01 : 宴と明けた朝。1
自分が持つ常識が通用しないって、これのことを言うんだと思った。
「なんだ、これ」
目の前に広がった景色が信じられない。
こんなのありかよ。
「おお、兄ちゃん起きたか」
かけられた言葉に、思わずビクッとしてしまう。
どう表現すればいいのかわからないが、喫茶店のカウンターのようなところで、フライパンを片手に料理しているお兄さんが、にっかりと笑った顔をこっちに向けていた。
あのお兄さんには見憶えがある。まあ呑め、と酒を差し出してきたお兄さんだ。
だが、見憶えがある顔はお兄さんだけではない。隣で眠りこけているオッサン約二名と、カウンターらしきところで眠っている老人にも、見憶えがある。
じゃあなにが信じられない光景か。
「……どこだよ、ここ」
幾度か瞬きしても、景色が再び変わるようなことはなくて、目を擦ったり頬を抓ってみたりしても、やっぱりその景色は動かなかった。
ここは酒場か?
居酒屋か?
雰囲気的には喫茶店というよりも居酒屋っぽいところだが、どこかはわからない。
どこで眠りこけたんだよ、おれ?
「どうした、兄ちゃん」
呆然としていたら、カウンターで料理していたお兄さんが、料理したものを皿に入れて盆に乗せ、カウンターから出てきた。
うお、でけぇ。
じゃなくて、炒飯みたいな料理のそれを持ってきたお兄さんは、おれの前にその皿を置いた。
「ほれ、朝飯」
「え、おれの?」
「そ。おれも食うけど」
お兄さんは盆を隣のテーブルに置くと、自分の皿を持っておれの向かいに腰かけた。
「兄ちゃん、変わった恰好してるよな。どっから来たわけ?」
「え……そっちも変わった恰好してね?」
じっと互いを見る。
お兄さんはなんていうか、膝丈までの着流しにズボン、裾は片方だけブーツみたいな靴に詰め込まれていて、もう片方の裾は引き摺っている。
対しておれは、休日にいきなり呼び出されて飲み会に参加していたので、長袖のTシャツにダメージジーンズ、足許は一目惚れして買ったブランドのサンダルできめている。
え、なにこの差。
時代錯誤っていうより、世界錯誤?
そんな言葉あったかな。
「まあ食えよ。あれだけ呑んだくせに、この時間に起きたってことは腹減ってんだろ」
あ、詮索を放棄しやがった。
まあいいけど。確かに腹は減っている。
「いただきます」
「律義だな」
「癖だよ」
「そうか。じゃあおれも、イタダキマス」
おれは手のひらを合わせて「いただきます」と言ったが、お兄さんのほうは言葉にしたくらいだった。木製のスプーンでがつがつ食べている。
見ため炒飯のそれを、おれもありがたく頂戴する。
「うん、なかなか美味い」
ふつうに炒飯だ。塩気がちょうどいい。
「こんなのここいらじゃ、ふつーの家庭料理なんだが……美味いのか?」
おかしなことを訊く。家庭料理だから美味いのだ。
「ばあちゃんのお手製に似てる」
「あ、そう」
朝飯に炒飯はどうかな、とも思うが、脂っこくないから食べ易い。やっぱり朝の食事はなんであれ大切だ。
おれとお兄さんが無言でがつがつ食べている間、眠りこけているオッサン二名とカウンターの老人は起きず、食べ終わっても起きなかった。
まあべつに騒がしくしてたわけじゃないし、起きなくて当然だけど。
「で、兄ちゃんどっから来たわけ?」
食後のお茶らしきものまでもらうと、お兄さんが詮索することを思い出した。
「どっからって……どっから?」
ふむ、とおれは思い出してみる。
昨日は休日だった。久しぶりの休日を、誰にも邪魔されることなく惰眠に使っていたが、夕方に職場の先輩から呼び出しがかかった。飲み会をするから来い、と。タダ酒を呑ませてやる、と。おれは酒があまり好きではないから行きたくはなかったが、そこで断ると職場の先輩との折り合いも悪くなると思って、仕方ないと飲み会に参加した。適当に合わせていればいいだろうと、そのとおりに行動して、ほろ酔い加減で帰路についたのを覚えている。
その帰り道だ。
ふと通りかかった道端で、宴会をしているような騒ぎが聞こえて、気づくとその中にいたと思う。そこでオッサンに声をかけられて、おまえも呑めよ、と酒を渡された。ほろ酔いだったおれは、これ以上の酔いは避けたかったので遠慮したが、オッサンは強かった。無理やり呑ませられて、しかしそれがなんというか美味で、あっというまに一杯を呑み切ってしまっていた。
そこからは言うまでもない。
ひたすら、呑ませられた。
とにかく、呑ませられた。
あんなに呑んだのは初めてではなかろうか。しかし記憶はあるし、二日酔いもない。いい呑み方ができたようだ。
「飲み会の帰り道に、あんたらに引っ張り込まれたんだな、おれ」
「そりゃ悪かったな」
「いや、美味い酒だった。あんなに美味い酒、初めて呑んだよ」
「祝い酒だったからなぁ」
「へえ。誰かの結婚とか?」
「んにゃ。害獣駆除に成功したんだよ」
「……なんだそれ」
祝うほどのものか、と顔が引き攣る。
害獣って言ったら、家庭の宿敵ゴキさんくらいしか思い当たらない。
あ、あれは害虫か。
いやいや、ニュースとかでも人慣れしてしまった野生動物が人に危害を加えたり、農作物を荒らし散らしたりする話は聞くから、そういう生きものを害獣と呼ぶなら、まあ、撃退できれば喜ばしいのかもしれない。
「いいことがあったときには、みんなで宴を開く。まあ、ただ宴を広げたくて適当な口実を作るときもあるが」
害獣駆除が適当な口実になってしまった。
あんたらなに祝ったの?
「兄ちゃんみたいにふらっと寄ってく奴らも多いが、ここいらの人間じゃねぇのはいつのまにかいなくなってるもんだ。だから変な恰好してる奴らはとくに珍しいわけじゃない。まあ、兄ちゃんみたいに朝まで眠りこけてるっつうことはねぇけど」
「え?」
頭からすぽんと、害獣のことが吹っ飛んだ。
お兄さんの今の話、どっかで聞いた気が。いや、小説で読んだ気がする行だ。
ええと、なんだったかな。あれだ、あれ。
あれとしか言葉が出ないのは歳を取った証拠。
じゃなくて。
「おれって、そんなに変な恰好してんの?」
「薄着だ」
「いや、今夏だし。おれ半袖は好きじゃないから長袖しか着ねぇけど」
「今は冬だぞ」
「ええ?」
秋はどこに行った?
というか、冬ならもっと寒いはず。
くるりと周りを見渡すと、お、灯油ストーブっぽいの発見。発火していやがるぜ、くそ。
「……おれ、季節間違えるほどボケちゃいねぇはずなんだけど」
「はあ?」
「夏からいきなり冬って……ええ? おれ、どんくらい眠りこけてたわけ?」
「数時間くらいじゃねぇか?」
たった数時間で季節を一つ抜けるものか?
おれ、どれだけ仕事を無断欠勤したことになるんだよ。
宣言しないで家出しちゃったよ。
あぁあぁぁ、祖母ちゃんと祖父ちゃんに殺されるぅ。
頭を抱えてテーブルに突っ伏したおれは、しばらく現実逃避を試みる。嘘だと思いたくても、目の前の灯油ストーブっぽいものが現状を語っているから、まあ逃れられるわけもない。
「……兄ちゃん、ほんとにどっから来たわけ?」
「どっからって、居酒屋からの帰途だよ。終電逃したからかなり歩いたけど、家の近くまでなら着いてたし」
「しゅうでん? よくわかんねぇが……もしかして兄ちゃん、迷子か?」
「まいごっ?」
そんなわけあるか、とがばっとテーブルから顔を上げたら、お兄さんの精悍な顔が間近にあって、吃驚して椅子から転げ落ちそうになった。
「なんだよっ?」
「んにゃ。兄ちゃん、目ぇ黒いな」
「日本人は目ぇ黒いよ。いや本当は焦げ茶色だけど」
おれの目が黒いと言ったお兄さんは、薄茶色だ。
色素薄いなぁ、このお兄さん。
「ふぅん……迷子か。珍しいな」
「いや迷子ってなに。迷子と目が黒いのとなんの関係がっ?」
お兄さんは身を引いておれと距離を作りながら、さも「知ってるだろ」と言わんばかりに胸の前で両腕を組む。
「宴ってのはな、古来、いろんなもんを呼び寄せるもんだ」
「は? なんのこと?」
「どっかでどんちゃん騒ぎしてりゃ、なんか気分よくなることってあるだろ」
「……、ねぇな」
おれは酒にいい記憶がない。どんちゃん騒ぎ? 嫌いだね。あんなのは楽しくもない。酔っ払いも好きじゃない。だから飲み会があって義務的に参加しても、おれはほろ酔いくらいで止める。というかいくら呑んでもほろ酔いにしかならない。気づいたら眠りこけていた、なんてのは、これが初めてだ。ついでに、あんなに気楽に酒が呑めたのも、これが初めてだ。
急に仏頂面になったおれをどう思ったのか、お兄さんは首を傾げたくらいにして、話を続けた。
「宴の席に素性は関係ねえ、楽しく呑めりゃ万々歳、一夜限りの無礼講だ」
「まあそれはわかるけど」
「兄ちゃん、それで誘われちまったんだよ、たぶん」
「誘われた?」
む。
確かに、そんな感じでふらふらっと、お兄さんたちが開いていた宴会に混ざっていた気はする。気づいたらそこにいたわけだし、誘われたのなら頷けるかもしれない。
「呼び寄せられて、誘われちまった兄ちゃんは、迷子になったってわけだ」
「え? どういう完結の仕方だよ、それ」
「誘われても帰れるもんだ。どういったわけか、な。だが兄ちゃんは帰れなかった。つまりは迷子だ」
「……、帰れなかった?」
なんだそれ、とおれは首を傾げる。
帰れなかった?
呼び寄せられて誘われて、帰れなかった?
帰られなかったということか?
「昔から言うもんだぞ、下手な宴にゃ顔出すな、てな」
「いやそんな言葉知らねぇよ。そんな言葉あったかよ」
「あるぞ。この村には」
「……村?」
この村、だと?
市町村?
おれの家は町にあるぞ?
遠戸町だ。住宅街だ。おれは飲み会のあと、そこまで帰途にあった。あと十分も歩けば、祖母ちゃんと祖父ちゃんがいるわが家だった。
村?
なんで、村?
「……ここどこ?」
きょとん、としたおれに、お兄さんはやっぱり首を傾げるだけだった。