彼の緊張に反し、部屋に入って来たのは無警戒で、無防備な少女だった。
市夜に妹がいたことを、ここでようやく思い出す。言われてみればどことなく、二人の顔は似ているかもしれない。いや、地球人だから、単純に見分けがつかないだけかもしれないが。
ともかくシン・ク・ロウは練り上げていた、見えない刃をかき消した。
一方の希代は台所に上がり、気配を感じた居間をのぞきこみ、また白目をむいて硬直した。
不良やビジュアル系の類にしか思えない、珍奇な髪色をした男がうずくまっていたのだ。
しかも彼の首には、太い首輪が巻かれている。
多種多様な理由で、希代は大きな衝撃を受けていた。
「嘘、お姉ちゃんの趣味が、こんなのだったなんて……嘘……ペット禁止のはずなのに……ううん、だからこの人を?……でも、そんな!」
「い、妹殿?」
ぶつぶつと空虚に呟く彼女へ面食らい、シン・ク・ロウは控えめに声をかける。
素早く、希代の目に黒目が戻ってくる。そして床にくっつきかねない勢いで、振りかぶってのお辞儀をした。
「ごめんなさい! 趣味をじゃまするつもりじゃなかったんです! ただ、お母さんからおお、おかずを預かってまして……えっと、失礼しました!」
「待たれよ、妹殿!」
シン・ク・ロウが引き止めようとするも、希代は脱兎の如き素早さで、安アパートを飛び出して行った。あまりの快足ぶりに、彼も唖然となる。
「市夜殿と言い、この星の女子は皆、ああなのか?」
アニメの中の少女たちとは、大きな隔たりを感じる。
首をかしげながら、玄関のカギを確かめに、布団から這い出る。
「む?」
玄関のすぐ脇に、タッパーがあることに気付いた。
内容物はラタトゥイユなのだが、未だ地球文化に疎いシン・ク・ロウは分からない。
ただ中身の匂いを嗅ぎ、食料であることと、無毒であることを判断し、冷蔵庫へ入れた。
以後彼は「首輪の人」として、希代の中にある種の恐怖心を植え付ける羽目となるのだが、今の彼には関係ない。
むしろ、魔法少女たちの行く末の方が、気がかりであった。
見微知著……ちょっとしたヒントから、本質を掴むの意