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メナシ  作者: 結川さや
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第二話

 色屋を出たトウマの懐は、たっぷりと重くなっていた。もちろん昨夜の報酬、金一両には負けるものの、一刻も経たずして二千文を稼ぎ出した結果は十分満足の行くものだ。

「色屋ってのはな、色を使った『色賭博』の賭場のことだ。赤、青、白、黄、緑――って具合にこの五つ色の地に建った五つの国を指した駒がある。青穂ノ国では青が、そんでもって隣の赤木ノ国では赤に賭ける愛国心あふれる輩が多いってのはまあどうでもいい話だが、とりあえず紅、藍、銀、金、碧っつうそれぞれの国が神社に奉る御石とは違う名を冠してるところだけは、色ノ神に遠慮した可愛げの残る遊びってわけだな」

 珍しくも饒舌なトウマが指折り数えて説明するのを、隣を歩くアザミは黙って聞いている。先ほど店の中で見た光景がよほど驚愕を生んだのか、とも思ったが、その前から一言も発してはいないからどちらかわからなかった。

「で、まあ、その――五つの駒を国に見立てて、お互いの陣地を攻める。自分が選んだ色が負けたら掛け金は没収。買った者には倍返し。って単純なやり方で遊ぶもんなんだが……面白えのはそれだけじゃねえってところだ。駒それぞれの色には微妙な濃淡がある。色が濃いほうがなぜか強いってのは、不思議だけど賭場に入り浸る連中皆に知られた裏情報なんだ。だから表向きでは禁止されてるが、裏じゃ容認されてる必勝法が存在する。それこそ、持込駒もちこみごまだ。どこからか入手した色の濃い駒を賭場に持参し、わからないようにすり替えるって寸法だ。もちろん見つかればその場で掛け金も取り上げ、賭場への立ち入りも禁止されるが、そもそも証拠もない。かといって店の名なんて書いた駒でも使えば興醒めだ。あんまり厳しいと客は減るし、ゆるすぎると不正が横行して大損する。店側としてはその辺のさじ加減でいつも頭を悩ませてるわけで――」

 調子よく人差し指を立て、語るトウマの言葉。そのどれにもアザミは無反応だった。

 自分とてあまり喋るほうじゃないというのに、それに輪をかけて黙り込まれてしまっては、なんとなく居心地が悪い。ただそれだけの理由でどうでもいい話を続けていたのだが、いいかげん馬鹿馬鹿しくなって、トウマは乾いた笑い声で話を締めくくった。

「ま、そういうわけで俺の売った『色』を女将が高値で買ってくれたってわけだ。こんだけありゃ、たっぷり朝飯食えるってもんだな」

 ポン、と軽くアザミの頭に手を置いて、話題を変える。朝市どころか、これなら屋台で握り寿司か、蕎麦。いや、天ぷらでもいいかな――。

 食事に思考を移すと、途端に口内に唾が沸いてくる。昨夜はこのアザミのおかげで白米の握り飯にありつけた。とはいっても、仕事を二つもこなした体には全くといっていいほど足りていない。それに空腹はアザミとて同じだろう。

「お前は何が食いたい? 当分懐は温かいからな、遠慮しねえで好きなもん言ってみな?」

 ご機嫌でトウマが問いかけた、その語尻が終わらぬうちにざわりと首筋を嫌な感覚が撫でる。はっと振り向いたトウマは――といってももちろん厳重に目隠しをした状態では見えるわけじゃないのだが――軽く舌打ちをした。

 もうすぐで賑やかな街道に出ようという一歩手前。さらさら流れる川にかけられた橋のたもとで足を止める。下品な笑い声が周囲を取り囲んでいた。

「おい、メナシ野郎」

 偉そうな呼びかけで、怯えたようにアザミが手を握る力を強める。

「随分荒稼ぎしてたじゃねえか。ありゃあ何だ、体から色を出してんのか? 手前では見もできねえくせに、大層なこった。どうせあの黒煙だかいう化け物をやっつけて、山ほど銭儲けしてんだろう? それなら少しくらい、可哀相な俺たちにめぐんでやる気はねえかい」

 予想通りの展開と要求。その下卑た声を聞きながら、トウマは彼らとの距離と人数を測っていた。気配は五つ。円状にトウマたちを囲む中心、ちょうど向かい側から言葉を発しているのが大方、この小悪党どもの頭に違いない。彼らがまっすぐ向ける純粋な悪意が、トウマの首筋をちりちり刺激していた。

 話ぶりからして、先ほど色屋で行ったトウマの技を覗き見でもしたのだろう。といってもメナシを脅すのは初めてだとわかった。人間相手でこなれているにしろ、それがそのまま自分にも通じると思うほどの浅慮な相手だ。余裕を失わず、トウマは鼻で笑った。

「嫌だ、と言ったら?」

「何だと?」

 気色ばむ男たちからアザミを隠すようにして、更に続ける。

「自力で稼ぐ気もねえ蛆虫どもにめぐんでやるような金は、一銭だって持ち合わせちゃいねえってことさ。それでもってんなら、力づくで取ってみな」

 わざと挑戦的な物言いをするのも、尊大に変貌する態度も、全て仕事の時と同じ。だが一つだけ違うとすれば――あれほどの高揚感はないということ。

「くそう、舐めやがって……目も見えねえメナシふぜいが偉そうに! やっちまえ!」

 こういう輩の単純に過ぎる思考回路を読むことなど、目を瞑っていても容易い。それがそのまま攻撃の仕方にも転じるのだから、容易すぎて面白くもなかった。

「アザミ、ちょっと待ってな」

 橋の下に続く茂みへ小さな体を押しやると、トウマは飛び掛ってくる男たちに対峙した。ひい、ふう、みい……まず繰り出された拳を空気の動きで感じ取ると、おもむろに広げた両手をパン、と大きな音で打ち鳴らした。

「なんだ……っ?」

 よく晴れた青空の下、視界など無に等しい。それでもトウマの白い双眸には熱が宿り、触れ合わせた手の間からは、滲み出すように液体が――いや、気体が流れた。

 それはつい先ほど色屋で女将相手にやってみせた技と同じ。ただ駒に注入してやればいいものと比べ、その応用型といってもいい。だらりと流れ、滴り、空気に混ぜ合わされたように染みていくのは他でもない、色だった。

仕事で斬った黒煙。彼らの持つ心臓の色。それは視えたと同時にトウマの体に染み込み、蓄積されていく。決して体に溶け合うことはせず、こうしてその濃度を上げているのだ。

「ほら、お望みどおりくれてやるよ。とっておきの――朱だ!」

 昨夜吸収したばかりの色。そのギラギラと獲物を狙う、蛇の舌のごとき朱をそのままに放った。這うように、泳ぐように蠢き、放つトウマの思いに沿って、盗人まがいの男どもへと飛んでいく。

「ひっ、な、なんだ! なんなんだよおっ」

 あれほど大口を叩き、脅してみせた時とは別人のようにあわてふためき、空中を飛散してくる色の攻撃に逃げ惑う。

「しっかりしろお前らっ! なんだか知らねえが、ただの色のぶよぶよじゃねえか! あんなものに触れたからって別に――」

 他よりは多少気の据わった頭が立ちふさがり、皆に向かってそう言おうとした瞬間。べとり、とその肩に触れた朱が、熱を発し、着物を焼き始めたのだ。

「うっ、うわああああ!」

 途端、恐怖に凍りついた顔で滅茶苦茶に暴れ、火を消そうとする。頭の状態に残りの男どもも驚愕に震え、我先にと逃げ始めた。

「お前ら、くそう……待ちやがれっ! あああっ、熱い――!」

 上半身にたちまち燃え広がっていく火になすすべもなく、倒れこんだ頭。その前で無表情で腕組みをし、立っていたトウマは「あーあ、義理人情とやらはどこへ行っちまったんだろうなあ」なんてとぼけた声で呟く。それが終焉の合図だったのか、倒れた男の燃える体に近づくと、背中から引き抜いた香剣の刀身で、すっと火を撫でた。

 その動作だけで、瞬時に火も朱の色も消えてしまう。熱さがふっとなくなったことに気が付いたのか、頭の男は狐につままれたような顔で起き上がった。

「どうだい? これ以上やるかい?」

 やる気なら、もっと強い色を出してやってもいいけど――などと続けつつ、どうでもよさげに香剣を片手の掌で愛でるように叩く。その仕草と、楽しげに舌なめずりをするトウマの口元を見て、恐れをなしたのかどうか。男は頭の外聞もかなぐり捨てて、走り去って行ったのだった。

「はあ……また余計な体力つかっちまったな……」

 本来の仕事とは違う、邪道とも言える力の使い方。それはトウマが独自に編み出したものであり、掟すれすれの金稼ぎの方法でもあった。咎める仲間もいれば、いつしか真似て自分もやり始める者もいた。けれどもあまり感心できる裏技ではないことは確かだから、よほど困った時にしか使わないことにしているのだが。

「アザミ、無事か?」

 隠しておいた茂みを覗き込み、訊ねる。こくりと頷く気配がして、すぐに伸ばされた手がトウマの手にからまった。なぜか、それだけのことで心のどこかが温まる。

 どうやらトウマの仕事もこんなやり口も、アザミを恐れさせてはいないらしい。それどころかしゃがみこんだトウマの体をあちこち触って、怪我がないかを確かめることまでした。

「トウマ……?」

 小さな声に込められた意図を察知し、笑ってやる。

「俺なら平気だ。あんなもん、鍛錬の一環にもなんねえや。それより今度こそ朝飯と行こうぜ。腹が減りすぎて背中とくっつきそうだ」

 おどけたふうに提案したら、しばらくしてくすくすと遠慮がちな笑い声が耳に届いた。

 ――笑った。

 初めて聞いたアザミの楽しげな声は、小さく可憐な鈴を転がしたような、清らかなものだった。


                *


 それから、トウマとアザミの不思議な旅が始まった。

 仕事の予定も当分なく、路銀もたっぷり――という至極単純な理由で自分を納得させて、アザミと手をつないで歩き続けること七日。初めは名前を呼ぶぐらいしかしてくれなかったアザミだが、今では少しなら会話も成立するようになっていた。それだけ、自分に気を許してくれたのだろう。

「あれは?」

「あれは緑。ゲコゲコ、鳴くの。蛙。蛙は緑」

「そっか。緑――じゃあこの葉っぱと同じか?」

 夕暮れのあぜ道をぴょん、と飛び跳ねた小さな生き物。それと道端の草を指し示して訊ねると、「うーん」と困ったようにアザミが首を傾げる。

「一緒、じゃない。ううん、一緒。でも……ちょっと違う。緑だけど、薄いのと濃いのと」

 ぷつぷつ途切れる、舌ったらずな喋り方。それは怯えているからでも緊張しているからでもなく、アザミの口調であるらしい。

「アザミ、年は十一って言ったよな?」

 大体の想像に合っていた数をもう一度確かめる。が、一度頷いた後、アザミはまた首を右に傾けた。

「たぶん。そう、女将さん言ってた」

 まあ、多少の差はあるにしても、トウマとは六つほど離れていることになる。その年頃の少女がどのような話し方をするのか詳しくは知らないが、なんとなく幼いようには思えた。だからといって、馬鹿じゃない。アザミはちゃんと、自分で物を見て、感じることを知っている。

「じゃ、さ……その、どっから来たかはまだわかんねえか?」

「わかんない。覚えて、ない」

 ぽつりぽつりと数日に渡って聞き出した話をまとめると、物心ついた時にはもう鶏娘として暮らしていたという。あの名主に引き取られる前は、もう少し田舎。その前はまた別の里。点々と移ってきたのはおそらく、より良い値を求めて時折行われる、鶏娘の交換のためだろう。

 ――まあ、親とまともに暮らしてる子供なら、鶏娘なんかになってねえわな。

 貧乏を理由に売られるとしても、まだましな奉公先もあるからだ。生まれてすぐに捨てられたのか、途中で親を亡くして売られたのか。どちらにしろ、思い出したくない過去に違いない。本当に忘れているのかはともかくとして、それ以上聞くのはやめた。

「それで、例の――黒煙が見えるようになったのはいつからだ?」

 数日悩み、まだ聞いていなかったもう一つの質問をようやく繰り出した。やはり、これだけは聞いておきたい。

「黒煙、ケムリ?」

 ああ、そうだ、と頷く。その名も知らないアザミは、黒煙を『ケムリ』と呼んでいるらしかった。出会った夜の話は抜きに、自分の仕事として話してやった時に聞いたことだ。

「うんと……これくらい」

 そう言って、指を三本出してみせる。「三年前? いや、三日か?」と眉間に皺を寄せて聞くと、ぶんぶん首を左右に振った。その動作で、二つに結わえた髪が揺れる。

「あれ、三つ。そう、三つの時。赤いべべ着て、紅引いて――それは、覚えてる。そん時から、たまに」

「三つの時から、だって? そんなに前から視てるのか!」

 急に声を荒げたせいで、アザミがびくっと肩を縮める。あわてて口調を優しくした。

「いや、悪い。怖がることはねえ。それで……あんな風に襲われたことは? 今までどうやって逃げた?」

「逃げる? ない――怖くて、じっとしてた。ケムリ、何もしない。だから、待ってた」

 ただ去っていくのを待っていた? そんな馬鹿な。

 信じられない、と額を押さえる。トウマの様子を恐々見上げるアザミに、安心させるように微笑んでやった。とにかく、今までの常識が破られようとしている。それだけは確かだった。

「アザミ、黒煙――ケムリってのはな、狙いをつけた人間を襲う。襲ってその身にまとう色を喰うんだ。着物や髪飾りなんかから始まって、体の一部の色が喰われた日にゃあ、途端に体調を崩す。色がなくなった部分から段々腐って、最後には――」

 死に至る。が、そこまでを無垢な少女に話すのは気が引けた。ごまかすように口角を上げ、続ける。

「まあ、無事でいるのは難しいってこった。だから俺は驚いてる。アザミ、お前が今まで何度もケムリの奴を目にし、襲われながらも無傷でいたってことにな」

「……?」

 いきなり理解させるのは難しかっただろうか。大きな瞳をぱちくりさせて、立ち止まったトウマを見上げてくるアザミ。その透明な視線を受け止めながら、ひたひたと背中に迫る闇を感じる。自分にとっては優しく、包み込んでくれる存在を。

 ――もしかして、襲われたわけじゃねえってことか?

 今までなかった発想に気づいた。でも、まさかそんなことがあるのだろうか。あの時のアザミも、心底から怖がっていたように見えた。

「怖い……けど、怖く、ない。変。あれは、変なの」

 トウマの思考を読んだかのように、自身の混乱をも混ぜてアザミが答える。

「でも、トウマがいる。だから……怖く、ない」

 それは今得た結論なのか、それとも出会った時に感じた思いだったのか――わからないけれど、アザミには確固とした事実であるらしかった。にっこりと微笑んだ顔は、ぎこちなく咲き始めた一輪の花のようで。

 アザミ――確かその名を持つ優しく可憐な花そのものが、アザミにぴたりと似合っている、と思えた。あれは、どんな色をした花なんだろう。らしくない疑問に照れたかのように、トウマは鼻の下をこすった。

「ふうん……そっか。ま、いいや」

 考えてもわからないことに執着していても仕方がない。両腕を頭の後ろに回し、再び歩き始める。トウマの後ろから、アザミが当然のように小走りで付いてくる。

 飼い鳥の身から解放され自由を得たのに、決して自分のそばを離れたがらない不思議な少女。色を喰うケムリこと黒煙を視ることができる。幼い頃から視えるくせに、襲われるも喰われもしない謎の――。

 追いついてきたアザミが着物の裾に飛びついて、むぎゅう、と嬉しそうにトウマの腰に抱きついてくる。その頬も、腕も、体つきも、たった七日とはいえ一応満腹になるまで食事をさせてやったからか、会った頃より丸みを帯びた。それでも同じ年頃の少女よりはやせているに違いないのに。なぜだろう、それだけでとても少女らしく、美しく変わろうとしているのがわかった。

 どくん、と音を立てた心臓に一番驚いたのはトウマ自身。ただ成り行き上助けただけ、すぐに別れるつもりの見知らぬ子供――それだけだった存在が、自分の中に居場所を確保し、そこで大きく、とてもかけがえのないものに育っていくのではないか。そんな危惧を、あわてて打ち消した。

 ――何を考えてる。こいつは、神社へ連れて行くんだ。

 身よりもなく、売られそうになっていた少女なのだと言えば、きっと保護してくれるだろう。メナシである自分が問題になるのなら、近くへ着いてから適当な身元保証人を探してやればいい。連れて歩き始めてからずっと考えていた手順と目的を、もう何度目かわからぬほどに頭の中でなぞった。そんなトウマの葛藤に気づきもしないアザミをさりげなく引き剥がし、また手をつなぎ、今夜の宿を求めて歩みを再開する。

 月。白と黒のトウマの世界を照らす、優しい光。それが和らげる薄闇に包まれて、無言であぜ道を歩いた。そうして数歩、アザミがきゅっと手に力を込める。

「トウマ、痛く、ない?」

「ん?」

 何を聞かれているのかわからずに聞き返す。が、また同じ問いを重ねるアザミの真摯な瞳に射抜かれ、ようやくそれが日中に自分が漏らした一言を指してのことだと思い至った。

『日差しのある内に歩くと、やっぱ目が疲れんな』

 例によってぐるぐる巻きに目を保護していたのだが、続けて昼間出歩くことは普段なら避けているから。眼球が揺れ、刺すような痛みに襲われる。メナシの一族特有の、生まれつきの持病みたいなものだ。幼い時ほど戸惑うことも、痛みに泣くこともなくなったものの、付き合い方を学んだだけとも言える。

 そんなわけで酷使した目が久々に痛み、それに耐えていた時の呟きだった。

『痛いの? トウマ、痛い?』

 何度も泣きそうな声で訊ねられ、大丈夫だと答えたのに。木陰を探し、休んだら良くなったからと。それでもアザミは忘れていなかったのか。

「夜、平気。トウマ、痛くない。アザミも夜、歩く。そしたらトウマ、泣かない?」

 泣いてなどいない――驚きと共にそう答えようとしたところに、ふわっと何かが手に触れたことで止まった。今まであった小さな手の感触の代わりに、左手の中に細く、やわらかい何かが握らされている。それは少し前に自分が指し示した、名もない雑草だった。やわらかな穂が付いたそれを、アザミが差し出したのだ。

「これは黄緑。いっぱいおひさま浴びて、優しい色」

 最近始められたこんなやりとり。見えないトウマに精一杯色を伝えようと、円らな瞳を凝らし、首を捻って考え込み、顔を輝かせて教えてくれる。

「アザミ、俺は――」

 お前をただ、安全な場所に送り届けるだけ。その後は、この手を離す。お前のそばから、いなくなるんだ。そう言えばいいのに、なぜか喉の奥で止まったまま、言葉は出てこなかった。

「トウマ」

 軽やかな声が、突っ立ったままの背にかけられる。目線だけを動かしたトウマに、アザミはとびきりの笑顔を見せた。

「アザミ、トウマ手伝う。トウマの――色に、なる」

 そう言われた瞬間の、まるで全身を見えない色で染められていくような感覚。心が震えるようなこの感情の名は何なのか。まだこの時のトウマにはわからなかった。


 アザミと二人の山越えが始まった。青穂ノ国に二十余はある社――大小規模はそれぞれである――を取りまとめる本山、藍神神宮へと向かう旅。ただ、目的地はアザミには告げていなかった。

「トウマ、見て。あれ、綺麗」

 あいかわらず拙いながらも、少しずつ単語は増え、表情も変化に富み始めた。アザミのそんな姿を見ていると、期間限定の間柄であることをどうしても言えなくなる。

「あ、ああ……そうだな」

 涼しげに届く音。そろそろ川が近いな――などと考えて気のない返事をした。そんなことはお見通しだったのか、ぷう、と両の頬を膨らませ、アザミが腕を強く引いてきた。

「どこ見てるの。あっち! ほら――きらきら光ってる」

 昼には眠り、夜に歩く。そんなトウマの旅に、今ではアザミも合わせている。だから指差す先に見えるのは月だった。月光を辿るようなアザミの指を追っていくと、目当てのものは川辺にあった。

 ぼんやりと発光を繰り返す光。それが蛍のものだと教えてやると、アザミは顔を輝かせる。初めて目にしたのか、きゃっきゃとはしゃぎながら飛び交う光点を追い回し始める始末だ。

出会ってからもう半月になるだろうか。垣間見せる仕草も表情も、全てがゆっくりと開く花を思わせる少女。その花弁は、少しずつ、確実に華やぎを増している。

「わあい、気持ちいい!」

 いきなりばしゃばしゃと川に踏み込んでいくアザミに、さすがのトウマもたじろいだ。

「おっ、おい!」

 引き止める間もなくあっという間に膝まで水に浸かり、気持ち良さそうに蛍の光を見渡していた。宿に泊まった時には風呂を使わせたものの、結局野宿まがいの空き小屋や洞窟で眠るのにも慣れてきた。もともとトウマ自身も襤褸をまとい、汚くしていることに頓着しない生活を送っているから、忘れてしまっていたのだ。

「そっか……水浴びくらいしたいよな」

 粗末な着物――名主の屋敷を出て以来着替えてもいない唯一の衣服は、端も擦り切れ、余計にひどい有様になっている。対照的に、やせっぽちだった体や顔の輪郭が本来の役割を取り戻し、一端の元気そうな少女のものになっていくことだけで満足していたのだった。

「俺もちょっと洗っとくか」

 鼻を近づけ、確かめるまでもない汗臭さに顔をしかめると、トウマも脚絆や手甲、それに草鞋も着物も全部脱いで、ふんどし姿で川に入る。体の垢や汗を落とし、両手で水を掬って顔を洗うと、途端にさっぱりした気持ちになった。

「はあーすっきりするなあ。アザミ、お前も……」

 濡れた前髪をかきあげ、そばではしゃいでいたはずの少女に振り返る。ほぼ裸に近い姿でいる自分のことは棚に上げ、トウマは目を見開いた。

「うわっ! なっ、何やってんだ、お前!」

「ふえ?」

 小動物のような声で問い返し、顔を上げたアザミ。彼女は濡れて重くなった着物の帯を外し、今にも裸になろうとしていたのだ。量の少ない結わえ髪は濡れ、首から肩に張り付き、華奢な体は水滴をまとわりつかせて艶かしく月光を浴びている。

 鎖骨の下の膨らみがもうすぐ布の合間から見えそうで、トウマは自分でも驚くほどに動揺した。

「こっ、ここは風呂じゃねえんだぞ? こんなとこで真っ裸になったらどこで誰が見てるか……」

「でも。トウマ、裸」

 視線の行方を人差し指で示されて、トウマは頬を赤らめた。ふんどし一丁では、確かに説得力というものには欠けている。

「おっ、俺は男だからいいんだよ! お前は――お前は一応、女、だから」

「女?」

「そっ、そう! 女は子供でも外で裸になるもんじゃねえの。わかったらさっさとそれ着ろ!」

「でも、濡れてる」

「あーっ、くそ! じゃあ乾くまで俺のを貸してやる。な? それならいいだろ?」

 まだ冷たい水に未練を残した眼差しを見せつつも、渋々アザミは言うことを聞いた。なぜか心臓がどくどくと高鳴りっぱなしの自分とは違い、素っ裸のトウマを前にしても何の動揺も見られない。その辺は子供でしかないから、油断していたのかもしれない。

 でも――たったこれだけの間に、こんなに印象が変わるもんか?

 よくよく見れば背丈も少しトウマに追いついてきているような。それは明らかな『成長』だった。丸みを帯びた頬も体つきも、すらりと伸びた手足も、急に子供から大人のものへ。蛹が蝶になるように、あるいは水を得た魚のように――アザミは変わり始めていた。

 着せてやれば気に入ったのか、トウマの匂いがすると嬉しそうに濃紺の着物姿の自分を抱きしめる。あくまで無邪気な言動に似つかわしくない、かすかな色香のようなもの。それはアザミの全身から立ち上り、見えない煙となってトウマの心へ侵入する。入り込み、いつの間にか相手を捕らえる魅力の網となる。そんな妄想を浮かべた自分を恥じるように、トウマは首を振った。ついでに、盛大なくしゃみを一つ。

「あはは、トウマ、裸んぼ!」

「うっ、うるせえな。お前に着物やったからだろうが」

「これ、アザミにくれるの? わあい、トウマの着物!」

「ちっ、違う! 貸してやっただけだっ」

「裸、裸、トウマの裸!」

「こらあっ、アザミ!」

 拳骨を振り上げる真似をすると、弾けるような笑い声を上げて川岸を駆けていく。ふんどし姿で追いかけながら、いつしかトウマの頬にも笑みが浮かんでいた。濡れたままの前髪は横に垂れ、白い双眸はあらわになって。それでも目の前の少女は怯えることも、忌み嫌うこともない。ありのままの自分を、まっすぐに慕われる。初めて知ったくすぐったい感情は、ゆるりゆるりとトウマの硬い心をほぐしていくのだった。


 翌朝、アザミはやっと乾いた着物を嫌がり、なかなか袖を通してくれなかった。洗うこともできずにそのままの着物は、獣のものにも似た異臭がするのにも関わらず、である。嬉しいような情けないような――奇妙な照れで頬を染めたトウマに無理やり押し付けられ、最後はあきらめてくれたのだが。

 というわけで、まず今朝の仕事はアザミの着物調達、にすることにした。

「アザミ、そっちじゃねえ。こっちだ」

 次の里に到着してすぐ、いくつか軒を連ねた古着屋へ向かう。その内、女物の着物が並べられた店をじとっと上目遣いで眺めていたアザミは、呼ばれたほうに子犬のような突進を見せた。

「これ? アザミも、これ? トウマと一緒?」

「ああ、一緒だ。お揃いだ。いいだろ?」

「うんっ!」とすごい勢いで首を縦に振るアザミは、満面の笑みだ。半月前には想像もしなかった表情と態度にじわりと胸が温まる。それにしても、男物の着物でここまで喜ぶというのはどうなのか。

「嬢ちゃんのなら、向かいだよ」

 怪訝そうに言って来た店主に、「嬢ちゃんじゃねえ。弟だ」とぶっきら棒に返す。トウマの頬が赤らんでいることは、いつものごとき厳重装備で顔半分は埋まっているから、気づかれてはいないだろう。メナシが変な娘っこを連れて、おかしなことを言っている――店の奥から押し殺した囁きが聞こえたが、トウマに気にする余地はなかった。

 水浴びの一件で気づいたのだ。これから旅の道中、万が一にもアザミに妙な輩が寄ってきてはいけない。今まで子供だとタカをくくっていたが、なぜだかどんどん女らしく変貌していくアザミである。これではあと半月した頃にはどうなっていることかわからない。いくらゆっくり歩いて進んでいるとはいっても、それまでには本山にたどり着けるだろう。それでも、用心するに越したことはないのだ。

「ありがと、トウマ!」

 わあいわあい、と飛び跳ねて、早速纏った男物の旅装束にご満悦のアザミ。戦闘に適したトウマのものとは微妙に違うのだが、さすがにその差異に気づくことはなかった。

 左右で二つに結わえてあった髪も後ろで束ねて、頭巾を被せる。それだけでも少女っぽさは薄れたようだ。

 一人頷き、ほっと胸を撫で下ろす。なぜかどっと疲れが出て、今日は宿で泊まろうと思った。適当な宿を見繕い、近くの屋台で腹ごしらえをするべく歩き始める。

 が――よく晴れ渡った青空の下で、眼球の奥がズキリと痛んだ。この季節に、裸でいることなど何でもないはずが、なんとはなしに眠れなかった。寝不足がたたったのだろうか。結構な痛みに汗が出てくる。それでも横を歩くアザミに余計な心配はかけたくなかった。立っているのがきつくて、屋台ではなく飯屋を探す。ちょうどほかほかとした湯気が立ち上るうどん屋があって、これ幸いとアザミを連れて入った。店主も他の客も、一瞬嫌そうな顔でちらりと見るが、そんなことを気にするほど繊細なトウマではない。

 おいしそうに麺をすするアザミに満足して、トウマもさっさと食事を終えた。腰を上げかけたその時、である。

 店の娘がお茶を運んできたので、浮かせかけた腰を戻した。礼を言い、茶をすするトウマのそばに立った娘は、いつまでも動こうとしなかった。

「――何だ」

 今までアザミとたわいもないやりとりを交わしていた時とは別人のような低音で、問いを発する。瞬時に全身を覆った強い警戒の気に、娘は戸惑いつつも、立ち去らずに口を開いた。

「あっ、あの……お客さん、六つノ里の方でしょう?」

 侮蔑もあきらかな別称ではなく、きちんと里の名を出した娘に、トウマの気迫が弱まる。少なくとも、自分――そしてアザミに危険をもたらす相手ではないことがわかったからだ。

「仕事の依頼か?」

「は、はい……あの、よろしかったら店の裏手で」

 そそくさと頭を下げ、盆を手にパタパタと娘が引っ込んでいく足音がする。

「何? トウマ」

 キョトンとしたアザミに、トウマは歯を見せて笑った。背中に感じる香剣の重みを、久々に思い出しながら。

「仕事だとさ。来い、アザミ」

 里からの命ではなく、こうして自分で依頼を拾うことも珍しくはない。受けるかどうかは本人が決めていいことになっているのが、命とは異なる部分でもあるが。

 そして経験上もう一つわかっているのは、往々にして自分で拾った依頼のほうが、とてつもない大物を引き当てたりする楽しみがある、ということだった。

 ――腕が鈍る前に、ちょうどいいや。

 祭りの前夜にも似た高揚感が、体の奥から湧き上がってくる。黙って付いてくるアザミは、明らかに表情の変わったトウマを止めることもいぶかしむこともせず、不思議そうに見つめてくるだけだ。

 店の裏手、待っていた娘が手招きをする。追いついたと思えば、更に遠く揺れる竹やぶを指し示し、前に立って歩き始めるではないか。

 ――用心のためか? にしちゃ、娘一人ってのは珍しいな。

 一瞬の違和感を見逃すほど、トウマの勘は鈍っていなかった。小走りに駆けていく娘の背中をその気配で追いながら、竹やぶの日陰に乗じて両目に巻いた布を剥ぎ、頭巾を脱ぐ。と、たちまち眼球を攻撃してくる日の光。治まっていた痛みがぶり返すが、今はかまっている暇はなかった。

「まどろっこしいのは嫌いなんだ。用があるんなら、さっさと姿を現しな!」

 こちらを振り返った娘、ではなくその周囲の静かな竹やぶに向かってトウマは叫ぶ。不安を感じたのか身を寄せてくるアザミを、さりげなく後ろ手に隠すのも忘れなかった。

ガサガサと竹やぶが揺れる気配に神経を尖らせる。が、後ろの藪を掻き分け、飛び出してきたのはもう一人の少女だった。

「ね、姉ちゃんっ」「カンナッ」

 そんなやりとりを交わしてひしと抱き合う二人の少女は、ざわざわと揺れる後方の竹を見て怯えた表情をする。

「誰かいるんだろ? それとも怖くて出て来れねえのか?」

 苛立ちをあらわに再度挑発してみせたトウマは、低く這い出すような笑い声を聞いた。

 ざわりと竹が揺れ、遥か上方で茂る葉がトウマの顔にも影を作る。

「久しいねえ、トウマ」

 笑いを収めて言ったのは、長い黒髪を後ろで結わえた女。竹の間から音もなく歩み出た隙のない肢体は、濃い色の衣装に包まれている。それは偶然にも、というべきか――アザミと同じ男物の着物だった。

「お前……!」

 眉をひそめ、息を呑んだトウマに嫣然たる微笑を向け、もう用済みと言わんばかりに震えたままの姉妹に目をやった。その白い、双眸を。

「もういいよ。さっさと行きな」

 冷めた顔で片手を振ると、姉妹は足をもつれさせるようにしながら竹やぶを抜け、店のほうへ逃げていった。彼女たちの姿が見えなくなるのを確かめてから、トウマが盛大なため息をつく。

「ツキナ――毎度毎度、お前も飽きねえなあ」

「あらあ、つれないことをお言いでないよ。同じ床で寝起きした仲じゃないか」

 たった今まで血も涙もない悪党みたいな顔をして、罪もない姉妹を利用したことなどすっかり忘れたらしい。トウマと同じ白い瞳の女――ツキナは、しなを作って言い返してくる。無言でいれば迫力のある美女、といった風情が急に崩れ、艶めいた雰囲気が代わりにあふれた。大抵の男ならば身を乗り出しそうな色気に、トウマはまるで無頓着で笑い飛ばす。

「は、同じ床とはよく言ったもんだ。一族の子供は大抵狭い小屋にゴザ一つで雑魚寝だからな。確かにそうとも表現できるだろうが」

「まっ、そんな細かいことはどうでもいいじゃないの。それより仲間との久方ぶりの再会を喜んではくれないのかい?」

「久方ぶり……たったの三月をそう呼んでいいのならな」

「ひどいわあ、三月もあんたと会えなくて、あたしのほうは身も心も疼いて疼いて」

「だから――妙な誤解をまねく言い方すんなって!」

 ふふん、と厚めの唇をつり上げ、微笑むツキナとトウマの会話に、静かな邪魔が入った。握る手を強めたアザミの、無言の抗議だ。

「トウマ、誰?」

「えっ? ああ、こいつは――」

「あーらまあまあまあ! やっぱり噂は本当だったんだねえ。一族でも若頭の座は確実っていうあんたが最近、奇妙な小娘連れて歩いてるって」

「噂……?」

 大げさに頷いてみせると、ツキナはじろじろと後ろのアザミを観察する素振りをした。――どうせ初めから気配も姿も確認していただろうに、性格の悪い女だ。

 内心ため息をつくトウマだったが、アザミは意外にもその目線をしっかり受け止め、逆に睨みつけたのだ。

「おばちゃん、トウマの知り合い?」

「おっ、おば……失礼ね! あんたみたいなちんちくりんに、おばちゃん呼ばわりされたくないわっ! 花の十八を迎えようという乙女に向かってよくも言ったわねえ」

「ちんちく……」

 意味ははっきりしないのだろうが、なんとなく悪い言葉だとわかったらしい。思いきり眉間に皺を寄せたアザミは、かなり不機嫌そうな顔でトウマの袖を引っ張った。

「この人、嫌い。トウマ、行こ!」

「お、おいアザミ」

「き、嫌いなのはあたしも同じよっ! いいええ、あたしのほうがもっと嫌いだわっ、このちんちくりん! トウマ、さっさと行きましょ!」

「トウマ、アザミと行くの!」

「まあ、昨日今日ちょっと一緒にいたくらいで図々しい子っ! トウマはあたしと里に帰るって決まってんのよ!」

「さ、里……? だ、だめっ! トウマ、帰るの、だめ! アザミと行くの」

「あたしとよ!」

「アザミと!」

 むううう、と睨み合いに移行した二人。軍配は迫力と年齢でツキナのほうに上がったようだった。ふええん、と泣き出したアザミの声でトウマも我に返る。

「だーっ! こんな子供泣かしてんじゃねえっ! ツキナ! お前も里で一番の女メナシなら、もっと場所と状況をわきまえろってんだ!」

 一喝され、ツキナの肩がわかりやすく落ちた。どれだけ偉そうに振舞おうと、肝心のトウマに怒られては無意味なのだ。

「で? 噂ってどういうことだ」

 自分とアザミのことがそれほど知れ渡っているとは思っていなかったから、まずそちらから確認する。やはり来たか、という風に含み笑いを返すツキナ。

「メナシに口ありって言葉ぐらい、あんただって知ってるでしょう? あたしら独特の情報網は馬鹿にしちゃいけない。仕事以外での行動だって、どこでも筒抜けみたいなもんよ。それに――裏稼ぎは一応、ご法度ってことになってたと思うけど?」

 最後の一言で理解した。色屋に立ち寄った一件のことだ。

「何だ。見廻りか」

「いいえ、特使とくしよ。城主の命で探ってる者がいるって話」

 顔をしかめ、額に手を付くトウマを、アザミが心配そうに見上げる。表情を和らげ、まだ潤んだままの瞳に頷いてやった。

「心配すんな。お前が気にすることじゃねえから」

「トウマ、トクシ、誰?」

 人の名前だと思ったのかそう訊ねるアザミに、わざとらしくため息をつき、ツキナが「呆れた!」と割り込んでくる。

「特使って言えば、城主が個人的に出す密偵まがいの兵じゃないの。あんた、そんなことも知らないの?」

 ついでに言うと見廻りとは、仕事のないメナシが立ち寄った村里で行う情報収集、という名の噂話みたいなもの。なのだが――普通に考えてそのどちらも一般の民が知るわけのない情報には違いない。しかしツキナはいかにも得意げである。泣き黒子のある切れ長の瞳で、さも嬉しそうにトウマを見やった。

「ほらあ、やっぱこんなお子様連れて歩いてたって、何の得もないじゃないの。七面倒くさいお荷物なんてさっさとどこへでもやっちゃって、あたしと里へ帰りましょうよ」

「いや、だから……」

「トウマ帰る? だめっ! だめだめだめえっ!」

「まーたこのガキは……自分が邪魔だってことぐらいわかんないのっ? っていうか大体あんた何なのよ! みすぼらしいくせしていっちょ前に男のなりなんてしちゃってさ。普通の人間がメナシのあたしらに近づくなんて、何か目的でもあるんじゃないでしょうねえ?」

 まだ顔を合わせてそれほどの時が経ったわけでもないのに、既に犬猿の仲という言葉がぴったりのアザミとツキナ。二人の睨みあいにため息をついていたトウマは、すぐに片手でツキナを制した。

「トウマ?」

 怪訝そうな顔をしたのはアザミだけで、ツキナのほうはさすがに気配を察知したらしい。今の今までいがみあっていた子供のことなど忘れたかのように、歴戦の女剣士の風格を取り戻し、辺りの竹やぶに視線を巡らせた。独特の悪臭が鼻腔を刺激する。

「まさか、こんな昼間に――?」

 信じられないのはトウマも同じだった。あれが現れるのは夜だと決まっている。疑いようもなく信じ込んでいた事実が、急に裏返されたのだから。

「ケ、ケムリ……!」

 しがみついてくるアザミの瞳も驚きに見開かれている。澄んだ珠を思わせる双眸に映る、黒い影――黒煙。

 ずるり、と竹やぶの隙間から這い出てくるのはしかも、一つではなかった。

複数の黒煙。これもまた初めての事態だった。

「トウマッ! あたしは前の奴を、あんたは後ろを頼むわよ!」

 言うなり飛んだツキナの背後に陣取って、トウマも戦闘体勢を取った。その合間にも、アザミを足元の茂みに押し込むのを忘れない。しかし、嫌な予感は的中したのだ。

 大きいもの、小さいもの。それぞれの思惑を持って蠢いていた黒煙の群れは、突如として一箇所に固まり、合わさって、濃厚な影を作り出していく。頭上へ飛び上がった黒煙の塊に隙をつかれ、動けなかったツキナとトウマが見守る中、黒い尾を弾いてそれは襲い掛かった。茂みの奥でしゃがみこみ、震えていたアザミへと――。

「いやっ! 来ないでえ……っ」

 トウマ、と助けを求める声に背を押され、無意識に体は動いていた。握り締めていた香剣をまっすぐに黒煙へと突き出す。が、本能的な攻撃が届く一歩前に、今までで一番異常な事態が起こったのだ。

 両腕で自分をかばうようにして、目を硬く閉じたアザミ。彼女を取り巻いていた黒煙の全てが、ずるずるずる、と音にならない音を立て、その体に吸い込まれていったのである。香剣を手にしたまま、愕然と固まるトウマと、足一本すら動かせずにいるツキナ。二人が正気を取り戻した頃には、辺りに黒煙の気配はなく、平和な竹やぶに烏が鳴く声だけが遠く響いていた。

「ア、アザミ……無事かっ?」

 駆け寄った先で、ぐったりとアザミは倒れていた。心臓が凍りつくような気がしたのは一瞬で、すぐに脈も心臓も動いていることを確かめてほっとする。

「気を失ってる。体にも異常はねえみたいだ」

 感情を締め出した報告に、ツキナはようやく駆け寄ってきた。

「ちょっとトウマ! そんな……運んでやってる場合じゃないよ! 一体全体この子、何なわけ? 迷子でも拾ったのかと思ってからかってやろうとしたけど――冗談じゃない。黒煙を吸い取っちまうなんて、こんな人間が」

「いるんだから、仕方ねえだろ」

「トウマッ!」

「とにかく宿に運んで、休ませてやらねえと。ここで寝かせるわけにいかねえだろうが」

「本気で言ってるのかい!? 特使だって動いてんだよ? 今回はうちらの見廻りじゃなかったけど、それでもすぐに噂は広まる。長に知れたら、ただじゃ済まない」

「ただじゃ済まないって、どうなるってんだ?」

「それは――」

「若頭だか何だか、そんなお役を今度こそ取り上げられ、里への出入りも仕事の命も来なくなる。だから? だからどうだ。メナシの俺たちが馬鹿みてえにくっつきあって、こんな世の中でどうしようってんだよ。所詮メナシはメナシ。それ以上にも以下にも、他の何にもなれねえのさ!」

 違う。自分はそんなことなど考えていなかった。毎日を適当に過ごして、たまに入った仕事で腹を満たして、日々を気楽に送っていければそれでよかった。そう思っていたはずだ。それがどうしてこんな風に、激情とも言える熱くて苦い何かを仲間にぶつけなければいけないんだろう。

 自分自身に困惑しながらも、アザミを抱いて立ち上がる。ただ、今はこの顔に笑みが浮かばないことが腹立たしい。無垢な瞳が開いて、自分の名を呼んでくれないことが悲しい。そんな気持ちにだけ従って、足を動かした。

「待って……トウマ!」

 ツキナが思いつめた顔で呼び止める。冗談めかしたやりとりばかりしてきたからか、初めて見る苦しげな瞳だった。自分と同じ、白い眼。

「どうしても連れて行くってんなら、あたしも行く!」

「でも、俺は」

 断りの文句を載せようとした口は、ツキナがぴたりと当てた彼女の香剣、刀身の先で止められた。二人の間に漂いかけた物騒な空気を、ツキナの微笑が中和する。

「そんな小生意気なガキにトウマを渡してやる気はないからね。それに、あたしにちょいと考えがあるんだ」

「考え?」

 こくりと頷いたツキナの、束ねた黒髪がしなやかに流れる。竹も地面も腕の中のアザミもツキナも――同じ白と黒でだけ彩られた世界に、不思議と淡い色が重なったような気がした。日常が剥がされるその隙間に、初めて姿を現す未知なる色が。

「どうせ神宮にでも連れて行く気なんだろうけど、それはやめといたほうがいいよ」

「――なんでだ?」

「神宮には城主の手が回ってる。今のご時世、色ノ神様だって俗世間とは無縁でいられないってことさ。それなら俗世にどっぷりはまっちまったほうが、かえって目立たなくなるんじゃないかい?」

「俗世、だと?」

 静かな寝息と共に眠るアザミには、あまり似合わない言葉だと思った。一種神聖な匂いさえ感じさせるほどに、彼女は無垢で透明だから。けれど、その内に大きな謎と秘密を抱えていることは、先ほどの場面を目撃したことでも確信していた。

「そう。あたし、そっちの方面には少々人脈があるんだ。女のことは女。任せといてよ」

「女って、それはちょっと……」

「違う違う。どうせそっちの関係から逃れてきたんだろうに、わざわざまた引き戻すような真似しやしないよ。そうじゃなくて、あたしが言ってるのはあれさ。見てごらんよ、ほら――」

 あいかわらず勘の鋭いツキナが、くすくす笑いながらそばの竹に片手を置き、もう片方の手で指差して見せたもの。それは、高台になったこの場所から見渡せる街道沿いの賑やかな店並み。その中央を派手派手しく着飾り、手にした楽器を騒々しい音で打ち鳴らしながら、練り歩く行列だった。

「飴売り……?」

 あれが何だ、という顔で聞き返すトウマに、ツキナは人差し指を振って言い直す。

「最近じゃあ、売るのは飴だけじゃないんだよ? 東西屋、って知らないかい?」

 素直に首を振る。あまり流行やら世間の話題には詳しくないのだ。

「ああやって着飾って派手に練り歩くだけじゃなく、上手い口上で色々な店の宣伝をする。それを真っ先に商売にしたのが東西屋さ。彼らが今凝ってるのは、お抱えの旅芸人を集めて、芝居や見世物をやる小屋を作ること」

「し、芝居に見世物? 俺にはとても……」

「大丈夫。何も珍しいことをやれと言ってるわけじゃない。いつもあたしらがやってることを、芝居として見せてやればいいのさ」

 いつもやってること、といえば――。

「まさか、黒煙を斬れってんじゃあ」

「そのまさか」

 ふふっと笑って肯定され、トウマの頬が引きつる。

「馬鹿言ってんじゃねえ、そんなことできるわけ……」

「できなくてもやるんだよ。あんた、その子を守りたいんだろう?」

 瞳を細め、腕に抱いたアザミを指して問われた。呆れたような顔をして、それでもツキナには自分の考えていることぐらいお見通しらしい。だてに生まれた頃からの付き合いじゃないのだ。

「城主も神宮も、それからあたしらの里も同じ。逃げ回ったところで居場所なんてできやしない。なら、自分から作ってみせればいいんだ」

 自分のものとは異なる湾曲の仕方をした、ツキナが鍛えたツキナの香剣。それは強くてしなやかで、女性ならではの形をしている。トウマとは違う戦い方をするためのものだ。

「芝居として偽物だと思わせておけばいい。きっと客には受けるよ? あいつら、いつだって仕事の時には好奇の目で見てるんだから。面白おかしくメナシの仕事をやってみせてるんだと思わせて、金を取るんだ。これほど胸のすくことはないと思うけどねえ」

「いくら何でも、俺はそこまで悪趣味じゃねえ」

 口ではそう言いつつも、心の隅では完全に否定できないのも確かだ。けれど、そんな目立つことをして、逆にアザミを危険にさらしてしまっては元も子もない。

「やっぱり同意しかねる。城主と神宮がアザミの敵だって保証はねえし、万が一の時には……」

「アザミを連れてこの世の果てまで逃げるんだ、とでも?」

 心の内に差し込んだ思いを言い当てられ、逆にどきりとした。どうして、出会って間もない少女のためにそこまでしようとしている? 自分は一体どうしてしまったんだろう。それでも、ようやく花開こうとしているアザミの笑顔を、消すことだけはしたくなかった。

「それこそ逃げだって言うんだ。あんた、そんな戦い方をする奴じゃなかっただろう? 追われる前に自分から攻め込む。相手の中心に入り、四の五の言わずにぶっ叩く! あたしはそんなあんただからこそ惚れてるんだからね」

「ツキナ……」

 好いた惚れたといつも適当に言って遊んでいるのかと思っていた相手から、真剣に説き伏せられて、ぐうの音も出ない。頭から冷水を浴びせられたような気がした。

 ――目が醒めた。

「そうだな。俺らしくねえ」

 正体のわからないものには突っ込んでいけばいい。守りたいものがあるなら、絶対触れさせなければいいのだ。全ては自分の覚悟次第。自分もアザミも笑っていられるよう、正面から戦ってやる。相手が人でも黒煙でも、何だって関係ない。どうせ所詮は白と黒。それしかないメナシの自分なのだから。      

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