出発
頑張って書いていこうと思いますので宜しくお願いします。
桃花恋絵巻
鬼戒すずこは物心付いたときから不思議なものを視る子だった。誰もいない部屋で見えない何かが動く気配を感じたり、幼稚園ではトイレの個室に誰かがいる! と言ってなかなかトイレに行けなかったりと。彼女がそれを普通のひとには視えないものと初めて認識したのは幼稚園を卒業する頃だった。真夏の暑い日だったと記憶している。すずこは母である理恵子と妹のりりこと一緒に近所の遊園地に来ていた。宇宙をテーマにしたテーマパークでは、夏限定のお化け屋敷が公開されていた。りりこが入りたいというので、すずこたち親子はお化け屋敷に入ることになった。そこですずこは視てしまったのだ。顔はよく見えないが全身血だらけの少年を。彼の身体は透けていて向こうの壁が見えていたから、従業員が演じているわけではないとわかった。彼は今まで見た不思議なものと違って、二本の角を頭に生やしていた。手には身体と同じく血だらけの金棒を持っていた。
「すずこ、何してるの。早く進むわよ」
理恵子は不機嫌な声で熱心に暗幕で覆われた壁を見つめるすずこに声をかけた。従業員が扮するお化けや、おどろおどろしい音楽に怯えたりりこが泣いてしまっていたのだった。
「うん、わかった」
彼女は返事をしたが、それは母に向けたものではなかった。
二本の角を生やした少年はすずこに語りかけていた。それにすずこは答えたのだった。
『必ず……お前を迎えに行く……』
「まってるから」
どうして自分が待ってる、と返事したのかはわからなかった。不思議なことに血だらけの少年を見て怖いとは思わなかった。ただ感じたのは、この少年は自分たちと同じ生きている人間ではないということ。そして幼いながら本能的にこの人物に近づいてはいけないということだった。迎えに行くという意味が、黄泉の世界に連れて行かれるということだということだと理解するにはすずこはまだ幼すぎた。ただ、よくわからないけど迎えに来てくれるのは嬉しい、という子供心からの返事だったのかもしれない。
『必ず……お前を……』
迎えに行く、確かに少年はそう言った。
「いつになるの?」
「すずこ、何を壁に向かってぶつぶつ呟いてるの?」
苛立った母の声ですずこは我に返る。
「いまそこにおとこのこがいて……すずをむかえきてくれる、っていっていたの」
彼女の言葉に母は眉をひそめた。そしてじっとすずこと同じ壁を見た。すずこも一緒になって壁を見たが、そこには少年の姿はなかった。
「なに馬鹿なこと言ってるの。お化け屋敷に来たからってはしゃぎすぎよ。これだから、お化けとかそんな現実にいないものなんて嫌いなのよね。だいたい、お化けとか妖怪とかいるわけないじゃない」
りりこを抱っこしたまま理恵子は大きな溜息をついた。
「だけどほんとうにおとこのこがいたの……」
すずこが少年が消えたことを懸命に拙い言葉で母に伝えようとした。だが、母はくだらないというように聞く耳を持たなかった。それから母はりりこを抱っこし、すずこの手を引いたまま黙々とお化け屋敷を通り抜けたのだった。
「いい、すずこ。この世にお化けや妖怪なんて現実にはないものは存在しないんだからね」
言い聞かせるように言う母に、すずこはこの話はひとにしてはいけないものだったんだということを理解した。
それからもすずこは度々、生きている人間ではないものを目にした。それは猫に似てるが尻尾が二つある生き物だったり、血まみれの少女だったり、凄い形相で窓の空から落ちてくる女性だったりした。
得体の知れない彼らたちが幽霊や妖怪だといった異形ものと知ったのは、小学校の図書館の本でだった。
すうzこは彼らたちから目を反らすように努力をした。その結果、十六歳になった今ではほとんど視えないようになっていた。彼女自身もお化けや鬼なんかいるわけない、と信じなくなった。
信じなくなったがたまに考えることがある。小さい頃にお化け屋敷であった少年はどうして自分を迎えに来ると言ったのか。それは現実だったのか、それとも母の言うようにお化け屋敷に入って浮かれてそんな幻想を見てしまったのか。まぁ、お化けを視る力は年々弱まっているようだし、わたしにはそんな幽霊など現実にない世界は関係ない。そうすずこは思っていた。
バスの車窓から見える景色がだんだんと寂れたものに変ってゆく。都会で慣れ親しんだビルやデパートの姿は消え、あたり一面真っ青な田んぼや畑が広がり始めていた。
すずこは今、母の故郷である封鬼村に向かっていた。彼女の手には通学鞄とは別に大きなリックがあった。ここに衣服や大切な本などが詰め込まれている。すずこはこの夏から封鬼村の村民となる。彼女の祖母である鬼戒汐美を頼ってきたのだった。すずこの母、理恵子は今年の春に交通事故でなくなった。すずこを十六歳で授かったので三十二歳という若さだった。父はすずこが八歳のときに母と離婚をした。そのとき妹のりりこは父に引き取られている。母が死んだという訃報を聞いて父は「一緒に暮らさないか?」と持ちかけてきたが、八年も離れている上に自分を棄てた男の世話になどなりたくないという思いからすずこは断わったのだった。ちょうどその頃、母の母、つまり祖母に当る人物から自分の村で暮らさないかという話がきていた。祖母とは面識がないが、もし頼るなら彼女の方だと直感した。
初めての長旅ですずこはどきどきしながら電車とバスを乗り継いだ。封鬼村への便は一日に二本それも朝と夕方の一本ずつだ。事前時に調べていたが、実際にバス停の時刻表を見て、すずこは本当にこれでよかったのかと自問自答した。これから行く封鬼村は想像以上に辺鄙なところのようだ。
朝から長時間バスに揺られ、辺りが薄暗くなった頃、漸く、バスのアナウンスが流れた。
「もうすぐ封鬼村入り口に着きます。お降りの方は停車ボタンを押してください――――」
バスの中にはすずこしかおらず、彼女は迷いなく停車ボタンを押した。バスは今日見た中で一番寂れた駅に停車した。時刻案内の看板は今にも壊れそうだった。ブシューとバスの自動ドアが開き、すずこは重い荷物をよいしょと持ち上げながら下車する。バスはそのまま誰も乗せることなく、すぐに元来た道に向けて走り出した。風紀村入り口、と書かれたバス停から周りを見ても、右手にはうっそうと生い茂った林、左手には広大に広がる田んぼ、見回しても民家は見当たらない。このことからすずこは村までは少し歩かないといけないことを察した。
「おばあちゃんが案内をしてくれるひとが来るといっていたけど……」
辺りには誰も見あたらない。到着時刻は先方に伝えているので来るとしたら今時期だろう。
そのまま数分待つが、ひとが来る気配はない。もしかして、連絡が行き違いになったのかもしれない。祖母の家に電話をしようと携帯電話を開くが、生憎の圏外で電話ができそうな状況ではなかった。
案内人が来るまでこの広大な自然を楽しもう。目を閉じ耳を済ませる。まだ蝉の声は聞こえない。恐らくもうすぐ梅雨が明けるから、あと数日もすれば元気に鳴く蝉の合唱を耳にすることができるだろう。風のにおいが澄んでいる。森がすぐ近くにあるせいか、森林浴効果もあるのだろう。見知らぬ土地にいるというのにすずこは落ち着くことができた。
そうして自然を楽しんでいたすずこだったが、耳慣れない音を聞き、目を開けた。ちりりりり……鳥が囀っているのではない、電子音にも似たかすかな空気の触れ合う音。
何かいるのだろうか。
すずこは荷物を持ったままその音の原因を探し始めた。
どうやらそれはうっそうと茂った林の中から聞こえてくるようだった。
(荷物を置いていくし、すぐに戻ったら大丈夫だよね)
凸凹がある道路の端に貴重品以外の荷物を置いて、すずこは林へと足を踏み入れた。
(こっちの方から聞こえてくる)
そうやってすずこが謎の音を探しながら、ふと振り向けば、林の入り口からだいぶ離れていることに気付いた。慌ててすずこは踵を返す。あまり遠くに行って戻れなくなっても困るし、もう案内人が来ているかもしれないと思ったからだ。
ところが戻ろうとして妙なことに気付いた。入るときは何も感じなかったのに、林の入り口と林の中に透明な壁のようなものがあるのだ。それは手で叩くと壁を叩くのと同じこんこんと音がした。無理やり身体を通そう音すれば、強い静電気が全身に走る。一体、何が起こったのか。すずこは軽くパニックになりそうだった。常識的に考えて、見えない壁が立ちはだかるなんて考えられない。
「いったい、どうなっちゃたの?」
林の入り口まではほんの数メートルなのに、見えない壁のせいで近づくことができない。
「誰だよ、オレさまのなわばりを荒らそうとするやつは」
ふいに不機嫌な声が頭上から降ってきた。見上げれば木の枝に座っている人影げが目に入った。
「あなたは?」
もしかしたら今の自分のピンチを救ってくれるひとかもしれない。期待を寄せて尋ねた。
「ん? 誰だお前。この辺では見かけないやつだな」
声から男性だとわかった。彼は枝に座ったままじっとすずこを見下ろす。
「あ、もしかしてお前が、鬼戒さんとこの孫か?」
ぽんと男は手を打った。
「わたし、鬼戒すずこと申します」
木に向かってすずこは慌てて頭を下げた。