③
誓いを立てた後、王城で交流の場は設けられた。
リロウを招いて迎える時には僕の中に何かの悟りのようなものが生まれそうになっていたのは、婚約者選定の際に王城で会っていた時とは違い、もうどんな誤解も生まれようがないと諦めがついていたからだろう。
あの時は誤解が重なって婚約者に選ばれてしまったが、すでに選ばれた後である今は、どんな誤解も生まれようがない・・・、というか全てが手遅れなのだから、何も恐ることはないのだ、というのがその諦めの正体だった。
しかし当然、王城の侍女達の身は僕が全力で守らなくてはいけないので、お茶の席では人払いして、お茶も最初の一杯以外は僕が淹れることにした。侍女達の手を借りることによって彼女達の安全が脅かされないように、ちゃんとお茶の淹れ方もマスターしてきていたので、二人っきりでも問題はない。
・・・ただ、僕が自分でお茶を淹れたいと願い、淹れ方を習い始めると、周りが本当に微笑ましいものを見るような目を向けてくる点が居た堪れなかったし、ともすれば「違うんだ!」と叫びそうにもなったが、まさか婚約者が侍女達に厭らしい目を向けるので、なんて説明はできないのでその叫びは必死に飲み込むしかなかった。
そう、どんな誤解を受けようと、今更なんだと自分で自分を言い聞かせて。
喉に詰まりそうなものを飲み込みながらも習得した技術のおかげで心置きなく侍女を下げて二人っきりになると、当然のようにリロウは少々恨めしげな目を僕に向けてくる。そして何やら言いたげにはしてくるのだが・・・、そこから続く言葉を聞きたくなくて、僕は遮るように提案をしたのだ。
「良い季節だから、少し庭園を見て回らない?」と。
着いたばかりのテーブルから離れるのもどうかと思ったが、花を見て気分を変えながら話をしよう、と思って誘ったそれに、おそらく侍女がいないならどこに行っても同じだとでも思っているのだろうリロウはあっさりと了承した。
もしかすると庭園内を歩き回ればどこかで侍女を発見できる可能性があるのでは、と思っての了承だったのかもしれないが、その可能性はない。実は庭園内もあらかじめ人払いしているので、だいぶ離れた、こちらの会話が聞き取れない距離でついてくる護衛達以外、この辺りには誰もいないのだ。
だから安心してリロウを連れて歩きながら庭園内の、迷路のように美しい花の垣根が張り巡らせている場所へ向い、その中を案内していくと、周りの花々へ視線を向けているリロウからぼそりと、哀愁のようなものが滲んだ声が聞こえてきた。
「・・・私の花がどこにも見当たりませんわ」というそれが。
一瞬、好きな花がないのかな、と思ったが、溜息を吐きながら小さく首を左右に振る様に、そういう意味ではないとすぐさま察してしまったのは、悲しいかな、リロウに慣れ始めてしまっているからかもしれない。
婚約者に対して理解が深まることは本来喜ばしいことだし、その為の交流なのだとも分かっているのだが、しかし自分だって一人の人間として、分からなくてはいけなくても分かりたくないことだってあるのだ。
たとえば、婚約者であるリロウが口にする『私の花』というそれが、美しい侍女達のことなのだ、という事実とか。
見て見ぬふりをしたい発言、それこそ全力で気づいていないふりをしたくて仕方がなかったが、この交流会の目的を思えばそういうわけにもいかない。勿論、目的とはいっても表向きのそれではない。僕個人が立てている目標、リロウをどうにかする、という目的の為だ。
彼女の言動をどうにか正す為にも、ちょうど出た問題発言について、物申さなければならないだろう。
「・・・あのね、改めて言うんだけど・・・、そういう発言は控えるべきだと思うんだよね」
「そういう発言?」
「さっきの『私の花』って、女性のことでしょ?」
「えぇ、美しき豊穣の膨らみのことですわ」
「・・・えっと、うん、だからね、そういう、女性の一部分を強調するような発言と、それに近い発言を控えるべきって話なんだけど・・・、というか、そもそもなんでキミはそういうことにやたらと関心を持つようになったの? 女の子なのに女性の体に興味を覚えるのって、ちょっと変だと思うんだけど」
「まぁっ、殿下! 女性が同じ女性のことを気にするのは当然のことでしょう?」
「いや、同性として気になるっていうのは分かるんだけど、キミの場合、なんか方向性が違うというか・・・、少なくとも、その、えっと・・・、つまりね、同性をちょっと厭らしい目で見るのって普通は有り得ないんだけど、どうしてそんな目を向けるようになってしまったのかなっていうのが疑問で・・・」
「それは男女差別ですわ! 何故、女は欲望に正直になってはいけないのです?!」
「は? いやっ、男ならいいってわけじゃないんだけど・・・、というか、その、なんていうか、僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて・・・」
花に囲まれたその場所で立ち止まり、切り出したそれに対して返ってきたリロウの発言は、だいぶ何かがズレていた。
まずはリロウの発言を注意して、その上で根本的な疑問、何故、リロウの言動が異常な方向へ突き進んでしまったのかを問い質したかったのだが、こちらの問いを意図した通りに理解してくれないリロウは、頬を怒りで染め、少々興奮気味に抗議してくる。
まるで正義を貫かんとする口調でされる抗議に、当然、僕は反論をしようとしたのだが、しかし具体的な表現は気恥ずかしいので言葉を選んでいると曖昧な言葉になってしまうし、全てを言い切るまで時間もかかってしまうわけで・・・、どれだけ具体的な表現を入れても全く恥ずかしさを感じないらしいリロウの勢いがそんな僕の曖昧で遅い発言で抑え込めるわけもなく。
リロウの発言は、僕の問いを大きく逸脱したまま、僕の理解が全く追いつけない方向へ全力で旅立って行ってしまう。
「殿下っ、そもそも神が人間に与えたもうた至宝を褒め称え、欲望を爆発させるのは神に対する人間の責務ですわっ!」
「違うと思うけどっ?!」
「あの至宝の膨らみを褒め称えなくて、なんとするのです?!」
「なんとするって言われても・・・、というか、一応聞くけど、いつからなの?」
「何がです?」
「そういうの、いつから好きになっちゃったの?」
「・・・? 私の一番古い記憶は、今は亡きお母様の美しき爆乳ですわ」
「・・・」
「殿下は王妃様の美しき爆乳ですわよね?」
「いやっ、違うけど?!」
「まぁっ、他の爆乳が最初の記憶ですの?! 殿下の浮気者っ!」
「勝手に物凄い誤解と非難をするのを止めてくれる?! 僕の最初の記憶はそういうふしだらものじゃないって言っているだけだから!」
「ふしだらでも神の至宝ですわ!」
「ふしだらなら至宝でも何でもないんだけど・・・、というか、今は亡きお母上って・・・」
「今のお母様は後妻ですのよ」
「それは知っているけど・・・、確か、生母にあたるお母上は・・・、事故、だったよね?」
「えぇ、私が四歳の時ですわ。それでその少し後、今のお母様とお父様がご結婚されて、弟が生まれましたの」
会話が僕にとって物凄く不名誉な方向へ旅立ち、あまりに不名誉すぎて流石に声を荒げて必死でその不名誉を否定してたところ、話は思ってもみない方向へまた向かってしまう。
婚約者なのだから当然、その家庭事情は知っているが、それでもこうして本人の口から聞くとそれが何の含みもない、ただ事実を事実として語っているだけの口調であっても、聞いている方としては気を遣ってしまう。どれほどあっさりした口調であっても、生母が亡くなった話なのだから。
しかし本来なら気を遣って触れないようにしてあげるべきなのかもしれないが、リロウが『こう』なってしまった原因を突き止める必要性があると思っているこちらとしては、人があるべき方向から大きく逸れてしまう原因になりうるだろう話題が出れば、追求しないわけにもいかない。
そう思ったからこそ、これは将来的にリロウ自身の為にもなるのだと自分で自分を言い聞かせながら躊躇する自分を叱咤して口を開いた。
「その・・・、亡くなった、お母様は・・・、どんな・・・、えっと・・・」
「お母様ですか? それはそれは素晴らしい方でしたわ」
「そう・・・」
「まだ私は四歳と幼かったですし、一緒にいられた時間も短くて、思い出も沢山あるわけではないですけれど、それでもその短い期間の間に、娘である私に沢山のモノを授けてくださったのです」
「・・・」
「本当に、素晴らしい方・・・、素晴らしい肉体美をお持ちでしたのよ・・・」
「・・・ちょっと待って! 素晴らしいってそういう意味なの?!」
「・・・? どうかなさったのですの?」
「いやっ、その、素晴らしいって、内面的なことなんじゃ・・・」
「勿論、内面も素晴らしかったですわ! 私に、世界の真理を教えてくださったのです」
「世界の真理?」
「女はボディーよ、という至言を口癖になさっていましたわ」
「・・・なるほど、遺伝だったんだね」
躊躇しながらも叱咤して口にした自分の言葉を、僕は真剣に悔いながらも、同時に深い諦めを纏った納得を覚えていた。
聞きたくなかった情報を得てしまい、悔いる気持ちはあるが、それでもどうしてリロウが少女でありながら女性の体に興味津々なのか、趣味嗜好がとんでもない方向へ突き進んでしまったのかという謎は生母の発言から遺伝的な問題だったのだとその原因がようやく判明したわけで・・・、その判明してしまった原因に、諦めのようなものが纏わりついてしまうのだ。
それはその原因に抱いてしまう、確信にも似たそれが原因だった。
生まれながらの趣味嗜好ならば、誰がどう努力したとしても直るものではないのではないのか、というそれ。
直らないのなら、せめて人前での発言だけでも取り繕えるようにさせなくてはいけないのだろうかとか、諦めるのはまだ早い、この年齢からならたとえ生まれつきの趣味嗜好でも多少は改善の余地があるのではないのかとか、胸中に相反するそれが浮かんでは鬩ぎ合う。その為、自然と僕の口は閉じ、視線は辺りを彷徨い始めていた。
そんな僕を見ても、リロウが僕の心境を察することはなく・・・、ただ、再び発生した勘違いは、思ってもみなかったリロウの発言を引き出してくる。
「殿下、勘違いしないでくださいませ」
「・・・勘違い? うん、勘違いなら本当にいいんだけど・・・」
「勿論、勘違いですわ! 私、今のお母様も大好きですのよ」
「・・・ん?」
「私を生んでくださった素晴らしきお母様を私が今も慕っているのは事実ですけれど、だからといって今のお母様を母として認めていないとか、生んでくださったお母様と比べて劣っていると思っているわけではありませんの。今のお母様はお母様で素晴らしいですし、私、大好きですのよ。ちゃんと、私のお母様ですわ」
「そ、う・・・」
生みの母を絶賛してしまった所為で、僕がリロウが今の母をあまり慕っていないのではないかと思い込んでいる、そう勘違いしたらしいリロウは、そんな勘違いは許さないと言わんばかりに力強く今の母を慕う気持ちを強調する。
全くそんな勘違いはしていない、というかそんな勘違いまで辿り着けない場所で立ち往生をしていたのだが、それでも生みの母も今の母も同じように慕っているのだ、好きなのだと胸を張って主張する姿は先程まで強い混乱に陥っていたこともあり、胸が温まるようだった。・・・ただ、その温まる胸の傍で、もしやこれから、あの今の母であるエンバー夫人のボディ賛美が繰り広げられるのではないかという予測が力強く立ち上がっており、それがまた、僕を真剣に震わせずにはいられなくて。
しかしそうして震えている僕を余所に、リロウの口は止まらない。止まらないで、意外な方向へ話を進めていくのだ。
「お母様は・・・、えぇ、今のお母様ですけれど、お父様と結婚されて公爵家へ来た際は、似合わない格好や振る舞いばかりする方でしたの」
「似合わない・・・? 彼女、確か侯爵家の出身だよね? そんなに不似合いな格好や振る舞いをするような教育を受けているとは思えないけど・・・」
「えぇ、そうなのです! それなのにあまり似合わないドレスやメイク、髪型などして、装飾品も合っていなくて・・・、しかもお話の仕方やその内容や振る舞いも、ちょっと合わないというか、無理に演技をしているような、そんな不自然さばかりがあったのですわ。それはもう、幼い私ですら変に思うほどでしたの」
「それは、どうして・・・?」
「お母様ですわ」
「・・・?」
「先妻である、私の生みのお母様を真似ていたのです」
「真似る?」
「えぇ、母を亡くした私が寂しくないように、少しでも私と親しくなれるようにと格好もお化粧も亡きお母様に似せて、どういう振る舞いをしていたのかも使用人やお父様に聞いて、それを真似ていたのですわ。でも、お二人は容姿も性格もかなり違うタイプでしたので、お母様が亡きお母様を真似ると、それはもう、不自然にしか見えないのですわ」
「そんなにかい?」
「だって、私の生みのお母様は華やかな赤が似合う方でしたのよ。私と同じ、赤い髪に赤い目ですもの。それに振る舞いも大輪のバラのようでしたわ。勿論、えぇ、ボディも!」
「・・・」
「でも、今のお母様は・・・、殿下もご覧になったでしょう? どちらかといえば控えめで、楚々とした方ですの。似合う色も青や緑で、大振りの装飾品は似合いませんわ。振る舞いだってその雰囲気と同じ、楚々としたそれがお母様には自然な振る舞いですのに、無理に華やかな人間を装った言動を繰り返すのですもの、それはもう、不自然でしょう?」
「そうだね・・・、エンバー夫人には、あまりそういう派手な振る舞いは似合わないだろうね」
「そうなんですの。お母様もご自分で分かっていらっしゃったでしょうに、それでも幼かった私の為に、亡くなったお母様の変わりをなさろうとしていたのですわ」
「そう、なんだ・・・」
「えぇ、だから私、申し上げたのです。『せっかくお母様が二人になると思って喜んでいましたのに、このままでは二人のお母様が同じお母様になって、私のお母様が一人になってしまいますわ。楽しみにしていた新しいお母様を、私から取り上げないでくださいませ』と」
「リロウ・・・」
「そうしたら、ようやくお母様、ご自分に似合う装いをしてくださるようになったのです。無理なことをなさなくなって、自然な笑顔を浮かべてくださって・・・、私、初めてお母様が自然な笑顔を浮かべてくださった時のこと、決して忘れませんわ」
その時のエンバー夫人の笑顔を思い出したのか、リロウもまた、とても嬉しげな笑みを浮かべて宙へ視線を投げかけていた。幸せそうな笑みには本人が語るように、後妻という立場のエンバー夫人を慕う気持ちだけが溢れており、生母と比べる気持ちは微塵も浮かんでいない。
貴族、しかも高位貴族ならば妻が亡くなれば後妻を貰うのが普通で、それも亡くなって比較的すぐに貰うことなる。それは結婚が政治的な駆け引きにも使われるし、貴族同士の繋がりとしても使うので、どれだけ亡くなった妻を愛していようとも仕方がないことではあった。
ただ、その仕方なさを納得できるのは大人だけで、いくら貴族といえと、子供は自分の母親が亡くなった後、すぐに新しい母がくれば多少なりとも胸を痛めるし、すぐには馴染んだりしないだろう。
それなのにリロウは純粋に新しい母の存在を喜んで・・・、勿論、エンバー夫人がリロウの母になろうと努力するような人だから慕われたというのもあるのだろうが、新たに結ばれた親子の絆に、胸が熱くなる思いだった。
素晴らしい、感動的な話を聞いたことによって、目頭も自然と熱くなり、潤み始めてしまう。勿論、人前で王族が泣くなんて有り得ないことなので、必死で堪えていたのだが・・・、しかし次の瞬間には、堪えていた涙は簡単に引っ込んでしまった。それも、永遠に近いレベルで。
「でも、お母様が似合うドレスを選ばれるようになったのは喜ばしいのですけれど、あの至高の膨らみ全体を覆う物ばかり選ばれるのはどうかと思っておりますの」
・・・一瞬、殺意に近いモノが自分の中に浮かんだ気がするのだが、たぶん、気のせいとかではなかったと思う。完全に手が出そうになっていたので、それこそ王族としての自覚と教育がなければ、どんな理由があっても許されない事態を招いていた可能性が高い。
しかしそうなっても致し方ないほど、リロウの発言はアレだった。せっかく感動していたのに、せっかくリロウの人格的な部分で良い面を見つけたと思ったのに、それらを台無しにする発言だ。ついでに言えば、あと少しで僕の人生を台無しにしかねない発言でもある。
それなのに、リロウは僕が必死に僕を押さえ込んでいる間にも、その押さえ込んでいるモノが暴れそうになる発言を続けてしまって・・・。
「確かに、お母様は楚々とした美しさをお持ちですわ。勿論、ドレスも装飾品も、そういった雰囲気に合わせた物が宜しいとは思いますの。でも、そうかといってあの膨らみを全て覆ってしまうのは、せっかく祝福を与えたもうた神に対する冒涜に近いものがあるかと思うのです。ですから私、常々お母様に申し上げておりますのよ。膨らみは出しましょう、と。丸ごと出しましょう、と」
「丸ごと出したらとんでもないことになるだろう!」
「えぇ、あの膨らみはとんでもないレベルですわ!」
「違うっ! そういう意味じゃない!」
「まぁっ、殿下は私のお母様に何かご不満があって?」
「ご不満があるのはキミの母上に対してではなくて、今のキミの問題発言に対してだよ!」
「殿下、何を仰っておられるのです? 私、これでも公爵家の令嬢ですわよ。問題発言なんて人生で一度もしたことありませんわっ!」
「どちらかというと問題発言しかしていない人生なんだって自覚してくれないかな?!」
・・・たぶん、騒ぎすぎたのだと思う。少なくとも、あとで冷静になって状況を振り返ってみれば、そう評価できた。そうして騒ぎすぎたが故に、事態は悪化してしまったのだ、と。
僕が問題にしている点がリロウには全く伝わらず、おかしな解釈をして際どい主張をヒートアップしていくリロウの声は少女らしく甲高く響くし、一方の僕の声もリロウに意図が伝わらないもどかしさからどんどん大きくなっていっていた。
そんな僕らを、護衛達はおそらく婚約者同士ちょっとお喋りの声が大きくなっているだけだと解釈していたのだろうが、しかし何も知らずに結構な声で騒いでいる人間が近くにいれば何をしているのかと気になるのが人情というもので、その人情を発揮してほしくなかった人物が偶々近くに来ていたのだ。
一人ではなく、侍女も共にいて、彼女は声の主が婚約者同士で、今、交流中と知っていたので止めようとしたようだが、刺激された好奇心は納まらなかったようで・・・、侍女を振り払って近づいて来る小さな影は、無邪気な声を僕に向けて発してきた。
「兄さまぁ・・・」
少しだけ舌ったらずな声が聞こえてきた瞬間、誇張でもなんでもなく、全身の血が下がった。普段ならそれは愛しい声で、聞こえてくれば笑顔を向けて両手を伸ばし、柔らかなその髪や頬を撫で回している。・・・が、今はそういう状況ではなくて。
振り返った先にいたのは、大きな目を見開き、嬉しげな笑みを浮かべている僕のまだ幼い弟、カイがいた。一つ年下のカイは、肩までのストレートの金髪を風に遊ばれながら、薄い緑色の瞳を真っ直ぐに僕と・・・、リロウに、向けている。
拙い、と思った。絶望的なまでに、拙い、と思った。
この無垢な瞳にリロウを晒すことは勿論、無垢な子供にリロウの欲まみれの発言を聞かせるわけにはいかない! と。
気がつけば、抑える間もなく声は迸っていた。
迸った声があまりに強く、きついそれだったので、発した僕自身が一体誰の声なのだろうと一瞬、分からなくなるようなそれが。
「カイ! こっちに来るな!」
・・・一瞬、辺りが静寂に満たされて、僕が内心、そのきつい声が誰のものなのかと首を傾げている間に、カイの瞳に傷ついた色がはっきり浮かんでしまい。
侍女が慌ててカイの手を握り、「ライナス殿下は婚約者様とお二人でお話し中ですから」と言い訳のように説明しながら僕達に頭を下げ、俯くカイを連れて足早にそこを去って行く。
僕はその様を、ただ呆然と眺めていて・・・。
「殿下、いきなり大声で怒鳴るのはどうかと思いますわ。カイ殿下はただライナス殿下がいらっしゃったから、兄を慕う気持ちで声をかけてきただけではありませんの」
「・・・」
「もう、カイ殿下の悲しげな目をご覧になりまして? 真っ白な柔らかい頬も赤くなってらして・・・、まるで美少女の泣き顔のようで、ムラムラしましたけど」
「キミがそういう発言を繰り返すから、思わず怒鳴ったんだよっ!」
僕の所為じゃない! と思わずまた自制を忘れて叫んでしまったが、リロウが僕の叫びを理解することはなく、弟と仲違いしてしまった哀れな兄を見る目で『全て分かっている』と言いたげな表情をして何度も無言で頷くだけだった。
何一つ、分かっていないのに、その態度だけだと本当に全てを理解しているように見えるのだから、物凄い勢いで釈然としなかったのだが。
ただ、何一つ分かってくれないのはリロウだけではなく・・・、その日、リロウが帰った後にお会いしたお母様には「婚約者と仲が良いのはよいことだけれど、今からそんなに独り占めしたがっては駄目よ? もっと広い心でいないと」等と、物凄い含み笑いで言われてしまったし、城の他の者達にも、『全く、仕方がないなぁ』みたいな目を向けられる羽目になる。
そして僕が助けたはずの弟は、当然のように自分があの時窮地に陥りかけていたことなんて知る由もなく、僕を見かけると怒ったような顔で逃げて行く日々が数日は続くことになった。
・・・もう誤解なんて生まれようもないと思っていたのに、実はそうでもなかったらしい。