逢魔ヶ時
人の足よりも何倍も早い筈なのに、不思議とゆったりとした優しい風に運ばれて降り立った場所は地獄だった。
地に足が着いたのを確認してからゆっくりと目を開ける。着いた瞬間から視覚以外の感覚が訴えていた予感の通りの景色がそこに広がっていた。
夕焼けよりも赤い炎が上がる。黒い煙が空を覆う。人の肉が焼ける臭いが嗅覚を刺激する。
それは地獄だった。聞こえるのは火が爆ぜる音だけで、静寂そのものだ。人の声など呻き声一つしない。この場にいただろう人達の生存は、絶望的だろう。
そして、その地獄の真ん中には、天使と見間違うばかりに純白の女が一人、佇んでいた。
「久しぶりね」
白い髪、白い肌、全てを見透かす様な大きな瞳の色もやはり白銀。身に纏うローブも、その下の法衣も、全て白。
夕焼けと炎の赤と、黒の煙と、大地の色の中で、どこまでも白いその姿は酷く異質に見えた。何も知らない者が見れば、天使とまではいかなくても、神からの使者か何かと勘違いしてしまう者だってきっといるだろう。
けれど俺は知っている、彼女の白は無垢の色でも純粋の色でもない。時に暴力的なまでに他を塗りつぶす、白という色であることを。
「軍に入ったって風の噂で聞いたから、いつか会うだろうなとは思ってたわ」
彼女と袂を分かってから数年が経過したというのに、まるで昨日まで会っていたかの様な気安さで彼女は笑った。
「ああ、俺もいつかは会うと思ってたよ」
思い出すまいと誓っていた筈の、彼女との記憶が脳裏をよぎる。あの時、俺の中でまだ彼女は絶対の存在だと思っていた時から、見た目も、口調も、彼女はまるで変わっていない。
それでもこうして真っ正面からたてるということは、俺が変わったということになるのだるうか。
「でもまさか、こんなタイミングで会うなんてね」
「いや、俺はきっと会うだろうと予感はしてたぜ?」
「あら? 何故?」
白き娘は不思議そうに首を傾げる。しかしその目に疑問の色はない。ただ楽しそうに細められたままだ。
「お前がこんな理不尽な戦争に、参加しない訳がないだろうよ」
彼女の目に初めて驚きと動揺の色が宿った。
「ええ……ええ、そうよ。こんな戦い、私が知らないでいる訳がない。こんな、理不尽な戦い」
そして次に浮かんだ感情は、憎悪の色。仄暗く、殺意を隠さない明確な憤り。
静かに、感情を押し殺しながら、それでも彼女は激昂していた。
「貴方は何も感じないの?こんなの戦いじゃない。ただの虐殺だわ」
「そうだろうな。けれど、この戦いが成功すれば人間の誰もが魔力を扱えるようになるんだ。この国は豊かになり発展するだろうよ」
「そこに犠牲があっでも?」
「尊い犠牲さ。より多くの人間の命がそれにより助けられるなら、それは間違いじゃない」
そう、間違いでは。正解ではないだろうが、間違いではないはずだ。そう言い聞かされて、俺達はこの地へと来たのだ。
「間違いでなければいいというの? それだけで、他の命を踏みにじっていくことが許されるの?」
真っ直ぐにこちらを睨む白銀の眼差しは決してブレない。ただ純粋に、潔癖に、こちらの言葉を否定してくる。しかし、これくらいの反応で俺だって揺れてなんていられないのだ。
彼女と会ったばかりの弱い俺ならともかく、今は違うのだ。意思も、思想も、覚悟も。いくら彼女が相手であっても、俺はここにいなければならない理由がある。
「おいおい、落ち着こうぜ。命といってもそれは、人ではないだろう?」
彼女の纏う空気がさらにぴりりと張り詰めるのがわかった。しかし、俺はそれに気づかないふりをしてさらに続ける。
「高い魔力が具現化した存在、精霊。その種の亡骸をこの大陸の芽とも呼ばれるここへ埋め込めば、大陸自体が魔力に満ち溢れ、扱えるようになる。それがこの世界が出した一筋の希望だろう?」
俺は彼女の背後にある巨大な木と、それを囲む森に視線をやる。大地の芽と呼ばれるそこは、皮肉なのとに精霊の生まれる場所だ。その場所の根底を変えてしまうのだから、おそらく精霊は二度と生まれて来なくなるだろう。きっと、彼女はそれが許せないのだ。
「魔力が、そんなに大事?こんなもの、ただの戦う術だわ。扱うのは所詮人じゃない」
侮蔑するような目で、彼女は吐き捨てる。その言葉に俺は笑った。
「お前には分からないさ。魔術師として生まれ、傭兵として名を馳せたお前には、俺側の気持ちは分からない」
魔力を持たない平民が、どれほど貧しい暮らしを強いられているのか。貴族の中で魔力を持たず生まれたものが、どのような扱いを受けているか。
優秀な軍人を多く輩出した家系に生まれた俺が、今でも尚、どのような目で見られているのか、純粋すぎる彼女は知らないだろう。
そしてその感情は、魔力が無いものにしか分からない。
「確かに俺らのすることは理不尽であり、身勝手だ。魔力の高い権力者たちの欲が絡んでいないとも言い切れない。けどな、魔力を持たない人間にとっても、これは一つの革命になるんだよ」
彼女の返答は無かった。白銀の瞳には何の感情も映らない。ただ冷たく、鋭く、静寂すらも己の武器として、こちらを射抜くだけだった。
激しくも静かな視線を受けても、俺はこれ以上の言葉は続けない。言うことは言った。元より説得できるような相手とは思っていない、あとは総隊長として、俺は為すべきことをするだけだ。
しかし、張りつめられていた静寂は、彼女の笑い声によって突然破られた。
予想外の出来事に、臨戦態勢をとっていた俺は唖然とする。彼女は口元を抑え、おかしくてたまらない、というようにくすくすと笑う。そしてひとしきり笑った彼女の赤い唇が、形を弧にゆがめながら言葉を紡いだ。
「ねぇ、そんな茶番、もうやめましょう?」