『馬の耳にヘンデル』幼なじみの家に行ったらヘンデルがいた話
馬の耳にヘンデル(うまの-みみに-へんでる)
成句
1. ある界隈で有名な人や事柄であっても、知らない人にとっては全くピンとこないことのたとえ。
2.ネームバリューで大きな態度をする者も、それを知らない人たちの前では無力であり、そこを履き違えるとみじめな思いをするという戒め。
その日起きた出来事については、支離滅裂だとか、荒唐無稽だとか、色々と言い方はあるだろう。
だが、かといってあまり長々と前置きをしても仕方がないので、端的に言うとすればこういうことになる。
──幼なじみの家に、ヘンデルが出た──
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル。
後期バロック音楽の集大成にして、音楽史上、死後も名声の衰えなかった最初の作曲家。
存命中の人気はあのヨハン・セバスチャン・バッハを遥かにしのぎ、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のハレに生まれ、ハンブルクからイタリアに渡り各地を巡った後、ロンドンを拠点に活躍。ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、スペイン語、ラテン語を使いこなし、オルガン、チェンバロ、ヴァイオリンの演奏家・オペラ、オラトリオ、管弦楽の作曲家としてのみならず、興行主、投資家、美食家、美術品蒐集家としての顔も持ち、経済的にも大成功をおさめた、国際人にして大スター。
(※本人談)
──とにかくこれは、一組の幼なじみとヘンデルとの間に起きた、ある出来事についての話だ。
✳︎
ユニフォームを風になびかせ、少女たちが、ピッチを駆け巡る。
普段は制服に身を包み、流行りの音楽や恋愛の話に花を咲かすのであろう彼女たちも、今は戦士の声と顔つきで、互いのゴールを目指してボールを奪い合っている。
ペナルティ・エリアの一歩手前で、選手の接触があり、笛が鳴った。
赤いユニフォームの選手たちが、相手のゴールキーパーを睨む。
「クソっ! 全然強くないのに、1点も入らない! どういうこと?」
「あの、キーパー……」
ポゼッションは圧倒的に彼女たちの有利だったし、良い位置でフリーキックのチャンスも得た。しかし、彼女たちの表情からは、焦りの色が消えない。
相手はずっと格下にも関わらず、後半アディショナル・タイムに入った今に至るまで、一向に点を奪えずにいるからだ。
ゴールキーパー、盾石ラン。
2年になってサイドバックからゴールキーパーに転向するや、12試合無失点、実に96セーブ(これは味方のディフェンダーがそれだけのシュートを許したとも言えるが)を挙げる鉄壁の守備を見せた。
黒いベリーショートの髪をかすかに風にそよがせて、ランは笑う。
「アンタらは、ウチのチームより強くて上手いのかもしれない。でもね、アタシがいる限り、こっから先はボールが通らないんだよ。打って来い! 私が全部止めてやる!」
キッカーが、ボールを蹴る。切れた芝が飛び散ると、ボールは山なりに、ディフェンスの頭を越えて、ゴールポストの内側へと吸い込まれるように飛んだ。しかし、ランにはその軌道が見えている。
と、そこに1人、抜け出したフォワードが、ヘディングを合わせて飛び込んだ。
ランは飛び出し、両手を伸ばしてボールを掴む。あわや接触というところを、すんでに避けて前に転がると、叫んだ。
「全員上がれ! 勝つぞ!」
「ランちゃん!」センターハーフがランを呼ぶ。
ランが蹴ったボールは、ハーフウェイラインを超えて、味方のセンターハーフに届いた。
慌てて自陣に戻る赤のユニフォームを追いかけて、ランも前へ出る。
その駆けて行く視界の先で、センターハーフがボールを奪われかけると、ランは持ち前の俊足でこぼれ球に食らいつき、再び前へ上げる。大きく弧を描いて落ちたボールを、抜け出したフォワードが相手ゴールへ押し込んだ。
試合終了のホイッスルが鳴る。
ランと仲間たちは、戦勝の歓喜に沸いた。
──とはいえ、彼女たちの熱戦は、この話の主題ではない。
橙色の夕陽がアスファルトを淡く照らす帰り道、『北高の守護神』だとか、『オラオラ系イケメン』だとか、周りの部員たちが褒めそやすのを、くすぐったく受け流していたランのバッグから着信が不意に鳴って、彼女は取り出したスマートフォンの画面を見た。
──『カンタ』とある。
「彼氏?」センターハーフの部員がからかうように言う。
「いや、別に、そういうんじゃないから」と顔の前で手を振りながら、電話に出る。
カンタの聞き慣れた低い声が、ランの耳に入る。
「おー、お疲れ。なあ、今スーパーにいんだけど、アイス買っていい?」
「買えよ勝手に!」とランは声をあげた。
「いや、食費がキツいとか、言ってたから」
「何?『食費』から出そうとしてんの? じゃあダメだ。アンタの小遣いから出しな」
「えー、分かった……」カンタは電話口にも残念そうにつぶやいて、通話を切った。
はぁ、と、ため息をついて見せたが、その仕草が芝居がかっていないかと、ランは隣の部員を横目に見る。実はカンタの拗ねたような声が、ランはちょっと好きだ。
「いや、もう夫婦でしょ」とまた別の部員が言う。「『食費』なんて言葉、並のカップルからは出てこないから」
「は? えっ? いや、そういうんじゃないんだって」
ランは言い訳がましく説明する。
小さい頃から同じマンションの隣同士に住む幼なじみなので、家族ぐるみで付き合いが長く、またどちらも両親が共働きで出張も多く留守がちだから、食費や食材をシェアした方が安上がりというだけなのだ、とかなんとか。
幼稚園のころ、結婚の約束をしたりもしたが、そんなものは文字通りの児戯にすぎない実に陳腐な思い出だし、「幼なじみが婚姻の約束をするときは、次の各号に定める基準によらなければならない」と法律で定められている。
1.当該約定は、書面及び電磁記録等によって明示的に保存されてはならない
2.当該約定はどちらか一方のみが記憶するか、又は、約定の相手方を特定できない程度に記憶が混濁していなければならない──
結局、ヤイヤイ言われながら部員たちと別れると、ランは急いで家に帰り、ユニフォームを洗濯カゴに放り込んでシャワーを浴び、玄関を出る。
そういう順番だから。と、ランは誰にともなく言い訳をする。
今日はカンタの家に行く番というだけだ。別に、カンタに会いたいとか、そういうヤツではない──とかなんとか。
✳︎
『矛乃木』と表札のある玄関を、ランはチャイムも鳴らさず開けた。
「ただいまー」
考えてみれば自分の家でもないのに、「ただいま」というのもおかしな話だが、もう、そういうふうになっているのだから仕方がない。
「おー、おかえり」とカンタが廊下越しに答えた。
さて、話はここからだが、ランはそこで、あまりに唐突な非日常的光景に、言葉を失うことになる。
玄関から居間へ続く廊下、丁度洗面所の入り口辺りに見知らぬ男が立って、こちらを見ているのだ。
こう言うと、いかにもホラーな響きだが、それがどうもヒヤリとこない。というのも、その風采が、何となくコミカルなのである。
まず、大柄な白人の男だった。
ランはヨーロッパの服飾史について無知だったから、漠然と『ヨーロッパの貴族のような服装』という印象を持ったが、派手な刺繍こそないが生地は良い、白いヒダのあるシャツに厚手のコートという出で立ちである。
明らかに地毛とは思われない、白いモコモコした髪の毛を肩の辺りまでモフッと垂らして、顔つきといい、体つきといい、全体的にむっちりとしている。
泥棒──? にしては、出で立ちが大胆過ぎる。
ランには、その姿に見覚えがあった。音楽の教科書だったり、音楽室の肖像画だったりで、確かにそのシルエットを見た覚えがある。
「バッハ……?」ランはそう口走った。
するとその男は、カッと見開いた目をにわかに怒らせ、声を荒げた。
「違うわ!」
(いや、違うのかよ)
ランのセリフについた疑問符は、「なぜここにバッハがいるのか」という疑問に付いたものであって、ランは彼がバッハに扮していること自体は疑ってもいなかった。あのシルエットならそれしかない、というくらいの強い確信である。
しかし、男は違うと言う。
「じゃあ、誰……」
もう、皆目見当もつかない。
「ヘンデルだよ!」
「ヘン……デル……?」
ランは首を傾げた。
つまるところ、彼女はヘンデルを知らなかったのである。
*
玄関から廊下を抜けてリビングに入ると、対面キッチンのカウンター越しに、冷蔵庫を開け閉めしたり、食器を並べたりと、忙しそうな割に緩慢な動作で動き回るカンタを眺めながら、ランはそこに脱ぎ捨てられた制服のズボンを拾う。
「また、脱ぎっぱなしにして。アンタ、何で居間で服脱ぐんだよ」
「なんか、暑いからなぁ」
カンタは当たり前のことみたいに言った。
女にしては背の高いランよりも、もう少しだけ背の高い、ガッシリとした筋肉質で、黒い短髪の男子だが、二重まぶたの少し垂れ目がちなところに、なんとも言えない愛嬌と安心感がある。
「ちゃんと掛けとかないと、シワんなるって言ってんじゃん」
「おー、掛けといていいぞ」
「ふざけんな。自分でやれ」と言いながらも、ランはカンタのズボンを伸ばして、棚の近くのハンガーラックに掛ける。
この日は土曜日だったが、カンタは成績が振るわず補習を受けたのだと、ランは知っていた。
リビングのソファに我が物顔で腰を下ろすと、キッチンで何やらやっていたカンタが、大皿を抱えて居間に来た。
「棒々鶏サラダを作ったんだわ。鶏を裂くのが面倒でよ。もうやらねえわ」
トマトと胡瓜と裂いた鶏肉が、彩りよく盛り付けてある。
「綺麗に出来てんじゃん。美味しそう」
「そうか? あとな、豚の生姜焼きだ。なんか、疲労回復に良いんだと」
そう言いながら、カンタは生姜焼きと刻んだキャベツを山盛りにした皿を2つ、テーブルに置いた。
「え、私が試合だったから?」
「まー、そうだな。勝ったのか?」とカンタは聞く。
「うん。勝ったよ。アンタも先週、剣道の試合じゃなかったっけ?」
カンタはこちらから聞かなければ、あまりそういうことを話さない。
「あー、なんか、優勝したわ。だいぶ頑張ったからな」
「『なんか』ってなんだよ。すごいじゃん。アンタもうちょっとテンション上げなよ」
「や、嬉しかったよ。普通に。でも、市の大会だし。県大会になったら、もっと強えの出て来るだろ。俺は県で3位くらいの選手だからよ。次は2位くらいになりてえな」
「優勝目指せよ」
カンタは、こういうヤツだ。欲がないというか何というか。そのくせ、やると決めたことは、コツコツずーっとやり続ける。そして、自分も補習で疲れているだろうに、試合後のランをねぎらって、豚の生姜焼きを作ってくれるようなヤツだ。
ソファに隣り合って食事を終えると、カンタは思い出したように、「あ……アイス」と言って、またキッチンに引っ込んだ。
まさか、私の分も? と思うと、ランは急に照れ臭いような気持ちになって、ソファで抱えた膝に顔を埋めた。
「お前、暑いのに外で試合だっていうからよ。デケえの買ってきたんだわ」
そう言って、カンタがテーブルに置いた音の重量感に、ランは顔を上げた。
「でっか……」
大容量2リットルのファミリーサイズだ。
「俺んとこも、お前んとこも、ほとんど家に親居ねーしよ。あんま、こういうのねえだろ。まあ、仕事だからしょうがねえけど。内緒でお祝いしようぜ」
ランは再び膝に顔を埋めて、はぁ……と、ため息をついた。
(好き……)
「どうした? ため息ついて」
「ん……なんでもない。私のためにデカいアイス買ってきてくれたのに、電話じゃ冷たい言い方してゴメン」
「あ? そうだったか? 忘れたわ」
「棒々鶏、美味しかった」
「あー、思ったよりな。じゃあ、またやるわ」
「もうやらないって言ってなかった?」
「お前が好きなら、また作るわ。まあ、俺も美味かったしな」
ランは頬が熱くなるような心持ちがして、両手で顔を隠した。
(完全に好き……)
2人はソファに並んで、西陽に目を細めながら、ファミリーサイズのアイスクリームにスプーンを伸ばす。
「カチカチに硬えな」
「……うん」
そういうわけで、ランはカンタが完全に好きなのである。
──さて、こうしたランとカンタのやり取りを、ヘンデルと名乗る、むっちりした白人の男は、2人が隣り合うソファの向かいから、猫にイタズラされて再起不能なまでにビロンビロンにされた毛糸玉みたいな、白いフワフワした髪の毛を揺らして、ニコニコしながら見つめていたのである。
──「いや無理!」ランは耐えかねて声をあげた。
あまり突飛な出来事が起きた時、それをどのように処理するかということには個人差があるだろうが、ランはこの時まで、ヘンデルと名乗った大柄な男を、『いないものとして扱う』ことによって心のバランスを保とうとしていた。
が、そうし続けるためには、このヘンデルという男は余りにズッシリとした存在感を持っていたのである。
まず身体が大きく、まるっと太っていて、頭には「専門の業者ならこういうモップを使うかもしれない」というふうにモコモコした(多分)カツラをかぶっていたし、肌はやたらともっちりしている。
「いや、無理だわ! 誰この人! アンタ、何フツーに、何事もなかったみたいにしてんのさ!」
ランは早口にまくし立てる。
するとカンタは困ったようにこめかみを掻いて、それから言った。
「や、なんか家帰ったら、居てよ。これ説明すんの無理だし、なんかメンドくせえなと思って」
「『居てよ』じゃないし! ウソでしょ? それで済ますの無理だから!」
ランは呆れてソファの背もたれに反り返る。
「あー、『ヘンデル』だって。だよな?」
カンタは今さらながら、そう紹介して、本人に同意を求めた。
ヘンデルと呼ばれた男は、力強く頷く。
「いかにも。俺が、あのゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルだ」
「いや、『あの』って言われても……」
ランは困り果てて眉尻を下げる。
「まさか、お前も知らねえのか?」とヘンデルは驚愕の表情でそう言った。
「なんか、『当然知ってるっしょ』みたいな感じ出してくんだよなぁ……」
カンタが隣で愚痴のように漏らす。
「アタシ、今一番怖いのカンタなんだけど。何その『いやー、参った参った』みたいな感じ。アンタ今、家に知らないおじさん居るんだよ」
「いや、居るもんはしょうがねえしよ」
カンタはソファの肘掛けに頬杖をつく。
「ちょっと、考えるのやめるなって。全然しょうがなくないから」
ランは必死に食い下がった。
これには当然、目の前の出来事が、不法侵入だとか何だとかといった法律に抵触するであろう急迫な不法行為であることも理由にあったが、それ以上に、ランはカンタとのこういう穏やかな時間をとても大切にしていて、貴族だか何だか知らないが、ワケの分からない外国人のむっちりした中年男に邪魔されるなどということは断じて容認し得なかったためである。
そんなことを考えている間に、ランは段々と腹が立ってきた。
「っていうかさぁ、アンタが説明しなよ!」とヘンデルに食ってかかる。
「説明? これ以上何を説明しろってんだ。俺はヘンデル! ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルだ! それ以外の何者でもない!」
「何で一点張りなんだよ! じゃあアンタ、『私は盾石ラン!』って名乗ったら、『なるほど、まるっと了解!』ってなるのかよ!」
ヘンデルは困ったように眉尻を下げて、カンタに視線を移す。
「カンタ、この子すげぇ怒ってくるじゃん」
カンタは少し考え込むようにしてから、口を開いた。
「そうだなぁ。ラン、そうカッカしなさんな」
「アンタどっちの肩持つんだよ!」
ランは堪らず声を荒げたが、カンタには特別効いているふうでもない。
「まあ、確かに名前だけ聞いてもワケ分かんねえからなぁ……」
「何で分かんねえんだよ……」とヘンデルは肩を落とす。
そのしょぼくれた様子を見ると、ランは不本意ながら、少々気の毒に思わないでもなかった。
例えば、彼は地元では人気のコメディアンで、その格好でステージに上がり「俺はヘンデルだ!」と声を張り上げれば、小さなライブハウスでは、どっかんどっかんウケていたのかもしれない。
あるいは、新進気鋭の歴史学者で、この風貌からして業界の者が見れば一目でその人と分かる学会の異端児であるとか。
だから、広く知れ渡っていると思っていた自分の名前が、全然ここまで届いていなかったことに、意気消沈しているのだ。
「とにかくさぁ、職業とか……何だろ、肩書き? そういうのを言いなよ」ランは少し態度をやわらげてそう促した。
「その、バッハみたいな格好の理由とかな」
カンタがそう言った時、ヘンデルは再び、目を吊り上げた。
「だから、何でバッハ基準なんだよ! 逆だろ! バッハがヘンデルみたいな格好してるんだって! あいつ、俺に憧れてるみたいなところあったから!」
ランは天井を見上げた。
「あー……もうワケ分かんない。アタマおかしくなりそう……」
すると、それを見るともなく眺めていたカンタが、ふむ、と、どこからか声を漏らして、それから口を開いた。
「なぁ、俺、分かったかもしんねえわ」
ランとヘンデルは、揃ってカンタに期待の視線を集める。
ランはそれが憶測でも、なんなら嘘でもいいから、何か納得できる説明を求めていたが、ヘンデルはヘンデルで、(自分の中では)かの有名なゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルを、ついに思い出したか! とでもいったふうに目を輝かせている。
「オバケじゃね?」と、カンタは言った。
ヘンデルは、それを聞くと心底落胆したようにため息をついた。
「今さらそこかよ……」
そのセリフには、それはもう当然共有されている前提だとでもいうような響きが含まれていた。
ランは愕然としてヘンデルを見つめる。
「え……マジ? ちょっとアンタ、オバケなの?」
「いや、そりゃそうだろ」とヘンデルが呆れたように言う。
その予想を口にした当のカンタが、かえって意外というふうに目を丸くした。
「おぉ……マジか。当たったわ」
「何年前の人間だと思ってんだよ。服の感じとかで何となく分かるだろ」
ランはその呆れ顔に抗議して声をあげた。
「いや、アンタさ、存在感が生きてる人間より強いんだよ。オバケならもうちょっとオバケらしくしなよ」
「なんだよ『オバケらしく』って。なぁ、カンタ、俺ほんとコイツとソリが合わねえわ」
勝手に人の家に入っておいて何を図々しい……! とランは憤慨して口を開きかけたが、カンタが、うーん、とうなると、やや勢いを挫かれたような格好で顔をしかめるにとどめた。
「まあ、オバケだからって、別にそれらしくしなきゃいけねえってことはねえと思うけど……」
カンタがそう言うと、逆にヘンデルは勢いを得て歓声に近い声をあげ、「な? な? そう思うよな?」と、ランの方に勝ち誇ったような視線を寄越す。
「こいつ、マジで……!」と、奥歯を噛むランの肩に、カンタは手を置いた。
思わず、頬がポッと熱を帯びる。
「まあ、2人とも、ちょっと落ち着いてよぉ、どうすっか、考えようぜ」
カンタは一向に動じる様子もなく、いつも通りののんびりとした調子で言う。
彼は剣道の防具を着けるとき、『平常心』と書かれた手拭いを面の下に巻いているが、ここまで効果があるものかと感心してしまう。
「あんたホント、呑気ってか、動じないよね…… (でも、そういうトコも好き……)」
ランは呆れ半分にそう呟いたが、カンタのそういうところも好きなのである。
「バタバタしたってしょうがねえからなぁ。で、ヘンデルはさぁ、オバケなワケだから、『成仏』とかすれば良いんじゃねえの? 知らねえけど」
「ジョウブツ?」と、ヘンデルが首を傾げるので、カンタは、自分も詳しくないが、と前置きして、「現世への未練を断ち切って、縛られた霊魂が本来還るべきところへ還る」というような意味合いだと説明した。
ランはとにかくこの荒唐無稽な状況に何らかの解決があり得るなら、という思いで、尋ねた。
「で、どうなのさ、なんか、思い当たる未練とかないの?」
ヘンデルは苦々しい顔をしてうなった。
「まず、お前らが全然ヘンデルのこと知らねえのが未練だよ。何なんだ? 音楽のない世界から来たのか?」
カンタは腕を組む。
「俺は全然詳しくねえけど、ランは結構聴くよなぁ? スゲえぞ。洋楽とか聴いてっからな」
そう言われると照れくさい心持ちがして、ランは少し目を逸らす。
「まぁ、古いのが好きかな……ビートルズとか?」
「びぃぃぃいとるず!」ヘンデルはたっぷりとした抑揚をつけて叫び、それからまくし立てた。
「古いのってお前、遡れもう少し! ビートルズなんかお前、俺は大先輩だぞ! デビュー前のビートルズが活動してたハンブルクで250年以上前にブイブイいわしてたヘンデルをお前……! ビートルズが1年生だとしたら、今の3年が1年だった時に3年でキャプテンだったくらいの! お前──!」
「へぇ〜……そうなんだぁ〜」と相槌を打つ。
ランはここに至って、ちょっと面倒くさくなっていた。もう、1年とか3年とか250年? よく分からない。
「お前、適当な相槌やめろ! もう分かった! 俺の曲を歌えばいいな?」
「いや、ちょっと、聴いても分かんないよ」
「分かるから!」そう言ってヘンデルは立ち上がると、喉の調子を整えるように咳払いをする。
「ちょっと、歌とか困るって。集合住宅だから。苦情くるじゃん」
「いいや! いいからお前、ちょっと聴け。そしたら分かるから。有名なヤツあるから」
ランはソファから立ち上がって、ヘンデルの口を塞ごうとしたが、その視界の横でカンタは相変わらず落ち着き払って座っていた。
「ちょっとアンタ、何とかしようとしなよ!」
するとカンタはアタマの後ろをぽりぽり掻いた。
「いや、2人とも結構デケぇ声出してやり合ってっからな、すでに。別にちょっと歌歌うくらいどうってことねえだろ」
ヘンデルは、ほれ見たことかとランを鼻で笑う。
「くっそ、コイツ……!」
歯噛みするランを横目に、ヘンデルは歌い出した。
「オォ──ォ〜……」
それを聴くと、ランは、少し意外だと思った。とても、優しい声をしている。
そして……「いや、長い長い。『オ』が……」と言いかけた時、音楽は動いた。
「──ンブラァマァ〜イフゥ〜……」
これは……! と、ランは直感した。
「知らないわ」
「何で知らねえんだよ!」
ヘンデルは地団駄を踏む。
「ちょっと、やめなって。下から苦情くるから」
「何だよお前、苦情苦情って。もっと大らかに生きろ。つーかこれ、ほんと聞きたくないけど、じゃあお前、バッハの曲も知らないんだろうな」
「いや、なんか1曲は知ってるでしょ──」と言いながら、ランは記憶を辿ったが、いくつか思い当たるクラシックのメロディの中で、果たしてどれがバッハのものかが分からなかった。
不意にカンタがボソッと言った。
「あれ、トッカータと……フーガ?」
「あー! それ!」とランは歓声をあげ、「ちゃらり〜……」と口ずさむ。
「やめろお前! 歌ってんじゃない!」ヘンデルは噛み付くように言った。
「自分だって歌ってたくせに!」とランはヘンデルに指を差す。
「おかしいだろ! 何でバッハを知っててヘンデルを知らないんだよ。当時の人気投票じゃ俺が2位でバッハは7位とかだぞ。全然格下だっつーの! まあ、1位はテレマンだったけど……」
「やめてよ、知らない人増やすの」
「分かった。じゃあ次な。次のはマジで有名だから。自分でもビビるくらい売れた」
「いや、もういいって!」とランは語気を強める。
すると、つい先ほどまで強引に突き進んでいたヘンデルが、急に勢いを失ってその場にしゃがみ込み、すっかり小さくなってうつむいてしまった。
「え……いや、ウソでしょ? なに? お腹痛い?」ランは慌ててヘンデルに駆け寄る。
「俺のこと、誰も知らなくて悲しい……」と、ヘンデルは消え入るような声で言う。
「いやいや、ちょっと……! 違う違う。アタシらが、ほら、あんまり詳しくないだけだから! その道の人なら、きっと知ってるって!」
「俺は、その道の人じゃない人にも聴いてほしい……」
ランはすっかり慌てふためいてしまった。
「そう、そうだよね! いや、今の曲だって、アタシは知らなかったけど、結構良かったよ。強く言ってゴメンね。泣かないで……」
とやっている間も、カンタはちょっと首をかたむけて、ウンウンと頷いている。
「ちょっとカンタ、あんたも何か言ってよ!」
ランがそう言うと、カンタは少し考えるようにしてから、口を開いた。
「もう一曲、聴いてみればいいじゃねえか」
「あ、そうだよね。もう一回歌ってみよ? ね、ちゃんと聴くからさ」と、ランはヘンデルの背中をなでる。分厚いコートのせいもあろうか、体温こそ感じなかったが、そこにははっきりと質感があって、ランにはどうしても彼がオバケだとは思えなかった。
ヘンデルはそろそろと顔を上げ、ランを見つめる。
「本当か? 本当に、聴くか?」
「聴く聴く。仮に知らなかったとしてもさ、気に入るかもしんないじゃん。そしたら、ファンが増えるってことだよ。ね? 元気出してさ……」
「うん、分かった……」
ヘンデルはのっそりと立ち上がると、少し緊張した面持ちで、また小さく咳払いをし、それから声をあげた。
それは、つい今の今までしょぼくれていた男の声とは思えない、力強く、祝祭的で、高らかな歌声だった。
「ハーッレルーヤッ! ハーッレルーヤッ!
ハレルーヤッ! ハレルーヤッ!
ハッレェールッヤーッ!──」
ランとカンタは、目を見合わせた。
ヘンデルはそれをキリの良いところまで歌うと、恐る恐るといったていで、2人の様子うかがう。
「どうだ? オラトリオ『メサイア』っていうんだけど……」
「知ってるよ……!」とランは言った。「知ってる知ってる! 有名だよこれ! ねえカンタ! バッハのやつより有名だよねぇ!」
「そうだな。俺も知ってるわ。やっぱ、歌が付いてるってのが良いよな」
「ね! ハッピーだし、すごい良い曲じゃん!」
そうやって、2人でしばらく褒めそやしていると、うつむきがちだったヘンデルが徐々に胸を反らしはじめ、しまいには「な? むしろバッハが俺に会いに来るくらいだったんだから! 俺が忙しくて断ったんだから!」と自慢話まで始める始末だった。
「まあ、でも、元気になってよかったよ」と、ランは胸を撫で下ろした。
彼らは再びソファにかけると、ヘンデルの思い出話に耳を傾けた。
それは自慢を多分に含んでいたが、慣れてしまえば、ヘンデルはなかなか話上手で、特にブクステフーデというオルガン奏者の後任として採用試験に出向くと、ブクステフーデの娘と結婚することを条件として提示されたので逃げ出したという話には笑ってしまった。しかもその2年後にはバッハも同じ目に遭ったというので、よけい可笑しかった。
ひと心地つくと、カンタがふぅ、と一息ついて、言った。
「ぜんぜん成仏する気配ねえな」
確かに、とランもうなずいたが、もうそれほどそのことを悲観してはいなかった。カンタには悪いが、自分の家ではなかったというのもあるかもしれない。
ヘンデルは少し考え込むように腕を組んでうなった。
「思えば、仮に誰にも知られなかったとしても、俺は自分の書いた音楽に満足してたよ。
死んでしまえば、売れるとか売れないとかは別に関係ないしな。ただ、やっぱりこうやって、ずっと後の時代の人たちが、俺の音楽を知ってるってのは嬉しいもんだなぁ」
ランはそれを聞くと、不覚にも少し感動してしまった。
「そっか。そうだよねぇ。アンタ、すごい音楽家だよ。色々言ったけどさ。ごめんね」
「いやなに、俺はそういうことをあんまり引きずらないタチだからな!」それからヘンデルは、ランとカンタを見比べるようにして尋ねた。「ところで2人は、どういう関係だ?」
ランは答えに窮した。
幼なじみだ、と答えるのが正しい。しかし、自分の性格をかえりみると、「それ以上のなにものでもないのだ」という意味を余計に付け加えてしまいそうで、それは自らカンタとの距離を遠ざけるように思えた。
そんな彼女に代わって、カンタが、「幼なじみだ」と答えた。
それはやはり正しい答えだった。
「そう、幼なじみ」とランも繰り返した。
ヘンデルは少し意外そうに目を大きくした。
「そうか。俺はてっきり恋人同士かと思ったけどな」
それにカンタが「まあ、そういうのじゃねえな」と答える。
「あ……」と、思わず声が漏れたのを、取り繕う。「そう、そうだよね……! ただ、ホラ、小さい頃から一緒だからさ! 同じマンションの隣同士で、親も両方留守がちでさ──」と、並べる言葉が全て虚しく、価値のないものに思えた。「ただ、それだけ」
ヘンデルはそれを聞きながら、首をかしげた。
「お前は、どうして嘘をつくんだ?」
「えっ……」ランはそれきり、言葉に詰まった。
すると隣のカンタがため息をついた。そこには安堵の響きが含まれていた。
「おぉ、嘘かぁ。ビビったぁ……。いや、今は別に恋人同士とかじゃねえけど、大人になったら結婚すると思ってたからよぉ。忘れてんのかと思ったぜぇ……。ランお前、いきなり嘘つくなよなぁ……」
「えっ?」ランは混乱した。何が起きているのか、状況が掴めない。
「えっ? いや、約束したろ。幼稚園のとき」
「えっ? だって、そういうの、普通どっちかしか憶えてないじゃん」
「えっ? いや、片っぽ憶えてたら、もう片っぽも憶えてるだろ。同じ歳なんだから」とカンタは目をパチパチする。
「えっ? いや、そうとは限んないし……、えっ? カンタ、あんた憶えてるの?」
カンタもずいぶん混乱しているようだった。頭の上に疑問符を浮かべて、いろんな角度で首を傾げている。
「いや、そりゃ憶えてるだろ。結婚って、人生の一大事だぞ。忘れたら大変だろ」
ランには、自分の内側から込み上がってくるものの正体が分からなかった。ただ、それは圧倒的な熱量と、抗いがたい力を持っていた。
「だって、その時から、10年以上経ってるんだよ? あの時のアタシと今のアタシじゃ全然違うし、アンタだってそうじゃん。他にもいろんな女の子と出会ったでしょ?」
ヘンデルが2人の間に割って入った。
「お前の自身の気持ちが──」
ヘンデルがそう言い差したのを、カンタが遮った。
「いや、ちょっと外野は黙っててくれ。これは大事な話だからな」
それは、10年以上カンタと過ごしてきた中でも見たことのない、毅然とした態度だった。
ヘンデルは少し不満そうな表情を浮かべたが、カンタに「続きをどうぞ」というような手振りをして、ソファの背もたれに沈み込んだ。
「まあ、確かに、10年もあれば、別の奴を好きになったりすることもあり得るのか? 俺はずっとお前が好きだけどなぁ……」
視界がぼやけた。何を当たり前のように、と言おうとしたが、喉が震えて、上手く声を出せなかった。
「本当……なの?」
「ああ。お前は、違うのか?」
「私も……好き……! ずっとアンタのことが、好きだった……!」と言って、それから顔をしかめた。「でも、ちょっと、ヤダ。なんで他所の人いる時に言うのさ」
「いや、話の流れで……」
その時不意に、「あっ……!」と声を漏らしたのは、ヘンデルだった。
目を向けると、ヘンデルのまるっとした身体が、白い光を帯びている。
「えっ……? 何?」
ランとカンタは、驚いてその姿を見つめる。
その光は次第に強まって、まもなく真っ直ぐ見ていられないほど眩く輝きだした。
ヘンデルは歓声に近い声をあげる。
「きた……きたきた……! これ『成仏』きてるわ!」
「おお……成仏きてるかぁ。せっかく友だちになったのになぁ」
カンタの声は、アイスを自腹で買えと言ったときより、ずっと残念そうだった。
「あぁ、俺は死ぬまで独身だったからな! こういうのが見たかったのかもな! いや、誤解のないように言っておくが、モテなかったワケじゃないぞ! むしろかなりモテた!」
部屋中が眩い光に包まれて、2人は目を開けていられなかった。
ランは細めた目で、かろうじてその光の中心に視線を向けながら、叫ぶように言った。距離感が曖昧で、自然と声が大きくなった。
「最初すごいイヤだったけどさ、いなくなると寂しいよ! さっき会ったばっかりなのにね! どこに行くのか分かんないし、これから成仏するオバケにこんなこと言うのも変だけどさ、元気でね!」
もう、彼のまるっとしたシルエットも、モコモコの髪も、眩い光の中で輪郭をとらえることができなかった。
「ああ! お前らも! 特に、眼の医者には気をつけろ! ちゃんと選べ! 俺は眼の手術を失敗してエラい目に遭った! バッハもだ! 同じ医者に手術を受けて失敗してる!
寂しい時は、俺の音楽を聴いてくれ! その中に、俺の魂が生きてる! 特に歌だ! 歌がいい! バッハより絶対いいぞ!」
「アンタ、すごい音楽家なんだから、あんまりバッハのこと意識しない方がいいよ!」
「意識なんかしてねーわ! なぜなら、全く相手にならないから! アイツなんか、全然ローカルだから! ドイツの宮廷と教会だけで一生終えた奴なんか屁でもねーわ!」
カンタが、何かとても興味深い物事について語るように、口を開いた。
「光りだしてからが結構長えな」
「そうだな! 意外にな! じゃあ、お前らに、俺が今までの人生で学んだ大事なことを教えてやる! いいか、最後だからよく聞けよ! それ──」
と言いさして、ヘンデルはフッと消えた。
後には、男女の幼なじみが2人きり、やっと効きはじめたエアコンの風の音と、時計の秒針がカチ、カチ、と時を打つのが聞こえる他には、カンタの家のそばの狭い角を徐行する車のエンジン音が微かに、ほんの短い間聞こえたきりだった。
「何だったの? 結局」
ランが呆然とそう漏らすと、カンタはファミリーサイズのアイスに、再びスプーンを伸ばした。
「さぁなあ……あれ、アイス、もうすっかり溶けちまったかと思ったけど、ちょうど良いくらいだわ」
「うん……」
ランは、カンタの肩に、頭を乗せた。上目遣いにカンタの横顔を見つめると、カンタは少し照れ臭そうに目を逸らして、テレビのリモコンを掴んでスイッチを入れた。
チャンネルはNHKのクラシック番組で、今まさに、花のようなドレスを着たソプラノ歌手が、拍手を受けながらステージの真ん中にたどり着いたところだった。
ゆったりとした弦楽器のメロディに、チェンバロが涼しげな音色を響かせると、ソプラノが絹糸のように細く真っ直ぐな声で歌い出した。
「オ──……」
長く伸ばした声を、伴奏が和音を変えて彩っていく。
Ombra mai fu
di vegetabile,
cara ed amabile,
soave più
かつて、これほどまでに
愛しく、優しく、
心地の良い木々の陰はなかった
──ランとカンタは目を見合わせた。そして、笑った。
それは、ヘンデルが最初に歌った歌だった。
「いい歌だな」
「うん。いい歌だ」
*
放課後の帰り道、一組の男女が遊歩道の木陰を歩いていた。
傾きかけた陽の光が、よく繁った街路樹の葉脈を透かして、2人の頬に淡い影を落とした。
2人は夏制服の半袖から伸びた健康的な腕を揺らし、その先の手が触れ合うか、触れ合わないか、という微妙な距離を空けて、ゆったりとした速度で歩いていく。
少女は──と、一口にそう言うには、いくぶん精悍な顔立ちをしていたが、一方で花のように恥じらう表情が可憐でもある──、少し手を手を伸ばしては、少年の手に触れる寸前に引っ込めて、ということを、もう幾度も繰り返している。
その先では、背の高い痩せた老人が、チワワに散歩をさせられていた。
2人の男女がすれ違おうというとき、少女はまた、少年の手に指を伸ばしていた。
チワワが高い声で、一声吠えた。
それに驚いた2人の指先が触れ合うと、少年は、彼女の手を握った。
老人は振り返り、今すれ違った男女の手が握られているのを確かめると、しゃがみ込んで、チワワを撫でた。
「よしよし。よくやった」
チワワは喜んで尻尾を振り、また一声吠えた。
*
遊歩道を抜けてしばらく、どの駅からも、どのバス停からも、微妙に遠い住宅街に、一棟のマンションが建っている。地上8階建の鉄筋コンクリート造、外張断熱工法の頑強な造りで、築30年になるが外壁改修も最近終えたばかりだから、見た目もなかなか悪くない。
2人の幼なじみは手を繋いだまま、エレベーターで5階まで登ると、玄関のドアを開けた。
「おっ……」と、カンタが静かな驚きの声をあげる。
玄関から居間へ続く廊下、丁度洗面所の入り口辺りに見知らぬ男が立って、こちらを見ているのだ。
こう言うと、いかにもホラーな響きだが、それがどうもヒヤリとこない。というのも、その風采が、何となくコミカルなのである。
まず、白人の中年男だった。
黒い厚手のジャケットを着て、その袖や襟元から白いフリルみたいなものがフワフワとしている。白い髪の毛は、今まさにパーマをかけている最中のおばさんみたいなシルエットだが、顔立ちにどことなく上品さを漂わせていた。
ランには、その姿に見覚えがあった。音楽の教科書だったり、音楽室の肖像画だったりで、確かにそのシルエットを見た覚えがある。
それに、つい先日同じような経験をしたばかりだ。もうパターンは掴んだ。
クラシックの音楽家で、このシルエット。記憶より顔立ちは老けて見えるが、そんなのは肖像画の描かれた時期によるだろう。間違いない。
「モーツァルト?」と、ランは尋ねた。
相手はちょっと上品に眉根を寄せて、こう答える。
「ハイドンですが」
ランはカンタの手を握ったまま、鼻から大きく息を吸い込んだ。
「もういいわ!」