最終話
彼女がいなくなってから、一ヶ月。
俺は既に仕事を辞めていて、なんとなく求職サイトを見ながらも、積極的に応募する気にもならず、ただぼうっと部屋でスマホを眺めて毎日を過ごしていた。
同棲していた恋人がいなくなって、仕事も辞めてしまって、自分にとっては結構大きな事件だった。
しかしそんなこととは関係なく、社会は何も変わっていないかのように毎日動き続けている。
それは虚しくもあり、また一つの救いでもあるような気がした。
「にゃあ」
「ああ……」
猫の鳴き声に適当に相槌を打つ。最近は、彼としかまともにコミュニケーションを取っていない。
ぼうっと天井を眺める。
次はどんな仕事に就こうとか、彼女がいなくてスペースが余っているけど引っ越すべきかもとか、いやレオンがいるしワンルームだと狭すぎるかもとか……。
どうすれば先輩と衝突せずに済んだんだろうとか、どうすれば彼女とうまくやれたんだろうとか……。
漠然と思いを巡らせているうちに、一日一日が経過していく。
俺はどうすることも出来ずにいた。
◇
彼女がいなくなってから二ヶ月が経過した頃、俺は実家に帰ることになった。
父がスーパーで米を購入した際に、ぎっくり腰になったらしい。そもそも年齢的に重いものを運ぶのが難しくなっており、日々の買い物も段々と大変になってきているという。
俺の方もまた、未来への見通しも立っておらず、できれば生活費なども抑えたいと思っている。
そうした二つの理由により、俺は実家に帰ることに決めた。
部屋を出るため、物の整理と処分を行っていく。
処分するものの中には、彼女が置いていったままになっていたものも数多くあった。それを淡々とゴミとして処理していく。
現在は猫の寝床になっている枕を除いたほぼ全ての彼女の痕跡を、俺は捨てた。
俺は頭の片隅でずっと、何かの拍子に彼女がここに戻ってくるかもしれないと思っていた。
そうした時のために、できるだけ残しておこう、と。
しかしそのために俺から何か行動をしたことはなかった。
連絡先は残っているものの、一言のメッセージを送ることすら出来なかった。
ただ、何かがものすごくうまくいって、偶然にも彼女が戻ってきたらいいな……そんなぬるい妄想だけがあった。
しかしそんな妄想も、部屋が片付いていくにつれどんどん霧散していった。
必要なものは全て実家に送り、何も無くがらんとした部屋を見る。全てが終わったのだ。
切り替えて、また日々を生きていかないといけない。
「……行くか」
「にゃお」
リュック型の猫のキャリーケースを背負い、俺は部屋を後にした。
スクーターを走らせる。
もしかしたら俺は、帰る間際にまた泣いてしまうかもと思っていた。しかしそんなことはなく、俺の心は比較的落ち着いていた。
彼女との別れが、俺にとって大丈夫になってしまったということだろう。
それが少し辛かった。
◇
実家で両親と三人で暮らす日々は、とても穏やかなものだった。
俺が実家を出たのは大学進学の時であり、それ以来ずっと別に暮らしていたのだ。
実家を出たと言っても、実のところすぐ隣の県である。就職した会社を辞めた段階で戻ることもできたが、それはしなかった。
なんとなく、実家ぐらしでフリーターはカッコ悪いかもな、という漠然とした抵抗があった。
それに、定職につかずフラフラしている息子がいれば、親としては色々と言わなくてはならないだろう。
もっとちゃんとしなさい、とか、結婚はまだなの? とか……。
しかし実際には、そういった話は殆ど出なかった。
連れてきたレオンも問題なく馴染み、特に父のことが気に入ったみたいで、最近はよく一緒に寝ているようだ。
そうした穏やかな日々の中にいると、彼女と過ごした時間がどんどん遠ざかっていくのを感じた。
最後の最後まで、俺は彼女のことが好きだったし、きっと彼女の方もそうだったと信じている。
ただ精神的に追い詰められていて、一緒にいるとどんどん相手のことが嫌いになっていってしまう。それがどうしても耐えられなくて、俺達は別れることになった――と、少なくとも俺は思っている。
だから、彼女のことは今でも好きだ。
しかしそれもまた、時間とともにどんどん過去の思い出になっていく。
たまに、彼女のペンネームをネット検索にかけることがある。
しかし予想通り、彼女の著作は三作品で止まっている。小説家としての活動はできていないのだ。
でもどこかで、うまく、元気に生きていくことが出来ていたらな、と俺は思う。
◇
時間は過ぎていく。
過去の出来事は、あっという間に埃の被った思い出へと形を変えていく。
彼女と別れてから、三年ほどが経っていた。
俺は相変わらず定職についてはいなかった。現在はピザのデリバリーのバイトをしながら、変化の少ない静かな日々を送っていた。
彼女のことは、たまに思い出す。しかし三年も経ってしまうと、顔の細部や声などの記憶は曖昧になってきている。
俺はもう三十歳になっていた。
この年齢でフリーターを続けているのも怖くなり、履歴書を書いたり求人情報を眺めたりするようにはなった。
が、なんだかそれだけで終わってしまって、実際に電話やメールをするまでには行かなかった。また今度でいいか、となってしまう。
昔よりさらに、前に一歩を踏み出すことが難しくなった。
それは勇気が出ないと言うよりも、なんだか疲れが溜まっていて、気力がわかないという方が正しい気がする。
これは問題だと思うし、何とかしたいとも思う。だけど心の底では、まぁ別にいいか、と思ってしまってもいる。
つまりは、俺は日々の虚無を受け入れ、慣れてしまっていた。
◇
その日、俺はバイトが終わると、スクーターに乗ってとある書店へと向かった。
ちょうど職場と自宅の途中にある店だ。
昔は近所に三軒くらい書店があったが、今はもうその一軒しか残っていない。
店に入ると、特に目的もなく中をうろつく。
昔から読書が趣味で、書店を意味もなく歩くのも好きだった。
どんな趣味もそうだろうが、熱中している時もあれば飽きている時もある。しばらく読書からは遠ざかっていたが、最近また読書熱とでも言えるものが復活してきたのである。
昔読んでいた漫画がまだ続いていることに驚いたり、表紙につられて全く知らない本を手にとっては、特に買わずに戻したりしていく。
そんな具合に、俺は完全に油断しきっていた。
「――えっ!?」
だからこそ、静かな店内で俺は思わず大声を出してしまったのだ。
近くの客や店員の注意が一気に集まるが、それを気にする余裕もない。
ドクンドクンと心臓が大きく打つ。
急激に上がり始めた血圧に、視界がぐわっと黒く滲んだ。
俺はその文庫本を手に取った。間違いなく、そのペンネームは彼女のものだった。
本の最後にある奥付を確認すると、初版の日付は今から三週間ほど前であった。
初版の日付と発売日が同じかどうかは分からないが、そこまで大きなズレもないはずだろう。
彼女の四作目だった。
俺はその本を手に取りレジに向かった。
購入して外に出て、スクーターの止めてある駐輪場に向かう。そのまま跨がろうかと思ったが、今の俺は原付の運転を安全にできないくらいに落ち着きを失っていた。
とにかく熱を逃がそうと、その場で意味もなくピョンピョンとジャンプする。
初菜は、うまくやったんだ。三年もかけて。
激しい情動が渦巻いていた。
もし今目の前に彼女がいたら、迷わず抱きしめてしまっていたような気がする。別れたことがどうとか、もうどうでもいいくらいになっていた。
彼女が編集者とうまくいかず、苦しんでいるのを、一番近くで見ていたのは俺だった。
彼女の精神的な弱さや、コミュニケーション能力の乏しさなども、俺はよく知っている。
それを、三年かけて、やり通したって?
一言「おめでとう」と言わずにはいられないと思い、スマホで連絡先を表示する。
――が、「通話」を押すことができない。
そこから先へは、勢いだけで進むことはできなかった。
彼女にとっては、すごく迷惑かもしれない。彼女にとって、これは過去との決別なのかもしれない。
せっかくうまく行こうとしているのを、過去の存在である俺が足を引っ張ることになるかもしれない。
俺は連絡先を閉じた。
「……はぁ。くそっ……」
思わず悪態をついてしまう。なんだか凄く情けなかった。
「おめでとう」一言すら言えない自分。頑張っていた彼女とは対称的に、何一つ成し遂げていない自分。
彼女が成し遂げたことへの喜びと、自分の無力さを実感する苦しみが混ざり合う。
せめてテキストだけならと、メッセージアプリを開いては、また閉じる。
スマホをポケットに戻し、また取り出す、というのを、三回、四回と繰り返す。
感情がぐちゃぐちゃでどうにもならず、落ち着くまで三十分くらいの間、俺は書店の駐輪場をうろうろしていた。
◇
“出版おめでとう。返信は不要です”
一週間後、さんざん迷いに迷ったすえ、結局ただそれだけを彼女に送った。
これをきっかけに彼女とよりを戻したいとか、そんな事は考えていない。
ただせめて、何か言わなければ俺の気が済まなかった。
送って二時間後に確認すると、「既読」の文字がついていた。
返信不要と書いたが、もしかしたら何かあるかもしれないと期待したが、その後も特に何もなかった。
俺と同じようにメッセージの内容を考えているだけかもしれないと思ったが、三日経ち、一週間経ち、一ヶ月経っても何の反応もなかった。
彼女の新刊を見た時に感じた激しい情動も、その時間とともに落ち着いていった。
ちなみに彼女の本は全く読めていない。
なんだか怖くて、ただの一行すら読むことができていない。
もしかすると、俺は一生この本だけは読めないままなのかもしれない、と思った。
◇
「にゃおぉ……」
「……顔に乗るなって」
その日は朝早くに猫によって起こされた。
レオンはここに来て、明らかに身体のサイズが大きくなっていた。一番懐いている父が、なんだかんだとおやつをあげようとするからである。
懐いているからおやつをあげたくなるのか、おやつをあげるから懐いているのかは、俺には分からない。
今日はバイトのシフトも入っていない。
が、遅くまで寝ていてもいいかと言えばそうではない。今日は大事な用事があった。
顔を洗いヒゲを剃り、身支度をしていく。
すべての準備が終わっても、まだ五時間近く余裕があった。流石に早すぎた。
俺は自室でスマホを触りながら、ただ時間が来るのを待っていた。
時計を頻繁にチェックするが、見るたびに十五分くらいしか経っていかない。
そうしているうちに、下の階から物音が聞こえ始める。基本遅くまで寝ている母が、今日は大事な来客のために早めに起きて動いているのだ。
予定の一時間前になると、俺も居間へと向かった。
母と話をしながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。
「……?」
ふと、寝転んでいたレオンが、不思議そうにきょろきょろと頭を動かした。
「にゃお」
小さく鳴き、居間を出ていく。もしかしてと思い、俺も後を追った。
レオンは玄関へと向かう。
◇
俺がメッセージを送ってから三ヶ月後に、彼女から返信があった。
“遅れてごめんなさい。メッセージありがとうございます”
たったそれだけだが、彼女の強い迷いと葛藤が滲んでいるのを感じた。
既読がついてから、三ヶ月である。
ずっとずっと迷っていて、ようやく返信ができたということだろう。そのスケール感に俺は思わず笑ってしまった。
時間が経てば経つほど、連絡をするのは難しくなるはずだ。
それでも送ることが出来たところに、彼女のまだ自覚していない強さがあると思う。
その後、いくつかのやり取りの後、俺はついに書いた。
“無理だったらごめん。今度、一度会うことは出来ない?”
書いた後、我慢できず言い訳を付け足した。
“レオンの様子も気になるだろうし”
返信はすぐだった。
“私も会いたいです。レオンにも”
それを見た後、ほぅ、と息が漏れた。
ずっとずっと止まっていた時間が、ようやくまた動き出そうとしていた。
……ちなみにここで俺がついレオンの名前を出してしまったせいで、彼女は俺の実家に来ることになり、再会していきなり俺の親に会うなんてことになってしまったのだった。
埋め合わせはいつかしたいと思う。
◇
引き戸になっている玄関のすりガラス越しに、誰かが立っているのが見えた。
レオンはその戸の前で振り返り、「早く開けろ」と言わんばかりにこちらを見つめる。
一つ深呼吸をし、戸へと近づく。
俺は……いや俺と彼女は、一度失敗をした。
だけどそれは、俺達がスタート地点まで戻ってしまったことを意味しているわけではない。離れている間も俺と彼女の関係はずっと続いていて、だからこそ、次はもっとうまくやれるだろうと思う。
彼女は戸の向こうで立ち尽くしている。ここまで来たはいいものの、インターホンを押す勇気が出ないのだろう。
「にゃおぅ」
待ちきれないとばかりに猫が鳴く。俺はようやく戸を開いた。
<終>