嘘(5)
翌日は見舞いに行かなかった。病院の前までは行ったのだけれど、そのまま帰ってしまった。
美津子の顔を見て、私は何を話そうというのか。何を言えば良いのか。心に巣食う美津子の母親の、あの嘘の笑顔を、未だ払えないでいた。
檜葉垣の隙間から美津子が見えた。ベッドから半分だけ起き上がって窓の外を眺める美津子を見ていたら、涙が溢れてきた。それで会えないな、と思った。
死を眼前に捉えながら生きて来た美津子。それを誰にも言わないで。
それがどんなに辛い事か、その全てを子供の私に理解する事は出来なかったが、想像もできないくらいに苦しく辛いのだろうという事は解っていた。
美津子は、私がそこに居た事に気付いただろうか。
「何で言ってくれなかったのかな」
この学校は肉体・精神共に元気な子供ばかりらしい。昼休み、今日も開店休業の保健室で雅幸先生はこっそりと食後のお茶を振舞ってくれた。
「何をだい?」
「美津子。苦しいなら苦しいって、怖いのなら怖いって、言ってくれればいいのに。いつも笑って平気だって言うんだ。あんなの、絶対に──」
絶対に嘘なのに。私はその頃になって、ようやく美津子の「平気」そのものが、嘘だという事に気付いていた。多分、いつだって大丈夫じゃなかったのだ。いつなのか知れぬ意識を失う恐怖や、体を蝕む苦痛や閉息感を押し殺して笑っていたのだ。
先生はそれで察したらしい。やはり先生も美津子が白血病だという事や、今の病状を知っていたようだ。私はその事を問い詰めなかった。今はそんな話をしたい気分じゃない。
「言ってどうなる」
緑茶の入った茶碗で両手を温めながら、雅幸先生は言った。まるで自分に言い聞かせるみたいに。
「美津子の性格は知っているだろう? あの子は人一倍、他人の事を心配するんだ。そうさな、自分自身よりもね。友達が治療も大変な重病だって知らされたら、誰だってびっくりするだろう? ……それに、準なら自分が病気だからって同情されたいかい? 『あら大変ね』って『可哀想に』って言って欲しいのかい?」
私は首を振った。確かにそうだ。医者ですら手の出ない難病なのだ。病気だって事を知らされて、弱音を吐かれても、一般人である私達に出来る事なんて何も無い。かけてあげられる言葉なんて、やっぱり無い。
「なぁ、準。そんなに嘘をつくのが嫌かい」
麗かなよく晴れた日の午後。私達の心境とは裏腹に、明るい笑声が校庭から響いていた。私は答えなかった。
「確かに私達人間、特に大人は嘘をつく。けどね、悪意の無い嘘だってあるんだ。優しさでつく嘘だってあるんだよ。確かに嘘は罪そのものなのかもしれない。けどね、その罪を背負ってでもつく価値のある嘘があるんだよ。……そして準、大人の嘘というのは自分につく嘘の事なんだ。覚えておいで」
今なら、その言葉の意味が解る。その言葉が私に向けたものでないという事を。
その時の先生の顔は、あの時の美津子さんと同じ顔をしていた。
けど私は話を逸らした。先生の言う通り、当時の私にとって嘘は罪に直結し、嫌悪そのものだったからだ。
「先生、死ぬのってどんな感じ? 死んだらどうなるの?」
私の両親は特に宗教をどうこう言う人ではなかったし、借家とはいえ仏壇さえ無いような家だったから、私は天国とか地獄なんてものには疎くて興味も無かった。
「さあてねぇ。そればっかりは死んでみなくちゃ誰も解らんよ。けど、確実に言える事は死んでもその先は無いって事さ。それまで煩かったテレビのスイッチを切るみたいに、パッと無くなっちまうんだよ。何もかも。意識も、感覚もね」
その稚拙な例えは子供にとってリアル過ぎた。一人で見ていたテレビを切った後の、あの寂しさや画面の暗さには、意識の深層に襲いかかる寂しさの恐怖がある。
「この世にもあの世にも、神なんて居ないし地獄も天国も無い。そういうのは只、人の心内にだけ存在するんだ。準、教条主義的な人間にだけはなるんじゃないぞ。教条主義ってのは決まり事にしか従わない、馬鹿者共の考え方さ。常に真実を疑い、自分で考え、道を往くのではなく道を作る人間になれ。そう、言いたかったのさ。だから自分で探すんだ。『死』がどんなものか。美津子が今何を考え、何を求めているのか」
雅幸先生は難しい言葉ばかり使いたがるから、何を言いたいのか解らないという事が多々ある。けれど、その時ばかりはきちんと伝わった。その時の言葉を私は今でも忘れない。私は今もその言葉通りの人間になれるように生きているつもりだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。雅幸先生がずずっとお茶を啜って茶碗を空ける。そして、思い出したように言った。
「ああ、そうだ。美津子の見舞いに行くならこれを院長面した奴に渡しておいてくれないか。何、居なければ受付の中にでも放り込んでおけばいいし、当分あの病院に行かないようならシュレッダーにかけて捨てるか、燃やしてしまって構わない。もし奴に会ったなら私が『美津子の事は頼むが、お前の世話にはならん』と言っていたと伝えてくれ。さぁさ、授業が始まるぞ」
先生は言いたい事だけ言うと、私にクラフト紙の茶封筒を押し付けて保健室から追い出した。先生とあの女医の間に何があるのか興味はあったが、何故か二人のどちらに聞いても教えてくれない気がした。
午後の授業の間、考えに考えて見舞いに行く事にした。
会って、上手く喋れるかどうかわからない。何を喋ればいいのか解らない。けれど、きっと美津子は苦しがって、そして何より寂しがっているに違いないのだ。誰にも言えない葛藤に傷つき、せめて寂しさからだけでも開放されたいと望んでいるに違いない。そう、思った。
病室に入ると美津子は一人で眠っていた。母親の姿は無い。
ベッドの傍らには背もたれの無い丸いパイプ椅子があって、その上には「銀河鉄道の夜」の文庫本が置いてあった。
その本を手に取り、椅子に座った。タイトルくらいは聞いた事があったから、どんな話だろうと思ってパラパラと捲ってみたけれど、漢字が多そうなのを見てとってすぐに閉じた。決して漢字が多い本ではないのだが、元々本なぞ読まない子供だったからそう感じたのだろう。
美津子は一糸乱れぬ姿で、寝息も立てていないのではないかと疑うくらい静かに眠っていた。
人間とはこんなにも静かにきちんと眠れるものだろうか。私の場合、起きたら枕に足が乗っているくらいに寝相が悪いのに。
そう考えるとだんだんと嫌な思いが湧いてきて、美津子を揺り起こしたい衝動に駆られた。そして、それをぐっと押さえ込む。
よく見ろ。微かだけどちゃんと息をしてるじゃないか。死んでる、筈は、無い、じゃ、ナイカ。
そうら、顔色だって昨日よりずっとい。頬だって心なしか昨日よりもふっくらしているように見える。
けれど。けれど、その手の冷たさはどうだ。暖房の効いた温かい部屋で、しかも布団の中で、どうして美津子の手はああも冷たかったんだろう。
ふと気付けば、私は薄いかけ布団の下に手を差し入れて、美津子の手を握っていた。その手はいつかよりもずっと筋張っていて、痩せていた。
「ん……」
程なく美津子は目を覚ました。
「あ、ご、ゴメン。起こしちゃった?」
うろたえる私を意に介せず、美津子は「ああ、お見舞いに来てくれたのね。ありがとう準ちゃん」なんて寝惚けた顔で言った。
「ごめんね、最近何だか体がだるくって。すぐ眠くなっちゃうんだ」
置き上がろうとする美津子を押し留めて、私はそのまま寝ているように言った。だるいなんて、もうそんなレベルの状態じゃない事は私にも判っていた。
何を話せば良いのか。その段になってもまだ考えあぐねていた。
学校の事を話そうか。雅幸先生との事でも話そうか。
けど、どんな話をしても厭味になるような気がして、喋る事ができなかった。
「準ちゃんの手、あったかいねえ」
握り合ったままの手を美津子がぎゅっと握り返した。
「美津子の手が冷たいんだよ。……早く良くなってよね。そしたらまたあの公園に行こう。今度こそ一緒に滑ろう」
美津子は嬉しそうに頷いた。
それから美津子の話を聞いた。入院してから本を何冊読んだとか、院長先生の話とか、この病院は全然流行ってなさそうだ、とか。そんな他愛の無い話をずっと聞いていた。
私からはほとんど話をしなかった。
面会時間が終わって病室を出るまで、ずっと美津子の手を握っていた。
真っ暗になった道路をとぼとぼと歩く。
ぼやけた街灯だけが歩道を照らし、時折行き交う車すら現実感を失っていた。春先を迎えようとする外気は夜だというのに温くて気持ち悪かった。
美津子を励ます為に見舞いに行ったのに、何も言えなかった。
唯一言えたあの言葉は出任せだ。嘘を言ったつもりはないが、限りなく嘘に近かった。今の状態では治る見込みは無いのだから。
美津子は話している間、嬉しそうだった。あの笑顔は本当だろうか。嘘だろうか。
先生は「自分で考えろ」と言っていたが、考えても、考えても、答えは出なかった。