第2話
本を出すことに成功した彼女は、それを持って、一度実家に帰っていった。
彼女自身は渋っていたが、俺が無理やり行かせたのだ。
そうして久しぶりに一人で寝た夜は、恐ろしく静かだった。もちろん彼女のいびきが凄いとかそういうわけではなく、ただ彼女がいるというそれだけのことが、俺にとってとても大きくなっていたわけだ。
静かな夜に、本を読んだ。彼女が書いた小説だった。
控えめに言っても、良い小説だった。
彼女の好きなSF的なストーリーがあり、その中での思春期の少年少女の細やかな心の動きが描かれている。普段の頼りない様子からは想像できないような、しっかりした作家の実力を感じさせる小説だった。
彼女のことを本当に凄いと思うと同時に、やはり、自分の中にある劣等感のような感情が強く刺激される。
彼女は大きく前に踏み出した。俺はどうだろう?
ただ何も出来ないまま、燻り続けているだけだ。
そんな現実を突きつけられ、その本を読んだ日はなかなか寝付くことができなかった。
彼女が実家に帰ってから、二、三日が経っても何の連絡も無かった。
家族とどんなやり取りをしているのかはわからないが、こちらからメッセージを送っても全く反応がない。スマホの充電が切れているのかもしれない。
まぁ俺のことはいいとして、編集者とかそういう人達とのやり取りは大丈夫なのだろうか? その辺りがどうなっているのか分からないのが怖い。
時間とともにだんだんと、彼女とはこのまま二度と会えないような気になってくる。
なんだか精神状態が少し悪くなっていて、悲観的なことばかり考えてしまう。
もう全部、何もかもダメなんじゃないか、というような。
そんな状態だったからこそ、一週間ほどして再会した彼女を、俺は思わず強く抱きしめていた。
「あ、え、あれ? 珍しいですね……こういうの……何かあったんですか?」
「……いや。何でもない」
ついとってしまった慣れない行動に恥ずかしくなりながら、俺もまた変わらないといけないな、と頭の片隅で決意した。
◇
最初の大きな変化は、引っ越しをしたことだ。
彼女は家族と和解し、もう実家に住むこともできるはずだった。
しかし彼女は、また俺と同棲することを選んだ。しかも恐らく今度は、家族もそれを了解した上でだ。
前回の同棲は、一応は、彼女が家族のところに帰れるようになるまで……みたいな期限があった。
しかし今回は違う。本当に、恋人として一緒にいるということだ。なんなら結婚する前の予行演習、みたいな意味合いすらあるかも知れない。
そういうわけで本格的に同棲するようになったが、そこに俺のワンルームは少し狭すぎた。
前の生活でも色々と不満は溜まっていたし、そもそもここが二人で住んでいい物件なのかすら、ちょっと危うい。
今となっては彼女の方にもいくらかのお金があるため、引越し費用や家賃は折半することになった。
前よりも一部屋多くなり、風呂の浴槽も少し大きくなった。
が、変化といえばそれくらいで、それ以外は前の格安物件と大して変わらない。お金は極力節約したいというのは、俺達の共通見解だった。
引っ越すためのあれこれをしながら、俺はようやくちゃんとした仕事を探し始めた。
彼女との関係を真面目に考えるなら、やはり結婚も見据えなくてはならず、そうなればやはり、スーパーのパートタイムの仕事というのは頼りない。
以前に就職した時のことを思えば、正社員になればどうしたって今よりストレスは増えるだろう。正直、あまりやりたくはない。
しかし彼女が前に進んだように、俺もまた変わるべきだと思う。
そうして様々な感情を抱きながら、俺は転職活動をしていった。
とりあえず正社員でフルタイムで働くのが目標だ。給料などでそこまで高望みをするわけではない。
「別に、そんなに無理しなくていいのに……」
彼女は言った。
「今の給料だって、別に全然足りないってわけじゃないですよね? 私だって、あと何ヶ月かしたら次の本が出るし……」
「そうも言ってられない。もともと、何とかしないとと思ってたんだ。別に初菜と一緒に住むからとかは関係ないぞ」
「それでも……働くのって、めっちゃ嫌じゃないですか!」
めっちゃ嫌そうに言う。
「特に今困ってるわけじゃないし、無理して精神壊したら大変ですって。やめましょうよ!」
そんな具合に、彼女は俺のやる気を折ろうとしてくる。
甘い誘惑に抗いながら、俺はなんとか転職活動を続けていった。
◇
「おかえりー。どうでした?」
帰宅すると、いつもと変わらない定位置にいる彼女が顔を上げ言った。
「つかれた……」
「初日だしそりゃそうですよ。どうします? バックレますか?」
「なんですぐ辞めさせようとするんだ。バックレないよ。シャワー浴びてくる」
俺は浴室に向かった。
身体を洗うと、全身がギシギシと軋む気がした。重たい疲労が溜まっている。
転職活動のすえ、俺はとある土木関係の会社に入ることになった。
具体的には道路の舗装などをメインに行なっている会社である。思いっきり肉体労働であり、実際体力的にちょっと大変なところもあるだろう。
ただ今日一日やってみたが、無理をしているという感じではない。むしろこの疲労が少し心地よいくらいだった。
シャワーを終えると、空いたスペースでストレッチをすることにした。
身体をほぐしながら彼女と話をする。
「大丈夫でしたか? 怖い人に怒鳴られたりしなかった?」
「なかった。若い人は全然入らないからか、なんだか逆にすごく気を使われてる感じだったよ」
実のところ、以前短期のアルバイトで似たような仕事をしたことがあった。
その時も意外と居心地が良く、そのポジティブな経験がこの仕事を選んだ一番の理由だった。
「優しくしてくれるのは最初だけです。気を抜いちゃダメですよ」
「なんでそんなネガティブなことばかり……」
ため息をつく。
「初菜のほうはどうなの? 来月出るんだっけ?」
「いえ、今月末なので……もう来週ですね」
新人は二作目で躓くなんて聞いたこともあるが、彼女に関してはびっくりするくらい順調だ。
たまに編集者らしき人と電話しているのを見ることもあるが、意外にもしっかりやり取りが出来ていて驚いたりする。もっとコミュ障だったはずだが……相手との相性が良いのかも知れない。
何気ない会話をしながら、時折彼女はパソコンに文字を打ち込んでいく。次回作のアイデアをまとめているところらしい。
彼女は自身の能力を活かし、着実に成果を積み上げていっている。それをすぐ間近に見ていると、俺の方も結構うまくいくんじゃないかという気がしてくる。
過去の経験において、うまくいくと思って行動しても、実際にうまくいくことはほとんど無い気がする。
だがとりあえず今は、その感覚をちょっとだけ信じてみるのも悪くないかなと思った。
◇
最初の頃こそ全身が筋肉痛になったりもしたが、すぐに身体は適応し、大丈夫になっていった。
職場の先輩達も、優しくしてくれるのは最初だけなんてこともなく、俺は日々少しずつ会社に馴染みつつあった。
そうした順調な日々が続く、ある日のことだった。
俺がいつものようにクタクタに疲れて帰ると、そこには彼女以外にもう一つの姿があった。
「あ、お、おかえりなさい。えっとね、これはね――」
彼女は慌てて何事かをまくし立てていく。
買い物に行っている途中で拾ったとか。明日病院に連れて行くとか。大家さんにはちゃんと許可をもらっているとか。
そんな言葉を適当に聞き流しながら、俺は彼女の足元に転がっていたその黒い塊を持ち上げた。
思ったより高い声で「にゃー」と鳴く。
真っ黒な子猫であった。
俺という見知らぬ存在を警戒しながらも、なんだか凄く眠そうで、既に片目は閉じてしまっている。近くには子猫用のエサがあった。食後で眠いようだ。
「えっと、ネコは嫌いじゃない、ですよね? ……あっ、というか、ネコアレルギーとかは……?」
「……今更心配しても遅くない?」
部屋の隅には、トイレ用の砂が既に設置されていた。既に飼う気満々である。
これで本当に猫アレルギーだったらどうするんだろう?
「良いよ。飼おう。大家さんにはもう言ったんだよね?」
「うん。真っ先に確認しました!」
真っ先に確認すべきは俺であって欲しかったが、仕事中に電話をされても出るのは難しいだろうし、まぁ仕方がないかも知れない。
俺は眠そうな子猫を撫でる。
俺への警戒心は眠気に完全に負けてしまったらしく、既に両目とも閉じている。子猫だということを考えても呑気な性格をしていると思う。
彼女も俺も結構ネガティブで、放っておくとどんどん悪い方向に考えていく性質がある。
こういう呑気な存在もまた必要なのかも知れない。
◇
冬が来て、俺達はこたつを購入した。
俺の方はこたつにそこまで馴染みもなく、祖父母の家にあったなぁくらいの印象なのだが、彼女はそうではないらしい。
毎年この時期にはリビングにこたつを出すようだ。
そういう彼女の要望もあって設置することになったのだが、いざ置いてみると、それは俺の想像よりもずっと良いものだった。
暖かくリラックスできるというのは分かっていたが、それによって部屋の雰囲気までも大きく変わるということまではあまり予想していなかった。
俺と彼女の関係が始まってから、一年とちょっとになる。
だいぶ仲良くなって入るものの、互いの性格もあり、四六時中ずっとべったりくっついているなんてことはできない。
だが、こたつがあるとそれが意外とできる。暖かくて気持ちいいからと、いつまでもうだうだすることができる。
彼女がノートパソコンで仕事をしたりアニメとかを見ている反対側で、横になってスマホを触ったり本を読んだりすることが自然とできる。
あと猫も暖まることができる。
互いに全く関係ないことをしながら、近い距離で互いの存在を認識し合っているというのは、なんだかすごく親密な感じがして俺は好きだ。
しかしそれは意識しないとなかなかできないことだった。こたつはその問題を簡単に解決してくれたのだ。
なぜか執拗に顔の上に乗ろうとしてくる子猫と格闘しながら俺がスマホを触っていると、
「ねぇ、なんでそんなにレオンに好かれてるんですか?」
不満げに彼女が言った。
レオンというのは彼女がこの黒い子猫につけた名前だ。
昔好きだった漫画か何かのキャラ名らしいが、残念ながら俺は知らなかった。
「俺がレオンに好かれてるって……」
「なんか、私にはそんなくっついてこないんですよ。……いい匂いでもさせてるんですか?」
言われてみれば、彼女よりも俺の方に懐いている気がする。
俺が仕事で外に出ていて、一人と一匹になっている時にどうなのかは分からないが、俺がいる時はだいたい俺にくっついているし、夜も俺と同じ布団で寝ることが多い。
子猫を拾ってきたのは彼女の方なわけで、この寒い季節を考えると命の恩人である。さらに言えば、食事やトイレの管理も基本的にすべて彼女がやっている。
にも関わらずそれは少しかわいそうだった。
「初菜はかまい過ぎなんじゃない?」
「かまい過ぎ?」
「猫は慌ただしい感じのが苦手で、こっちから積極的に触ろうとばかりしてると避けられたりするらしいから」
「な、なるほど。思い当たるところはあります……」
頷くが、彼女はレオンを拾ってくる前から、ネットで猫の動画などを見まくっているのを俺は知っている。
前々から飼えたらいいなと思っていて、ようやくそれが実現したのだろう。
自分から触るのを我慢するのは現実的ではない。
そんなとりとめのないやりとりをしながら、恋人と猫と一緒の時間がゆっくりと過ぎていく。
一年くらい前まで、俺はワンルームで一人暮らしをしていた。
自分は社会不適合者だと思っていたし、なんだかんだ一生一人で過ごしていくんじゃないかとも思っていた。こんな生活になるなんて、まったく想像すらしていなかった。
なんだか、すごく“まっとうな”人間になれてるんじゃないだろうか?
ちょっと前までは途方に暮れていたっていうのに。
このまま、いつか彼女と結婚し、そのまま子どもが出来たりして、社会の中に溶け込んでいくのかもしれない。
そんな未来を想像しながら、同時に、そんなうまくいくはずがないという思いも浮かんでくる。未来に対する不安は、どうしたって拭えない。
そうして不安を抱いているのは、多分俺だけではない。
俺も彼女も、どちらもが少し怯えながら、普通で幸福な日々を送っていた。




