13 : 黒犬とお姫さまと剣士。
痛いというより熱く、熱いというより重い。
粘りつくようなその重みが不快で、払いのけるように腕を動かした。けれどその腕さえも気づくと動かなくなって、この不快さをどう吐き出せばいいのかわからなくなったとき、声がした。
「だめよ。動かしてはだめ。今はおとなしくして」
聞いたことのない、柔らかな声だった。
その声のものだろうか、やんわりと暖かく、手を握っているのは。
「はな、せ……っ」
身体が重いんだ。すごく重いんだ。だからどかせてくれ。
「落ち着きのない人……だめと言っているでしょう」
「いやだ…っ…はなせ、よ」
ああ、咽喉がカラカラだ。重いんじゃなくて、やっぱり熱いのかな。
「水? 水が飲みたいの?」
まるでおれの今の気持ちを汲んでくれたかのように訊かれて、おれはこくりと頷く。頷くのにも力っていうのは必要だ。すごく、首が疲れる。
あれ、なんで疲れてんだ?
なんかぐちゃぐちゃだな、おれ。
「はい、水。ゆっくり、飲むのよ」
ひんやりと冷たいものが、咽喉の渇きを潤おしていく。少し甘く感じたそれがもっと欲しくて、ひんやりとしたそれが離れていくのを追いかけたら、小さく笑った声が聞こえた。
「もう少し?」
少しじゃ足りない。もっと。
握られている手にぎゅっと力を入れて、おれは咽喉を潤おしていく。
漸く落ち着いたのは、長く時間をかけて、唇を湿らせたときだった。
ついでに、真っ暗だった視界に明かりが差し込んできたのも、そのときだった。
「……だ、れ?」
ぼんやりとした視界に映る、太陽の白。薄まった青い、空。
「ヒョウジュ」
太陽の中に空を抱いたそれが、答えた。
「? ひょ、じゅ?」
「ヒョウジュ。ここにいるのは内緒」
「ひよ、ないしょ?」
「あら、いいわね。そう、わたしは、ひよ」
よく見えない。視力は悪くないはずなのに、なんでこんなに視界が悪いんだ。
太陽の中に空を抱いたそれを、もっとよく見たいのに。
「ひよ……みえ、な……い」
「だいじょうぶ。今は熱があるだけ。熱が引いたら、見えるようになる」
まるでおまじない。
まるで子守唄。
柔らかい声におれは安堵させられて、長く息をつくと瞼を閉じる。耳には柔らかい声の名残りが、おれを包む。
たゆたう柔らかさに身を任せてみたら、それまでずっと重かった身体が、徐々に軽くなっていった。だから不快さも徐々に消えていって、おれはほっと息をつく。
「おう、起きたな」
その声は、シスイだった。
「……シスイ?」
なんでシスイの声が、と思いながら目を開けると、そこは見たこともない天上で。
「え?」
吃驚してきょろきょろと周りを見渡して、さらに吃驚する。
「……ここ、どこ?」
おれは誰? なんて、アホなことは言わないけど、おれは知らないベッドで横になっていたから、焦った。
「おっと、動くなよ、イザヤ。傷が開くぞ」
「傷?」
身体を起こそうとしたら、なんだかやけに恰好がきまっているシスイに止められた。
傷が開くって、なんのことだ?
「しかしまだ回復してねぇとは……さすが危なかっただけはある」
「……危なかった?」
なにが?
危なかったって、なにが?
わけのわからないことを言われても、おれには理解できない。だからやっぱり身体を起こそうとして、肩と腕と首に走った激痛に悲鳴を上げた。
「いっ……てえ!」
ぼすん、とベッドに逆戻り。
なんだこの激痛!
「だから動くなって言ったのに……アホか」
「アホかって……え、だって、なんだよ、この痛いの」
おれは顔をしかめながらシスイを睨んで、痛んだ部分を動く手で押さえた。
それで気づいた。
首と、胸と、肩と、左腕と、ぐるぐる布を巻かれている。
布というか、包帯?
「え?」
なんで?
なんでおれ、怪我なんかしてんの?
「憶えてねぇのか?」
なにを憶えてればいいんだよ。
と、疑問になったところで、そういえば害獣の駆除をしたあとでなにかあったような、とおれは思い出した。
けど、そこまで。
そのあとのことは、よくわからない。
思いっきり腹を立てて、むしゃくしゃした気持ちになったのは憶えているけど。
だからって、なんでこんな怪我?
「憶えてねぇかも……」
ずきずきとするのは鎖骨のあたりだ。引き攣るような気持ち悪い感覚から逃げようと、おれはその部分を幾度もさする。
まあ、撫でたところで痛いのなんか消えないけど。
そういえばあの声、なんだったのかな。
すっげぇ身体が重くて、気分最悪だったあのときに聞こえた、声。
柔らかくて、ふわふわする、黒犬の毛みたいな声。
あ、譬えがおかしい?
うーん、柔らかくて安心する声?
「あら、起きたのね」
そう、その声!
って、おんやぁ?
「えっと……確か、ひよ?」
「はい」
うお。
すみませんが、言葉もありません。
だって。
だって。
だって女の子!
いや、確かに柔らかくてふわふわっとした感覚は、女の子っぽかった。でもおれ、ちゃんと見えてなかったから、よくわかんなかったんだよ。祖母ちゃんっぽい気もしなくはないんだけど、でも、おれが見た太陽の白と、薄い青空は、おれの目の前に佇む女の子が持ってる。
「イーサ?」
と、黒犬。
うお、おまえもいたか。
女の子に気ぃ取られて、おまえのこと見えなかったよ。
「わたしも、イーサさま、とお呼びしても?」
わあ!
は、はな、話しかけられた!
「えっ……あ、いや、おれ、イザヤだし」
「ではイザヤさまと、お呼びしても?」
「い、イザヤでいいよ。えと……きみは?」
「先ほど呼んでくださいましたでしょう」
さっきって、だってそれは、ボケたおれが聞き間違えたやつだろ?
「ヒョウジュです。どうぞ、ひよ、と呼んでくださいませ、イザヤさま」
わわわわわっ!
「そんな丁寧な言葉、遣んなくていいよ」
「では、ふつうに?」
うんうん、ふつうでいい。
こんな可愛い女の子に、丁寧な言葉遣われたら、おれ、自分が怖い。
「おれ、ミドリ・イザヤ。イザヤでいいから」
「リョク・ヒョウジュよ。字はツクヨミ。ひよ、と」
「ひよ?」
「はい」
わわわわわっ!
ふわっと仄かに微笑まれちゃった!
なにこの美人さん!
「姫さんに感謝しろよ、イザヤ。おまえの看病してくれてたの、姫さんなんだから」
なんですとっ?
「ご迷惑おかけしました」
なんで怪我したかは憶えてねぇんだけど。
「いいえ。わたしが勝手をしただけよ」
シスイに「姫さん」と呼ばれ、おれには「ひよ」と呼ばれることを望んだヒョウジュは、引きずるほど長いドレスっぽい、でもゆったりした衣装の裾を捌きながら、おれが横たわるベッドの横にある椅子に腰かけた。
うわぁ、お姫さま。
仕草が上品。
「目覚めてくれてよかった。穢れがひどくて、一時は危なかったのよ、イザヤ」
と、ヒョウジュお姫さまからのお言葉。
えーと、すみません、なんのこと?
「危なかったって……?」
「その怪我。骨のおかげで深手にはならなかったようだけど、心の蔵に近いでしょう? 穢れが入り込んで、イザヤの命を蝕んだのよ」
「え……」
んーと、つまり?
「死にかけた、のか? おれ?」
そういうこと、だよな?
そんな感じしねぇけど。
「ほんと姫さんに感謝しろよ、イザヤ。姫さんがいてくれたからおまえ、生きてんだぞ」
「それも意味がよくわかんねぇんだけど……そもそもおれ、なんで怪我したかも憶えてねぇし」
「ある意味、憶えてねぇほうが幸せかもな」
肩を竦ませながら言ったシスイに、おれは疑問をいくつも頭に並べる。もうどれがわかんねぇのかもわかんねぇや。
とりあえず、怪我をして、一時は命も危うくて、それを看病してくれたヒョウジュお姫さまのおかげで、今こうして起きている、というところだろうか?
まあいい。それで納得しておこう。
だって憶えてねぇもの、よくわからねぇもの。
「で、けっきょくここはどこ」
「城」
「はっ?」
聞き間違いっ?
「城って今言った?」
「言った」
「なんで? タカ爺は? オッサンは? ここカジュ村じゃねぇの?」
いつのまにおれは村を出たんだ!
「カジュ村を発ったのは、もう四日も前のことだ。怪我の状態から、カジュ村じゃあどうにもできなかったからな」
「怪我で四日も……え? じゃあ、害獣は? 三体出たら、後ろに倍の数が控えてるって、タカ爺言ってたぞ!」
「今日くらいに出現してるかもな」
「どうすんだよ!」
カジュ村にいる狩人はオッサンふたりだけだ。あんなでかい奴ら、オッサンふたりだけで駆除できんのかよ。
「そう興奮すんな、イザヤ。ほかの村から動けそうな狩人は呼んだし、国軍も置いてきた。一旬もありゃ大規模な駆除になる」
「ほ……本当に?」
「おまえを運ぶ道中に出た害獣はおれが駆除したからな。心配要らねぇよ」
本当、かよ。
本当に、タカ爺やオッサンたちは、カジュ村は、心配要らねぇのかな。
「いいから、おまえは早く怪我治せ。爺さん、すげぇおまえのこと心配してたんだぞ。自分がいながら護ってやれなかったって、悔やんでもいたんだ」
「タカ爺が……」
「爺さん、天恵者だからな。イザヤを襲った害獣、あれは小物だ。あれくらいなら爺さんの天恵でも、駆除できたからな」
あ、おれって害獣に襲われたのか。それでこの怪我ね。なんで怪我したのかやっとわかったよ。
にしてもタカ爺、小物でも天恵で害獣の駆除、できるんだ。すげぇ爺ちゃんだな。もしかしてけっこう強いのか?
「イーサ。イーサ、おれ護れなかった。ごめん」
お、黒犬。
あはは、耳垂れてら。
「本気でおまえに護ってもらおうなんて思ってねぇから、いいよ」
「いやだ。おれ、イーサ護る。だからごめん」
ベッドに頭を乗せて萎れる黒犬に、おれは苦笑する。
そんなこと言うけど、黒犬、自分よりでかい害獣二体に、立ち向かっていっただろ。おれに隠れてろって言って。あんとき、もし黒犬がいなかったら、おれとタカ爺は襲われて簡単に死んでた。
「おれはちゃんと、おまえに護ってもらったよ」
だからたぶん、この怪我は、みんなが予想していなかったものだ。おれなんかはとくに、その記憶がぶっ飛んでるっぽいから、なおさら。
誰かが悪いなんてことはない。タカ爺も、黒犬も、誰も悪くない。
「イーサ、ごめん」
「もういいよ、黒犬」
おれは痛まないほうの腕をどうにか伸ばして、黒犬をぽんぽんと撫でた。立派な耳が垂れた黒犬は、その灰色の目を潤ませていて、動物も泣くんだなって、おれを微笑ませる。
「いててて……っ」
「まだ動かないほうがいいわ、イザヤ」
「うん……でも、ありがとう。ひよ、シスイ」
上手く笑えてるかなんてわかんねぇけど、たぶんすごく心配してくれたヒョウジュと、あと仏頂面のシスイに、ありがとうを。
おれ、まだ生きたいから。
死にかけたところを、生かすために城とかいう場所に連れてきたなら、なにもできないままカジュ村を出てしまっても、まあ仕方ない。
だって、おれはまだ死ねないから。
まだ、生きたいと思ってるから。
「おれを死なせないでくれて、ありがとう」
「イザヤ……」
なんか、ヒョウジュの潤んだ目が、可愛い。
シスイの、呆れつつも安堵している姿が、くすぐったい。
「あんがと、な……」
ああおれ、こんなめに遭っても、生きたいって思ってる。
ゆっくり眠りたいって、思ってる。
どっちだよ、おれ?