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メナシ  作者: 結川さや
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第一話

 ひい、ふう、みい、よお、いつ……五つの色を分け合って、

 御石おいしが天から降って来た。

 色を生む石、染める石。

 色ノ神様のお恵みだ。

 白と黒の大地を、明るい色で塗り替えた。

 ひい、ふう、みい、よお、いつ……五つの国に分け合って、

 闇は六つに、呪いの六つに。

 ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう……

 ほら、日が暮れる。

 やれ逃げそれ逃げ、メナシが来るぞ。

 色の見えないメナシが来るぞ。

 触れたら祟りがうつるぞい。

 メナシ、メナシ、目の無いメナシに近づくな――。


               *


 はやしたてるその歌声は、瞼を開くと同時にぷつりと途絶えた。いや、そもそも現実のものではない。束の間の眠りが見せた夢に、ひっそりと忍び込んできた古い歌。生まれてから幾度となく聞いてきたそれが歌われなくなってから、もう五年は経っただろうか。

 五年。その年数はそのままトウマが一人で生きてきた時間と道のりを示している。伸ばし放題の硬く真っ黒な髪は、既に背中の半分まで届いていた。

「……腹、減った」

 むくり、と起き上がって伸びを一つ。寝床にしていたゴザを丸め、立ち上がると、洞窟の天井でコウモリたちがあたふたと飛び回った。驚かせてしまったらしい。

「おっと悪いな。もう出てくから、気にせず休んでてくれや」

 目の前を飛び交う群れに軽く声をかけると、トウマは出口に向かって歩き出した。

 薄暗い洞窟。ぴちゃりぴちゃりと落ちてくる水滴が着物の肩にかかるのも、草鞋の足が濡れるのもかまうことはない。どうせ普段から薄汚れているのだ。多少濡れようが、乱れようが、大して気にする必要はなかった。

 ほどなくしてたどり着いた穴――ちょうどトウマの背丈ほどに開いたそこからは、夕日の名残が差し込んでいた。まぶしげに顔を背けた後、岩陰に座り込み、ずれた脚絆を整えながら太陽が完全に眠りにつくのを待つことにした。

 ――それにしても夢とはいえ、久しぶりに聞いたな。

 思い出すのは先ほどの古い歌。老婆のようでも、幼子のようでもあった声がなぞる歌詞は、自分たちを指して歌われたもの。

 メナシ。目の無い者と呼ばれる一族のことだ。

 といっても、目玉が無いのではない。目玉はあっても、その役目を果たしていないという意味でそう呼ばれるようになった。

「……先に腹ごしらえといくか」

 思い出しても面白くもない記憶ばかりを頭から振り落として、トウマは懐をごそごそと探った。掌にわずかばかりの干しほしいい。これが今日の夕食だ。

 火を起こすのも面倒で、硬いまま口に含み、湿り気を帯びてきた粒を咀嚼していく。

「あー……足んねえ。やっぱ今夜の報酬は、飯にしよう」

 普段ならば麦でも粟でも何でもいいから温かいものが食いたい。と思うところだが、やはり炊き立ての白米ならば万々歳だ。せっかくここ、五ついつついろの地でも一番の上質な米を作る、青穂ノあおほのくにへ来たのだ。たまの贅沢くらい、許されてもいいだろう。

 そんなことを考えているうちにとっぷりと日は暮れて、狭い洞窟も闇で満たされていく。餌を探しに行くらしいコウモリたちを見送り、トウマはえいやっと勢いを付けて体を起こした。仕事の時間だ。

 わずかに濡れた岩肌を足音もなく滑り降り、外に広がる草地に出る。花らしきものが咲いているのはわかるが、それが白なのか赤なのか、はたまた黄色なのか――とにかくどんな色かはわからない。知らないのではない、判別できないのだ。

 そよそよと夜風に揺れる草も、花も、周囲に立ち並ぶ雑木林も粗末な藁葺きの家々も、ただトウマの視界には白と黒で陰影を示すのみ。世間一般の人々が見るという様々な『色』を映すことはない。

 だからといって、歩くのに困るわけでも、物の位置がわからなくなるわけでもない。微妙な陰影の濃さで位置関係にしろ、遠近感にしろ、ちゃんと測ることができる。人の顔がそれぞれ違うように、動物や植物に多種多様な形や種類があることだって承知している。といっても――ほとんどは夜の世界において、という制限つきなのだが。

「来た来た来た、匂ってきたぞ」

 くんくん、と鼻を動かし、トウマは笑う。鼻の辺りまで伸びた前髪のせいで瞳は見えないが、半円を描いた口元ですぐにわかる嬉しそうな笑みだ。

 匂う、と言っても飯炊きの匂いではなく、今夜の獲物の話である。仕事には依頼が来る場合と自分で見つける場合との二種類があるが、今回は前者だった。一族の中で一番近くにいる、もしくは適していると思われる者が依頼に出向く。

早朝、まだ日の出ぬうちに到着を報告した時、番所で教えてもらった方角とも匂いは一致していた。十七にしかならぬ少年がやってきたことに少なからず驚いてはいたようだが、話に嘘はなかったらしい。

 ――ま、嘘ついたところで連中に得なんかなんもねえしな。

 実際アレを倒せるのは自分たちしかいないのだ。いくら頼りにならなそうな小僧であろうが、ぼさぼさの長髪に薄汚く、少々匂う着物をまとっていようが、今この里で頼られるべきは自分ただ一人。それがトウマの唯一の自慢でもあり、自嘲でもあった。

「……臭え」

 思わず、片手の甲で鼻を押さえる。それぐらいに強烈な臭気が漂ってきていた。

 ――さっさと片付けちまうか。

 ちょろちょろと足元を流れる沢を超え、ちょうど田植えが終わったばかりの水田を横目に歩き、小高い丘の上へ。臭気が導くままにたどり着いたそこには、集落の中で一番立派な屋敷――名主の御殿が建っていた。

 茅葺総桧造りの門前に立つと、墨を煮詰めたような独特の臭気が、つんと鼻の奥まで刺激する。獲物はまあまあの手ごたえがありそうだ。無意識に喉を上下させ、手ごわさを逆に期待するかのように、舌なめずりをする。それがトウマの、仕事開始の合図だった。

 無造作に長髪を縛り、後ろに垂らす。長すぎる前髪をかきあげ、額を出すように着物と同じ濃紺の頭巾を被る。あらわになった両の瞳は、白。

 正確に言えば若干灰色がかってはいるものの、白味の勝った色彩は、おおよそ人間めいたものではなかった。化け物――これから入る屋敷の住人も、里の人々も、全員がそう自分を蔑み、恐れるだろうことは知っている。だから何だ。自分は仕事を済ませ、報酬としての金銭、もしくは食べ物を得、またすぐに出て行くだけなのだから。

 白い双眸で周囲を見渡し、一見誰もいないように見える屋敷のあちらこちらに兵と集落の人々が息を潜め、隠れていることがわかる。こちらの一挙一動に注目している。要するに怖いもの見たさなのだろう。どれほど姿を隠していようとも、その気配がトウマにはすぐ感じ取れた。色を見ることができない代わりに、とでもいうべきか、敏感な残りの身体機能と、五年の間に培ってきた感覚が夜には特に研ぎ澄まされるのだ。

 ごくり、と彼らが唾を飲み込み、目玉を大きく開く音まで聞こえてきそうなほどだ。

 ――怖がってんだか、喜んでんだかわかりゃしねえ。

 おそらくはその両方なのだろうと、呆れたように鼻を鳴らし、トウマは屋敷に入った。 大きく張り出した松の枝をくぐり、目指すのは庭を隔てた奥座敷。行動の自由は仕事の契約を結ぶと同時に約束されていたから、気にすることは何もない。決行の夜を迎えた今、奥座敷で眠る者を奴らから救い出す。それだけがトウマの成すべき事だった。

 軽い音を立てて障子を開く。花の模様が織り込まれた薄い着物をかけ、眠っている――いや、眠らされているのかは知らないが――のは女。屋敷の主人――ここら一帯の田畑を所有する名主の娘だ。ざっと確認した視界には、『喰われた』箇所は見つからない。とりあえずは無事らしい。

「さあ、いっちょ暴れさせてもらうぜ!」

 庭石に唾を吐きかけ、気合を入れたトウマが手を伸ばすのは、自分の背中。斜めにくくりつけられた鞘から目当てのもの――トウマにとって、唯一の財産だ――を一気に解き放つ。部屋の行灯にも庭の灯篭にも明かりは入っていない。それもトウマの指示だ。

 普通の人間なら必要とする光は、メナシには邪魔なだけ。ついでに言えば、屋敷を取り囲む物々しい出で立ちの兵にいたっては不要もいいところだった。奴らにはどれだけ強面の兵も、数を揃えた弓矢も剣も効きはしない。トウマの右手に光る、この香剣こうけん以外には――。

 臭気が一際濃くなった。と同時にトウマは飛んだ。上に、ではない、真横に。

「そっちからお出ましなのは、見え見えなんだ――よ、と!」

 香剣。十七にしてはまだ小柄で細身なトウマの両手に余るほどの大振りなそれは、侍が持つ刀とはまるで趣の異なる物。自然のままに湾曲し、ごつごつと窪みまである刀身、それはまるごと一枝の香木でできている。

 ひゅんっと空気を両断するような鋭い音。同時に巻き起こる微量の風。そこに戦闘にそぐわぬ甘く、濃厚な独特の香りが漂う。漆塗りの糸で巻かれた柄を素早く握りなおし、再度、次は真逆へ振り上げる。

「……待ち人来たり、ってな!」

 絶えず刀身からこぼれ続ける芳香に誘われたか、トウマの素早い動きに追い出されたか――姿を現したのは黒い影。寝床に横たわる女に覆いかぶさっている、靄とも霧ともつかぬ、奇妙なモノ。それこそがトウマの獲物であり、顔も知らないこの女の敵だ。

 やはり薬でも嗅がされたのか、顔の半分まで着物をかぶった女はぴくりとも動きはしない。まあ、そのほうが都合がいい。気にせず動けるというものだ。

 オオン――と辺りに轟いたのは、狼の遠吠えにも似た声。しかしそれが空耳――少なくともトウマにしか聞こえない種類の音だということはすぐにわかった。

「威嚇したって無駄だ! 俺は腹減って死にそうなんだよ……つまり」

 そこまで言う間にも、トウマは一振り、二振り、香剣で影から伸びる腕とも触手ともつかぬ長い長い影を切り捨てる。切ったそばから触手はじゅっと蒸発するが、またすぐに伸びてくる。寝床の女は渡さない、とでも言うようにべったりとその上にはりついた影が怒りの叫びを上げ、邪魔するトウマを抹殺しようとしているのだ。

「お前が喰うか、俺が食うか――っつったら、俺に決まってんだろっ!」

 この化け物が、と吐き捨てるように叫ぶと、トウマは香剣を構え、一気に部屋へ駆け上がった。泥や汗にまみれた草鞋のままであることなど、もちろん考えていない。

 しゅうっと蛇が唸るような音がして、黒い影が着物の上から女を締め上げる。いや、先に喰おうとしているのだ。どうやら空腹はトウマといい勝負であるらしい。

「じゃあどうぞお先に――なーんて言うかっ、この野郎! お前が喰っちまったら、俺が報酬もらえねーだろうが!」

 女の着物。おそらくは季節に合わせたアヤメか菖蒲でも描かれているのであろう、上質の単衣。その内、黒い影が触れている部分が端からわずかにぺらりと剥がれていく。目の錯覚、ではない――本当に剥がされて、いや、『喰われて』いるのだ。黒い影によって。

 奴らは人の血肉ではなく、その身にまとう『色』を喰う。それが着物であろうと髪飾りであろうと、人に接している限り『喰い物』となってしまうのだ。

 まるで薄布か、一枚の膜でも剥がれるかのように本体から浮き上がり、ずれていき、放っておけば完全に分離する。それが影に吸収され、消え失せると、もう元には戻せない。着物くらいなら多少気分が悪くなるくらいで治まるが、直接体の一部であったなら――。

「させるかよ……っ!」

 目の前で調子に乗った影へと距離を詰める。その触手が触れた端、少しずつ色が剥がされかけていく部分。その表面を掬うようにトウマは剣を滑らせた。先ほどまでの勢いが嘘のような、優しい、優しすぎる動き。

 ――よし、からめとった!

 極上の甘露にも似た、とろけるような香り。トウマの持つ香剣が発し続ける魅惑的な香の煙に誘われ、吸い寄せられた黒い影が、刀身に巻きついてきたのだ。

 マタタビを嗅いだ猫のようでも、女の裸体に引き寄せられる男のようでもあるその様に、いつもながら興醒めしてしまう。簡単すぎては面白くない。もっと、もっと楽しませてくれなくては。

 巻きついてきたそれを荒々しく庭に振り落とす。得体の知れないその塊ごと突き刺す、あるいは叩き切ってしまえば全ては終わる。そんなことは誰に言われずとも、五年間の――いや、メナシとして生まれた自分の本能にも似た感覚が知っている。

 それでも、トウマは影を自由にさせた。冷たい無機質な庭石にわざと刺しとめるようにして、それが香気から醒めるのを待ったのだ。

「そう来なくっちゃなあ!」

 声もなく、顔もないのに荒ぶる影の発する気で奴が相当憤慨し始めたのがわかった。芳しい香りに誘われて、気づけば餌から引き離され、拘束されているのだ。人であればぎりぎりと奥歯を噛み締めてでもいるような苛立ちの気が伝わってくる。舌先(というものが奴らにあるのかは定かじゃないが)で寸止めを食らい、かといって香気の誘惑は途絶えないのだ。身もだえするように、影は暴れ、しゅうしゅうという音は耳障りに響いた。

 ――そろそろいいかな。

 決して逃れられないようにした上で、獲物をいたぶる。そんな悪趣味なトウマのやり方を責める仲間も少なくはないが、トウマに言わせればそんなもの、偽善でしかない。どうせ同じ内容なら、楽しんでやるほうがいいに決まっている。それに――。

「悪いな。こん時ぐらいしか、見れねえもんでね」

 どうせ見るなら、鮮やかなほうがいい。この白い双眸では、決して見ることのできないほどにくっきりと明るいほうが――。

 剣先で押さえられ、じたばたと暴れていた影の動きが一瞬止まる。臭気の全てまでが一所に集まり、凝縮し、爆発寸前まで力を溜めた後。

 視えた。

白と黒で構成されていた世界に、一点の朱。なぜ、なんてわからない。ただ視える。それと共に色が持つ名も、脳裏に飛び込んで来るのだ。仕事を始めた時から、繰り返されてきた不思議だった。

禍々しいくせに、視線を釘付けにせずにはおれぬほど美しい色が、影の中央で光を放っている。それこそが影の中心。人で言う、心臓のような箇所だ。

 こんな手間をかけずとも、ただ少し意識を集中する、もしくは瞳を凝らせばそれは視える。けれどそういう場合の色はもっと薄く、淡い。だからこそ、トウマは影の怒り、とでも呼ぶべきものを煽り、わざわざその力を強く、濃く発生させようとするのだ。全ては、ただ一瞬の色彩のために。

「今日は朱か――もういいや。消えな」

 視えた途端に興味を失ったかのごとく、あっさりと言い捨てる。トウマのそんな言葉を人間ならば残酷だ、無慈悲だ、などと責め立てるのだろう。が、相手は化け物。言葉など持たない。

 尊大にも見える格好で立ちはだかっていたトウマは、その一言を吐いてしまうと形相を一転させた。笑みの宿っていた顔を瞬時に凍らせ、唇を引き結び、突き刺していた香剣を抜く。同時に我が意得たり、とばかりに凄まじい勢いで四方八方に伸びた影の触手。まさに殺気に満ち満ちた攻撃を、普通の人間ならば避けることはできなかっただろう。

 が、影にとっては残念なことに――トウマはメナシ。この世界で唯一、影を抹消することのできる存在だった。

 トウマを包み込もうとする怒りの触手。その全てが届く一歩前に、大振りの香剣は振り切られた。一振りで何もかも薙ぎ払い、焼き尽くし、消し去ってしまう強烈な香気の壁を作り出して。じゅうじゅうと、肉の焦げるような音と異臭。それこそが、この黒い影の断末魔の叫びなのだ。

「……あばよ」

 焼き尽くされた影が一筋の煙になって空へ立ち上り、刹那のうちに消滅する。それを見届けると、無表情だったトウマの顔がふっと緩んだ。

「あー……腹減った」

 仕事が終われば余計に空腹を感じる。思い出したのではなく、それは更にひどくなると相場は決まっているのだ。香剣を使うと必ず体力を消耗し、体が普段の何倍も食事を要求してくる。常に満腹であることのほうが少ないトウマにとって、余計に辛い状態だった。

「さて、と」

 忘れ去っていた依頼を頭の隅から引っ張り出し、とりあえず振り返った。ここまでは正直トウマの気にする範囲外だが、便宜上確認はするべきだろう。

 まだ眠っているかと思った娘は、布団代わりの着物から抜け出て、畳の上で座っていた。「なんだ、起きてたのか。無事かー?」と気のない声をかけたトウマに、呆けたように固まっていた娘の顔がゆがむ。

「あ……あ……!」

 驚愕と恐怖。怯えきった瞳がトウマを見上げ、その頬は引きつるばかり。

「ああ、大丈夫だって。奴ならもういない。ほら――」

 膝も手も震えきった娘があまりにも哀れな様子に見えたので、つい手を伸ばした。腰を抜かしたらしい体を起こしてやろうとしただけだった。トウマの手を、娘は意外なほど強い声で拒絶した。

「さっ、触らないで――化け物っ!」

 かすれた声は、しっかりとトウマの耳に届いた。瞬き一つ。それだけの間に自己を取り戻したトウマは、伸ばした手を引っ込め、口元に笑みを浮かべた。先ほどまでとは違う、苦い苦い微笑。そして、気づく。長い髪に立派な着物をまとった娘の顔も手足も、名主の娘ではあり得ない日焼けをしていることに。

「おお、おお……無事やっつけていただけたか! よかった……して、礼はいかほど」

「お父様……これで私はもう狙われないのですね」

「しっ! お前はまだ出てきてはいかん! もう奴らが現れんと確認ができてからじゃ」

 奥の障子が開き、揉み手をしながら現れた太った名主と、目の前で震える娘とは似ても似つかぬ美しくおっとりとした女。そんなやりとりから白い瞳を逸らし、感情を全く宿さない顔でトウマは答えた。

「……金一両。ビタ一文まけるつもりはない」

 片手を伸ばし、催促するように無言でいると、たるんだ名主の顎がかくかくと動いた。

 おそらくは、そんなに、とか、さすがにそこまでは、とか、それはもうありとあらゆる言葉が喉の奥でひしめいていることなど誰にでもわかる。それでもトウマは沈黙を守った。我が子の代わりに普段搾取する相手でしかない、貧しい農民の娘を恐怖にさらす。おそらくは眠り薬でもかがせ、意識のない状態で代役に立てたのだろう。それが合意か一方的行為かはわからない。どちらにしろそこまで自分が関与する必要も、つもりもない。ただ貰う物をもらって、さっさとこんな里は出て行きたい。それだけだった。

 ニヤリ、と笑って差し出された袋を分捕る。目の前で中味を開け、まず匂いを嗅いだ。間違いない。金の下品な匂いがする。極めつけに、わざわざ月明かりに翳して検分するふりをしてやった。悔しそうに見つめる名主の形相を、ひそかに楽しみながら。

「……間違いなく。またのご依頼は、六つノむつのさとまでいつでもどうぞ」

そうそう依頼を出していてはたまったものではない。彼らのそんな本音を知り尽くしておきながら敢えて言い残し、トウマは背を向けた。大切な我が子と代役の娘。そして物陰から息を殺して見つめる多くの目がなければ、きっと支払われることのなかった金を手に。

「化け物……か」

 見知らぬ娘の声と表情。あれは、心底忌み嫌う者に向けられたものだった。仕事をするたびに面と向かって、あるいは物陰から浴びせられる罵倒と憎悪。もうとっくに慣れたはずが、なぜか今夜は耳に痛かった。苦さの余韻を、輝く小判で無理やりに打ち消す。これでしばらくは路銀に困ることはない。にしても、

「あー……食い物もらってくりゃよかった」

 屋敷が遠くなってから道端に座り込んだトウマは、ぐきゅるるる、と怒り狂う腹の虫を両手で押さえ込む。が、もちろんそんなことで納まるわけはない。

 明日になって市が開けば、いや、市まで行かずとも行商人の一人さえ通れば何らかの食べ物は買える。でも――全ては明るくなってからの話。今更名主の家へ戻って食事を乞うなどもってのほか、自分に食事を与えてくれるような親切など、どの家にも期待できるわけはない。少なくとも早朝までは、空腹に耐えるしかないのだ。

「この草……食えっかな」

 すぐ手の届くところに群生している雑草を本気で選り分け始めたトウマは、ふと動きを止めた。呑気な顔を引き締め、振り向きざまに飛び退る。背後に感じた気配の主から、すぐには攻撃されない距離へ移動したつもりだった。が、予想に反するものがそこにはあった。いや、いた。自分より頭半分ほど下に立ちすくむ子供――左右で二つに結わえた髪と着物の形からして、少女である。年は十やそこらだろうか。

「――何だ、お前」

 眉を寄せ、短く訊ねる。わざわざ追いかけてきたのか、わずかに息を切らせた少女の意図が読めなかったからだ。

 月を背にした少女の表情はよく見えない。普通の状態ならばまだしも、今のトウマは仕事を終えたばかり。香剣を扱うに必要な能力を最大限に駆使すると、疲労が泉のように湧き出て全身の感度を曇らせてしまう。ぼんやりし始めた目を細め、なんとか見分けたのは裾の短い、粗末な着物。それに薄汚れた手足と肉のこそげた頬。間違いなく裕福な家ではあり得ない風貌だった。

「……おい」

 ただ質問しようとしただけなのに、トウマが一歩踏み出した途端、少女は怯えた素振りを見せた。先ほどと同じ――いや、違う種類の怯えであるのは明らかだった。

「何にもしやしねえよ。用があんのはお前のほうじゃねえのか?」

 体を縮め、何かを予期したかのようにぎゅうっと両目を瞑る少女。それは自分への畏怖というよりも、逆の感情にも見えたから。白い瞳から警戒の色を解き、トウマは苦笑した。

 しばらく様子を見ていたのかじっとしていた少女が、そろそろと懐から何かを取りだす。まだ頼りない手つきで解かれた包みの中には、ほかほかと湯気を立てる握り飯があった。

「……これ、俺に?」

 喜ぶよりも当惑が先に立つ。無意識に、薬か何か盛られるのではと嗅覚を分析してしまった。結果、怪しい匂いどころか余計に空腹を刺激することとなったのだが。

「え、と――なんでかわかんねえけど、じゃあ有難く」

 貰えるものは貰っておく、という現金な結論に達しかけたトウマの耳に、バタバタと複数の足音が響いてきた。提灯の眩しさで目が眩みそうになる。咄嗟にそばの木陰に身を隠した。

「こんなとこにいたのかい! アザミッ!」

 背後から聞こえたのは甲高い女の声。同時にそばの少女が縮み上がる。

 わらわらと後から追いついてきた者も含め、『追っ手』の数は三人。屈強な男が二人と、年嵩の女――声の主だ。

「わざわざ手間をとらすんじゃないよっ、鶏娘とりむすめのくせしてさ。お前の引き取りは明日って決まってることくらい知ってるだろう! 何のためにただ飯食わせてやってきたと思ってんだい! ここへ来て逃げられちゃ大損じゃないか!」

 わんわんと喚き立てる声の煩さよりも、聞き取った単語にトウマは反応した。

『鶏娘』――このやせっぽちの子供が?

 木陰で愕然としていたトウマに気づいたのか、女が「あらあら」と取り繕うように笑みを浮かべる。

「これはさっきの……どうも娘がお世話になりまして」

 形ばかりの挨拶で、女が名主の妻であるらしいと思い至った。そういえば、太った名主の横から女狐のような女が覗いていたような。あくまでどうでもいい事柄として忘れていい記憶に分類されていたから、気づくのが遅れた。その間を何と取ったのか、わざとらしく咳払いした女はずかずかとトウマの前を横切り、「ほらっ、さっさと来るんだよ!」と少女――アザミの細い腕を掴む。と、その拍子にアザミの手から握り飯が転がった。

「……何だい、これはっ? まああ、図々しいにも程があるわね! 逃げ出そうとしただけじゃ飽き足らず、うちの台所から食料まで持ち出すなんて」

 憎々しげに言って、女は片手を振り上げた。ぶたれるのだとわかったアザミが身を硬くする。すぐに乾いた音が響き渡り、音の余韻が消え失せる前に事の次第を飲み込んだ女が、「ひいいい」と叫び声を上げた。

「さっ、さっ、触った……メナシに触っちまったじゃないか! ちょっ、ちょっとあんた! どういう……」

 ぶたれた痛みなどトウマにとっては蚊に刺された程度のものだったが、女とアザミには物凄い驚愕だったらしい。哀れなほどに動揺する女と、それとは違う理由で両目を見開くアザミ。両方を無言で見ていたトウマは、もそもそと懐を探った。

「こんだけありゃ、こいつの引き取り代に変えても十分釣りが来る額だ。なあ? 名主のおかみさん」

 鶏娘の払いが通常二千文。一両の半分もないことは承知の上で、小判を突き出した。

「えっ? あ、ああ……そりゃまあ」

 どういうつもりかと怪訝そうな顔をしつつも、トウマの手ばかりを見る女。これも旦那と同じ――いや、臆面もなく態度を変えるところからすれば、それ以上のごうつくばりらしい。たった今『メナシ』と呼んで蔑んだ相手に、あっさりと微笑を見せる。

「ま、まさかあんた……その金でこの子を?」

「ああ、買ってやるさ。どうせ引き取られりゃ裏屋で散々オヤジどもにこき使われるんだろう。それと、小汚い、呪われもんのメナシに買われんのと、どっちがマシかはわかんねえけどな」

 皮肉を笑いに変えて、トウマは今得たばかりの報酬を投げてやった。あわてて受け取った女の口元が、得をしたといわんばかりにゆるむ。つい先ほどメナシを触ってしまったとうろたえていたことも忘れたのだろうか。

 呆れた女とこんな里にはもう用もない。

「まあ、少なくとも――自分たちの里で汗水垂らして作った米の価値もわかんねえ飼い主に売られるよりは、百倍ましだろうよ」

 ニヤリと笑って、足元に転がっていた握り飯を拾う。頬を引きつらせ、途端に顔を赤くする女に見せつけるようにして、砂まみれになった握り飯を二つとも平らげた。じゃりじゃりと口内で鳴る音まで嫌味たらしく聞かせてやると、トウマは顎をしゃくる。

「おい、付いてきな」

 目の前で何が起こったのかまだ飲み込めていない――そんな顔でぽかんとしていたアザミに声をかける。怯えた瞳で主人であった女を見やるが、金さえ手にすればどうでもいいのか、既にその背中は遠ざかっていた。

 構わず歩き出したトウマの少し後ろから、遠慮がちにアザミがついてくる足音が聞こえた。


 まぶしかった提灯の光が瞼の裏から消える頃――とりあえず里の門を出て、街道沿いの山道に入るあたりでトウマは振り返った。トウマにしてはゆっくり歩いてきたつもりだが、あとから付いてくるアザミは少し息を切らしているようだったからだ。

「……あのさ」

「……?」

 怯えた顔が再び見上げてきた。周囲を松の木に囲まれ、足元を照らすのは月明かりだけとなった今は、ようやくアザミの細かい表情まで見えるようになった。散切りになった前髪の下に、利発そうな眉毛と二重瞼の大きな瞳。髪を結わえ、粗末な着物をまとっているからそうは見えないが、もう少し小奇麗な格好をすれば途端に愛らしく変身しそうな少女だ。置かれていた境遇のせいか痩せこけて、常にびくびく肩を縮めているところさえなければ――。

「安心しろ。別に危害を加えるつもりなんてないさ。そうじゃなくて、さっきはその――成り行き上、お前を買うとか言ったけど、別にそんなつもりねえから」

 もごもごと困った顔で呟いたが、アザミには自分の真意が伝わらないようだった。ますますキョトンとして、主人の顔色を窺う子犬のような円らな瞳で見上げてくる。

「う……だからつまり――ああいうのが嫌いだからなんとなく協力しただけで、別にお前を物みたいに買ったりとか、本当に連れて行こうとか、そういうつもりじゃねえってこと。要はその……握り飯の礼ってとこだ!」

 頭を掻いてなんとかそこまで言った。それでもアザミは首を傾げている。どうすればいいのかわからないのだろうか。

「あーっ、ガラじゃねえっ」

 わからないのはこっちのほうだ。一族以外の人間、しかも幼い少女となんてろくに話をしたことがない。考えるほど全身が痒くなるような気がして、ガシガシと掻きまくる。突然の大声と意味不明な仕草に、薄れつつあったアザミの怯えが戻ってくるのがわかった。

「お前はもう自由の身なんだ。里でこきつかわれることも、売られることもなくなったってこと。今日の報酬はドブにでも落としたって俺は思うことにするから、お前も気にするな! 以上!」

 いいな、と念押しするが、アザミは動かない。それどころか、口をポカンと開けて固まっている。

「だからっ! お前はもう鶏娘じゃねえんだよ! さっさとどこへでも好きな土地に行って暮らしな!」

 人差し指を突きつけて、言いたいことだけをぶつけると、トウマはさっさと歩き出した。やるだけのことはやったのだし、と背を向けて。不思議と小判を惜しく思う気持ちはなかった。

 これだけ言えばわかるだろう。口がきけないのかただ怯えて喋らないだけなのかは知らないが、少なくともトウマが新たな所有者になったのではないことぐらいは伝わるはずだ。そう思って山道をずんずん進む。月明かりだけが照らす足元で、突然突き出る枝も木の根も、ぬかるんだ泥道も避けていく。色を見分けることができなくても、その足取りはゆるぎない。瞳に色彩がなかろうと関係ない。全ては、彼がメナシであるから。『目玉の無い』一族には、それを補うための鋭敏な五感がある。もともと優れたものを幼少の頃から更に磨き、限界まで鍛えるのだから殊更だ。時には人の感情――主に自分たちに向けられる嫌悪や畏怖というよくないほうの、だが――も感じ取れる。しかし。

「な……なんで付いてくるんだ?」

 そんなメナシとしての感覚や力は、目の前で起こる初めての事態に対応できるものではなかった。普通の人間が、仕事以外で自分に関わろうとすることなど皆無だったからだ。それなのに、アザミはトウマが避けた全ての障害物にいちいち引っかかり、転び、着物を泥で汚しながらも付いてきていた。もちろん音や気配は感じ取っていたものの、遠ざかろうとしているのだと思っていた。いや、思おうとしていた、というべきか。

 ――何を考えてんだ、こいつ?

 そこでようやく思いついた。そうか、自分には慣れ親しんだ暗闇もこの少女を含む、他の人間には恐れの対象となる。だから藁にもすがる思いでメナシなどに付いて来るのか。

「ああ……えっと、一番近くの里なら、こっから逆に下っていったとこだ。わりと大きな宿場もある。何ならそこまで送って行ってやろうか?」

 ふるふるとアザミが首を振る。

「あ、そっか。宿代がねえんだもんな。うーん……それは俺も同じだから、どうしてやることもできねえな。けど、あそこの宿場なら旅人も多いし、住み込みの飯炊き女くらいはいつでも雇ってくれそうだけど。あれ、それとも心配してんのか? また鶏娘に逆戻りすんじゃねえかって……?」

 やっとたどり着いた推論は、どうやら間違ってはいなかったらしい。眉間に皺を寄せたアザミが、何かを必死で訴えるような目をトウマに向けている。

 鶏娘。それはそのまま地面を歩き回るだけの、飼い鳥を指す言葉だと聞いたことがあった。平たく言ってしまえば、女郎のようなもの。いや、芸を見せ、客を取る彼女たちと異なり、ただその身を売るだけの存在は、より下賎とされるとか。どれほど働こうが自分の手に残る金など無に等しく、間に入る仲介屋に持っていかれてしまうのだ。そういう経験のないトウマにでも、女がどれほどに嫌う職業かぐらいは察することができた。

「うー……こういう場合どうなんだろ。俺が金は払ったわけだから、足抜けとかなんとか、そういうので追われる心配はねえんだろうけど」

 だからといって安全だと言い切れるわけでもない。こんな幼い少女が自ら、うまい働き口を見つけられるようにも思えない。もしかしたらまた悪い奴らに捕まって、結局別の場所で同じ目に合うことになるのかも――。はい、じゃあさようなら、と行かない状況なのだと初めてわかった。トウマの額に汗が流れる。

 ――余計なこと、しちまったかな。

 一瞬だけ心によぎった後悔。でも、やはり間違ったことをしたとは思えなかった。少なくともあの場で名主の屋敷に連れ戻されるよりはよかったはずだ。

 ――こんな俺に助けられるのが、か?

 先ほど自分で啖呵を切って、アザミを『買った』時とは別人のように、トウマは困り果てていた。長い前髪とボサボサ頭で、そんな表情はわからなかっただろうが。

「あ、そうだ……神社! 神社に連れてきゃいいんだ」

 なんでそれを最初から思いつかなかったのか、と自然に口元が綻ぶ。

「えーと、青穂ノ国だから、藍神あいがみ様の神宮だろ。ここへ来る道中にもやしろはあったけど、やっぱ本山のほうに連れてくべきかな。色主しきしゅがいるのはそこだけだもんな。あーでも遠いか……」 

 五つの国それぞれに置かれた神宮。村里にあるような社とは違う、規模の大きなそこには色ノいろのかみとして敬われる御石おいしが奉られ、本山ほんざんと呼ばれて他とは一線を画している。祭事や儀礼等を取り仕きる役目を負うだけではなく、捨て子や孤児の世話も引き受けていると聞いたことがあった。

しかし如何せんこの里から本山までは遠い。しかもメナシである自分に、そんな偉い人物が会ってくれるものかどうか――とトウマが考えを巡らせかけた、その時だった。

「……っ!」

 汚れた泥が固まってこびりついたアザミの頬が、明らかな恐怖に引きつった。その視線の先を追うまでもなく、トウマは表情を一変させて振り返る。強烈な臭気が鼻を突いた。

 ――どうして、こんなところに。

 禍々しい黒い影。闇で覆われた周囲に、不思議と溶け込むことのない色彩。それはトウマの視界に映る他の数々と同じ黒であるはずなのに、なぜか浮き上がって見えるものだった。

「……黒煙こくえん!」

 影とも靄とも呼ばれるモノの、しかしそれが本来の名だった。断末魔の叫びを上げ、消えいく奴らの空に上るさま。それこそを指して黒煙と呼ぶ。最初に名付けたのが誰であるかも、どのようにしてこの名が広まったのかも知らない。それでも奴らは広くそう呼ばれるようになった。トウマがこの仕事を始め、独り立ちするようになったこの五年ほどの間に――。

「お前――あれが見えるのか?」

 それはある意味、黒煙がこんな人のいない山道に現れたことよりも驚きを誘った。黒煙が見えるのも、退治できるのも、メナシ以外にはいない。体の一部や衣類などが喰われて初めて黒煙の存在に気づき、人々は依頼を出すのだ。その常識が初めて破られたのだから。

 トウマの驚愕など知り得ぬのか、アザミはがくがくと震えながら首を縦に振った。そばに立つトウマの汚い着物を、すがるように握り締めてくる。とても初めて見たものに怯えているようには思えない。もしかして、前にも――?

「とにかく、お前はそっちに隠れてろ!」

 動揺は後だ。優先すべきは、目の前の獲物。

「くっそ……なんとか腹ごしらえしたと思ったのに、また一仕事かよ」

 そう漏らし、唇を舐める。口では文句を言いながらも、トウマの半分しか見えない顔には笑みが刻まれていた。なぜ? ただ――嬉しいのだ。沸々と自分の内で戦闘への興奮と、純粋なる好奇心が湧き上がる。次は、どんな色が視えるのだろう――と。

「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ――だ!」

 歌うのは鬼に向けてではない。目も鼻も口も、意識があるのかすらもわからない黒い影――黒煙に。一際高くそびえた松の木の、少し上空で留まる影の塊を睨みつける。

 人の纏う色を喰うという性質から、当然人里を好んで現れる。今まで両手に足の指も加えてもまだ足りないほどの回数をこなしてきたトウマでも、初めての事態だった。

 しゅうしゅう、と蛇に似た声。いや、音、と言うべきか。それでもトウマの耳には声に聞こえた。早く喰わせろ、と急かしているような嫌な声だ。

 突然、影はぼわりと膨張し、触手が複数降り注いだ。背中の鞘から一気に引き抜いた香剣を手に、戦闘態勢に入ったトウマを追い越して――。

「えっ? おい……待てっこの野郎!」

 予想が外れ、肩透かしを食らった気分で叫んだ。言葉の途中で走り出す。草鞋の結び目が解け、片方が脱げるのも構わず全速力で止めに入った。

 あと一歩で檻のように包み込もうとしている黒煙から、アザミを引き剥がす。と、その勢いを利用して片手で薙ぎ払うように剣を振った。とにかく蹴散らして、時間を稼ぐつもりだったのだ。試みは成功した。が、逃がしたアザミを追い、また集まり始める。

「くそっ……!」

 奥歯を噛み締め、両手で剣を握りなおす。香気を強めるために、意識を集中する。

 そうだ、今はなぜ、なんて考えている場合じゃない。ただわかっているのは黒煙が明らかにアザミを狙っていることと、それを阻止する必要があることだけ。

 ならば――考えるより前に、斬る!

 凝縮から拡散へと転じ、四方にその靄を広げた黒煙。捉えどころのない敵を睨みつけ、呼吸を整えた。結ぶ暇もなかった髪が、ざわざわと夜風に弄ばれる。前髪が浮き、白い双眸が姿を現す。

「……視えた。そこだ!」

 空中に紛れ込むかのように薄れていた影を濃くし、再び密集したそれが今にもアザミへと襲い掛かろうとした。その刹那に視えた色彩は、紅。トウマの体にも流れている血は、よく聞くようにそんな色をしているのだろうか。一瞬奇妙に既視感を覚えたのは、そのせいなのだろうか――不思議な感慨をブルリと身震いさせて払い落とすと、トウマは紅の一点に躍りかかった。鮮やかな灯火のような色めがけて、全身の力を込めて香剣を叩き込む。

 グアアアオウ――耳だけではなく体全体に、飛沫のように音が張り付いた。血飛沫を浴びるのは、こんな感覚なのかもしれない。しかし声を持たない黒煙の断末魔の叫びは、メナシにだけ張り付き、わずかな後味の悪さだけを置いて、薄い煙となって消え失せていく。後に残されたのは静かな山道と、ただただ震え、怯えきった様子のアザミだけだった。

「もう、大丈夫だ――」

 ほら、と尻餅を付いたままの少女に手を伸ばし、途中で躊躇した。また拒絶されるのでは、いや、それこそが自然な反応だと思い直す。

 ところが、引っ込めかけた手の平に、アザミの小さな手が触れたのだ。

「……お前」

 自分が怖くないのか、と聞く前に、すがりついてきた体を咄嗟に受け止めた。

 痩せた体のどこにこんな力があるのかと驚くほどに、強く強くトウマの着物の裾を握り締めている。

「あ……っ、あ……あああ」

 がくがくと膝を震わせ、肩を揺らし、声とも嗚咽ともつかぬ音を喉から搾り出す。それはおそらく少女にとって、初めて人前で見せた涙と生身の感情だったのではないか。

 理由もわからないままに直感した。わかってしまったから、トウマは何も言わずにそっとアザミを抱きしめた。それが引き金となったのか、アザミは大声で号泣し始める。

 静かな闇と月。そして一人のメナシと鶏娘。優しい夜は全てを飲み込み、じっと見守っていた。



 早朝。まだ日の昇らぬうちにトウマは目を開けた。農機具を置く小屋。それが昨夜のトウマの寝床だった。しかしそれもいつもに比べればかなりいいほうだ。街道沿いや山の木陰で野宿、なんてこともザラなのだが、昨晩はそうできない理由があった。

 苦々しいような、くすぐったいような気分で起き上がる。小屋の窓から鳥の声が聞こえた。薄闇は、もうすぐやってくる強い光の前触れだ。だから、早めに必要な作業を済ませることにした。

 仕事の時と同じように髪を後ろで縛り、濃紺の頭巾を被る。ただし、今度は頭巾の前を更に深く、目元まですっぽりと覆うようにしなくてはならない。それだけでは足りない分、分厚い布でぐるぐると両目を覆い、後頭部で縛る。こうしていても光は完全に遮断できないが、眼球を直接射抜かれるような痛みからは逃れられるのだ。その代わり、視界は塞がれ、感覚だけで『視る』ことになってしまう。物体の位置、近づいてくるものの気配、動き、匂い――そんなものの全てを感知し、必要な場合は避け、またはこちらが向かうこともできるのだが。その証拠に、耳を澄ましたトウマはほっと息をついた。

「よく寝てんな。ま、ちょっくら今のうちに……」

 声とも言えぬ呟きのつもりだった。しかし、同じく相手の動作を敏感に感じる(これは持って生まれた体や鍛錬した力とは別に、だ)習慣を身につけてしまっていたらしい鶏娘の少女、アザミの耳には届いてしまったらしい。かすかな身じろぎとゴザから起き上がる気配。そしてペタペタと裸足の足が近づいてくる音がする。

 予想通り、そこで着物の裾が引っ張られるのがわかった。小さな手がトウマをどこへも逃がすまいと握り締められているのまで見えるような気がした。

「えっと、あれだ。食い物の調達に行くだけだって。お前を置き去りにしたりしない。もうすぐ街道の先で朝市が立つんだ。ちょっくらひとっ走りして、なんか買ってくっからここで待って――」

 ぶんぶんと首を横に振る音。正確に言えば朝市へ直接向かうわけではなく、先立つ物の調達に行かなくてはならない。そのわずかな嘘を感じ取ってでもいるように、ガンとして離してくれる気配はない。

「約束だ。昨日ちゃんと言っただろ? 安全なところまでは送り届けてやる。俺は約束したことは守る。だから心配すんな。な?」

 付いてこられては少々障りがある。だからこうして置いていこうとしていたわけなのだが、約束を反故にする気はなかったから、見えない目でしっかりとアザミに向き直った。

 たっぷり鳥の歌が一曲終わるほどの沈黙。表情の動かないアザミがどう思っているのかまではさすがにわからない。理解してくれたのか、と歩き出そうとしたが、あわてたように引き戻される。

「あー……だからさ、その……待っててくれればすぐだから。絶対帰ってくるって。頼むよ」

 これではまるで親を見失わないようにする雛鳥だ。救ってくれた恩義を感じているだけではないらしい必死さに、どうしても振り切っていくのはためらわれる。極めつけは、小さな小さな呼びかけだった。

「……トウマ」

 かすかすぎて普通の人間なら聞き逃すほどの声。それでもトウマの耳にはちゃんと伝わった。昨夜、延々と泣き続けたアザミの背をトントンと叩いてやりながら、言った名前を覚えていたのか。

『大丈夫だ、大丈夫だよ。アザミ』

 自分がここにいるから、そう何度も言ってやった。そうでもしなければあの泣き声に耐えられなかったのだ。心の底から、体をよじるようにして泣く。あれは聞く者の心臓まで鷲づかみにする訴えだった。

 助けて。助けて。助けて。置いていかないで。一人にしないで。

 声にならない声がそう叫んでいたから、連れて行かざるを得なかった。だってあれは――自分にも覚えのある感情だったから。

「わかったよ……付いてきな」

 ためらった後に、「アザミ」と名を呼んだ。ぱあっと小さな顔が輝く様子まで想像できてしまったけれど。

 ――見えなくてよかった。

 心底そう思った。この手を離す日が遠からず必ずやってくるというのに、こうしてしっかりとつなぐはめになってしまうのだ。ぎゅう、と握ってくる懸命さと純粋さを振り切ることができるうちに、早くなんとかしなくては。

 トウマの複雑な胸中など知るはずもないアザミ。それでも本能的に何かを感じ取るのか、絶対につないだ手を離そうとしなかった。仕方なくそのまま小屋を後にする。

 名を呼んだことからして、話せないわけではないらしいアザミだが、まだ無言を守っている。守るという意識もないのかもしれないが。トウマのほうも会話なんてどうすればいいのかわからないから、と沈黙を選んだ。

 両目を覆う厳重な布でかろうじて作られる暗黒。しかし昇り始めた太陽は容赦なくトウマの目を刺激し、やはり日のある世界が自分にとって住みよいものではないと思い知らされた。これだから日中は寝て過ごすようにしているのだ。こういう風に、のっぴきならない事態を除いては。

 ふう、と短く嘆息し、不覚にも幼い少女と手に手を取ってたどり着いた場所は、街道沿いに立つ朝市だ。競い合うように飛び交う売り子の声で、既に混雑し始めていることもわかる。そんな光景を目前にして立ち止まったトウマに、アザミは困惑しているようだった。しかし、生憎寂しすぎるこの懐では、何も買い与えることはできない。トウマにしても限界まで腹は減っていて、すぐ目の前に迫る新鮮な野菜や漬物、魚や貝の干物に手を出してしまいたい。でもそれだけは厳禁だ。一族の掟で禁じられているからではなく、単に自尊心の問題だった。

 ――盗みだけはやらねえ。

 蔑まれるのに慣れてはいても、自分で自分を貶める真似だけはしたくない。金銭も物品も、きちんと仕事をして得た報酬でしか手にしないと硬く決めているのだ。

「アザミ、こっちだ」

 結果、ひもじくても雑草と睨めっこするような羽目に陥るわけなのだが――幸いこういった大きな街道沿いには必ずと言っていいほど付き物な場所がトウマに救いの扉を開いてくれている。その軒先を探すトウマの足取りには、迷いもためらいもなかった。あるとしたら、現在自分を親鳥か何かだと勘違いしている、この少女がどう思うかということぐらいか。

 ――何考えてんだ。こいつにどう思われたって、別にかまやしねえってのに。

 ガシガシと頭を掻くと、自分に気合を入れた。色を判別できないという限りなく弱点に近い特性を、長所に変えられる場所へ向かうために。

 朝市で賑わう道を目隠ししたまま器用に通り抜け、トウマが進んだのは裏道。野良仕事や行商で通る人々も増え、活気に満ち溢れ始めた表道とは違い、派手な布で飾られた店が立ち並ぶ裏道。しいんと静まり返ったそこはまだ夢の世界から抜けきっていない。早朝から起き出すような連中はおらず、たまに聞こえる音といえば、酔っ払って店の軒先で寝てしまったオヤジのイビキぐらいだった。

「心配すんな、危険なことはしねえから」

 わずかにためらうアザミの手を軽く引っ張り、また歩き出す。トウマの目当ては狭い通りいっぱいに立ち並ぶ店の中でも、一番小さく、地味な装いのものだった。手探りで確認した木戸の大きさで測る。

 店先にはためく旗には、他と同じく『色屋』の文字が躍っているだろうことは見ずともわかった。

「知ってるか?」とアザミに訊ねる。予想通り、ただ首を横に振る気配が返された。それも当然だろう。鶏娘として自由を奪われ、ただ働きも同然でこきつかわれてきた少女が知り得る世界ではない。けれども――敬虔なる氏子たちでさえもその名を全く聞いたことのない者はいないであろうこともまた事実。

 ――色を神として崇める世界で、またそれを使ってはびこる悪もある。なんて……最高の皮肉だわな。

 ふっと口元だけで微笑んで、トウマは店の奥へと足を踏み入れた。プンと鼻につく酒と煙草の匂い。明らかに戸惑っているふうのアザミを連れて入ることに躊躇がなかったとは言えないが、それも自分と出会った少女のさだめかと腹をくくった。

「誰かいねえか」と声をかけると、店の奥から酒焼けした女の声が返ってくる。

「ちょいとお、賭場はもうお仕舞いだよ。日が暮れてから出直しな」

 声に滲み出る疲労と苛立ちで、寝かけたところを起こしたのだとすぐにわかった。が、だからといって遠慮してやるような優しさは持ち合わせていない。

「賭場じゃねえ。用があんのはあんたらにだ。どうだ――? 新しい『色』が手に入るって話は」

 言うなり、女は走り出てきた。

「あんた、メナシ……!」

ここでの驚愕は、決して嫌な響きではなかった。ゆっくりと笑みを湛えた女が頷く。

少し後ろで困ったように立ち尽くしているアザミに、トウマは得意げな笑みを見せた。



                           


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