新入部員
見知らぬ一年生がやたらと熱心に部誌を読んでいるのを見かけた翌日、僕と雪音が日直の仕事を終え部室に顔を出すとそこには一人の来客がいた。
来客は私物と思しきノートパソコンを抱えており、僕らがやってきたのに気づくとパソコンを机に置いてから視線を雪音の方へ向けた。
見覚えのある青みがかった黒髪に、一年生であることを示す青い上履き。
表情は昨日見た子供っぽさの残る横顔よりも引き締まっていて、まっすぐに背筋を伸ばし雪音を見つめる姿には何だか年下とは思えない迫力を感じる。
こうして正面から相対してみると、凛々しいという形容の似合う美人ぶりだけれど。
間違いない。
彼女は昨日僕らの部誌を読んでいた女子生徒だ。
「ねえ、私たちの書いた話は面白かった?」
僕が面食らっている間に雪音は迷いのない足取りで女子生徒へ近づいていき、微かに緊張を孕んだ声で質問の言葉を口にする。
質問を受けた女子生徒は雪音の緊張になど気づいていない様子でぱっと顔を輝かせると、瞬く間に距離を詰め勢いよく口を開いた。
「はい! すっごく面白かったです!」
一切の迷いなく帰ってきた肯定の意を聞いて、雪音が頬を緩める。
「特に、猫の事件簿! 私、あんなに笑える小説初めて読みました!」
女子生徒が称賛しているのは千咲さんが今月の部誌に載せた短編で、内容は主人公である猫の視点で描かれるミステリーだ。
まあ、ミステリーと言ってもあの作品は殺人現場を目撃した猫が何とか刑事たちに犯人を伝えようとする様をコミカルに描くことを重視しており、女子生徒の言う通り作風はかなりコメディに寄っている。
ちなみに、この作品が完成したとき千咲さんは漱石にインスピレーションを受けた感が出て文芸部っぽいでしょとのコメントを残していたけれど。
実際にこの作品を書くきっかけとなったのは吾輩は猫であるではなく、部活中に千咲さんが動画サイトで見ていた子猫の映像だ。
「ありがとう」
千咲さんの作品がいかに素晴らしかったかを語る女子生徒に雪音が落ち着いた声音で感謝の言葉を口にすると、女子生徒の方はなぜそんなことを言われたのか理解できなかったようでぽかんとした表情を浮かべた。
「えっと、ありがとうって、何に対してですか? 別に、私は感謝されるようなことは何も……」
「私たちの作品を読んでくれたこと。千咲さんの作品を面白いと言ってくれたこと。あなたにとっては大したことではないのかもしれないけれど。私にとっては、とても嬉しいことだったから。だから、ありがとう」
真正面から伝えられて雪音の言葉に女子生徒が顔を赤くし、照れたように顔を下に向ける。
雪音はそんな彼女のことを穏やかな表情で見守っていて、二人の間には言葉がなくとも柔らかな雰囲気が満ちていた。
何だか、落ち着かない。
目の前の女子生徒が僕らの部誌を読んでくれた。
それは間違いなくいいことだ。
雪音がお礼を言って、女子生徒もそれを満更でもなさそうに受け止めている。
これだって、やはりいいことだろう。
なのに、どうにも僕は雪音や女子生徒のような穏やかな気持ちにはなれそうにない。
僕が一人でモヤモヤしていると、不意に部室の中に手と手を打ち合わせたことによって生じる乾いた音が響いた。
「はいはい、全員着席。いろいろ聞きたいことはあるだろうけど、そういうのは一回ちゃんと自己紹介をやってからね」
強引に注目を集めた千咲さんに促されるまま席に着き、改めて女子生徒の方へ視線を向ける。
彼女は文芸部の部員が全員着席したのを確認してから軽く咳払いをすると、勢いよく部誌の感想を語っていた先程までが嘘のような落ち着いた所作で自己紹介を始めた。
「初めまして。私は一年五組の文月灯といいます。本日から文芸部の部員としてお世話になりますので、どうぞよろしくお願いします」
自己紹介を終えた女子生徒、改め文月さんが軽く頭を下げると部室の中に拍手の音が響き始めた。
千咲さんに琴葉、雪音まで柔和な笑みを浮かべながら手を打ち鳴らす部室の中で、音もなく座っているのは気づけば僕だけになっている。
慌てて僕も拍手の輪に加わるけれど、今度は一人だけ手を強く叩き過ぎたせいか顔を上げた文月さんは一瞬だけ僕の方に訝し気な視線を送ってきた。
しかし、驚いた。
もう今年はこの部活に新入部員がやってくることはないと思っていたのに、まさかこんなにもあっさり部員が増えるなんて。
昨日までの僕に言っても、たぶん信じてはくれないだろう。
「灯ちゃん、その二人がさっき言ってた氷織と雪音ね。二卵性の双子ってあんまり似ないことが多いらしいけど、こうして見るとそっくりでしょ?」
「そうですね。先輩って華奢ですしちょっと化粧してウィッグを被せたら、もし入れ替わってても気づかないかもしれません」
僕と雪音が部室に来る前から琴葉は僕らのことを軽く紹介していたようで、まあそれ自体は結構なことなのだけれど。
何で文月さんは僕ら姉弟が似ているか否かの話で僕を女装させようとしているんだ。
そこは普通に似てますねでいいだろう。
些か納得し難い文月さんの評価に僕が微妙な気分になっている間にも琴葉は文月さんへあれこれ話しかけ、あっという間に連絡先の交換までこぎつけていた。
同じ部活で活動する以上は連絡先くらい交換しておいた方が何かと便利だろうし、ある意味琴葉のやっていることは当然と言えるのかもしれないけれど。
自慢じゃないが、僕はあまり初対面の相手と仲良くするのが得意なタイプじゃない。
それは雪音も同様なので、こういうとき真っ先に相手との距離を詰めてしまう琴葉の存在はありがたい。
「あの、早速で悪いんですけど、私も小説を書いてみていいでしょうか?」
琴葉とのやり取りが一段落したタイミングで、そわそわした様子の文月さんが千咲さんに伺いを立てる。
文芸部としては至極まっとうな発言だけれど、思えばこんな風に何かを書きたくてたまらないといった様子の人間を見るのは初めてかもしれない。
文芸部の活動として明確に決まっているのは月に一度発行する部誌だけであり、そのための原稿を書く時間以外は皆動画を見たりゲームをしたりと好き勝手に過ごしている。
そして、その部誌だって文化祭の展示や新入生向けに発行する特別号を除けば文芸部の人間以外が読むことはまずない。
言い訳するようでなんだが、そんな状況下ではあまりやる気も出ず、部内において量、質共に最も優れた書き手である千咲さんでさえ、原稿執筆のモチベーションは創作意欲というより義務感だ。
酷いときだと、僕らの部誌には千文字もない短い原稿が明らかに未完成の状態でそのまま載ったりする。
「もちろん。もし何か疑問があれば遠慮なく聞いてね。自慢できる腕前ではないけど、これでも物書きとして一日の長はあるだろうから」
千咲さんが一言目に了承の言葉を口にした時点で、文月さんが右手を伸ばしパソコンの電源を入れる。
今の文月さんは、まるで一分一秒が惜しいとでも言いたげな様子だ。
文月さんを見ていると、誰に何を言われたわけでもないのに何だか僕も物語を書かなきゃいけないような気分になってくる。
正直、居心地の悪い感覚だ。