あれが過ぎると申します 靑
「何だ!」
何だとは何だと叱られるかも知れぬが、気合としてはそういうことである。
いや何、案内された座敷に端座しておったところ、闇に仄かに点る蝋燭の焔がぽっぽっと覚束なくなったと思ったら、横合から靑坊主の大男がぬっと顔を突出したのだ。
肚の中で、
「何だ!」と精一杯に怒鳴ってみたものの、その声は咽喉の門の閂に塞き止められて、また肚の底に沈んで行く始末。
要するに、口唇から先には微音だに出でもせず、何人にも届いておらぬということである。
さてさて、困ったことになってしまった。
そもそも、向うは一言も口を利かぬのである。
無論こちらとて、さっきのように声が肚の底に消え入った手前、何とも言い出せぬ始末。双方共にむっつり黙り込んでの睨めっくらが最早四半時程も続いている。
せめてものことに、こちらから盛大に睨み返してやろうと思って挑んではみたが、眼光炯炯たる靑入道を前にすっかり射竦められた体でしおしおと萎えるばかり。
「何とも、虫の好かぬ靑士ぢゃわい」
到頭向うから口を開いたかと思うたら、態に似合わぬ甲高い声でそんなことを言うて澄ましている。
さて、どうしたものか? 返す言葉も無い。
仔細らしく、鬚もまばらな顎を撫でてみたところで妙案が浮かぶ筈も無く――
そうするうちに几帳の布がふわりと浮かんだ。風が通ったか?
しかるに、そもそも几帳なんぞの典雅なものが、元々からしてここにありきや否やも判然とせぬ。
正真あったのであろうか?
どうにも思い出されぬことながら、今や現に目の前でふうわりと揺れるのだから、かかる実在を疑うわけにも行かぬと、こう思料する訣である。
おそらくは、あすこの蔭に下膨れの頰を傾げ、額に蚕豆のようなる墨跡を描き、自前の眉は悉皆剃落したお鉄漿べったりが、例えば好物の豆腐の、いささか日が経って饐えたようなるを、好物ぢゃからと噫が上がる迄貪って、何とも厭な生臭の口許を衵扇に覆っておりはすまいか。
そうそう、そうに違いない。
餓食をしたばっかりというに、装束のみはいとも床しくそこに控えているのはもはや間違いないのである。
間違いないのだ。しかるに、眼には見えぬ。
それに、この期に及んでかかる靑女房の加勢を乞うたところで、逢うたこともないような女となれば仕方がない。何しろ、眼には見えぬのだから。
何より、そもそも、敵か味方かも判らぬではないか。
そう思案に暮れていたところ、
「眼にもの見せうと、思召しにおぢゃるかや?」
几帳の蔭から現れ出でたるは、薄化粧してかね黑なる優男。
おやおや大分宛が外れたものの、熊谷次郎直實が泣く泣く首をぞ掻いてんげる公達もかくやと思いきや、思いのほか貧相なる靑公家にて、くしゃりと折れたような烏帽子を斜に被り、縹の布衣に香色の指貫。蝙蝠扇をやけにひらひらさせて、靑女以上に役に立ちそうもない。
さて、どうしたものか?
そうこう逡巡していたら、突然に天井裏から胴間声。
「この、靑二才めが!」
誰が一体発したか、霹靂なす大音声に頗る肝が冷えた。
若造二人がびくりとなっても無論仕方あるまいが、いい年をした僧形も亦、只でさえ大きな目をまん丸にして飛び出るばかりに見開いている。
さてさて、それにしても靑二才とは、靑士のことだか、靑公家のことだか? はたまた、諸共に叱られたのだか?
<了>




