邂逅_片峰亨
カツン……カツン……不気味な雰囲気の漂う薄暗い研究所の渡り廊下に小気味良い靴音が響く。午前一時三十分、普段誰も通りそうもない時間帯に凡そその場に似つかわしくない恰好の男がまさにその渡り廊下を歩いていた。
端正な顔立ちで瞳は茶色く焦げており、薄い黒を基調とした背広に外套を羽織っていて、それがまた細身でスラッとした体格によく映えている。白い手袋を嵌めた左手には少し時代遅れな抱鞄を握っていて傍から見ると一体何をしている男なのかよく分からない。が、可笑しなくらい様になっている。
カツン……カツン……目に掛かりそうな前髪を掻き上げては軽い溜息をついてぼやく。
「ついてない……」
男の視線の先には丁度帰り支度を済ませたと言う様な恰好の、それも変に生真面目そうな小太りの中年が怪訝な面持ちで男を睨み付けていた。
「おい君、ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
あぁ__高圧的で鼻につく中年の態度に男は覇気のない返事をすると徐に背広の懐から封蝋の目立つ一封の白い洋封筒を取り出した。開けた痕跡は有るものの真っ赤な蝋で打たれた封には悪趣味で粗削りなKの文字が浮かんでいる。
「その封筒……まさか君……」
ジジジジ……チカチカと光る蛍光灯の下で中年は男の妙な恰好をジロジロと見る。カチッ、カチ、カチッ、不快な音に加え半ば陰った中年の顔も相まってとことん気に障る。男は懐に封筒を仕舞って言い放った。
「悪いがそこを通らせてもらう」
男の苛立った声に少しビクッついた中年だったが慌てて男を止める。
「あっ……いや、少し待ってくれ。すまないが一つ伝言を頼まれてくれないか。何、そんな大層な話じゃない。あぁ、その伝言と云うのは……」
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カツン……カツン……カツ。不気味な雰囲気の漂う薄暗い研究所の渡り廊下に一際目立つ造りの立派な扉がある。丁度、目に付く所に『外科第五研究室』その少し下には『片峯亨』と書かれたプレートが貼られていた。
午前一時三十五分、男は躊躇うことなくその扉を叩いた。
ジジジジ……カチッ、カチッ。
造りが立派と云うのは高価な見た目という訳ではなく、感覚的に云うなら頑丈なと表現できる扉で向こう側の物音は聞こえず蛍光灯の鳴る音が響く。応答がない。男は懐中時計を取り出した。
午前一時三十五分三十七秒、秒針は刻々と音を鳴らして六度ずつ廻り続ける。
三十八秒、三十九秒、四十秒……男はただ時計を黙って見ていた。
五十七秒、五十八秒、五十九秒……カチィッ。
秒針がⅫを指したと同時に目の前の重苦しそうな扉がギィィィと悲鳴を上げているように引き摺られながら開き始めた。
「ようこそ、僕の研究室へ。流石、時間には正確ですね。先生」
扉の向こう側に白衣姿で凛とした女受けの良さそうな顔立ちの男がいた。
経歴や肩書の割には随分と人懐っこいと云うか、斜に構えて見れば自己に対する過度な自信から来る余裕半分、傲慢半分を顔と語り口で良いように誤魔化している質の人間。金色の細い縁の丸眼鏡が良く映えるこの男こそ片峯亨。男は片峯を見るなり鼻で嗤って応える。
「これは随分なご挨拶だ。此方は定刻通りに来たと……」
「えぇ、分かってますよ。だからこうして出迎えたに来たじゃないですか。見れば分かるかも知れませんがこの扉、とある事情で変に特注してしまったお陰で一度この部屋に入ると外の様子は分からないようになっているんです。それなのに僕以外の人間には開けられないようになってますから、なおの事なのですが僕は先生の事を信じてましたから、一分位過ぎてもまだいると思っていました……案の定でしたね」
男の返答を待たず遮るように片峯は言い放った。対して男も何喰わぬ態度で応える。
「大層な事だな。まぁ、そんな事は良いから早く中へ通してくれないか。此処はどうも不気味で気分が悪い」
ジジジジ……チカ、チカ。頭上の蛍光灯が点滅する。
「貴方にはナニカ見えているんですか」
「……」
男は片峯の言葉の真意が分からず眉間に皺を寄せる。
「はは、ほらよく言うじゃないですか。怪しげな研究所や大きな病院には悪霊だの亡霊などが集まりやすいって。先生も職業柄、そういうモノを見るのかと思いましてね。さぁ、入ってください。大したおもてなしはできませんが、飲み物くらいは出せますよ」
そう言うと片峯は部屋の奥へ入っていく。男も後を付いて中へ入って見るとそこは研究室と呼ぶには随分とこざっぱりしていた。どちらかというと応接室……いや意味合いは違うかもしれないが社長室と云った方が良い。部屋の奥に片峯が使用するであろうデスクがポツンとあって、部屋の中心辺りに黒色のソファー二脚の間に木製のセンターテーブルが置かれている。
「気に入ってくれましたか。先生を招き入れる為に無理言って用意させたんですよ。こうした方が雰囲気が出ると思いましてね」
男は軽く部屋を興味なさげに見渡す。実際、特記する事もない。
「そういえば、此処に来る道すがら伝言を預かった」
「伝言……ですか」
「あぁ、小太りの中年だ。先程行われた小腸悪性腫瘍手術完了の報告だ……」
いつの間にか部屋の一角でコーヒーメーカーを弄っていた片峯が男の一言に少し顔を歪めて言い返す。男は未だ席への案内を受けていなかった為か律儀に扉の前に突っ立っていた。
「小太りの中年……多分、大塩先生ですね。あぁ……あの人は確かに優秀なんですけど少し頭が固いと云うか。いえ、すみません。こう見えても僕は一応この病院の主任外科医をしているんですが、術後経過はまずは僕に口頭で報告するように言っているんです。僕は他の方に比べて若いのでこういったコミュニケーションを怠ると直ぐに舐められるんですよ。こちらはかなり気を遣っているのにそんな苦労もお構いなしなんです。まぁ、この時間ですしね。明日、本人に聞いてみます」
すると男は柄にもなくバツの悪そうな顔をしてボソッリと呟く。
「本日十九時より予定されていたクランケの小腸悪性腫瘍の手術は無事終了。術前の診断通り、当該クランケの腫瘍は比較的小さく、腹腔鏡を用いた低侵襲手術で対応。合併症は認められなかったものの、こちらのミスで手術中に大腸に軽度の熱損傷を付けてしまったが治療続行。この損傷は経過観察中であり、現時点で自然治癒が期待される。手術は同日二三時四七分に終了。フォローアップの際に改めて詳細な情報を共有する」
男の急な一言に片峯は目を丸くして口を半開きにさせながら応えた。
「驚きました。いや大塩先生もそうですが素人の貴方がよくこんな伝言を預かる気になりましたね。自分でも何を言っているのかよく分かっていないでしょう。そう云う所は流石と言わざるを得ませんね。まぁ、概ね分かりました。それなら問題ないでしょう。貴方に免じて報告書の提出を待つとします。こう見えても僕は今、機嫌が良いんですよ。今日という日を楽しみにしていましたからね。そんな事は些細な事なんです。どうぞ、そちらへお掛け下さい」
片峯は両手に並々に入ったコーヒーカップを持って例のソファーへ向かう。男もそれに合わせて片峯に対面するように座った。すると片峯は唐突に自分のデスクを見てフッと嗤い出した。男は我関せずという態度で出されたコーヒーを口にしている。片峯の視線の先のデスクにあった電子時計は、十月二十九日:一時三六分〇秒と無機質に点滅を続けていた。
「不味い……」
片峯の出したコーヒーに軽く口を付けた男はぼやく。
「ははっ、これは失礼しました。このコーヒー、先日買ったモノなのですがどうも僕の口に合わなくて捨てるに捨てきれず放置していたモノなんですよ。もし先生の口に合えば是非ともご賞味頂きたかったのですが残念です」
そう言うと片峯は砂糖の入った小瓶を男に差し出した。それが気に喰わなかったのか男はぞんざいに小瓶を押しやって、懐から一封の白い洋封筒を取り出し適当にテーブルに投げやって言った。
「本題に入ろう」
真っ赤な蝋で打たれた封には悪趣味で粗削りなKの文字。片峯は不敵な嗤みを浮かべ封筒を持っては照明に透かすように覗き込む。
「かっこいいですよね。こういうの、一度やってみたかったんです」
男は無視して続ける。
「お望み通り来てやった。要件を話せ」
封筒の中には今日、この時間に此処で待つと簡素な内容の手紙が一枚入っているだけで他には何も無かった。
「そんな邪険に扱わないで下さいよ。貴方にとっても悪い話しじゃないはずです」
いつの間にか片峯は中に入っていた手紙を勝手に取り出して読んでいた。
我ながら上出来ですよ__と、ぼやいては飽きた玩具のように手紙を投げ捨てるとテーブルの端に行った砂糖の小瓶に手を伸ばしてかなりの量の砂糖をコーヒーに流し込む。溶け切らず沈殿していく砂糖を眺めながらひたすらに掻き回している。
「こう見えても僕は先生の大ファンなんです」
片峯が顔を上げると不意に怪訝な目で睨み付けている男と目が合った。
「それはもうずっと前から追っかけていましてね。特にあの人形の話はお気に入りなんです。アレは何度読んでも面白い。ははっ、正直に言いますと今日、貴方が此処へ来た事に驚きましたよ……まさか書き手だと思っていた貴方が作中に出て来る狂言回しそのものだったなんてね。不思議な気分ですよ。僕はてっきり気難しそうな年増が来るのかと思っていましたが、実際に来たのはまさに物語に登場する人物そのものだったんですから。ふふっ、あぁ失礼。その恰好から話し方まであまりにも似過ぎているもんで。これは面白い訳ですね」
男は相も変わらず黙って片峯を睨み付けていると、到頭痺れを切らしたのか、片峯は白状すると言わんばかりの態度で応えた。
「今日ここに来てもらったのは他でもありません」
一瞬の間を置いて片峯はニヒルな嗤みを浮かべて言い放った。
「僕も貴方の書く小説に出演させて貰おうと思ったんですよ。蚕糸先生」