05 : 黒犬と酒場の宴。1
「……ん?」
ふと、身体を撫ぜる心地いい風に、なにかの気配を感じた。シスイではない、獣でもない、けれどもなにか獰猛な、そんな気配だ。
なんだろう。
野生動物の気配にしては、どこかおかしい。人慣れしているような、そのくせ警戒しているような、掴み難い気配をしている。
「イーサ」
気配を探っていたら、どこからか声がした。声のあるじを求めて視線を彷徨わせて、そうしてある一点で、おれは吃驚する。
おおぅ、狼だよ。
真っ黒な毛色の、大きな狼がいる。目は灰色だ。二本足で立ったら、おれの肩まで手が届きそうですよ。
「イーサ、帰って来たんだ」
狼が喋った。
てことは、さっきの声は、この狼か。
「狼、が……喋った」
「違う。おれ、犬」
「あ、そう」
狼じゃなくて犬なんだ。
随分でかい犬だなあ。
「って、やっぱり喋ってんの、おまえか」
「ああ」
よく見れば、狼じゃなくて犬は、口が動いていた。
この世界の動物は喋れるのか。
ちょっと大きめの牙が怖い気もするが、会話が成立しているから、たぶん襲ってはこないだろう。おれの適当な勘はよく当たる。だって適当だから。
「イーサ、おれのこと、わからないのか」
「え……おれ、おまえと知り合いなの?」
黒犬はおれのことがわかるようだ。
言っておくが、おれにこんなでかい犬、それも喋る犬の知り合いなんていない。
いや、いたらいろいろ大変じゃね?
「そうか……イーサは、忘れたんだな」
「え?」
黒犬は、なぜか悲しそうに俯き、せっかくの立派な尾と耳を垂れさせた。
「べつに、いいけど。仕方なかったんだから」
「え、ちょ……おい」
なんでそんな悲しそうなんだよ。べつにいいけどって雰囲気じゃねぇぞ、それ。
「また来るよ、イーサ」
黒犬は寂しそうな背中をこちらに向けると、とぼとぼと歩き出した。
「ちょっと待てよ」
おれは慌てて追いかけようとした。けど、強い風がおれの視界を奪った。まるでおれの邪魔をするような強い風だ。
「やめろって!」
思わず風にそう怒鳴ったら、意思を持ったかのようにぴたりと風は止んだ。
だのに、おれが追いかけようとした黒犬は、もうそこにいなかった。
「……犬?」
あっというま過ぎて、呆然としてしまう。周りを見渡して、けれどもそこに黒犬の姿はやはり見当たらなくて、おれは肩を落とした。
「なんだ、あいつ……」
おれに逢いに来た、にしては、あっというまだった。まあ逢うだけなら、充分な時間だったのかもしれないけど。
「おい、さぼってんじゃねぇぞ、イザヤ」
「ぎゃあ!」
ぬっと現われたシスイの間近な顔に、おれは吃驚して悲鳴を上げ、ついでに後ろに転がった。ごん、と頭を地面にぶつけて、さすがの石頭も痛みに負ける。
「ぬおぉぉお、痛ぇええ」
「あ、悪ぃ」
吃驚させるつもりはなかった、とシスイは手を差し伸べてきて、嘘だろと思いながらその手を取りつつ、しかし痛くて頭を抱えたまま蹲った。なんでこんなに痛いんだと転がった先をちらりと見たら、ころころと小石が転がっていた。
これじゃあ痛いはずだよ。点の攻撃じゃなくて、点々の攻撃だもの。
「ぼやっとしてたが、なんかあったのか?」
「うー? ああ、さっき黒犬が来てさ。また来るとか言ってた」
「黒犬? 喋ったのか」
「そう。この世界って、動物でも喋るんだな」
「いや……」
おや、シスイったら真面目くさった顔して、眉間に皺なんて刻んでいやがる。
「なに、動物って喋んねぇの?」
「ふつうはな」
ふつうは?
じゃああの黒犬、やっぱり犬じゃねえってこと?
いやでも、自分で「犬」だって言ったよな。
「あ、そうそう。おれのこと、『イーサ』? とか、呼んだぞ。誰のことだろ」
おれは十六夜だ。あの黒犬、おれを誰かと間違えたのかな。
「……『イーサ』だって?」
「ああ。シスイ、知ってんの?」
「名前だけならな。だが……」
ふむ、と考え込み始めたシスイを横目に、おれは痛みが引いてきた後頭部を撫でながら立ち上がると、それまで手に持っていた斧を、再び持ち上げた。
う、くそ、重たい。
本当はもう持ちたくない。なんでって、そりゃ決まってる。
この世界で迷子になって、本日で三日め。狩人シスイの弟子なんてものになってしまったおれは、鍛えるというシスイに、強制的に剣を持たせられたことから、それは始まる。
『持ってみろ』
と言うから、シスイの大剣の柄を握った。
『ぅ重ぉお!』
持てなかった。
剣ってこんなに重いのかよっ?
『命の重さだ』
『うそつけぇ!』
『ああ冗談だ』
おれやっぱりシスイ嫌い。
『軟弱者め』
『うるせぃやい!』
『まあそれはおれ仕様の特注みたいなものだからな。おまえにゃ持てねぇだろ』
初めからおれに持てるわけなかったのかよ!
『しかしな……ほれ、これは?』
と次に渡された剣は、シスイの大剣より遥かに細身の、やはり両刃の剣だった。ファンタジーな剣である。
『これくらいなら持て……、ぅ重ぉお!』
『は? うそだろ?』
かろうじて持ち上げられる剣ってなにっ? この世界の鉄、どんだけ重いわけ!
『イザヤ……おまえ』
なにその目!
ちょっとシスイさんっ?
『ただのショップ店員がこんなもの持てるか!』
そりゃ棚卸のときとかは重いもの持ったけどさ! 男の子だから重いもの優先的に持たせられたけどさ!
んでもこの剣それより重いから!
と、おれは持ち上げるだけ持ち上げた剣をぽいっと手放した。
ああ重かったぁ。
『……じゃあなにか? 子ども用の剣ならいいのか?』
『ええっ?』
なにそれ! おれ子どもかよ!
って、シスイとの身長差を考えれば、あははは、おれって子どもだね。
凹んだ。
マジ凹んだ。
『せめて小振りなものにしてください』
『それが一番小振りだ』
『マジでっ?』
地面に転がる剣を眺めて、落胆。ため息。
『これより小せぇのったら……ちょっと待ってろ、捜してくる』
シスイさんは諦めることを知らない。どうしてもおれを狩人にしたいらしい。というか弟子が欲しいのか。
なあ諦めろよ、シスイ。おれ、無理。逃げ足だけだから、特化したの。それ以外鍛えてないから、頭もね。
あはははは、と現実逃避して数分、裏庭らしきところで剣の稽古を始めようとしていたわけだが、シスイが家から戻ってきた。
『ほら』
と投げて寄こされて。
『受け取れるかアホ!』
逃げました。逃げて正解です。サクッ、と地面に刺さりましたからね。
『それならいいんじゃね?』
『諦めろよー……』
おれに狩人は無理だよ。
っと、お?
『小刀?』
片刃だ。なんかドスっぽいけど、小刀みたいに見える。地面に刺さったそれの柄を握り、グッと引っ張って持ってみる。
『おお、これなら持てる』
そんなに重くない。なんていうか、こう、しっくりくる重みだ。
『鞘は?』
鞘があるような仕様になっているから訊いたら、シスイは屈んで影に手を突っ込んだ。
へえ、影の袋って、手ぇ突っ込めるんだ。
というか、そこにあったならなんでわざわざ家に戻ったんだよ。
『お、あった。ほらよ』
影からすぽんと手を抜いたシスイは、取り出した鞘を放り投げて寄こした。危険はないから上手にキャッチ、できるわけありません。転がしました。
『おとととっ』
こん、と地面に落ちた音の感覚から、小刀の鞘は木で作られてるっぽい。
『へたくそ』
『ほっとけ』
鞘を拾って、小刀と並べて見比べる。
うん、なんかおれっぽい。おれでも使えそうな剣っぽい。
『だいじょぶそうか?』
『これならね。片刃っていうのも、馴染み深い』
『片刃が? 珍しいな』
『そうかな。おれの国じゃ、片刃が主流だった時代もあるんだけど。今でもそうじゃねぇかな』
『ふぅん……片刃ねえ』
よっぽど珍しいのか、シスイはまじまじとおれを見る。
『ま、おれはそれ使わねぇから、おまえにやるよ。けど、その大きさなら握れるんだな?』
『どうも。これくらいなら握れる、というか持てると思うけど……え、まだ諦めてねぇの?』
『諦めねぇよ。狩人の数が減ってんだ。なりやがれ』
『ええー……なにその命令形』
狩人の存続に関わるから、ってシスイは言っていたけど、だからってそこにおれを連れ込まないで欲しい。おれ、マジで運動苦手なんだよ。身体を動かすのは祖母ちゃんの過剰な愛情から逃げるときだけで、おれには充分なんだ。
『それくらいの剣、捜しといてやるから、とりあえず筋力つけろ』
『げえ』
『やれ』
いきなり絶対君主になりやがったシスイさんは、それからというもの、おれにひたすら重たいものを持たせてくれやがりました。
ということで、滞在三日めの今日、薪割りもその一環です。
「ぉお……っこいしょー」
斧で、薪割り。
なんで薪割りって、ストーブのためですよ。火を熾すのに薪を使うのが一般的なんだそうだ。だから大量の薪が必要になる。タカ爺の家も例外なく、裏庭の一角に薪が山と積んであった。
「もう腕上がんねえ」
ざく、と斧を杖に地面に屈むと、おれが回想している間もなにか考えごとをしていたシスイが、ふっとおれを見た。
「出かける」
「あっそ。いってらっしゃい」
「軽いな」
ここで熱ぅーく別れを惜しめって?
ふざけろ。
おれはもう疲れたんだ。
「イザヤも行くか?」
「行かねぇよ。買いものすんならタカ爺のとこにくる行商の人で充分だし、そうでなくてもタカ爺がいろんなのくれるから困ってねぇし、ひとりにしたくねぇし」
そう、困っていないが困った事態が起きている。
なにかって、タカ爺ですよ。あの人、おれのこと孫みたいに可愛がってくれるんだ。いつ帰るかもわからないのは確かだが、確かに帰ってしまうおれに、タカ爺はとてもよくしてくれる。衣食住はもちろん、精神的にも、タカ爺はおれを気遣ってくれるんだ。
これだから年寄りっていうのは怖い。
おれはあんたの孫じゃないんだぞって言っても、タカ爺は同じようなもんだって言って笑って済ませやがる。
ああおれ、年寄りには縁があるなぁ。
なんて、おれも笑えたらいいんだけど、無理。タカ爺みたいな年寄りは、見返りを要求しない。詐欺に引っかかっても、たぶん笑って済ませる。うちの祖母ちゃんとは正反対だが、祖父ちゃんとは似ている。
だぁかぁら、怖いんだよ。
なにするかわかんねえ。いや、なにしでかすかわかんねえ。その行動、予測不可能だからね!
ああくそ、ほっとけねえ。
「まあ……爺さんはひとりにすっと、確かに危ねぇが」
ほら、シスイも学習してる!
おれの読みは当たるんだよ。こと年寄りに関しては、なんせ祖母ちゃんと祖父ちゃんに育てられてるからね。あ、年寄りの知恵は期待できねぇけど。だって祖母ちゃんも祖父ちゃんも、なにげに上品に育ったみたいで、けっこうもの知らなかったから。
「なんか欲しいのあるか?」
「ね」
「おいこら、一音で済ますんじゃねぇよ」
「え、今のでわかったの?」
「はあ?」
ここで生まれる言葉の不思議。というか聞こえる言語の不思議。
シスイは日本語じゃなくてカン語だとか言ってるけど、日本語っぽいんだよなぁ。
「べつに欲しいのなんてねぇよ。帰る方法は捜して欲しいけど」
「ま、今のところイザヤの目的はそれだけだからな」
「つか、どこに行く気だよ。そんなこと訊いて」
「ちょっくら王都まで。兄貴に呼ばれたから」
「え、シスイってお兄さんいるの?」
驚きだ。弟っぽくねぇのに。
「かなり歳は離れてるがな。そういうことだから、二日か三日戻らん。その間に害獣が出たら、イザヤがどうにかしろよ」
「無理っ!」
なんでそうなるっ!
というか、駆除に成功したばっかりじゃねぇのかよ!
「おれの弟子だろ、イザヤ」
「できること把握してから言おうよねっ?」
「まあ冗談だ」
おれシスイ嫌いだ。
そんなわけでシスイは出かけやがりました。ちなみにカジュ村には、平穏なときは農夫やってるオッサン狩人が二名ほどおられるようで、おれの出番はなさそうです。
一生出番なくていいですけどね!