09 : 黒犬と酒場の宴。5
* 残酷描写が少しあります。ご注意ください。
寂しさの限界、にはまだ早い。
おれはどうにか弱さに負けずに、その日を乗り切った。
それでも、そろそろ限界かもしれないという気はしている。
なにかで気を紛らわせていないと、みっともなく泣きだしてしまいそうになる自分を、おれはひたすら押し殺す。
迷子になって六日め、シスイが出かけてからは三日め、黒犬に懐かれてから二日後、おれは徐々にこの世界ラーレについて理解できるようになってきていた。
まずはこの土地、この国、リョクリョウ国。
豊かな土地ではなく、一年十三旬の半分以上が寒い季節だという。暖かいのは、暑い夏の二旬だけで、間を挟んだ一旬ずつが春と秋になるらしい。今は寒くなり始めた頃で、あと二旬すれば雪が降り始め、国中を雪が覆うことになるようだ。
「これ以上寒くなんのかよぉ」
暑いのより寒いほうが好きではあるが、ここは寒過ぎる。タカ爺のおかげで暖には困らないけど、そうなると温度差に負けて、外に出たくなくなる。まあ、そうじゃなくてもおれは外にあんまり出ないけど。買いものとか、タカ爺のところにくる行商人で済んじゃうからね。
「こんな寒い土地で、農作なんかできんの?」
「寒さに耐えられるもんと、寒いからこそ実を生すもんがある。多くは求められんが、賄うことはできるな。あとは雪を特殊な方法で固めたまま氷を作って、それを暑い季節が続く国に売るんだ。氷は高く売れるからな」
「へぇ……やっぱ、それなりだね」
「まあな。だからそれを害獣に奪われるわけにはいかん。害獣に荒らされた土地は、穢れのせいで二年は再起不能になるからな」
害獣は、人間だけじゃなくて、自然も傷つける。だから駆除しなければならない。たださえ農作物が取り難い土地だ。その被害は甚大ではないらしい。
そこで活躍するのが、シスイを含めた狩人たちだ。害獣駆除を専門に剣を揮う者たちのことを、狩人と呼ぶのだという。
「数、減ってるって、言ってたね」
「そうだなぁ……二十年と少し前もそうだったが、害獣の数が多くなってな。狩人たちが腕を上げていくのと同じように、奴らも強くなっていった。今年の害獣駆除で、いったいどれだけの狩人が倒れたことか……かろうじて命を繋げられても、害獣の穢れが残る。長くは生きられん。それでも、害獣は駆除せんとならん」
「……害獣って、なんなの? 怪物? バケモノ?」
「ここは最北端の国だ。これより先には国もない。険しい山だけだ。それゆえに、世界の澱みが集中する。それが害獣という姿を取るんだ」
「世界の、よどみ?」
「つまりは世界の塵、だな。狩人たちは、世界を掃除しとるんだよ」
タカ爺のこの解釈は、面白いと思った。そうかもしれないと、思った。世界だって生きてるんだから、汚れてきたら綺麗にして欲しいはずだ。
リョクリョウ国の人たちにだけそれを押しつけるのはどうかなと思うけど、害獣を狩ることで国からの補助もあるそうだ。たとえば在住する狩人がその村にひとりでもいれば、年間で治める税金が割り引かれたり、害獣が多く現われた際には国軍が来てくれたり、生活を助けてくれる制度も確立しているそうだ。
国家で害獣駆除に力を注いでいるから、この国は他国と争わないのだと、タカ爺は教えてくれた。
「聖国も力を貸してくれるしな」
「せいこく?」
「聖国とは、この大陸で一番大きい国だ。ヴァリアス帝国という、神がおわすという噂の国だよ」
「神、ねえ……それで聖国?」
「そうだ。リョクリョウ国には、鉱山はあるが、武具を生産できる技術が乏しい。なんせ害獣は待ってくれんからな。生産しとる暇がない。だから聖国の力を借りるんだ。リョクリョウ国は世界の澱みを、聖国はそのための害獣駆除の武具を、リョクリョウ国の鉱山から取れた鉱石を使って考案し続けてくれとる。聖国との関係はそれだけだが、互いに利益はある。だからたまに旧型の機械が流れてくるんだよ」
なるほどねえ。
と、おれは頷いてみるものの、まあよくわかるはずもない。ただ、このリョクリョウ国の存続には聖国が必要不可欠で、聖国にとっても鉱山があるリョクリョウ国は失いえない国らしいというのは、なんとなくわかった。
「害獣が世界の澱みなら、殲滅は無理っぽいね」
「そうだな。わしらは一生、害獣と向き合わねばならんだろう」
「だから……駆除の暁には、宴を開くんだな」
「世界が少し綺麗になったということだからな。それを祝って、少しの平和を祈るんだよ」
「そっか」
宴にはさまざまな意味が込められているみたいだ。おれが誘われたのも、いろんな意味が込められていたから、その喜びになにか共感したのかもしれない。
「お、そろそろ昼だな。飯にするか、イザヤ」
「もうそんな時間? ごめん、薪割りしてねぇや」
「かまわんよ。しばらくだいじょうぶだろう。イザヤのおかげで、今年は腰をまだ痛めとらん。ありがとうよ」
「そんな……おれ、それくらいしかできねぇし」
本当にタカ爺を手伝うくらいしか、おれにはできることがない。それでも、それだけでもタカ爺は喜んでくれるから、世話になりっぱなしのおれの心は救われてる。
「イザヤがおってくれるだけで、わしは充分だよ」
「タカ爺……」
「さて、干し肉を安く買えたんだったな。上手く料理してやろう」
「うん」
タカ爺は、ずっとひとり暮らしだったみたいで、料理が上手い。酒場の切り盛りができていたくらいだから当たり前だけど、それでも、美味しいものをいつも食べさせてもらっている。手の込んだ料理をご馳走してくれたときもあった。
「おれも手伝うよ」
そう言って、タカ爺の後ろを追いかけたときだった。
それまでおれの足許で眠っていた黒犬が、いきなり起きた。あまりにも唐突なその動きに、おれは吃驚する。
「ど、どした?」
その立派な尻尾、踏んじゃったか?
と、一瞬だけ思ったが、黒犬の視線はおれになかった。晴れ渡っているけれど寒い外を、窓を通してじっと、見つめている。
「黒犬?」
「イザヤ、どうした」
「や、黒犬が……」
様子がおかしい。そうタカ爺に伝えようとしたとき、黒犬が動いた。とんっと飛びあがり、窓に近いテーブルに乗り上げると、低く唸り声を上げたのだ。
「黒犬?」
「動くな、イーサ。気づかれる」
「え?」
どういうことだ?
「近くに害獣がいる」
黒犬がそう言った瞬間、おれもタカ爺も、息を呑んだ。
害獣って、あの害獣だよな? 狩人が駆除する、害獣のことだよな?
脳裏に、シスイの言葉が蘇る。
害獣が出たら、イザヤがどうにかしろよ。
シスイがいない間のことを、おれは適当に任された。もちろん無理な話だし、シスイも冗談だと言ってたから、この場合は狩人もやってるあのオッサンに助けを求めるべきだろう。
「黒犬や、数はわかるか?」
おれがどうやってオッサンに知らせるか考えていると、タカ爺が黒犬にそんなことを訊いた。
「二体……いや、三体いる。一体はここから離れた場所だけど、二体はこっちに近づいてる」
「三体か……こりゃあ続くかもしれんな」
ため息を落としたタカ爺に、どういうことだとおれは目を向ける。
「続くって、なに?」
「出現が一体なら、次に出現するのに時間が空く。だが三体となると、後ろにその倍が控えとると思ったほうがいい」
「え……なんでっ?」
乗法で増えるって、そんなのありかよ。
「あれらは群れで行動するわけじゃない。一体ずつ出現するのがふつうだ。明確な意思は持っとらんからな。だが例外はある。数で押し寄せてくる場合は、明確な意思を持っとる奴が一体おるということだ」
「明確な、意思?」
「あれらは世界の澱み、塵だ。負のものを引き寄せるんだよ」
それって、連鎖させるってことか? 連鎖させる意思を撒き散らして、同じようなものを引き寄せるって、そういうことか?
「なあ……それ、人間も危なくねぇか?」
そのことに、おれはゾッとした。
なんでって、考えりゃわかるだろ。負っていうのは、人にもあるんだ。負の感情だよ。恨みとか憎しみとか、悲しみとか、そういう感情に呑み込まれた人は、世界に少なからず存在するんだ。下手すりゃ昨日まで笑ってた奴が、今日には負の感情に支配されてることだってある。
害獣が負のものを引き寄せるなら、人間だって、引き寄せられるんじゃねぇのか?
そう訊いたおれに、タカ爺は目を細めた。
「中には人間もおるよ」
瞬間、がんっ、となにか衝撃がおれを襲う。
なんて連鎖だ。
「憎しみが大き過ぎて、あれらの一部になる者も少なくはない。だから、狩人がおるんだ。憎しみや悲しみに溢れていながら、戦うことを選べた者たちを、わしらは狩人と呼ぶんだ」
「憎しみを、狩る人?」
「誰かが立ち切らねば、それは止まらんし消えん。だから、狩るんだよ。狩人には、傷つきそれを知った者しか、なれんものだ」
シスイの大剣を思い出した。それを肩に背負ったシスイの姿を思い出した。
シスイ、あんたも、憎しみや悲しみを抱えて、そこに立ってるのか? だからおれに、狩人になれって、言ったのか? おれが持つ負の感情を、あんたは見抜いてたのかよ?
「来た。身を隠せ、イーサ」
黒犬の声に、おれはハッとなる。窓から見えた害獣のその姿に、目を見開いた。
でかい。
黒犬よりももっとでかい、四本足の獣だ。焼け焦げたようなどす黒い赤と、汚れきったような黒が混じった毛が、獣の最大の獰猛さを具現化させているように見えた。
そんな害獣がもう一体、こちらは全体的に焼けているような焦げ茶色で、黒い水滴を全身からぼたぼたと地面に垂れ流し、草花を枯らせている。
恐ろしいとか思う前に、怖いとか思う前に、害獣という存在の異様さにおれは慄いた。
あれが、世界の澱み、塵の塊?
「イーサ、隠れろ。おれが駆除してくる。その間だけでいいから、隠れてろ」
「え、黒犬?」
初めて見た害獣から、意識が黒犬に移る。黒犬はいつのまにかテーブルから降りていて、害獣が現われたほうにある扉の前にいた。
「イーサは充分戦った。もうあんたが傷つく必要はないんだ」
「えっ? ちょ…っ…黒犬!」
待て、と言うこともできず、黒犬は外に飛び出した。追いかけようとして、身体をタカ爺に押さえつけられる。
「タカ爺っ」
あんなデカブツに、黒犬が勝てるわけがない! いや、おれが出て行っても無駄なことだけど、それでも黒犬だけに戦わせるなんて、そんなことできるわけがない。逃げたほうがいい!
「落ち着け、イザヤ。あの黒犬は、天恵を授けられた魔だ。その強さは、狩人にも及ばんだろうよ」
やけに落ち着いてるタカ爺に、おれは眉をひそめる。
黒犬に天恵? 魔?
そんなのはわかってる。でも、どう見てもあの害獣は、黒犬よりでかい。武器が牙しかないだろう黒犬に、勝機なんてあるのかよ。
「黒犬っ!」
待てよ!
そう叫んだとき、窓から黒犬が疾走する姿が見えた。その黒毛が、ぐにゃりと歪む。
「え……っ?」
なんだ、あれ。黒犬の身体が、歪んだ?
「心配ない、イザヤ。あの黒犬は強い」
「強いって……でも」
「人型まで取れる魔はそう多くない」
「ひとがた……?」
なんのことだ、と目を凝らして黒犬を見つめる。
黒犬を視界に捉えた害獣が、その巨大な牙を剥き、地震のような唸り声を上げて爪を剥き出したとき、その懐に飛び込んだ黒犬が身体を一回転させながらぎらりと光る長いものを害獣の咽喉に喰い込ませ、押し斬った。
害獣が咽喉からどろどろした黒いものを噴出させて、地に倒れる。
その袂に佇むのは、黒犬ではなかった。
「……誰だ、あれ」
「黒犬だよ」
「えっ?」
害獣に一太刀を浴びせたのは、確かに黒犬だ。害獣を倒したのも、黒犬のはずだ。
「あれが……黒犬?」
まさか。
そんな。
ざんばらな黒髪に、黒いゆったりとした服、鈍く光る黒い剣を持った男が、そこにいるだけだ。
あれが、黒犬?
全身を黒に包んだ男は、残ったもう一体の害獣に振りおろされた太い爪を避けながら、距離を開けずにすぐ剣を翻す。脇のあたりに剣で斬り込むと、近くの木を使って上へと跳躍し、斬られて咆えた害獣の背に乗った。そのまま黒い剣を、ぶっすりと、害獣の首に深く突き刺す。
人とも獣とも思えない、地からの低い叫びを上げた害獣は、どろっとした黒いものを垂れ流しながらどすんと地に倒れた。
害獣が倒れる前に剣を抜いて跳躍し、地に降り立った男は、剣についたどろっとしたものを振り払って落とし、息絶えた害獣二体を見下ろしている。
どうやら害獣は駆除された。そう思うまもなくおれは気づくと駆け出し、外に飛び出していた。
「く……くろ、いぬ」
おれの声に、男が振り向く。
それで吃驚したのが、男の顔だ。
「え、おれ?」
鏡がそこにあるようだ。髪の長さや多少色の違いはあっても、その顔はおれだ。ただ、瞳は黒犬と同じ灰色をしている。
「終わった。あともう一体は、狩人が片づけたみたいだ」
男はそう言いながら、鈍く光る黒い剣の先を引き摺りながらおれのそばに寄ってくる。
思わず、逃げ腰。
害獣の存在もそうだけど、目の前の男の存在のほうが、今のおれには吃驚させられる事態だ。しかも男は、おれと同じ顔のくせに、背はおれよりもかなり高い。
「……イーサ?」
男が、可愛くもない仕草で、小首を傾げる。それが黒犬の仕草と同じだと気づいたのは、その名で呼ばれてしばらく経ってからだった。
「おまえ、あの黒犬?」
「あれくらい大きいと、こっちのほうが戦い易いから」
なんでもないかのように言った男に、おれは顔を引き攣らせる。
マジかよ、こいつあの黒犬かよ。
「老爺、火。あれ、燃やせるだろ?」
黒い男、もとい黒犬は、おれのあとから外に出てきたタカ爺にそう訊くと、中に戻って松明にしたものを持ってきたタカ爺からそれを受け取って、やはり黒い剣の先をずるずる引き摺りながら倒れた害獣に歩み寄る。近くまで行くと、ぽいっと松明を害獣に放り投げた。
とたん、ごおっと害獣は燃え上がる。
見届けて黒犬は戻ってきたが、その途中で引き摺っていた黒い剣とその身体がぐにゃりと歪んだ。瞬きをした次には、黒犬は人の姿からいつもの巨大な犬の姿に戻っていた。引き摺っていた黒い剣は、消えてなくなっている。
「あっちも駆除が上手くいったようだな」
タカ爺がそう言って、店の上を見上げる。灰色の煙が一筋、天に昇っていた。
「次が来る。老爺、近くの村から狩人を呼べ。おれだけでもできないことはないけど、イーサを護っていられなくなる。それはいやだ」
「うむ……そうだな。また大規模な害獣駆除をせねばらなん。応援は呼んだようがいいだろうな」
おれにはよくわからない内容の会話が黒犬とタカ爺で交わされたとき、遠くから「イザヤ」と呼ぶ声が聞こえて、おれはハッと顔をそちらに向けた。
* 一旬 …… 一ヶ月。(と、思ってくださると嬉しいです)