カウンセリング/フィードバック.其の弐_片峯亨
「解離性健忘。特定の期間の出来事や情報、個人的な経験に関する記憶の喪失が見られる精神疾患です。
日常生活を送る上での基本的な知識、例えば自分の名前や家族の事などは保持していることが多いですが、自然災害、戦闘体験、深刻な家族内などで生じたストレスやトラウマに関連した特定の出来事や期間の記憶が思い出せなくなるんです。
正確に言うと記憶の喪失ですね。勿論、治療次第では思い出すこともありますが……思い出したくないものを思い出す必要なんてあるんですかね」
「原因は家庭環境」
「あの二人はそう考えてたみたいですね。特に鳴海先生……強面先生は顕著です。一概には言えませんが遺伝子素因によるものでなければ大半の精神疾患は過度なストレスが原因ですからね。
小児におけるストレスなんて学校か家庭環境くらいしかないでしょう。世界はこんなにも広いのに彼らにはそれが全てですから」
「男医の言っていた深刻と云うのは」
「あぁ、多分アレは彼女自身が認知していないだけで他にも忘れている事が有るかもしれない……と言いたかったんじゃないですかね。実際に解離性健忘の症例で自分が誰であるか、家族や職場についての基本的な情報の喪失すら確認されてますから、このまま放置していたら最悪日常生活すらままならなくなると……そうなると外傷性脳損傷による記憶障害の可能性も考えられなくも……あぁ、既往歴がないからそれはないのか」
「外傷性脳損傷……」
「ほら、漫画とかドラマとかでよく頭ぶつけて記憶が無くなったなんて話があるでしょう。脳震盪と言えば聞いたことあるかもしれませんね。
あれも外傷性脳損傷の一種で、スポーツの衝突、交通事故、転倒などの際に頭部に衝撃を受けることで生じる記憶障害なんですが、残念な事に脳震盪による記憶障害は通常、前向性健忘と云って新しい情報や出来事を記憶する能力が一時的に損なわれる事が殆どで、過去の出来事が思い出せなくなるのは一般的に脳震盪より重篤な症例で見られる傾向が多いんですよ。
呑気に恋愛なんてしている場合じゃありません。
因みに解離性健忘は一般的には逆行性健忘の一形態、つまり過去の記憶が思い出せなくなる精神疾患と考えられますが、実際は過去のトラウマを思い起こさせそれに関連した新たな記憶の形成や保持を妨げる可能性もあります」
「時間軸は関係ないと云う事か」
「ははっ、面白い観点ですね。仰る通りです。もし仮に彼女に何らかのトラウマがあってそれが解離性健忘を引き起こしていたとしても、そのトラウマが遠野君の会う前に起ころうが後に起ころうが机上では結果は同じになる可能性もあると云う事になりますね」
男は少し俯くと唇に指を当て暫く考え込む。
「水無 紗季の家庭環境についてだが……」
「それはまだ話せません」
男は珍しく驚いた顔していた。その顔に満足したのか片峯は続ける。
「と言うか僕が話すよりコレを見た方が良いと思います」
トン、トン。片峯は先程デスクから持って来た何冊かのノートを指で叩いた。
「実はこれ、紗季ちゃんの日記なんですよ」
男は顔を渋らせ日記を眺めている。
「そんなに警戒しなくてもこれは彼女が書いた本物ですよ。なんでしたらホラ、此処に筆跡鑑定の報告書もあります」
片峯は束ねられた数冊のノートの封を解いた。一番上に来ている日記には四つ折りになった紙が数枚ほど置かれている。男が手に取って見ると、そこには『鑑定結果報告書』と書かれた表紙と鑑定内容の説明が記載されていた紙が数枚。
内容は終始、この日記か水無紗季本人が記載した内容であると云う物で、男が例の紙束を端へやると同時に片峯は束ねられたノートの内、一際子供っぽく、それでいて可愛げのあるキャラクターの描かれたパステル調のノートを手に取って言った。
「この日記は初日のカウンセリングの後に彼女が母親に買ってもらった日記なんです」
「そんな話……」
「なかった。ですよね」
片峯は薄嗤っている。
「柏木先生のカウンセリングが終わった後、彼女達は暫く雑談をしていたんですよ。一方で母親が半狂乱になっている間、彼女たちはする事もなく暇だった訳ですから。なかなか迎いに来ないね。何て言いながら楽しく話合っているのが目に浮かびます」
「その口振りだとアンタも詳細は知らないようだが」
「えぇ、知りません。流石にガールズトークに聞き耳立てるなんて趣味が悪いじゃないですか。ふふっ、患者にもプライバシーは存在するんですよ」
「それで」
「その話の中で日記が話題になったんです。具体的に何を話したかまでは分かりませんが、柏木先生の話は大層面白かったそうで自分も日記を書こうと思ったみたいですね」
「どうして分かる」
「だって、そう書いてありますから」
片峯は持っている日記で男を煽るようにひらひらと見せびらかしている。
「勿論、この日記にもちゃんと意味はあるんですよ」
「この余興にか」
「いいえ、この日記はもともと彼女の治療……いえ、彼女を助ける為の物として意図的に書かせるよう仕向けていたんです。結果としてこんな形で使う事になってしまいましたがね」
「証拠として……か」
「流石ですね。その通りですよ……勿論、彼女が何を忘れているのかヒントにする為にと云う事もありましたが、最悪のケースを想定していたんですね」
「DVの可能性……」
「えぇ、鳴海先生はDVの線はないと言っていましたが、あれは身体的暴力と云う意味合いで使ってます。まぁ、DVと言えば身体的な暴力か性的な暴力を真っ先にイメージしちゃいますから。悪行と言えばまさにコレ、という感じに……しかし彼女からはそんな様子は見られない。となると少々厄介なんですよ」
「精神的なモノと言いたいのか」
「はい、その通りです。例えば『お前は何もできない』『価値がない』といった露骨な侮辱もありますが、ガスライティングなんて云って『そんなことはなかった』『お前の記憶は間違っている』と意図的に現実認識を歪めるなんてのもDVに該当するんです。ははっ、貴方の得意分野ですね」
片峯は嫌味な嗤みを浮かべて続ける。
「他にも友人や家族と会うことを禁止する、外出に厳格な制限を設ける、電話やインターネットの使用を厳しく制限する、パーティーや社会的な集まりへの参加を禁止するだとか度が過ぎればDVとして扱われるようになっているんです。
交友関係はさておいてもインターネットの使用の制限なんて時代を感じますね。ふふっ、もう人類はネットが無ければ生きていけないってことですよ。数十年前には普及すらされてなかったのに……僕達、一体どうしちゃったんですかね」
「……」
「兎も角、この手のDVを証明するにはかなり骨が折れるんですよ。外は外、内は内なんて言って、外から内への干渉は内から外へ要請が無ければ何もできないんです。不思議なモノですよね。
公衆の面前で殴られれば頼んでもないのに勝手にパシャパシャと証拠を集めてくれる上に挙って加害者の批判までしてくれるのに、それが家の中だと扉が開いて中の様子が見えようが、窓から痛ましい悲鳴が漏れていようが見て見ぬふり。
実際、僕もこれと似たようなケースに出くわした事がありましてね。その時、偶々自分にカメラを向けてはしゃいでいた大人達が『イケメンはっけぇぇん」とずかずかと此方に寄って来たんで指差して聞いてみたんです。『アレ撮らないんですか? もしかしたらバズる(笑)かもしれませんよ』って、そしたらなんて言ってきたと思いますか。
『ははは、おにぃさん、俺達のチャンネル潰す気ぃ? あんなの撮ったら俺達炎上しちゃうよぉ。プライバシーの侵害とか叩かれてさぁ』やってる事は同じなんです。目の前では暴力が横行しているんです。でも場所が違うだけでこうも反応が違うなんて面白いですよね。
後で聞いたのですがあの声を掛けて来た人達、なんでしたっけ……私人逮捕系ユーチューバーってのをやっている人達だったんですよ。あぁ、そういえば彼らの話を聞くまで知らなかったんですが現行犯なら警察だとか逮捕状だとか関係なく誰でも逮捕できるらしいですね。
彼らは公衆の面前でそんな事をしている人がいればカモ発見だとか言って警察ごっこをしているのに、他人の家の中になるとずかずかと入り込んで抑え込もうとすらしないんですよ。
どうしてですかね、家族って血が繋がってるだけで只の他人なのに連帯意識と云うか死なら諸共と云うか、家庭内の犯行に対しては途端に犯罪意識が内外問わず稀薄になるんですよね……何もこれは犯罪に限った話じゃないですよ。
ほら、丁度去年くらいまで世間を騒がせていたあの感染症……みんなで仲良くマスクをつけて外を出てましたが家に帰って来ればマスクを外す人が殆どだったんじゃないですか。
血縁者だからって感染リスクが無条件で軽減される訳もなければ夫婦に限った話をすれば血すら繋がってないのに家族で移し合ってこの病院の面倒になるんです……今の話は八割僕の愚痴です。忙し過ぎて死にそうでしたから……
話が逸れましたね……客観的に見ても家庭内でマスクを外して良い理由はどこにもありません。寧ろ物理的に距離が近い上に使用するモノも共有の物が多いんですから最も注意しなければならないと思いませんか。にも拘わらず大多数がそれを良しとしていると云うか、それが当たり前だと思って何もしないんですよ。
これが僕達人類が誕生した瞬間から脳内に滲み込んだ本能なのか、長年かけて構築された社会に適応する為の副産物なのか分かりませんが、家族と云う関係の前には不利益すら無条件に享受するのが当たり前になっているんです。
そう聞くとなんだが狂気的に聞こえませんか。ははっ、どうなんですかね。狂っているのは今の話を狂っていると思っている僕の方なのかもしれません」
「……」
「兎も角、こんな世の中ですからDVを証明するのは本当に難しいんですよ。医療記録の確保、写真やビデオの記録、目撃者の証言、通話記録やメッセージの保存、警察への通報、弁護士や専門家の相談、支援団体への連絡、勿論色々取れる手段はありますが、その殆どが身体的な暴力に特化されているように見えますね。
警察に『殴られたから捕まえて』と言えば動くのに『嫌な事を言われたから捕まえて』と言ったって動いてはくれないでしょう。特に目に見えない精神的なモノは自分で助けを求めない限り何もできないんですよ。
ですがもし彼女が解離性健忘でその引き金が精神的なDVなら虐めたい放題ですね。DVの事実を色々なモノと一緒にすっかり忘れてしまうんですから。まさに無限に殴れるサンドバックですよ。だから忘れてしまう前に記録として残してもらおうと云う話なんですがね……」
「なんだ」
「焼け石に水なんですよ。通常、解離性健忘における記憶喪失のタイミングは極度のストレスやトラウマが関連する出来事の直後に起こるんです。だがら厄介なんですよ。もし彼女が辛うじて何か憶えている事があればそれを頼りに考察するしか出来る事はないと云う事です」
「やらないよりマシと云う訳か」
「えぇ、裏を返せば不自然に切り取られている出来事があればソコが怪しいと云う事でもありますからね。まぁ、これも楽観的思考に過ぎませんが……さてこの辺でしょう。そろそろこの日記をお渡ししますね」
そう言うと片峯は手に持っていた日記を男に渡した。男はノートを手に取るとパラパラと頁を捲り始めた……次、次、次、次、頁を捲れば捲るほど次第にその手は鈍くなり男は渋い顔をしていた。
「ははっ、九歳の女の子にそこまで期待しちゃ駄目ですよ。だってまだ小学生、それも低学年なんですよ。新聞だってまともに読めないような年齢じゃないですか。
でもここでは貴方が好きなように解釈してもらって構いません。それこそ、貴方がこの日記をもとに彼女の物語を描いたって良いんですよ。寧ろそうした方が面白そうですね。どうせ真実なんて彼女にしか分からないんですから」