02 : 宴と明けた朝。2
「ここどこよー?」
と訊いたところで、答えてくれる声は「カジュ村だ」という酒場のお兄さんの平淡なもの。
「夢かなんかかよー?」
夢にしては、やけにリアルだ。頬を掠める風や空気、裸足に突っかけた程度のサンダルから伝わる土の感触は、どう考えても覚醒状態でなければ感じ得ないものだ。
どこに迷い込んだ、おれ。
「……おれにどうしろって?」
誰に問うわけでもなく、その疑問が口を突く。当然だ。この状況が把握できないのだ。理解したくても、なにを理解すればいいのかさえ、わからない。
さて、どうしたものか。
たとえば迷い込んだのなら、遭難したことになるわけだから、誰かに助けてもらうほかない。住宅街で遭難なんて情けないというよりアホの所業であるが、まあ仕方ないだろう。
後ろポケットの携帯電話を取り出した。
「……なぬ?」
わお、圏外。
「ぅええ? マぁジで?」
見渡す限り見憶えのないここに、もちろん電波塔など見えるはずもない。携帯電話が圏外である理由はわかる。だが、GPSまで機能してないとなると、携帯電話の性能を疑うというよりも、この土地柄を疑ってしまう。
今の時代、携帯電話の電波が届かない土地など、あっただろうか。
「いや、ねぇだろ」
携帯電話の普及は著しい。どこに行っても、大抵は電波が通じる。遮るものが山くらいしかないこの土地なら、簡単に電波を拾いそうなものなのに、これはいったいどういうことだ。
困った。
早くも手詰まりだ。
とりあえず煙草でも吸うか。
携帯電話と財布、ほかに煙草を常備しているので、箱から一本取り出してライターで火を点けた。
思ったより煙草が上手い。
そして落ち着く。
いやいや、今は焦ったほうがいいのか。
「や、焦っても……どうしようもなくね?」
深く紫煙を吐き出して、状況をさらりと復習してみる。
休日の飲み会にいやいや参加し、そしてほろ酔いで帰り、その途中でどっかの宴会に混ざってしまい、無理やり酒を呑ませられた。美味い酒だった。どれくらい呑んだのか、気づけば朝で、後ろでおれと同じように煙草を吸っているお兄さんに朝飯を食わせてもらった。少し話をして、迷子だなと言われ、その説明を受け、ここが自分の家がある町ではないと知って、今に至る。
簡単に復習できてしまった。
「……この場合、どうすりゃいいの?」
振り返ってお兄さんに訊くと、さあ、と肩を竦められた。
え、なにその放棄の仕方。
ああ、朝陽が目に滲みる。
そして寒い。
すっげぇ寒い。
なにこの昇天する勢いの寒さ。
「上着くらい貸してくれてもいいだろっ」
「兄ちゃんが薄着なんだよ」
だって夏だったんだもん!
さぁむぅいぃーっ。
と、がたがた震えていたら、まあ中に戻れば、と言われたので、急いで煙草の火を携帯灰皿で消すと、外観からして居酒屋っぽい家屋に飛び込んだ。
「あったけぇー……」
すごい温度差だ。外はめちゃくちゃ寒いのに、中は暖かい。
「兄ちゃん、やっぱり迷子だな」
おれのあとから入ってきたお兄さんは、納得したように言いながら扉を閉めた。
ああ、そうだよ、この時点で気づこうよ、おれ。どれだけにぶちんなわけ。
扉が異様にでかいうえに、日本にあるような様式じゃない。なんていうかファンタジーな世界によくありそうな扉だ。室内も、よく見れば全体的にファンタジー。
もっと早くに気づけよ、おれ!
にぶちんにも程ってもんがあるよね!
「宴はいろんなもんを呼び寄せるが、帰れなかった奴を見たのは初めてだ」
「うう……おれ、迷子?」
「よくいる」
「初めてって今言ったよねっ?」
「言ったな」
「どっち!」
このお兄さんなんなのよぅ。
ちょっと不貞腐れながら、扉の近くはやっぱり冷気があるので、おれは灯油ストーブっぽいやつのそばに行き、その前で膝を抱えて座った。後ろにお兄さんが、椅子を近くに引き寄せて座る。
「迷子はよくいるぞ」
「初めて見たって言ったじゃねぇの」
「帰れなかった迷子を見たのは、な」
ああ、これだから言質の取り合いっていうのは面倒だ。
「で、ここはどこよ」
「カジュ村」
「それどこ」
「あー……アウレニア大陸北領リョクリョウ国、最北端カジュ村」
「北の外れっ?」
というか聞いたことない国名と地名に仰天である。
「どこの世界ですか、ここ!」
「どこのって……ラーレ?」
「らーれってなに!」
「ラーレはラーレだなぁ。兄ちゃんの世界とは違うんだろうな?」
「こちとら地球産の日本人だい!」
「ちきゅうさん? にほんじん? 聞いたことねぇなぁ」
異世界か?
異世界なのか?
宴会に誘われたがゆえに異世界に辿りつき、帰れるはずが帰れなかったということに、おれはなったのか?
「……、なんてこった」
もう酒は呑まん。二度と呑まん。いや、二度めがあってたまるか。これだから酒は好きじゃないんだ。
「……、ん?」
あれ、待てよ?
異世界なのに、なにゆえ言葉が通じる?
「……お兄さん、日本語お上手ですね」
「はあ? にほんご? ……おれはカン語しか遣えねぇぞ」
「かんご? 看護?」
「カン語だ。看護じゃねえ」
日本語じゃん。
まあいいや。言葉が通じているなら、とりあえずコミュニケーションには困るまい。困っているのはこの現状だ。それだけでたくさんだ。
「迷子かぁ……おれ、帰れんのかなぁ」
「さあ?」
いやだから、その放棄の仕方、やめようよ。悲しいから。
訴えたら、どうしようもねぇだろ、と返された。初めて見たものに対しての対処法なんて、そのときに考えるしかないものだとも返された。
それはそうだけどさぁ。
「兄ちゃん、人間だろ?」
「人間ですよ。人間以外の生きものに見えんのかい」
「生きてんだから、いいんじゃねぇの?」
「生きる世界が違うって」
「そんでも、生きてる。生きてりゃどうにかなるもんだ」
「う……」
その言葉はよく聞いていた。祖母ちゃんに、祖父ちゃんに、「生きていれさえいれば、どうにかなるものだよ」と言われて育った。
ああ、祖母ちゃん、祖父ちゃん、違う世界でも同じこと言われちゃった。亀の甲より歳の功、まさにその言葉に尽きるね。
「ところで兄ちゃん、名前は?」
おっと、そういえば互いに初対面でした。
「十六夜だ。緑十六夜」
「イザヤ? ミドリ・イザヤ?」
「そ。躊躇うように出てくる月夜のこと。そんな日に産まれたから十六夜。お兄さんは?」
「シスイだ。ロク・シスイ、字はソウエン」
おや、中国っぽい。名前があとっていうのも、日本っぽい。
「どっちで呼べばいいわけ?」
「シスイだな。そっちはイザヤでいいのか?」
「シスイな。いいよ、イザヤで」
お兄さんはシスイと呼べばいいらしい。うむ、やっぱり名前は大事だ。
「じゃあイザヤ、これからどうする?」
「どうするって……どうしたらいいって訊いたら放棄したのシスイだろ」
「決めるのはイザヤだからな」
あぁあぁ、これだから言質ってのは面倒だ。
「迷子っていうのは、ふつうなら帰れるもんなんだろ? じゃあ帰るよ、おれは」
「ふつうに帰れなかったんだから、ふつうに考えたら帰れねぇと思うぞ」
「絶望するようなこと言わないでくれるっ?」
「事実だ」
あぁあぁあぁ、おれってばシスイのこと嫌いかもしれない。
「うー……帰らねぇとばあちゃんとじいちゃんに殺されるぅ」
「帰らねぇほうよくね?」
「シスイはうちのばあちゃんとじいちゃんを知らねぇからそう言えんだ!」
「逢ったことねぇし」
「ちょーお怖ぇんだぞ! バケモノだからな、あの夫婦!」
「自分の身内だろーが」
いやいや、身内だからってそこに甘えちゃなんねえ。祖母ちゃんも祖父ちゃんも容赦っていう言葉を知らないもんだから、宣言して家出しないと袋叩きだ。家出に宣言なんて必要ないと思うだろうが、そもそも家出っていうのは家があるからできることだ。帰る家があるから、一時でも家を出ていられる。
祖母ちゃんと祖父ちゃんに家出を宣言するのは、いつか帰るから、という宣言だ。おれはべつに、祖母ちゃんと祖父ちゃんがいやで家出をするわけじゃない。その意味を込めて、家出するのだ。怒らせると怖いふたりだけど、おれにはふたりしか家族がいないから、おれっていう孫に優しいふたりを知っている。
ああ、ばあちゃん、じいちゃん、ごめんなさい。
迷子になってゴメンナサイ。
ちゃんと帰るから殺さないでね。
「……よっぽど怖ぇんだな、イザヤ」
頭を抱えてぷるぷる震えていたおれを見て、シスイが呆れたように言った。
「怖いよっ」
そりゃもう頬に傷のある人より、とっても偉い人より、雷よりも怖い。
ただいまって言った瞬間に包丁が飛んできてみなよ。避けたら二発めが飛んでくるぞ。四回か五回くらい逃げると、「ちっ」ていう舌打ちと、「おかえりぃ」なんて優しい声がかけられるんだ。「いーちゃん今までどこほっつき歩いていたんだい」って、後ろに夜叉を抱えながら訊かれるんだぞ。そこで「い、いーちゃん、部活で遅くな……」と最後まで言わせてもらえず背負い投げされてたんこぶを作る。おかげでおれは石頭になった。
あ、ちなみに包丁を投げるのも背負い投げしてくるのも、祖母ちゃんだ。祖父ちゃんはそれをのほほんと優しい顔で見守っている。
助けてよ、じいちゃん!
だっていーちゃんが悪いんだよ?
なにがっ?
「ふっ……ほんと、いいばあちゃんとじいちゃんだよ」
おかげさまなのは石頭なだけじゃなく、逃げ足の速さや条件反射の素早さもあるね。鍛えられたよ、ほんと、逃げることに関しては。
「……まあ、とりあえず元気出せ? 現状は変わらねぇんだし、前向きに考えろよ」
帰れば帰ったで怖いめに遭いそうだが、帰らなかったら帰らなかったでそちらのほうが恐ろしい。
うむ、おいらは帰るのだ。
「帰るっ!」
拳を握って顔を上げる。
「どうやって?」
凹んだ。
「絶望に突き落とさないでくれるっ?」
涙目で振り向いたら、シスイの奴は笑っていやがった。
笑いごとじゃねぇんだぞ!
「まあさ、イザヤ、宴に誘われちまって迷子になったんだから、また宴に呼ばれりゃ帰れんじゃねぇの?」
「お?」
なるほど、そういう考えもある。
「そんなしょっちゅう宴を開くわけじゃねぇが、害獣が駆除できりゃ宴は必ず開かれる」
「ほうほう」
目を輝かせたら、シスイはにやりと笑った。
「おまえも狩人になりゃいい」
「かりゅうど?」
なんだそれ、と首を傾げたら、シスイはどこから出したのか、両刃の大剣らしきものをおれの前に突きだした。
「これで、害獣を狩る。それが狩人だ」
「え?」
でかくね?
害獣って、あれだろ。スリッパでぶっ叩くか、網で捕まえるか、殺虫剤を振りまくか。
どれも違う?
「剣、で?」
そりゃもうファンタジーも吃驚な立派な大剣が目の前に。
これでぶった斬られる害獣って、なに?
「イザヤ、狩人になれよ」
「むり」
「帰りたくねぇの?」
「帰りたいけど……え、無理。剣道なんてやったことねぇもの」
体育の授業でも逃げたのに、なにゆえ成人して煙草も吸える歳になってから剣道などせにゃならんのじゃ。
「狩人にならねぇとここでの食いぶちはねぇぞ?」
「えっ?」
なにその限定職業!
「ほかに害獣を駆除する方法ってないの?」
「ねぇな」
さらりと否定。
ちょっと待て、そんな大剣を振り回さないと倒せない害獣って、なにさまよ。
「迷子なら知らねぇもんだが、害獣ってのは、人間や自然に害をなす生きものだ。大抵が獣の形をしてる。だから害獣」
「けもの……?」
その大剣に見合う獣って言ったら、え、熊とか? それとも虎? 百獣の王サマ?
でか過ぎね?
「不定期に現われては、農作物を駄目にしたり街を滅ぼしたり、人間を襲う。このところはその害獣多さに、おれみたいな狩人の数が間に合わなくてな。ちょうどいいからイザヤ、おれの弟子になれよ」
「ええっ、弟子って、おれ狩人になるなんて言ってねぇし!」
「狩人になるしか食いぶち稼げねぇし、宴も開かれねぇぞ」
「ぐ……っ」
なんて選択だ。
宴を開いてもらわないと帰れないかもしれないのは、可能性的なことだけど、それ以外に方法があるのかわからない。試してみないことには、始まらないことだ。
「おれ、運動苦手なんだけど……」
「鍛えてやるさ。イザヤに酒呑ましたの、おれたちだしな」
「うー……」
優しいのか優しくないのか、よくわからない男だ。
「飯食わしたのはおれだし、面倒はみてやるよ」
「それって、お礼言うべき?」
「言いたいときに言やいい」
「そ。じゃあとりあえず、帰りたいからそれに協力してよ」
「いいぜ。みっちり鍛えてやる」
それは勘弁、と顔を引き攣らせたおれを、シスイはくつくつと笑った。