プロローグ
私はそこでペンを置くと、便箋を丁寧に折り畳んでレター用の飾り気無い白封筒に入れ、封をした。
んっ、と声を上げて腰を伸ばすと、座っている勉強机の安椅子がぎしっと鳴った。それから椅子の反動のままに弾かれて机に突っ伏す。机の上には封筒とワインレッドの折り畳み携帯電話。
その携帯電話はもう何年も電話として使ってない。机に頬をべったりつけたまま、私はその携帯を何とはなしにぼんやりと見つめていた。それから手に取る。
二つに畳まれたそれを開くと、待受け画面には一人の幼い女の子。薄くはにかんだその顔を眺めていると、さっき乾いた筈の涙が再びじんわり滲んできた。バックライトが消える。
携帯の向こう、窓の外にはレースのカーテンを透かす春先の青い空。花見にでも出かけたらさぞ気持ちの良い事だろう。けれど、私にとっての春はそんな心地の良い季節ではない。
どうして人間というのはこうも非合理的にできているんだろう。何故、こんな思い出すだけで涙が出てくるような記憶をいつまでも消せないのだろう。そして何故、私はそんな記憶を消したくないと願ってしまうのだろう。
私は思いきって椅子から立ち上がって涙を指で拭うと、携帯電話を閉じて、それを封筒と一緒に机の引き出しにそっと仕舞った。指先に着いた涙が封筒を濡らしたが、気付かないふりをした。
机の中には同じように封をしたままの封筒が八枚。そしてこれが九枚目だ。引き出しを閉めて、私は部屋を出た。行き先は無論、花見などではない。
あの時の私は父が居なくても、母親さえ居れば寂しくなかった。
彼女と居る時が本当に楽しかった。
あの時の私は嘘を知らなかった。嘘をつく事を知らなかった。嘘つく事は悪い事で、嘘をつかない事が正しい事なのだと思っていた。
純真無垢で、元気で、地球は自分の為に回っていると思っていた。この世は光に満ち、楽しい所なのだと信じていた。
虚構にしか嘘はなく、真実はただそれのみから成るものだと思っていた。
それが。小学三年生、九歳になったばかりの少女の目に映っていた「世界」の全てであり、その姿だった。
昔書いた話が出てきたので上げてみます。
この小説に登場する携帯電話は全て所謂ガラケーであり、そんな時代のお話です。