第3話
「それじゃあ、お疲れ様でした。失礼します」
「おう。気をつけてな」
挨拶をして会社の事務所を出ると、冷たい空気が急速に全身を包みこんだ。
身体を縮こまらせながら駐輪場に向かう。
重たいリュックを背負ったままスクーターにまたがり、エンジンをかけ、会社を後にした。
夜の道路には無数のヘッドライトや店の明かりが瞬いている。
普段ならなんとも思わないそれが、今夜はやけにチカチカと眩しく見える。
頭の中がカッカッと熱い。ヘルメットの中で深い溜め息をついた。
どうということはない、どこにでもある人間関係のストレスだった。
俺は日々新しい仕事に慣れていっている。するともちろん、最初の頃はできなかった作業なども任されるようになる。
やる作業が増えてくると、中にはそれぞれ先輩ごとでやり方が違うなんてことも出てくる。
どの先輩のやり方を真似すればいいのか。先輩同士で仲が悪かったりすると、色々と細かいことも考える必要が生じてくる。
詳細は省くがそうした中で、今日はちょっと面倒なことがあったのだ。
どこにでもある人間関係のストレスではあるが、どこにでもあるからと平気な訳では無い。
自分には非のないことで叱責される不快感。強いイラ立ち。
今までいろんな職場で似たようなことはあったが、それでもやはりなかなか慣れない。
俺は真っ直ぐ帰るのではなく、少し遠回りをして帰ることにした。
仕事でのイラ立ちを彼女と一緒に過ごすあの空間に持ち込みたくはない。
スクーターを走らせ、少し遠くの公園に行き、自販機で飲み物を買って飲む。
冷たい風にあたっていると、少しずつ頭も冷えていった。
とはいえ、精神的ストレスなんていうのは、そう簡単に落ち着いたり無くなったりするものではない。
多少はマシにすることは出来ても、ちょっと油断するとまた火がついてしまう。
とりあえず、一晩寝たら少しは落ち着くはずだ。そう思ってなんとかやり過ごそうとする。
……こうしてやり過ごすのを、人生で後どれだけやらないといけないんだろう?
そう思うと、なんだか自分が恐ろしく無力な感じがして、身動きが取れなくなってしまいそうだった。
◇
人間関係による問題というのは、一度発生してしまうとなかなか好転させるのは難しい。
仕事で必要になる以上、距離をおいて避けることも出来ない。せいぜい、曖昧に停滞させ続けることしか出来ない。
そういうのは俺にとってとても苦手なことだったし、言うまでもなく、彼女の方も同じだった。
ある日帰宅すると、彼女がスマホを眺めながら難しい顔をしていた。
「うーん……」
難しいというか、嫌そうというか、苦々しいというか……そんな感じだ。
「何してるの?」
「いや、あの……編集の人に電話をしないといけないんですが……電話したくなくて」
「あれ? 前に仲良さそうに電話してなかったっけ?」
「なんか違う編集になっちゃったんです。その人が……なんというかちょっと苦手で」
三冊目を出すまでは、新人賞を獲った時からずっと同じ編集者だったが、それが代わってしまったということだ。
「苦手って、どんな感じに?」
「なんというか……私の話とか考えたプロットとか、あんまりちゃんと目を通してくれなくて……。それなのに次から次に自分の思いついたアイデアばかり言ってきて……はぁ……」
話している途中でうんざりしてきたのか、深い溜め息を漏らす。
もともとネガティブな発言の多い彼女だが、最近はさらに増えているような……と思っていたら、こういうことだったわけだ。
「まぁ、人間関係の問題は仕方ない。なんとかうまくやりくりしていくしかないんだ」
何となく俺は言っていた。それは最近自分に何度も言い聞かせていることだった。
正論で、誰にでも分かっていることだった。
「……そんなこと分かってますよ」
彼女がムッとした様子で言った。
それはわざわざ言うべきことではなかった。分かりきった正論は、ただ人を不快にさせるだけだ。
普段の俺だったらそれくらいの判断はできたはずだ。
俺もまた、普段通りではないのだ。毎日ずっと少しイライラしていて、説明できないモヤモヤに悩まされている。
イラ立ちによって、彼女との会話にまで影響が出ようとしている。それを思うと、そのイラ立ちはさらに強くなっていった。
◇
日々の中に生じた僅かな問題。
俺はそれをなんとか改善したかったし、おそらく彼女もそうだっただろう。
しかしうまくいかず、その問題は時間とともに大きくなっていった。
職場での先輩との関係も、更に悪化していた。理不尽な状況に、つい軽く言い返してしまったのだ。
適当に受け流すのがベストとは思っていた。しかしどうしても我慢が効かなかった。どうにもならなかった。
状況は悪化し、職場の居心地は日に日に悪くなっていた。
なんだか、初めてバイトを辞めた時のことを思い出した。それ以来、こういう状況になるより早く、バイトを辞めるようになっていた。
だが今は、それは嫌だった。
恋人と同棲し、生活を安定させ、少しでも真っ当な人生を送れるかもしれないと、そんな強い希望を抱いてしまった後だったからだ。
ちゃんとした人なら、これくらいで仕事を辞めたりはしないだろう。
そう思い、我慢を積み重ねていった。
詳細は分からないが、おそらく彼女の方も同じような状況だったと思う。
編集者とのやり取りは難航し、停滞していた。プロットのやり取りが上手く行かなければ、当然本文の執筆など出来ない。
彼女はパソコンに向かって、文章を打ち込むのではなく、ゲームに没頭している時間が多くなっていった。スマホから通知音が鳴ると、びくっと肩を震わせ怯えるようになった。
彼女の相談に乗るなどして、少しでも状況を改善してあげたかった。しかしそれをするには、俺はあまりにもいっぱいいっぱいだった。
話そうとしてもうまく行かず、最終的には互いに不機嫌になるということが頻繁に続いた。
だから互いに特定の話題には触れないようになった。しかしそれでも、俺達はうまく行かなかった。
「洗濯物めっちゃ溜まってるけど、やらないの?」とか。
「食器、早く洗ってくれないと困るから……」とか。
「トイレ汚いよ」とか。
「お風呂の掃除してってば」とか。
そうしたささいな衝突が、どんどん増えていった。
今までは互いに「まいったな」と思いながらも、代わりにやったりしてうまく成り立たせていたことが、できなくなっていた。
ストレスによって許容できるラインが下がり、それによってさらに衝突が増え、ストレスが発生する。
そういうサイクルが出来上がってしまって、俺達の仲は日を追うごとに悪くなっていった。
なんとかここで踏みとどまろう。できれば改善しよう。そう思っても、いざ何か衝突が起きてしまうとどうにもならなくなってしまう。
俺達はどちらもが、人間関係が苦手で、ストレスを管理するのも苦手で、どうしようもなく社会不適合者だった。
◇
結論から言うと、俺達はそのまま失敗した。
その状況を改善させることは最後まで出来なかった。
改善させる方法なんて、今もその時も簡単に分かっていた。
ただ、対話をすることさえできればよかった。
互いの状況と考えを伝え合えればよかった。仕事やら何やらが大変な時こそ、そうしてうまく支え合うべきだった。
俺達はそもそも性格が結構似ていて、とても気が合う。それはとても簡単なはずだった。
そんな簡単なことが、俺達は最後の最後まで出来なかったのだ。
◇
「忘れ物はない?」
玄関で靴を履いている彼女に俺は言った。
「はい。……他の残っているものは、うまく処分しておいてください。ごめんなさい」
「いいよ。分かった」
彼女が振り返る。その表情はなんだか泣きそうな子どものようだった。
きっと俺も同じような顔をしているんだろう。
彼女の横にはキャリーバッグがあった。その様子は、彼女が初めて俺の部屋に来た時のことを連想させた。
今は、その逆だ。
「今までありがとうございました」
「こちらこそ。ありがとう」
「それじゃあ、さようなら」
「さよなら」
そうして彼女は部屋を出ていった。
重たい扉の音と、去っていく足音。それを聞きながら、俺はただ玄関に立ち尽くしていた。
とりあえず、穏やかで落ち着いた別れをすることが出来てよかったと思う。
二、三日も前には、とてもまともに会話ができないくらいになってしまっていたから。
はぁ、と吐き出した息の音が、やけに大きく聞こえた。
「にゃあ」
振り返るとレオンがいた。
別れるにあたって彼をどうするかは問題だったが、結局、彼女の家族に猫アレルギーの人がいるということもあり、ここに残ることになった。
それにしても、彼女が出ていく時に部屋の奥で寝ていて、出ていってしまってから来るとは、とてもタイミングが悪い。
動かない俺を見て飽きてしまったのか、レオンはまたどこかに歩いていった。
その瞬間に、限界が来た。
まず喉が不自然に痙攣した。そしてしゃっくりに似た音が出る。
すぐに、マグマが吹き出すような強い熱が駆け上がってくる。俺は手で目元を抑えた。
嗚咽を漏らしながらの、本気の号泣だった。
それこそ小学生の頃にまで遡らないと思い出せないくらい、なりふり構わず俺は泣いた。
単なる失恋とは言えないくらいの、大きな大きな、人生における失敗だった。
彼女と出会ってから、今までずっと積み上げてきたあらゆるものが、すべて崩れていっている気配があった。
また、ここに来てしまった。
たった一人、社会に適合できず、虚無の中で過ごす日々。その懐かしい苦しさに、俺はしばらく泣くことしか出来なかった。