嘘(4)
次の日、美津子は学校を休んだ。
そりゃあ病院に担ぎ込まれたんだ、当たり前だろう。
雅幸先生は「大丈夫だ」と言った。けれど、二日経っても、三日経っても、美津子は学校にはやって来なかった。
「長期入院になるそうだ。……恐らく、早くても学校に来るのは春休み明けになるだろうな」
それを聞いて、私は金槌で殴られたようなショックを受けた。
「美津子はどうなるんですか?」
私が余程心配そうな顔をしていたんだろう。雅幸先生は私の両肩に手を置いて、言い聞かせるように言った。
「入院するって事は治すって事だろ? って事は、生きる見込みがあるって事だ。病院も私の知り合いがやってるトコだから安心しな」
安心させるつもりだったのだろうが、その言葉は私には逆効果だった。
「生きる見込みがあるって? それじゃ死んじゃう可能性もあるって事ですか」
違う、と言って欲しかった。そんな馬鹿な事あるわけない、って言って欲しかった。けど、先生は否定の言葉を口にしなかった。
白衣の胸ポケットから取り出したフレームレスの薄い眼鏡を無意味にかけると、窓の外を眺めながら言った。
「私には、判らない。私は医者じゃないからな。……美津子が昔から病気なのは知ってるだろう? 簡単に言うと、美津子は血を作る骨髄っていうトコが病気で、ちゃんとした血を作れないんだ。だから、血が栄養や酸素──空気だな──を運べなくて貧血になる」
その話は前にも美津子から聞いていたから、大体解っていた。
「この病気はちょっと難しい病気でな。長い間治療が必要だったり、手術が必要だったりするんだ。入院するのはそのせいさ」
雅幸先生が病院の住所を教えてくれたので、私は放課後になるとそのまま病院に向かった。
私は、雅幸先生が嘘をついている事に気付いていた。
病院の場所も知っているし、「知り合いがやっている病院」だと言っていた。なら、そこの先生に詳しい病状や、どんな病気なのか詳しい話を聞く事が出来た筈だ。そして、それをしないような先生でない事も私は知っていた。
大人が平気で嘘をつく生き物だという事は知っていたが、雅幸先生がそうだなんて知らなかった。
私は、ただそれだけで大好きな先生を軽蔑した。
美津子が入院しているという病院は想像していたものと違って、小ぢんまりとした個人経営の病院だった。
街中の病院にしては雰囲気も良い。檜葉垣に囲まれた敷地に東向きの狭い診療所と三階建ての入院病棟が納まっていて、それらの前には芝生で覆われた庭があった。殺風景な庭には南側の隅、入院病棟の前に一本の大きなトネリコの木が立って、冬だというのにまだ繁々と青い葉を揺らしていた。西側の敷地の外に、三~四台ほどしか留れないだろう駐車場が大通りに面している。入り口もこちら側だ。
玄関を潜ってすぐの狭い待合室は閑散としていた。ベンチに白衣を着た女性が一人座っているだけで、受付にも誰も居なかった。
はじめはその白衣の女性が院長なのかと思ったが、ベンチの背もたれで踏ん反り返って、こちらに一瞥もしないところを見るとそうではないらしかった。よもや来院者に興味を持たない医者も居ないだろう。
それによく見ると、その女性はとても背が低く、見ようによっては中学生くらいにも見えた。それに、オールバックにして後ろでまとめたド紫色の頭髪が放つ異彩は、とても彼女を医者には見せなかった。今時、お年寄りでさえ、ここまでの髪をした人もそう居ない。
「あのぅ」
私が言うと、彼女は首だけで私を向いた。
「何かなお譲ちゃん」
自分も子供みたいなくせに、と思ったが、声から察するとそう若いわけでもないらしい。
「ああ、美津子ちゃんね。そこのドア入って左手の階段上って3階の手前の病室だよ。何なら案内しよっか」
彼女はわざわざベンチから立ち上がって、ジェスチャー付きで説明してくれた。
「いえ、大丈夫です。あなたが院長先生?」
物知り顔の彼女がやはり院長なのだろうか。
「いや、アタシはその知り合い。そして院長は今、外出中さ。私が留守番」
彼女は再びベンチに腰を下ろしたので、私は礼を言ってから病室へと向かった。
美津子の病室は三階。四つのベッドが並ぶ狭い病室に入院患者は彼女しか居なかった。けれど、美津子の母親が居た。
いずれ、美津子を無理に連れ回していた事を謝りに行かねばと思ってはいたが、まさかその前に会うなんて思いもしなかった。そりゃあ自分の娘が入院しているのだから、余裕があれば毎日だって来るだろう。
美津子は寝ていた。一緒に公園へ行ったあの日よりも、目に見えてやつれていた。顔色は元の白に戻っていたが、やはり常人の肌色ではない。患者衣の白い寝間着が、更に白肌を際立たせていた。
「お見舞いに来てくれたのね? ありがとう」
緩やかに暖房がかかった温かい病室で、私の掌は汗ばんでいた。怒られるのだろうと腹を括り、奥歯をぎちぎちと噛み締めてその時を待つ。
「ごめんなさいね。今、眠ったところなのよ。……準ちゃんよね? 美津子ったら、家ではいつもあなたの話ばかりするのよ。ほら、この子、病気で学校も休みがちだから。昔からお友達らしいお友達が居なくって──」
母親は嬉しそうな顔でそんな事を語り続けた。その口調に、怒りの色は一片の欠片すら無かった。
「怒らないんですか?」
母親の言葉を遮り私は恐る恐る言った。けれど、母親は不思議そうに目を丸くするばかりで、その顔は「何を?」とでも言いたげだ。
「私が美津子を連れ回したりしたから、無理させちゃったから、こんな……」
こんなになっちゃったんだ、と。最後までは溢れ出した涙と嗚咽のせいで言葉にならなかった。
寝ている美津子に気を使っての事だろう。母親は私を庭へ、トネリコの木の下へ連れ出した。
ぐすぐすと涙を滲ませながら立ち尽くす私の肩に両手を置き、私を覗き込むようにしゃがんだ。
「泣かなくていいのよ。美津子が倒れたのは準ちゃんのせいじゃないんだから」
こんな時の、子供というのは実に偏屈なものだ。特に私は常に大人を嘘吐きな生き物だと思い込んでいるヘソ曲がりな子供だったから尚更だろうか。私はその言葉を、私が傷つかないようにするための嘘だと思った。
「あの子が昔から病気で、学校を休みがちだったのは知ってるでしょ? その度にああやって倒れてたのよ。アレは今に始まった事じゃないの」
その言葉を聞いて、私はようやっと顔を上げた。それは母親の言葉を信じたからじゃない。話が大きくなり始めたのに気付いたからだ。
もしアレが頻繁にある事なのだとすると、それはただ事じゃない。あんなに苦しんで、あんなに弱ってたんだ。その言葉が本当だとするなら、美津子は、
「いつ死んでもおかしくないのよ、あの子は」
母親の顔は笑っていた。そう、見えた。
それが笑顔なんかじゃないのは眉が寄っているので解った。それは、自分を納得させるための笑顔だった。作り物の、嘘の笑顔だ。
あまりに大きすぎるショックというのは一瞬から全てを奪ってしまう。私は言葉も、驚く事も忘れてしまった。そして、泣いていた事も。
「『がん』って解るかな? 美津子の病気は白血病っていう、血の、血を作る骨髄っていうところのがんでね。治すのが難しいのよ」
その頃の私にとって、がんと言えば死に到る病の代名詞だった。
詳しい事は知らない。けれど、同じ「病気」というカテゴリでも風邪なんかとは格が違う。がんは死ぬ病気だ。私にとってのがんはそんな大雑把な括りだった。
「大きい病院のお医者様にね、五年くらいしか持たないだろうって言われてたのよ。だから、覚悟は出来てるの。そして今年の初めにその五年は過ぎてしまったの。……私はね、あの子がまだああやって比較的元気に生きているのは準ちゃんのお陰なんじゃないかなって、そう思っているのよ」
私は何と言えば良かったろう。何を言えば正解だったろう。
まだ十と生きていない、まだ生殖機能を有する苦しささえ知らない私には、我が子の死を傍観する事しか出来ない母親の気持ちなんて想像する事すら適わなかった。だから、その人にかけるべき言葉なんて今でも考えつかない。
「もう遅いから帰りなさい。……もし良かったら、また見舞いに来てあげてね。美津子、きっと喜ぶから」
立ち尽くしたままの私の肩をぽんぽんと二度叩いて、母親は入院病棟へと消えた。
コチ、コチ、コチ、
飾り気の無い壁掛け時計だけがその世界を律していた。診療所の待合室。一応開いてはいるが、客も受付も、誰も居ない。流行っていないのだろうか。そういえば、美津子の部屋にも彼女以外の患者は居なかった。
東の窓辺から、庭が照り返す弱弱しい夕陽が差し込んでいる。街中だというのに、その日は妙に静かだった。
「おや、お客さんかい?」
買い物袋を手に下げた白衣の女性が玄関から入って来た。
違います、と答えようとして顔を上げたが言葉は出てこなかった。
「どれどれ」
白衣の女性は空いた座席に袋を置いて近寄ると、片手で私の顎を持ち上げたり首を回したり、瞼を引っ張って眼球を覗き込んだりした。逆らう気力の無い私は彼女の成すが儘だ。
「まだ若いのにねぇ? ふむ、何処も悪いところはなさそうだけど。気分が悪いの?」
私は首を振った。「お見舞いに」と、それだけを言うのが精一杯だった。
「あぁ、美津子ちゃんの見舞いね」
私は頷いた。この人が院長だろうか。見たところ医者のようだし、個人経営だと言っていたからきっとそうだろう。しかし、客が居ないとはいえ開業時間に院長自ら買い物とはいい身分だ。
背が高く、ウェーブのかかったロングヘアを後ろで纏めている。大きい胸と括れた腰だけに注目するならモデルか何かに見えない事もない。口調は優しげだが、眠そうな三白眼は目付きを悪く見せていた。と、そこまで考えて、この女医が雅幸先生に似ている事に気付いた。雅幸先生はあの独特のヘアスタイルがそのまま第一印象だから、最初は気付かなかった。
「雅幸先生のお姉さん?」
呟くような声でやっと聞くと、女医はやれやれと言った顔をした。
「何だ、雅幸の知り合いかい。まぁね、そんなトコかな。それよりここ、そろそろ閉めるよ。美津子ちゃんの見舞いはもう終わったの?」
頷くと、女医は「そう」と言って背を向けると、診察室に向かおうとした。
「美津子は──」
またも呟くような声しか出なかったが、足を止めたところをみると女医にはちゃんと届いたようだ。
「美津子は知ってるんですか? 自分が長くないってこと」
短い沈黙。女医は背を向けたまま。陽はほとんど落ちている。女医の白衣が薄闇にぼうっと浮かんでいた。
「知っているよ。本人が希望したからね、ここへ来た一番最初……三年前から教えてある。そして、自分が今、相当ヤバい状態だって事も知っているよ」
「そんなに危ないんですか」
「かなり、ね。……美津子ちゃんが白血病だって事は知ってるみたいだね。難しい話をするけど、美津子ちゃんのは『慢性脊髄性白血病』と言ってね。患った途端に死ぬような事はないんだけど、段階を、時間を経て病状が重くなっていくんだよ。美津子ちゃんはずっと『移行期』っていう第二段階でね、強い薬──インターフェロンというんだけど──を使って、第三段階へ進むのを遅らせていたんだよ」
現在でこそ治療方法や薬が多様だが、当時の白血病はそういう方法が一般的だったらしい。
「けど、三日前に倒れて以来、病状が悪化してる。……いや、病状が悪化したから倒れたんだ。実を言うと、もう第三段階に入ってる。このまま進行が進むと……」
女医の話はほとんど解らなかったけど、かなり危険な状態だというのはとてもよく解った。
「治す方法はないんですか!」
今度は自分でも驚く程に大声だった。先刻の消沈ぶりが嘘のようだ。
「……無い事はない、けど。無理なのよ。骨髄移植って聞いたことあるでしょう? 造血幹細胞移植療法って言ってね、血を作る細胞を他の人から貰う方法よ。けど、これは誰のものでもいいっていうんじゃなくて、血の、白血球の形が同じ人のものでなければならないの。……美津子ちゃんに合う骨髄はまだ見つかってないのよ。それに、見つかったとしても完全に治る見込みは半々。多く見積もっても七割ってとこかしらね」
私は項垂れた。打つ手無しって事じゃないか。
「完全にもう駄目だというわけではないのよ。インターフェロン治療で持ち直す人も居るし。それに、できるだけの事はやるつもりよ」
けれどその言葉は、小学生の私にはあまりにも無力で、非力なものに聞えた。