③
──どうしてこうなってしまったのだろう?
そんな疑問だけがその時、僕の脳内を占めていた。明らかにそれはただ単なる現実逃避で、そんな逃避に何の意味もないことは分かっていたし、無益なことをしていて許される立場でもないと身に染みて知っている。だから今まで、そんな愚かな行為をしたことがなかったのだが・・・、今だけはそれをせずにはいられない、そういう心境だった。
目の前には真っ白なテーブルと、その上に綺麗にセットされたお茶と小さな色とりどりのお菓子。辺りは庭師が丹精込めた春を彩る花々や生命力溢れる緑が彩り、空はそんな鮮やかさを祝福するように晴れ渡って気持ちの良い日差しを注いでいる。
そんな場所に、テーブルを挟んで僕と向かい合う、リロウ・エンバー。物凄く離れた位置には、僕の護衛と侍女達が数人。つまり、リロウと二人っきりの空間がここにはあって・・・、声も聞こえない位置にいる護衛や侍女達からは物凄く微笑ましいものでも見るかのような眼差しが注がれているのを感じる。
本当に、どうしてこうなった? としか思えない空間で、僕はまだ現実と向かい合う覚悟が持てず、全力の逃避活動に勤しんでいた。
あの悪夢のお茶会の後、僕の婚約者候補は数名に絞られたらしい。
僕と接している際の様子を見て、その相性がどうかとか、王妃である母上が話しかけた際の受け答えがどうだったか、あとは僕や母上が見ていない時の振る舞いがどうだったか等も傍で給仕をしていた者達から報告をさせていたようで、それらを総合して、数人に絞り込んだようだった。
一人に絞り込むのではなく、数人に絞ったのは、これからもう少しその資質を見たい、僕とちゃんと支え合っていけるのかを確認したい、という意図なのは明白で、だからべつに候補がまだ数人いる、一人に絞られていないことを不満に思ったりはしていなかったのだが・・・、問題は、その候補の中にリロウ・エンバーがいることで。
勿論、最初から最有力候補だったのだから、いて当然だった。・・・が、全力で遠慮したかったので、候補者達との交流はどうだったのかとお茶会の時の感触を聞かれた際、遠回しではあるがリロウとは少し合いそうにない、と伝えていたのだ。
しかしその僕の意見は全力で無視された。そう、無視されたのだ。婚約する当事者なのに、まるっとスルーされてしまった。その理由を知っているので、スルーした者達を恨む気はないのだが、代わりにその理由となっている人を恨みたい気持ちは多少ある。
リロウが数人に絞られた婚約者候補に入っていたのは、母上の強い推薦があったからだった。
その推薦を聞いた際、先に僕の意向を聞いていた者は、一応の反論を試みてくれたらしいのだが、「それはその年頃の男の子特有の照れ隠しよ。あの子、お茶会の間中、誰と話していても彼女を気にしていたのよ。気に入っていたのは一目瞭然よ」と断言したそうだ。
・・・いや、照れてないし、隠してない。よく見てくれれば気に入っていないことは一目瞭然のはずなのだが、美しく聡明と名高い我が母上は、何故か息子の婚約者選びの才能だけはないらしく、余計な口出しと不要な断言をしてしまい、息子を窮地に追い込んだのだった。
結果、今のこの状況を招いてしまったわけで。・・・まぁ、この状況になった原因は、母上だけではないのだけれど。
数人に絞られた候補者とは、これから僕との相性を見る為に、数回に渡ってそれぞれ僕と二人っきりでお茶会などの交流をすることになっていた。
そしてその交流のトップバッターに選ばれたのが、母上が一番推している、彼女、リロウだ。王城のプライベートな空間、その美しく整えられた庭でお茶会を開くことになり、決まってしまえばやらざるえないが、でもこのお茶会結果を悪く伝えて、どうにか彼女を候補者から外すしかない、と決意して臨んだお茶会だった。
勿論、だからといって彼女に淑女として問題がある、と主張するつもりはなくて・・・、まぁ、明らかに問題があるとは思うのだが、あの問題をどう説明したらいいのかが分からないし、残念なことに、あの言動以外はほぼ完璧と言ってよさそうな相手なので、悪く伝えるとしたらもう自分との相性しかない、とは思っていた。
いくら問題点を説明できないからといって、有りもしない問題を捏造するなんてもってのほかだし、もし第一王子たる自分が不用意な発言をすれば、一人の令嬢の未来を潰してしまうことになる。
そんな非情なことはできない。たとえ、潰しておいた方が世の中の為になるのかもしれない、なんて考えが頭の片隅に過ぎっていたのだとしても。
・・・しかし、そんな決意と気遣いをもって臨んだお茶会は、早々に取り返しがつかないことになった。
彼女は時間より多少、早めに来ていて、僕の勉強の都合で先に庭園で待っていてもらうことになったのだが、気が重くなりながらも後からその庭園に向かった僕がそこで見たものは、満面の笑みを浮かべて椅子に座り、淹れてもらった茶に優雅に口をつけながらも、あの輝きを放つ瞳を近くの侍女に向けている彼女の姿だった。
やって来た僕になんて全く視線が向かない。その彼女の視線の先にいる侍女は、とてもスタイルの良い女性で・・・。
当然のように、彼女の視線は侍女の胸元に釘付けになっていた。
侍女は、気が付いていないようだった。時折話しかけてくる公爵令嬢に失礼がないように接するので精一杯なのだろう。見れば、まだ若い女性のようだから経験も浅いのだろうし、高位の貴族、ましてや第一王子の自分の婚約者候補と接するなんて緊張しきりだろうから。
僕はその時、早足にその場に近づきながら、何故、と思った。何故、こんなうら若い女性にこの場を担当させたのかと。気分は性被害に遭いかけている女性を目の前で見かけてしまった状態に近かったので、自然、こんな窮地に女性を追い込んでいる状況に怒りすら湧きそうになっていて。
たぶん、その所為だったのだ。その所為で、僕はまた、冷静な判断ができなくなっていたのだろう。冷静にさえなっていれば、その席に辿り着いた時、間違った行動をせずに済んだのだろうから。
「お待たせして申し訳ない」
「いえ、とんでもございませんわ」
「殿下・・・」
「あぁ、ありがとう。あとはいいから、下がってくれ」
「あの・・・?」
「いいから、護衛の者達の辺りまで、下がってくれ」
「・・・はいっ」
失敗した、間違ったんだ、と気づいたのは、僕の分のお茶を注ぎ、差し出してきた侍女に普段ならあまりしないくらい少し強めの指示を重ねて出した後、彼女が頬を染めて興奮気味に頷いたその姿を目にした時だった。
自分でも少し口調がきつかったなとは思っていて、でも被害に遭っている女性を早くこの場から救い出してあげる為なのだから仕方がないと自分で自分に言い聞かせていたその瞬間だっただけに、見せられた反応の意味が分からず、一瞬、混乱してしまう。
でも侍女の、若い女性によく見られる、何かを期待したような、微笑ましくも恥ずかしい光景を目の当たりにしてしまったかのような態度に、すぐに彼女が誤解していることに気が付いて・・・、誤解を解こうと反射的に開いた口は、近くから突き刺さってくる視線に気を取られて結局目的の言葉を何も口にすることなく、閉ざす羽目になる。
突き刺さって来た視線の主は向かいに座る少女、リロウで、表情は淑女教育の賜物か、優雅なそれを維持してはいたのだが、瞳は正直にその感情を露わにしていた。
自分の欲望の対象を取り上げられたことを不満に思う、その感情を。
その目を見たら、とても弁解なんてできなかった。弁解するということは、被害者をこのままこの場に留めることになるからだ。そう、弁解の為の時間すら惜しい、早く逃がしてあげなければ、という気持ちが働いてしまったわけで。
侍女は、微笑ましいと言わんばかりの笑みを浮かべながら一礼すると、指示通り、護衛達の元まで下がった。距離があり、こちらの会話が一切聞こえないその距離まで下がっていく彼女の脳内では、今頃、この婚約者候補を気に入り、二人っきりになりたいと王子が望んだ、という解釈が生まれていることだろう。
僕にとって不本意以外のなにものでもない、そんな解釈が。
恩を仇で返されている気分になるのは、僕の心が狭いからなのか?
そうして最終的に現実逃避という道を選んでしまった僕なのだが、しかしいつまでも逃避し続けるわけにもいかない。
お茶を半分まで飲んだあたりで何かの諦めを得て溜息をつき、改めて目の前の婚約者候補、リロウに視線を向けると、彼女は何も話しかけず黙ってお茶を飲むという考えれみれば失礼な態度をとっている僕に腹を立てる様子もなく、それどころか僕がここにいることを忘れているのではないかというくらいの無関心さで宙を見つめていた。
明らかに、何か口にできない・・・、というか、口にするべきではないことを思い出しているのだろうな、と察せられる恍惚とした表情で、その明らかに触れてはいけない様子を目にした途端、恐いもの見たさのような心境から、触れてはいけないと分かっているのに声をかけてしまったのだ。
触れずにこのままの状態を維持されても怖いものがあった所為もあるのかもしれないが。
「えっと・・・、どうかしたのかな?」
「若々しい盛り上がりが素敵でしたわ・・・」
「・・・うん、やっぱりそういう感じなんだ」
応える声は表情と同じくらい恍惚としているし、内容も内容なので、瞬時にこれは駄目だ、と察した。察するしか、なかった。
だからそれを察した以上、たとえ怖くともこのまま特に会話もせず、適当なところでお茶会を切り上げてしまう、という判断もあったとは思う。
それなのに再び口を開いたのは、純粋な疑問が生まれたからだ。高位の貴族で、淑女教育を受けていて、この言動さえなければ完璧といっても差し支えのない少女。年齢より遥かに大人びた話し方をするし決して頭が悪そうにも見えないのに、有り得ない発言をし続ける彼女に対する、純粋な疑問が。
「ねぇ・・・、あのさ、ちょっと聞いてみたいのだけど・・・」
「彼女の魅力は大きさではなく、あの若々しさと形だと思いますわ」
「いやっ、そういうのじゃなくて・・・、というか、どうしてそのっ、同じ女性なのにそういうことに興味を示すのかなってことと、それを僕に言っていいのかっていうことが気になっているんだけど・・・」
「まぁっ、殿下、何を仰っているのです?」
それは僕の台詞だと思うんだけど? という反論は、ギリギリのところで飲み込んだ。べつに口に出したらいけないことでもなかったが、余計なことを言うと話が進まない気がしたのだ。
そして僕のその咄嗟の判断は功を奏したのか、リロウは興奮気味に続きを話し出す。・・・ただ、正直、その話を聞いている間、僕は自分の判断が本当に功を奏していたのかどうか、自信が揺らぎそうになった。
どれほど気になっていても、やっぱり何も聞くべきではなかったのではないか、そんなことを思ったから。
しかしこちらの自信が揺らいでいることなんて知る由もない彼女は、ひたすら楽しげに語るのだった。
「そういうこと、というのは、女性の魅力について、ということですわよね? 同性である私がそれを語るのはおかしい、と。失礼ながら申し上げますが、殿下は少し見識が狭いですわ。同性あればこそ、同じ女性の魅力がよく分かるのです。よく分かっている者こそ、声を大にして語るべきですわ!」
「・・・語る、べきかな? せめて胸に秘めるとかはできないの?」
「秘めてどうするのです!」
「どうするって・・・」
「女性の曲線美は男女問わず、全ての人間にとって見るだけで幸福感を味わえる神が与えたもうた人類に対する最大の贈り物ですのよ! その美を讃えるのは当然ですし、自然の摂理と等しいですわ!」
「・・・」
「あっ、勿論、曲線美だけではありませんわっ! その曲線美を際立たせる肌の艶やかさ、滑らかさ、美しさも褒め称えて然るべきですし、曲線美を持つに相応しいお顔の良さへの賞賛も人類の当然の責務です!」
「・・・」
「あぁっ、あの美しき祝福が詰まった快楽の谷に顔を埋める光栄に預かりたいですわっ!」
「・・・さっきも、聞いたんだけどね」
「はい?」
「そういう発言、僕にしていいの?」
「・・・? 自然の摂理、神の恩寵はいついかなる時に誰に対して口にしても何の問題もないではありませんか? 何か問題がおありですか?」
「・・・」
「ましてやお相手が殿下となれば、お話しすることを躊躇することの方が問題ではありませんか」
「何故っ?」
「何故と言われましても・・・、私と殿下は、共に王妃様という最高の曲線美を称える同士ではありませんか」
「・・・は?」
「同士を前にすれば、自ずと話題は共に行く道に対するものになりましょう」
「ならないけどっ?!」
胸に秘めるべきことを平気で高らかに語られ、その内容に気が遠退きそうになっていたところを辛うじて踏み留まり、当初発した疑問のうちの一つを改めて問い掛ければ、返ってきた答えにあと少しで辺り一体に轟き渡りそうな叫びに近いそれを迸らせるところだった。
しかし渾身の努力の果てに迸りそうなそれを押し殺して、向かいに座る少女だけに叩きつけてみたのだが、彼女は何を言われているのか分かりません、とでも言いたげな顔で首を傾げている。
どうも、彼女の中ではおかしな発言をした覚えがないようなのだが、はっきり言って、おかしな発言しかしていないのだ。
僕、そんなおかしな同士になった覚えないんだけどっ!
王妃の美を讃える、くらいなら、まぁ母上はお美しいしな、という感じで受け入れても構わない。確かに先日の茶会でも同じ美を分かるもの同士、みたいな眼差しをリロウに注がれていたので、そう思われているのだな、と察してもいた。
でも、曲線美、という限定的な美を讃える同士になった覚えはないし、今後もなる予定はない。断固として、ない。
当然、同士になった覚えもないのに共にそんな訳の分からない道なんて歩きたくないし、むしろそんな道が世の中に存在していることすら知りたくなかった。だからその道を歩くことを前提にされても困るし、もし共に歩く道について語るのであれば、僕達の場合、国の行く末や民草の暮らしについてを語るべきだろう。
それを曲線美について語るって・・・、有り得ない。本当に、どこのこの世に、婚約者するかもしれない男女が女性の曲線美について語り合うのか。そんな変質者になった覚えは断じてないのだ、僕には。
しかしその後、どんなに彼女の誤った認識を正そうにも、全く効果はなかった。頭から僕のことを同士だと決めつけている彼女は、その同士として認定しているはずの僕の言葉を殆ど聞かずに、ただひたすらに曲線美をメインに、女性に関するありとあらゆる魅力を語り続け・・・、満足気な顔をして、「有意義で楽しいお茶会でしたわ」と告げ、優雅に去って行ったのだった。
僕の護衛や侍女達に、物凄い誤解だけを大量に残して。