6 愚者一得(ぐしゃいっとく)
希代は可愛い。還暦を迎えても、どうやら可愛いらしい。
しかし反面、自己主張に乏しい性格をしていた。
なまじ目立つ容姿をしているため、彼女は幼少期からいじめの被害に悩まされていた。また、いわゆる変質者に属する男性に狙われた経験も、両手では足りない程ある。
「特に高校時代、とんでもない勘違い男に目を付けられてね。ストーカーって、未来にもある?」
家具や電化製品が運び込まれたばかりのカズサ宅で、市夜はくつろいでいた。本革らしいソファの座り心地は、絶品である。自室へお持ち帰りしたい。
床であぐらをかいているカズサも、こっくりうなずいた。両手で包み込んでいるのは、ウェッジ・ウッドのティーカップである。どこまでも成金だ。
「はい。地球人はターレ星人以前にも、ナイト・ストーカーと呼ばれる他次元生命体と交戦した記録があります」
ミルクティーを口に含んで、市夜は眉を潜めた。
「未来の地球人、ハード過ぎる。そんな大規模なものじゃないけど、昼夜を問わずに付け回してくるのが、現代のストーカーです」
「いえ、それも結構怖いですよ。そんな奴に、希代さんは……?」
「昼夜を問わず付け回され、挙句の果てに自宅へ乗り込まれ、無理矢理シャンパンタワーをされました」
シャンパンタワー、という言葉に首をひねるカズサへ、携帯端末を操って写真を見せる。
彼の長い睫が、ひらひらと上下する。
「おやまあ、なんともキレイですね」
「キレイだけど、片付けがクソみたいに大変でした。ホスト──水商売の男だったのよ、そのストーカーが」
「ご愁傷様でした。……希代さんの古傷を、僕が抉った上に、塩と辛子を塗りたくってしまったんですね」
市夜の言わんとしていることが分かったらしい。カズサは叱られたレトリーバーみたいに、しゅん、とうなだれた。
別に市夜も、彼を責めたいがために、希代の暗い思い出を披露したわけではない。
ティーカップをお皿に載せ、じっとカズサを見据える。
「あんたの機械で、希代の記憶を書き換えることはできる? そうでもしないと、多分あの子は恋をしないと思うの」
顔を跳ね上げたカズサは、予想以上に狼狽している。
「可能、ですが……必要に迫られていないのに、無暗に書き換えることは……」
「使い過ぎると、相手の脳みそに腫瘍でも出来るの?」
「いえ、そこは安全なはずです」
「はず?」
「冗談です、大丈夫です、レーシックよりもずっと安全です! ただ、その、使用規約もありまして」
自分の身分は偽っているじゃないか、と突けば、
「過去での基盤を固めるための、必要悪なのです」
と、すっぱり晴れ晴れしく言われた。
カズサなりに、ルールを設けているらしい。
それに、好意を抱いている女性の記憶をねつ造する、という点も気が引けるのだろう。
彼は思い詰めた表情のまま、静かに紅茶をすすっていた。
市夜もお茶請けのクッキーへ手を伸ばし、じっと待つ。
秒針が二周半した後、カズサはかすかに唇を動かした。
「希代さんとストーカーさんの記憶だけを、少しマイルドにしましょう」
「と言うと」
「追いかけられたけれど、家まで乗り込まれず、見事に撃退出来た……と」
柔らかく、彼は微笑んだ。端正な顔立ちと相まって、どこかはかなげだ。
「人類がのびのびと生きている世界なのに、その人類の約半数が怖いなんて、あまりにも辛いです。僕のことや、未来の事情を抜きにしても、希代さんには幸せになって欲しい」
「そう言ってくれて、ありがとう」
市夜も晴れ晴れと、笑みを返す。
市夜はカズサから洗脳装置を借り受け、希代の大学まで出向いた。
事前に連絡を入れていたため、希代は図書館前のベンチで待っていた。しかし、市夜の姿が見えるや否や、少しばかり顔を強張らせる。
彼女の周囲を油断なく見渡す妹へ、市夜は苦笑した。
「大丈夫、あの男はいないから。昨日は本当にごめんね?」
「ううん、わたしも泣き出してごめんなさい」
「泣き出したより、白目むいた方が焦ったよ」
笑いながら、市夜もベンチの隣へ座った。そして何気ない動作で、ジャケットから洗脳装置を取り出す。
「希代」
「はぁい?」
応えた彼女へ、装置の噴射口を向ける。
プシュリ、と小さな音を立てて、光る煙が吹き出された。一瞬目を見開いた希代だったが、それが降り注がれると、途端に眠たげな顔となる。
呆けた彼女をのぞきこみ、市夜はゆっくりと言葉をつむぐ。
「いい、希代? あんたは昔、ストーカーに狙われた。でもそのストーカーは、見事に頼もしいお姉ちゃんが蹴散らして、あんたはバラ色の高校生活を送ったの」
少し自分の武勇伝もねつ造したのは、ちょっとした見栄である。
言葉を緩やかに飲み込んで、やがて希代はコクリ、とうなずいた。
記憶の再設定が完了した合図だ。
市夜はホッとしつつ、彼女の自意識が再度目覚める前に、続けてもう一つの記憶を作り変える。
「あと。昨日は変な男に変なことを言われたけど、あれは聞き間違い。えっと……あれは、そのですね、そう、『二人で人生を成功して、幸せを、成し遂げよう』的な、ポジティブな挨拶だったのです。悪い奴じゃないの、とにかく、ね?」
苦しいかな、とも思ったが、希代はもう一度トロリとうなずいた。
カズサはああ言っていたが、市夜は割と彼を気に入りつつあった。
これはちょっとした、彼へのご褒美とお礼だ。
希代には悪いが、脳に腫瘍も出来ない、らしい。素直にねつ造されてもらおう。
愚者一得……バカでもたまにはいいことを言う、の意