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妖異譚 あれが過ぎると申します

あれが過ぎると申します 靑

掲載日:2026/07/25

「何だ!」


 何だとは何だと叱られるかも知れぬが、気合としてはそういうことである。


 いや何、案内《あない》された座敷に端座しておったところ、闇に仄《ほの》かに点《とぼ》る蝋燭の焔《ほのお》がぽっぽっと覚束なくなったと思ったら、横合から靑坊主(あをばうず)の大男がぬっと顔を突出したのだ。


 肚の中で、

「何だ!」と精一杯に怒鳴ってみたものの、その声は咽喉《のんど》の門《と》の閂《かんぬき》に塞《せ》き止められて、また肚の底に沈んで行く始末。

 要するに、口唇《こうしん》から先には微音だに出《い》でもせず、何人《なんぴと》にも届いておらぬということである。


 さてさて、困ったことになってしまった。

 そもそも、向うは一言も口を利かぬのである。


 無論こちらとて、さっきのように声が肚の底に消え入った手前、何とも言い出せぬ始末。双方共にむっつり黙り込んでの睨《にら》めっくらが最早四半時程も続いている。

 せめてものことに、こちらから盛大に睨み返してやろうと思って挑んではみたが、眼光《がんこう》炯炯《けいけい》たる靑入道(あをにふだう)を前にすっかり射竦《いすく》められた体《てい》でしおしおと萎《な》えるばかり。


「何とも、虫の好かぬ靑士《あをざむらひ》ぢゃわい」


 到頭向うから口を開いたかと思うたら、態《なり》に似合わぬ甲高い声でそんなことを言うて澄ましている。


 さて、どうしたものか? 返す言葉も無い。


 仔細らしく、鬚もまばらな顎を撫でてみたところで妙案が浮かぶ筈も無く――


 そうするうちに几帳の布がふわりと浮かんだ。風が通ったか?


 しかるに、そもそも几帳なんぞの典雅なものが、元々からしてここにありきや否やも判然とせぬ。

 正真あったのであろうか?

 どうにも思い出されぬことながら、今や現《うつつ》に目の前でふうわりと揺れるのだから、かかる実在を疑うわけにも行かぬと、こう思料する訣《わけ》である。


 おそらくは、あすこの蔭に下膨れの頰を傾《かし》げ、額に蚕豆《そらまめ》のようなる墨跡《すみあと》を描き、自前の眉は悉皆《ことごと》剃落したお鉄漿《おはぐろ》べったりが、例えば好物の豆腐《おかべ》の、いささか日が経って饐《す》えたようなるを、好物ぢゃからと噫《おくび》が上がる迄貪って、何とも厭な生臭の口許《くちもと》を衵扇《あこめおうぎ》に覆っておりはすまいか。

 そうそう、そうに違いない。

 餓食《かつえぐい》をしたばっかりというに、装束のみはいとも床しくそこに控えているのはもはや間違いないのである。


 間違いないのだ。しかるに、眼には見えぬ。


 それに、この期に及んでかかる靑女房(あをにようばう)の加勢を乞うたところで、逢うたこともないような女となれば仕方がない。何しろ、眼には見えぬのだから。

 何より、そもそも、敵か味方かも判らぬではないか。


 そう思案に暮れていたところ、


「眼にもの見せうと、思召《おぼしめ》しにおぢゃるかや?」


 几帳の蔭から現れ出《い》でたるは、薄化粧してかね黑《ぐろ》なる優男。

 おやおや大分《だいぶ》宛《あて》が外れたものの、熊谷《くまがへの》次郎(じらう)直實《なほざね》が泣く泣く首をぞ掻いてんげる公達《きんだち》もかくやと思いきや、思いのほか貧相なる靑公家《あをくげ》にて、くしゃりと折れたような烏帽子を斜《はす》に被り、縹《はなだ》の布衣《ほい》に香色《かういろ》の指貫《さしぬき》。蝙蝠扇(かはほり)をやけにひらひらさせて、靑女《あををんな》以上に役に立ちそうもない。


 さて、どうしたものか?


 そうこう逡巡《しゅんじゅん》していたら、突然に天井裏から胴間声《どうまごえ》。


「この、靑二才めが!」


 誰《たれ》が一体発したか、霹靂《へきれき》なす大音声《だいおんじょう》に頗る肝が冷えた。

 若造二人がびくりとなっても無論仕方あるまいが、いい年をした僧形も亦《また》、只でさえ大きな目をまん丸にして飛び出るばかりに見開いている。


 さてさて、それにしても靑二才とは、靑士《あをざむらひ》のことだか、靑公家《あをくげ》のことだか? はたまた、諸共に叱られたのだか?





                         <了>





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