二人の天才
魯家の気違い息子がまた酔狂な事を始めたそうな”
これがこの春の村人達の間での最新の笑いのタネであった
いや、その前の冬もその又前の秋も“魯家の気違い息子”はこの村の名物とも呼べる笑いのタネであり同時に村の長老衆の悩みのタネでもあった
“何でも今度は私兵を集めだしたそうな”事情通の酒場の店主が語り始める
“おや、どっかの戦にでも参加するんかいな”と興味津々で質問する常連客、魯家の気違い息子の話はもっぱら村人達にとって最高の酒の肴である
“いや、戦は戦でも相手は野兎と来たもんじゃ、全く大層な戦じゃて”酒場の店主は呆れたような仕草を取り酒場は笑いに包まれた
しかし端の席の客だけその話を興味深げに聞いていた、数日前にこの村を訪れた旅の者だがおよそこの世の者とは思えぬ程の容姿端麗な若者で村の娘衆が大騒ぎする程だった
一見質素な身なりをしているもののその実見る人が見れば一目で良いモノだと分かる装束、そして物腰から伝わる気品はこの人物が余程の貴人である事を匂わせる
“ふむ、中々面白い男だな、会ってみたい”口に笑みを含みながらその客が呟く
この反応には店主も驚いた、しかし客の戯れだと思い込み笑いながら答える
“ははは、今の刻ならこの先の河の畔で釣りでもしてるんじゃないですか?、でも旅の方、本当にあれは唯の変人ですから旅の土産話には到底ならないと思いますよ?”
しかし客は意に介した様子も無く“河の畔だな、早速訪ねてみるとしよう、店主、勘定を頼む”
そういって勘定を済ませるとさっさと河の方に進んでいった
その後ろ姿をみた店主は“高貴な方の間でも酔狂が流行ってるのかねぇ?”と不思議そうに呟いた
長江、又の名を揚子江、言わずと知れた中華最大の大河であり無数の人々がその恩恵を受ける将に“父なる河”である
既に日が傾いてるにも関わらず船の往来は盛んである、そんな活気溢れる船乗り達とは対称に飄々と釣り糸を垂らしてる男がいた、とは言え釣りをしてるというよりは夕映えの長江を眺めてるといった感じである
“あの男かな?”先程の旅人は男の姿を見て呟いた
そして少しその男の様子を観察した後声をかける事にした
“釣れますかな?”まるで周の文王と太公望の逸話だなと心の中で自嘲しながら尋ねた
“いや~釣れませんきに”男は笑いながら答えた、まるで屈託の無い笑顔だ
“お目当ての獲物は何ですか?”どうやら太公望の逸話とは違いこの男は一応本気で釣りをしているようだ
“まぁ今日の所は晩飯になれば何でもいいといった所ですかいの”男は釣果など関係なく笑っている、本当に人懐っこい素朴な笑顔である
(不思議な魅力は持っている男だ、しかし所詮田舎の道楽者、太公望どころか天下を語るには程遠いといった所か)旅人はあてが外れたのか少し意気消沈した様子だった
(まぁ奇妙な男が東城県にいるというだけで訪ねてみようと思った私が浅はかであったか)
旅人の名は周瑜、字を公瑾、最近居巣県の長に就任した人物で若いながらも優れた手腕を持ち既に麒麟児としてその名は名士達の間では広く知れ渡っている
そして周瑜自身、自らの見聞を広めたいと仕事がてら地方の名士を尋ねる事を好んでいた、有名でも愚鈍と感じる人物もいれば無名でも才ある人物もいた、そういう事を繰り返す内周瑜は一種の直感の様な物を得ていた
今回も仕事がてら東城県の名士である魯家に挨拶に行く矢先、“魯家の気違い息子”の噂を耳にした時周瑜の直感に引っ掛かる何かがあった、しかし実際会ってみれば不思議な魅力はあるにせよ、まぁ唯の道楽息子であったかと周瑜は自分の直感が外れた事に意気消沈していた、そして適当に去ろうと思った時男が奇妙な事を口にした
“でもねぇ旅人さん、ワシはいつか長江の主殿を釣る気じゃて”
男は楽しそうに語り出す
“ほほう、長江の主とは龍神様でも釣り上げるおつもりですか?”
この男、奇人を通り越して阿呆なのか?周瑜は半ば呆れた様に相槌を打つ
“ははは、龍神様かもしれんのぉ、でもそれが何者なのかはどうでも良いんじゃ、いつか天下はこの雄大な長江を挟んで二分される時がくるじゃろう、長江の主殿とはその片方を統べる御方じゃて”
これには流石の周瑜も驚いた、今まで玉石入り交じり様々な人物と会い、天下を論じ弁論を重ねたがこんな大それた話は聞いた事が無い、しかも男の目は子供の様に純粋であり心の底からそう信じている事が伺いしれた
“しかし貴公、それはあまりにも暴論ではないか、先の董卓の暴挙から始まり天下は混乱し漢王朝も衰退しているとはいえ未だ帝は苦境とはいえ健在である、貴公、帝を蔑ろにするつもりか?”
“そん時は帝をお迎えすれば良い、そもそも江南は気候風土も良く食事も旨い”まるで友人を招待するかの様な口調でさらりと帝の擁護を口にする、周瑜は益々開いた口が塞がらないといった表情である
その時男の釣竿が反応し、見事な鱸を釣り上げた
“おお見事な鱸じゃ、こんな活きの良い鱸を食べれば帝も活力を戻されるに違いない”
大それた天下を論じていたかと思えばいきなり釣りと食事の話をしだす
支離滅裂ではあるがこれ程楽しそうに何かを語る男に周瑜は久しぶりに出会った
いつしか周瑜はこの道楽者の与太話を聴くのが楽しくなってきた、どうやらすっかりこの
男の不思議な魅力に取り付かれたらしい
男も男で周瑜に何かを感じたらしい、そしてこんな事を呟いた
“旅人さん・・・いやもう隠さんでもええ、あんた美周郎様じゃろて”
美周郎とはその容姿端麗さから付けられた周瑜の通り名である
(それを見抜いていた上で話していたのか)と周瑜はこの男の意外な抜け目のなさに驚い
た
“ええ、申し遅れました、私は周瑜公瑾、居巣県の長に就任したので挨拶に参りました”
“ははは、貴公は県長どころで留まる器ではないでしょうに”男は高笑いする
そして突然真剣に周瑜の目を見る・・・というよりは周瑜の目の中の“何か”を覗き込む
様な感じである
そしてその“何か”を見出したらしく一人満足げな顔をして再び笑い出す、今度は先の笑
いとは違う、その声から歓喜が滲み出る様な笑い声である
“今日は真に愉快な日じゃ!釣果は鱸だけかと思っちょったら最後に念願の”主殿“の御
使いにお会いできるとは
余りの顛末に流石の美周郎も呆気にとられた様だ、まるで独り言を呟く様に“私が主殿
の使いですと?“と戸惑いながら男に尋ねる
“ああ失礼、いずれこの江南には一つの国が出来るであろうが貴公ならその国の舵取りが
出来るじゃろう、どうやら貴公には“宰相の相”がある、使いと称したのは失礼じゃっ
た、しかしその国が出来た時、その柱となるのは間違いなく貴公でしょうに“
男はまるで酔ってるかの様に楽しそうに語る、反して周瑜は男の言葉に困惑している様
だ、確かに今のまま終わる気は無いという野望はある、そしてその野望を共にする仲間も
いる、そして仲間と共に旗揚げし、その戦乱の世で名を挙げるつもりだ
しかしこの男は更にその先を視ている、やがて群雄割拠の時代が終わり、二つの大国に
纏まると男は言う、そしてその一方の舵取りを務めるのは周瑜だと男は宣言した
“ははは、それは見当違いもいいとこでござる、とても私には古の張良や呂尚の様な才覚
があるとは到底思えませぬ“周瑜は自嘲気味に笑う
“いやある、貴公はいずれ生まれるであろう大国の柱となる御方じゃて、賭けても良い”
そういうと男は袖の下から堅固そうな鍵を取出し周瑜に渡した
“これは我が家の二つの倉庫の内の一つの鍵じゃ、貴公に預ける、好きに使うがよろしい”
初対面の者に己の財産の半分を与えるなど聞いた事が無い、慌てて返そうとする周瑜に
男は言う
“何、賭けの担保として預けただけじゃて、いずれ貴公が宰相になった暁には返してく
れたらええ、そうならなければワシが賭けに負けたというそれだけの事じゃて“
さも呆気らかんといった口調だ
ここまで来ると周瑜も踏ん切りが付いたらしい、男から鍵を受け取ると微笑みながら言う
“分かりました、この鍵預かりましょう、そして貴公にその賭けに勝たして差し上げます”
先程とは違う、自信に溢れた声だった、そして少し表情を緩めると男にこう囁く
“無論その時が来たら貴公にも仲間になって貰いますよ?釣り人殿・・・いや、魯粛殿”
魯粛、字を子敬、これがこの“魯家の気違い”と呼ばれる男の本名である
“ははは、こりゃ一本取られたのう、だがワシの持ち掛けた賭けじゃ、約束しよう”
そしてどちらともなく相手の掌を強く握りしめた
魯粛子敬と周瑜公瑾、後に三国時代の一角となり王朝とまで成った大国呉の旗手となった
二人の天才軍師が交錯した瞬間だが今それを知るのは雄大なる長江のみ
この瞬間、歴史という大河の流れが変わるのを人々が知るのは未だ先の話である