違う世界を見るというのはあくまで比喩 1
飛鳥 姫は孤児だった。
生まれて間もないというのがわかる姿で、児童養護施設の前に置き去りにされていたのだ。
名前を示すものも、何もなかった。
唯一わかったのは性別だけだった。
そんな孤児に児童養護施設の院長が、忌むことなく名前を付けた。
『姫』というのは、姫が孤児院に入ったちょうどその頃は、院がまだできたばかりで人数が少なく、男の子ばかりだった。
つまり孤児院にはその時女の子は姫ただ一人だったのだ。
しかも当時孤児院の中で一番幼かったのもあって、院長が男の子から守られる様子が、まるで数多の騎士に守られる姫のようだと。
だから『姫』、と。
ところが実際、姫は名前の通り守られる存在であることを是とせず、しかも愛想のない女の子として育った。
その所為か引き取り手も現れず、現れても姫が拒否を示したのだ。
自分のことは自分でやる精神と、孤児院の小さな子供達をまとめ上げる手腕により、姫は男気のある立派な姉御肌の女性へと成長していった。
高校卒業と同時に孤児院を出て、姫は服飾系の専門学校に入学した。
資金は、いつか返してくれればいいと院長が工面してくれた。
何度も断ったが、いつも子供達をまとめて一度もわがままを言わなかったあなたの、夢を叶える手伝いくらいさせて欲しいと言われて、姫はそれ以上強く断れなかった。
思いながらも今まで貯めたバイト代があるからと断り、姫は一人暮らしを始めた。
それでも孤児院にはよく顔を出しては、姫は子供達の遊び相手になっていた。
元々手先が器用で、遊び盛りの子供達の裂けてしまった服を繕ったり、簡単な服ならよく姫が手作りしていたのだ。
専門学校を卒業すると、姫は一人暮らしの時からバイトをしていた若者向けの服を取り揃えている店の正社員となった。
その店のオーナーは若者の創造性を大切にする主義で、バイトの時からずっと真面目に働いていた姫に一目置いていた。
姫もその店を気に入っていたから、オーナーから正社員の誘いがあった時あまり悩むことなく誘いを受けたのだ。
そしてオーナーの創造性を大切にする主義から、店には少し変わった制度があった。
それは『創造週間』といって、店で働いている人間一人ずつにローテーションで、二カ月に一度一週間の休みが出るのだ。
その一週間の間に、服やアクセサリーのデザインをいくつか考えて、休みが終わるとオーナーに提出する。
言ってしまえば宿題のようなものだ。
提出されたデザインの中でオーナーが認めたものは、商品化される。
とは言っても、店の従業員の半分は姫のように服飾係の学校出身なのだが、なかなか合格は出ない。
オーナーは業界では有名な方で、その目は確かなのだ。生半可なものでは認められない。
だが逆に認められると、その業界に本格的に踏み出す者には己の自信に繋がるし、良い肩書きにもなるのだ。
オーナーに認められると自立した時に成功するというジンクスが店に流れていたりする。
外からは、業界に進む厳しい登竜門と言われていた。
そんな店で働いている姫は、ちょうどその『創造週間』に入ったところだった。
その『創造週間』になると、姫は孤児院に顔を出す。
今日はその日だった。
「姫ねぇ!鬼ごっこしようよ!」
「逃げる側なら絶対捕まらないし、追う側なら全員絶対捕まえる。それでもいいならやる。」
「姫ねぇ、大人気ないー!」
「全てのことに全力だと言え。」
ふんと鼻を鳴らして、姫はスケッチブックにペンを走らせた。
花壇に腰かけてスケッチブックに視線を落とす姫を、数人の男の子が覗き込む
「姫ねぇ、絵上手ー。」
「でもまた服の絵だ。」
「ねぇねぇ、ポ○モン描いて!」
「これは仕事道具だっつの。散れ、子供は遊べ。」
しっしっと手を払う姫に、子供達は渋々といった様子で散らばっていった。
姫は去って行くいくつかの小さな背中を見送ると、視線をスケッチブックに戻した。
「姫ちゃんは相変わらず人気者ねぇ。」
くすくすと笑みの混ざる声に姫が振り返ると、そこには優しげな雰囲気を纏った女性がいた。
名を飛鳥晴子と言い、この孤児院の院長であり、姫の育ての親である。
晴子はゆっくりとした足取りで姫の隣に腰掛けた。
「知ってる?姫ちゃんが帰ると、あの子達いつも寂しそうな顔をするの。それで『姫ねぇは今度いつ来るの?』って。」
「体のいい遊び相手がいなくなると、大概はそんな反応だよ。」
「ふふっ、姫ちゃんは照れ屋さんねぇ。」
なぜそうなると、姫は半眼になった。
この晴子という女性は、雰囲気と変わらずおっとりとしている。
だからと言って、孤児院の院長を担うあたり、芯はしっかりとしている。
けれど、なんとなく思考がたまにずれるというかなんというか。
「……先生、私は照れ屋のつもりはないです。」
「そう?だってみんな姫ちゃんが大好きなのに、姫ちゃんは大好きって言わないので態度で示すじゃない。」
例えば、子供達の頭を無言でわしゃわしゃと撫で回したり。
晴子が例を挙げると、覚えがあるのか姫は黙り込んだ。
だてに、長く自分を見守ってきただけあると姫は内心肩を竦めた。
そんな姫の心情もお見通しだった晴子は、笑みを絶やさないまま別の話題を口にした。
「そう言えば、つい最近みーくんが顔を見せたのよ。」
「みーくん……。湊ですか。」
孤児院にいた頃からの愛称で言うので、姫はその人物を思い浮かべるのに少し時間がかかった。
年齢がみっつほど年上で、線の細いやつだったと姫は思う。
妹のように可愛がってくれたが、年上なのだから姫を守る立場にあると自覚していたらしい湊は、姫からすれば気の弱い男だと思った。
ちなみに姫がそう思ったのは、若干六歳の頃である。
姫を守ろうとする気持ちは見えたのだが、いかんせん体が弱かった。
それに比例して、気も弱かった。
だから姫がしっかりと自我を持つようになると、逆に湊は守られるようになっていた。
そんな湊は、十歳になった頃養子として引き取られていった。
優しそうな夫婦だった。
別れの日、てっきり湊は泣くだろうと思っていた姫は、決して涙を零さなかった湊が意外だったことを覚えている。
それ以来、湊は中学、高校それぞれの入学と卒業のたびに報告を兼ねて孤児院に顔を出していた。
だが中学の入学の報告のため湊が孤児院を訪れた時、姫はあいさつをしようと湊に近付いたが、なぜか思い切り視線を逸らされた。
だから姫はそれ以来、湊と言葉を交わしていない。せいぜい遠目に眺める程度だった。
別に姫はそんな湊に怒りは感じなかった。
ただぼんやりと疑問に思ったくらいで、相手が嫌なら近付かないでいようと決めたのだった。
「私が最後に見たのは湊が高校卒業を報告しに来た時ですね。なんかでかくなってました。」
「中学高校でバスケットボールをしていたんですって。体もずいぶん丈夫になったそうよ。」
「へぇ。でも私の中では湊は『泣き虫湊』ですよ。」
「ふふっ。そう言って姫ちゃん、絶対みーくんを見放したりしなかったじゃない。」
「…………。」
「姫ちゃんは昔から優しいわねぇ。」
朗らかに笑う晴子から悪意を感じないのが厄介だと、姫は嘆息した。
ずっと育ててくれた恩もあって、強く反論できない。
と言っても、不快なわけではない。
自慢ではないが、姫自身周りから優しいと言われるような振る舞いをしているつもりはない。
なので正面から優しいと言われると、困惑してしまうというのが姫の正直な感想だった。
「……湊は今何をしているんですか?」
とにかく今の状況を変えるためだったらなんでもよかった姫は、当たり障りのない質問を口にする。
変わらず笑みを浮かべる晴子はそんな姫をわかっている風だったが、素直に答えた。
「確か高校を卒業した後は、短大に進んで、就職したらしいわよ。それなりの大手企業らしくて、最近は企画を任されたって。」
「へぇ。じゃあ、出世頭ですね。」
湊は気が弱かったかもしれないが、嫌われ者ではなかった。
実際、湊が孤児院に訪れるたび、子供達が集まるほど慕われていた。
その人を惹きつける力が、仕事に生かされているのだろうと思われた。
「そう言えば、今の企画が少し落ち着いたら、姫ちゃんに会いたいって言ってたわ。」
「……は?」
思わぬ言葉に、姫は目を丸くして晴子を見た。
「湊が?」
「えぇ。だから姫ちゃんがここに来る時を教えてくれって。」
「……教えたんですか?」
「教えたけど、いけなかったかしら。」
「……いえ、別にいけなくはないですが……。」
今まで無視をしていた相手に、突然そのうち会いたいという湊。
姫はなんとなく納得できず首を捻った。
「あら、だったらあれも教えちゃまずかったかしら……。」
「……あれ、とは。」
うっすらと嫌な予感がしながらも、姫は晴子を促した。
「うーん。あのね、姫ちゃんの仕事先も教えちゃったのよ。あ、さすがに家は教えてないわよ。でもみーくん少し必死だったから……。」
困った顔でごめんなさいねと謝られては、姫は責める気がなくなる。
長い付き合いはお互い様だから、晴子に悪意がないのはわかりきっている。
「まぁ、湊も社会人ですから、何か理由があるんでしょう。」
「そう?本当にごめんなさいね。」
「大丈夫ですよ。湊が来たら一応迎えますから。」
もし押しかけて店に迷惑がかかるようであれば、躊躇いなく警察に通報してやろうと姫は密かに決意していた。
しかし今頃、あの湊が会いたいなどと、いったいどういう風の吹き回しだろうかと、姫は疑問を捨てられずにいた。
だが悩んでいても仕方ないと、姫は頭を切り替えた。
それ察した晴子は、ほっと安堵の笑みを口元にのせた。
「姫ちゃん、最近お仕事ははかどってる?」
「店の運営に関わることなら、順調ですよ。」
その言い方に、晴子は瞬きをした。
姫の視線はスケッチブックに向かっている。
それだけで、晴子は察することができた。
「……姫ちゃん、創作がうまくいってないのかしら。」
「…………はい。」
こくりと頷いて、姫は小さくため息をついた。
「私、デザインとかわからないけど、姫ちゃんのデザインはどこかいけないの?」
「……さぁ。仮に欠点があっても、オーナーはそれを教えてくれません。」
自分で見つけて自分で自覚するから、己の糧になる。
オーナーの口癖だった。
「アイデアは限りなく浮かぶんです。いろんな系統にも挑戦しました。でも、オーナーはいつもあと一歩だって。」
オーナーがくれた唯一のヒントは、『あと一歩』だった。
その一歩が技術力なのか想像力なのか、姫はわからずにいた。
そんな時、晴子がぽつりと言った。
「……勇気、かしら。」
「え?」
思わず声を上げた姫に、晴子は苦笑を向けた。
「これは、私の勝手な想像だから、あくまでも参考程度に、ね。」
そう言って、晴子は手近にあった木の枝を手に取って、地面に一本の線を引いた。
「姫ちゃん、この線の手前が、私達のいる地球という世界だとして、線の向こう側が全く知らない別世界だとするわね。」
いきなり突拍子がないなと思いながらも、姫は頷いて応えた。
「じゃあ、線を越えるだけ別世界に行けるとしたら、姫ちゃんはどうする?」
「……それは、絶対別世界に行かなければならないんですか?」
「例えよ、例え。」
そう念を押されて、姫はうむと考え込んだ。
「……向こうの世界が見えるなら、どう線を検討して越えると思います。」
すると、晴子はくすくす笑った。
姫はおかしなことを言っただろうかと、僅かに眉を寄せた。
「ふふっ、ごめんなさいね。予想通りの答えだったから。」
うんうんと頷いて、晴子は口を開いた。
「そうよね。姫ちゃんは慎重だから。」
「そう、なんでしょうか。」
「そうよ。どこをどう行けば安全なのか、ちゃんと考えてから踏み出すタイプ。」
でもねと、晴子は付け加えた。
「考えている間に、大切なタイミングを逃しちゃったら、もったいないと思わない?」
「タイミング……?」
「例えば、もれなくもらえる特典がもらえなくなっちゃったり。」
それを聞いて、姫はがくりと肩を落とした。
「……なんか、一気に現実的な話になりましたね。」
「わかり易いでしょう?」
にこにこと笑う晴子に反論する気は起きず、姫は曖昧に相槌を打った。
「つまりね、たまには慎重に考えないで違う世界に飛び込んでみるのもいいんじゃないかしら。」
「……でも、さっきも言いましたが、他の系統にも挑戦してきました。」
デザイナーが他の系統に挑戦することも、ある意味別世界に挑戦することだと姫は思う。
晴子は緩やかに頷いた。
「そうね。でもきっと、別の系統に取り組む前に『こうすれば間違いない』って道を選んだんじゃないかしら。」
「…………。」
「たぶん、無意識で。責めることはないわ、姫ちゃんの慎重なところ決して悪いことじゃないもの。」
「……言葉を変えると、無難な道に走っていたんですね。」
ふうと息を吐き出して、姫は晴子に体ごと向き直った。
「ありがとうございます。言われてみると、覚えがあります。」
「役に立ったかしら。」
「はい、とても。」
「そう。よかったわ、素人の言葉ってすごく説教じみて聞こえるじゃない?でしゃばり過ぎちゃったんじゃないかって不安だったの。」
それでもちゃんと言葉をくれた。
そんな晴子に心から感謝して、姫は言った。
「先生の言葉を胸に、これからの創作を頑張ります。オーナーから認められたら、真っ先に先生に知らせます。」
「えぇ。楽しみにしてるわ。でも、姫ちゃんらしさを失わないでね。」
「はい。」
頷くと、姫はスケッチブックの新しいページを捲ると、真っ白なそこにペンを走らせた。
描いたものが出来上がると、姫はそのページを切り取ると立ち上がり、スケッチブックを置いた。
そして遊んでいる子供達に歩み寄ると、先程姫にイラストを希望した子供に切り取ったページを渡した。
「ほら、これでいいか。」
「わー!ピ○チュウだ!」
「すごい上手ー!」
「姫ねぇおれにも描いてー!」
「強いやつー!」
「あほぅ。苦労なしにレアが手に入ると思うな。それに早い者勝ちだ。」
『えー!』
不満の大合唱の子供達に、姫は腕を組んで鼻を鳴らした。
「だったら、私が逃げ回るのを捕まえることができたやつに希望のものを描いてやろう。」
「無理だよ、姫ねぇ足速いもん!」
「頭を使え。全員で追いかけてこい。」
多勢に無勢という状況に子供達は少しの勝算を見出し、顔を見合わせ頷き合った。
『やる!』
「よし、お互い手加減なし。かかってこい。」
そして始まった一対多数の鬼ごっこ。
その様子を晴子は微笑ましく見守っていた。