望まない運命の出会い
誰かが扉を開き部室の中へ入ってくる音を聞いて、それまで読んでいた借り物の文庫本を閉じ顔を上げる。
「やっほー。今日はみんな大好き部長様が旅行土産に買った饅頭を持ってきたぞー。敬えー下級生ども」
扉を開き中に入ってきたのは赤みがかった茶髪をお団子にしてまとめ、赤いフレームの眼鏡をかけている軽いノリの女子で、名前を桜台千咲という。
彼女、千咲さんは僕の所属する文芸部では唯一の三年生であり、必然的に我が部の部長を務めている。
「千咲ちゃんありがとー。でも、私たち呑気にお饅頭食べてていいの? 仮入部期間が終わったこの時期に新入生ゼロって、うちの部ヤバいんじゃ……」
部室中央に置かれた長机を挟んで僕の正面に座っていた女子が、少しクセのあるはちみつ色の髪を揺らしながら千咲さんの方へ向き直り、親し気に声をかけた。
千咲さんに声をかけた女子、奏琴葉は愛想がよく可愛らしいという表現がよく似合うやつではあるが、生憎と今は眉尻を下げ困り顔を浮かべている。
まあ、事実として一年生の大半が正式に入部届を提出するゴールデンウィーク明けのこの時期に、我らが文芸部は一人たりとも新入部員を確保できていない。
決して先行きが明るいとは言えない文芸部の状況を思えば、琴葉の心配も無理はないだろう。
「いいのいいの。どうせ一人でも部員がいれば廃部にはならないんだから、来年あんたたちが頑張れば問題なし!」
「もう、千咲ちゃんてきとう過ぎじゃない?」
「ノンノン。てきとうなんじゃなく、あんたらなら大丈夫だと信頼してるのよ」
特に根拠のなさそうな信頼が果たしててきとうじゃないと言えるのかは疑問の残るところではあるけれど。
琴葉の方も今さら新入部員を確保するのが現実的でないのは理解しているようで、これ以上言い募ることはせず千咲さんが鞄から取り出した饅頭に手を伸ばし始めた。
「千咲さん、来月の部誌の原稿って締め切りいつでしたっけ?」
「二十八日だけど。氷織は今回も本のレビュー?」
「はい。というか、千咲さんにこれを借りたのだってもとはと言えば原稿のネタ作りのためですし」
僕が借りている文庫本を掲げてみせると、千咲さんはわざとらしく唇を尖らせた。
「そう言わず、氷織も小説を書いてくれていいんだよ。今なら美人の先輩が手取り足取り教えてあげるからさ」
「いや、僕は……」
千咲さんのことは好きだし、彼女のように自分で物語を作ってみることに全く興味がないわけでもない。
だけど、何となく自分に一から小説を書くなんて大層なことができるとは思えなくて、つい言葉に詰まってしまう。
そんな僕を見かねたのか、不意に千咲さんは相好を崩し小さく笑った。
「なんてね。いいよ、無理しなくて。うちの部は自由がモットーだから。何をするにしても、氷織の好きにすればいいさ」
千咲さんがどこまで本気で僕を誘っていたのかはわからないけど、正直こう言ってくれると安心する。
やっぱり、僕の部活動は退屈しのぎに千咲さんから借りた推理小説を読んでいるくらいがちょうどいい。
「氷織、いいの?」
決して大きくはないけれど澄んでいて心地のいい声が、心中で下したばかりの結論に異を唱えるかのように僕の名前を呼んだ。
目線を横に向け隣に座っている声の主を見やると、彼女は手元の文庫本から顔を上げまっすぐに僕のことを見つめていた。
艶のある綺麗な黒髪は長く伸ばされていて、肌は透き通るように白い。
感情の読みにくい表情は些か取っつきにくい印象を与えるかもしれないが、顔立ちが整っている故か彼女の場合はそれも高嶺の花のようで絵になっている。
目の覚めるような美貌を持つ彼女の名は藍川雪音といって、僕にとっては双子の姉であると同時に千咲さんと琴葉以上に好きだと言える唯一の存在だ。
「何のこと? 別に、雪音が心配するようなことは何もないよ」
「そう。なら、いいわ。……千咲さん、お土産いただきますね」
雪音は結局何について尋ねたのかも言わないまま本を鞄にしまい、琴葉と一緒に饅頭に手を伸ばし始めた。
「……これ、生地の甘味を抑えた方がいいと思う。あんこだけでも十分甘いのに、生地までこれだと少しくどい」
「えー、そう? 全然甘すぎって感じしないし、このくらいがちょうどいいと思うんだけど」
「あらら、どうやら雪音の口には合わなかったみたいだね」
三人が饅頭について話すのを聞いていると、別に和菓子が好きというわけでもないのに何だか僕も食べてみたくなってきた。
「千咲さん、僕も一つもらいます」
試しに一つ手に取り口へ運んでみると、滑らかな舌触りのこしあんと柔らかな生地が備えている控え目な甘みが口の中に広がった。
雪音は甘すぎると言っていたけど、僕としては甘味を抑えるよりは今の方が絶対に美味しいと思うし、何ならもう少し甘くしてもいいくらいだと思う。
「今んとこ好評と不評が半々だけど、氷織的にはどうだった?」
「美味しいと思いますけど、敢えて言うならもう少し甘くてもよかったです」
「なるほど。いや、うん、何となくそうだろうなーとは思ったけど、あんたら本当に好み合わないわね。一応、無難なの選んで買ってきたつもりなのに、ここまで綺麗に意見が割れると逆に面白いわ」
千咲さんは僕と雪音と琴葉を半目で見回してから、小さく口を開けてその中に饅頭を一つ放り込んだ。
文芸部なのに話題の中心が饅頭というのもどうなんだと言う気はしなくもないが、僕ら四人の部活動は概ねいつもこんな感じだ。
最初は雪音が入ると言ったから入部しただけの部活だったけど、今はこうして過ごす放課後もそれなりに気に入っている。
◇
「ねえ氷織、今週の土曜って暇?」
「まあ、暇だけど」
「だったらさ、一緒に映画観に行こうよ。先週氷織が読んでた本、映画化してるんだって」
部活が終わり昇降口へ向かう道すがら、琴葉が誘いの言葉を口にしつつ映画の公式サイトが表示されたスマホを僕の目の前に突き出した。
見れば、彼女の言う通り僕が読んだことのある青春ものの小説を実写化した映画が現在公開されているらしい。
あの本は図書館で目立つ位置に置かれていたのを何となく借りただけだったのだけど、なるほどあれは映画化されているからこその扱いだったわけか。
まあ、読んでみるとそこそこ面白かったし映画を観に行ってみるのも一興だとは思うけれど。
僕があれを読んでいるとき琴葉は大して興味がない風だったし、わざわざ映画を観に行きたがるのは少しだけ意外だ。
「いいけど、琴葉ってあの本好きだったの?」
「あ、えっと、そういうわけじゃないんだけど。映画の宣伝見てたら面白そうだったというか……とにかく! 土曜は一緒に遊びに行くんだから忘れないでね」
所々で目を逸らしながら話しているのは気になるけど、要は小説の方には興味なかったけど宣伝を見て映画には興味を持ったということだろうか。
まあ、小説と映画だと受ける印象も違ってくるだろうし、琴葉の言うことも特におかしなことではない。
「わかってる。後は、雪音はどうする?」
「氷織が行くなら私も行く」
「そっか。じゃあ、土曜日は僕と雪音が琴葉の家に……って、どうかしたの琴葉?」
雪音が同行できることを確認してから予定を決めようと声をかけると、なぜだか琴葉は僕の方へ恨めしそうな目を向けていた。
「別にー。全然全く、どうもしないけどー」
どうもしないとは言っているが、琴葉の態度には不満がありありと現れている。
映画を観に行くのは琴葉の方から言い出したことなのだからそれに応じたからと言って彼女が不機嫌になるとは思えないし、正直どうしてこんな反応を見せているのか皆目見当もつかない。
「ダメだよ氷織。せっかくのデートの誘いなんだから、姉同伴じゃ雰囲気出ないでしょ」
僕と琴葉の会話を聞いていた千咲さんが、急によくわからないことを言い出した。
僕と琴葉は友達なんだから休みの日に遊びに行くくらい普通のことだし、僕と雪音が一緒にいることはそれ以上に当たり前のことだ。
琴葉とは雪音だって友達なのだから、三人で映画に行くからといって琴葉が不機嫌になる理由はないだろう。
「そもそもデートじゃないですし、雪音がいて困ることなんて一つもないですよ」
別におかしなことを言ったわけでもないのに、千咲さんは仕方のないやつだとでも言いたげに小さく首を横に振った。
「やれやれ、雪音と氷織は相変わらずのブラコンとシスコンだし、見た目だけじゃなくちょっと鈍い所までそっくりね。これは、琴葉も苦労するわけだわ」
からかうような笑みを浮かべながら千咲さんが琴葉を見やると、琴葉は僅かに顔を赤くしながら千咲さんをきっと睨みつけた。
「もう! 千咲ちゃんは余計なこと言わなくていいの!」
「いいじゃない、こういう刺激もときには必要でしょ。というか、あんたもたまにはこれくらい言っとかないとそこのシスコンは一生気づかないわよ」
千咲さんと琴葉が何について言い合っているのかはいまいちわからないけれど。
二人は小学生のころからの幼馴染らしいし、僕と雪音がそうであるように二人にも長い付き合いの中でできあがった互いにしかわからない何かがあるのだろう。
特に、僕が気にするようなことではなさそうだ。
なんてことを考え千咲さんと琴葉に意識を割いていたせいか、僕は急に目の前で立ち止まった雪音に気づくことができず額を彼女の背中にぶつけることになった。
「雪音? 急に立ち止まってどうしたの?」
僕が立ち止まったわけを尋ねると、雪音は何も言わずに人差し指で昇降口の正面に設置されている掲示板の前に立つ女子生徒を指差した。
肩口の辺りまで伸びている青みがかかった黒髪が窓から差し込む夕陽に照らされ輝いて見えたせいか、彼女はまるで劇の中心でスポットライトを浴びる主役のようだった。
僕には見覚えのない生徒だ。
学年ごとにわかれている上履きの色が青いということは一年生なのは間違いないだろうし、たぶん雪音とも面識はないだろう。
彼女がどこの誰なのかは知らない。
けど、ここからは横顔しか見ることのできない彼女は僕にもわかるくらい楽しそうだ。
周囲の喧騒など一切聞こえていないかのように目を輝かせ手に持っている冊子を一心不乱に読みふけるその姿は、まるで未知の宝物を見つけた子供のように見える。
一体、何が彼女をここまで歓喜させているのだろう。
そんな疑問を解消するため女子生徒へ歩み寄りながら彼女の手元の冊子に目を凝らすと、そこにあったのは僕がよく知っているものだった。
あれは、僕ら文芸部の部誌だ。
どうせ誰も読まないけど、それが文芸部の伝統だから続けている。
僕らが掲示板に部誌を置くのはその程度の理由なのに、見知らぬ女子生徒は印刷したページをホッチキスで繋ぎ合わせただけだの簡素な部誌を読んでこれ以上ないくらい楽しそうにしている。
「ぼ……」
僕らの部誌を読む人がいるなんて珍しいね。
そんな風に声をかけようと開いた口は、視線を後ろに向け雪音の顔を見たことによって、結局何も言うことができないまま閉じてしまった。
雪音は、今まで見たことがない好奇心に満ちた表情で女子生徒を見つめている。
何だか落ち着かない。
常識的に考えれば、もう一度口を開いて先程言おうとした台詞を口にすればいいだけなのだろうけど。
僕にはそんな台詞を吐くのが何だかとても白々しいことのように思えて、結局女子生徒が部誌を読み終え軽い足取りでこの場を後にするまで口を開くことはできなかった。
「氷織。世の中には、私たちの書いたものを読んであんな顔をする人がいるのね」
まるで独り言のように呟かれた雪音の言葉はいつもよりも上ずっていて、いつもと違う雪音に違和感を抱いたままの僕は答えを返すことができなかった。
どうしてだろう。
冷静に考えれば大したことではないはずなのに。
僕でも千咲さんでも琴葉でもない見知らぬ誰かが、雪音に僕でさえ見たことのない顔をさせているという事実は、どうしても気になった。