嘘(1)
その日、何故私が、私だけが放課後まで教室に残っていたのかは覚えていない。大方、宿題でも忘れて居残りさせられていたんだろう。そんなところだけは、高校生になった今も、小学三年生だったその頃とちっとも変わらない。
一月、冬休みも開けたばかりでまだ雪がちらほらする寒い日だった。残っていたのが私だけだったせいか、教室に暖房は入っていなかったように思う。そこへ、後ろのドアを開けて美津子が入ってきた。
私の席は前から二列目の窓際。美津子の席は最後列の真ん中。机に向かっていた私が振り向くと、美津子と目が合った。美津子は気恥ずかしそうにはにかみながら自分の席に着くと、さっさと帰り支度を始めた。
美津子の事はその前の年、三年になったばかりのクラス換えで初めて知った。
病弱で、よく学校を休む。学校へ来ても体育や運動には参加しないし、昼休み時間もずっと図書室で小難しそうな──と、いっても小学三年生の目から見て、といった程度なのだが──本を読んで過ごすような女の子だった。
逆に、その頃の私といえば元気で仕方ないといった風で、休み時間や昼休み、放課後を遊びまわってなおエネルギーを持て余すような餓鬼だった。だから、同じクラスとはいえ美津子とはほとんど面識が無かったし、まともに喋ったのもその時が初めてだったような気がする。
「具合、どう?」
二人きり、話もしないのは不自然だと思ったのだろうか。否、その頃は私も屈託の無い子供だったから、喋りかけた事に何か特別な考えなんて無かったんだろう。
よもや話しかけられるとは思っていなかったのだろう美津子は、少し驚いたような顔で私を向いた。
その日、美津子は二時間目が始まる前に登校して来て、給食の前に貧血を起こして保健室に行ったっきりだった。恐らく校舎裏の通用門には親が自家用車で迎えに来ているに違いない。これまでにも同じような事は多々あった。
「う、うん。なんとかね」
どもり気味に答えて、美津子は返り支度を続けた。
「馬場さん、何の病気なの?」
椅子の背もたれを跨いで美津子を向くと、私は無神経にもそんな事を聞いた。無論、そんな当時の私に無神経だとか失礼だとか、そんな概念は露ほどにも無い。
「私もよくわかんないんだけど、なんか血の病気なんだって。血が悪いから貧血起こすんだってお母さんが言ってた」
自分で聞いておきながら、私は「ふうん」と興味無さげに返事をした。どうせ詳しい病名なぞ、聞いても解らなかっただろう。
「あ、みんなには言わないでね。……恥ずかしいから」
蚊の鳴くような声で言う美津子の声は本当に恥ずかしそうだった。顔色の悪い顔が、頬の部分だけ赤く染まった。
「うん、わかった」
礼も配慮も知らない私だったが、その返事は本当だった。
それまでの私は嘘をついた事がないというのが自慢の、実直で馬鹿正直な子供だったからだ。どんな小さな約束でも、約束は絶対だった。
「ありがとう。じゃあ、さようなら」
返り支度を終えた美津子が教室から出ていこうとするのを、私は引き止めた。
「あ、待って待って。送ってくよ。どうせ迎えが来てるんでしょ? そこまで送るよ」
多分、私は居残りに飽きてウズウズしていたんだろう。美津子はそれで困った顔をしたが、そこは配慮の無い子供の事だ。私は強引に美津子の手を引いて教室を後にした。私は例え押し売りでも親切は親切なのだと信じていた。
その時初めて握った美津子の白い手の異様なまでに冷たい感触は、八年を過ぎた今もまざまざと思い出す事ができる。午後四時を過ぎていたろうか、辺りは仄暗かったが、美津子の肌の白さは際立っていた。元々色白だったのだろうが、彼女が内包する病を体現するかのように、それは悪いモノが憑いていると傍目で解る白さだった。
美津子は図書室に本を返しに行くというので、私達は遠回りに下足棟を目指す事になった。
歩いている間、私は話題を絶やさないようにと、必死にどうでもいい事を喋った。そうしないと美津子は自分から喋るような子ではなかったし、騒がしくしていないと、その悪いモノの侵食が音を立てて早まっていくような気がしてならなかったのだ。
そうだ、私は怖かった。初めて病人と接したせいだろうか。
今にして思うと、美津子の覇気の無さは死をそのままに予感させるものがあった。子供ながらに、その得体の知れない雰囲気を感じ取っていたのだろう。
少しでも笑わせないと。だから、喋りを絶やさなかった。少しでも温めないと。だから、その手を強く握り締めた。そうする事で、美津子からその悪いモノを遠ざける事ができるような気がした。
美津子は図書室で「竹取物語」を返して、別の本を借りた。
私が「竹なんか取って何するの? どんな話?」と聞いたら、美津子は「かぐや姫のことだよ」と笑った。
ようやっと笑った美津子の顔はとても可愛かった。いつも白い顔で辛気臭い表情をしているからそれまで判らなかったが、美津子の本当は薄布で包まれた真珠のようにたおやかだった。
私は普段本なんか読まないくせに、美津子が返した「竹取物語」をそのまま借りる事にした。パラパラと一通りめくると、それは小学生でも読めるように易しく書かれたもので、難しそうな字にはちゃんと読み仮名が振ってあった。けど、眉間に作った僅かな皺を美津子が覗き込んできたので、
「まぁこの程度の本、漢字テスト満点の私にはどうって事ないけどね」
なんて強がったら、「漢字テストが満点の人は居残りなんかしないよ」と、美津子は笑った。あまりに楽しそうなので、釣られて私も笑った。
そうだ、思い出した。私はその日、漢字のミニテストが赤点で居残りをさせられていたのだった。
下足棟には美津子の母親が待っていた。脚の長い、美津子によく似て端正な顔立ちの綺麗な人で、私はこの人を見る度に、美津子が大人になったらこういう風になるんだろうと思ったものだ。
「あら、お友達?」
美津子の母親は私を見て「珍しい」という風に言った。休みがちで運動もできない美津子には友達が少なかった。だから、母親のそれは悪いで言ったのではなかったろうし、私にだってそれは解った。
「不動準です」
私は相変らず美津子の手を握ったままお辞儀をした。
「母の奈津子です。よろしくね、準ちゃん」
言って微笑む奈津子さんの笑顔は、やっぱり美津子と同じように素敵だった。
去り際、奈津子さんは「美津子と仲良くしてあげてね」と言って微笑んだ。私は「はい」と答えたし、心の中で無論だと思った。
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