三度目の人生②
「アウレリア。悪いが君と結婚することはできない」
「…………」
アウレリアの手の中で、扇子がめきりと悲鳴を上げた。
冷めた眼差しのアウレリアの前には、ラウルと――知らない令嬢の姿が。
ふわふわのピンク色のドレスを着た令嬢は小柄で愛らしく、思わず守ってあげたくなるような雰囲気があった。
三度目の台詞を聞かされたアウレリアは、少し曲がってしまった扇子を手の中でぽんぽんともてあそびながら問う。
「……ラウル様、どうしてですか? 私たちは今年、結婚しますよね?」
もはや動揺の欠片もなくアウレリアが低い声で問うと、ラウルは一瞬びくっと身を震わせた後、ため息をついて隣の令嬢の肩を抱いた。
「……そういうところだよ。昔の君はもっと可愛らしかったのに、留学してから全く可愛げがなくなった」
「……はぁ?」
「悪いが婚約の話は白紙に戻させてもらう。僕は……君を女性として好きになることはできない」
「……で? 隣のご令嬢は?」
ひくっと引きつりそうになる口元をなんとか抑えて尋ねると、令嬢はびくびくしながら名乗った。
確か、引っ込み思案ということで一度目の人生でも二度目の人生でも社交界に出てこなかった、伯爵家の三女とやらだ。
「わ、わたくし、こんなに小心者で、自分に自信もないのですが……ラウル様が、励ましてくださったのです」
「僕は、彼女のようにたおやかで愛らしい女性と一緒になりたい。君のようにさかしらぶって知識をひけらかすような女性を、異性として愛することはできない」
「……」
「婚約解消の件は、改めて僕からペルレ子爵にもお伝えする。……アウレリア、どうか幸せに」
「お待ちを」
そそくさと去ろうとしたラウルにずいっと詰め寄り、アウレリアは彼の肩を掴んだ。
――いくら現在婚約中の関係とはいえ、男性の肩を女性が掴むなんてとんでもない話だ。
案の定、振り返ったラウルはぎょっとしているし、隣の令嬢は息を吞んで真っ青になっている。
「な、何をする、アウレリア!?」
「婚約解消、了解したわ。……一発殴っていい?」
「は!? そ、それが淑女の言うことか!?」
ラウルは最初は混乱した様子だったが、すぐに調子を取り戻したようだ。
アウレリアの手を引き剥が――そうとしたが握力に負けたのか驚いた顔になり、そして咳払いをした。
「アウレリア、君は淑女として失格だ。僕に選んでもらえなかったからといって暴力を振るうなんて……これでは、次の嫁ぎ先に困ってしまうよ」
「……」
「だから、離してくれ。……君、いつの間にこんな馬鹿力になったんだ?」
「こ、怖いです、ラウル様……」
「大丈夫だよ。アウレリアは見てのとおり、かっとなりやすいんだ。ここは僕に免じて大目に見てやって――」
「あ、手が滑ったー」
棒読みの台詞と共に、アウレリアの右手の拳がラウルの横っ面に決まった。顔面にしなかったのは、せめてもの情けだ。
留学先ではアウレリアも、重い書物を運んだり教室の掃除をしたりした。おかげで、学力だけでなく腕力も三回の人生の中で一番成長していた。
ラウルの体は簡単に転がり、愛らしい令嬢が悲鳴を上げた。
「い、いやぁぁ! ラウル様!?」
「お静かに」
「ひいっ!?」
アウレリアは口を手で押さえてぷるぷる震える令嬢に背を向け、ラウルの前でしゃがんでその頭を扇子の先でツンツンつついた。
「……ラウル様」
「ア、アウレリア……なぜ……」
「あなた、最初から私と結婚する気がなかったのでしょう?」
アウレリアの静かな声に、ラウルは涙の浮かぶ目を見開いた。
……三度目の人生を歩みながらも、どこか不安な気持ちになっていた。
だが、ようやく分かった。
ラウルは、アウレリアがどれほど努力しても振り向いてくれない。――絶対に振り向かない。
アウレリアの前に、アウレリアとは全く違う令嬢を毎度連れてきて、「おまえは僕のタイプじゃない」と突っぱねるの繰り返し。
三度目のやり直しにして、ようやく気がついた。
アウレリアは驚愕で目を見開くラウルに微笑みかけ、立ち上がった。
「婚約解消の件なら、そのようになさいませ。でも、あなたの不誠実さについては私の方からも父に言っておきますので」
「ア、アウレリア……君は、一体……」
「では、ごきげんよう」
アウレリアはお辞儀をして、床に座り込んで呆然とする婚約者と――一度目の人生の自分によく似た令嬢に、背中を向けた。
「あー……ばっかみたーい、あっほくさーい……」
廊下を歩きながら、アウレリアは調子の外れた歌を口ずさむ。
これは、留学中の市街地観察実習で知り合った平民の少年から教わった歌だ。
なんとも低俗な歌で留学仲間たちは顔をしかめていたが、今のアウレリアの気持ちを代弁するにふさわしいと思う。
(つまり、三度にわたる私の努力は最初から意味がなかったってことねー)
それに。
(今回、はっきり分かった。私、ラウル様に何の感情も抱いていなかった)
一度目の人生で刷り込み同然に「ラウルと結婚するのが自分の目標」になっていた。
二度目の人生ではそれについて疑うことがなかったが、三度目の今はようやくその刷り込みが誤っていることに気づいた。
(私はラウル様と結婚するつもりがないし、私こそラウル様のことをこれっぽっちも愛していなかった)
内向的だった一度目はともかく、二度目では社交界を経験し、三度目では隣国にまで足を伸ばした。
もう、子爵邸とラウルだけが自分の生きる世界の全てだった過去のアウレリアとは違う。
(最初から、ラウル様と婚約しなければよかったのよね……)
そんなの今さらで遅すぎるが、あの十歳の時点で婚約を回避していればよかったのだ。自分の愚かさにほとほと呆れてくる。
アウレリアはそのままぶらぶらしようと廊下を歩いていて……ふと、思い出した。
(……そういえば二度目の人生では、中庭で揉めている男女に巻き込まれたのよね……?)
もしかしなくても、三度目の人生の今もあの二人は中庭で別れ話をしているのではないか。
そうだとすると今回もあの女性は、相手の男を殺すつもりである可能性が高い。
不倫男がメタメタにやられることについてはともかく、もしかすると二度目のアウレリアのようにあの場に巻き込まれ――アウレリアの代わりに刺される人がいるかもしれない。
(それはさすがに……放っておけないわよね)
幸い、今のアウレリアはこれから起こりうることが少しだけ分かる。
(衛兵に声を掛けよう。あの辺で男女が揉めているって言えば、様子を見に行ってくれるはずよね)
よし、とアウレリアは中庭に向かうべく方向転換して階段に向かい――
階段を降りようとした瞬間、ぐきっと右足首を捻ってしまった。
「えっ」
踏み出した右足がもつれ、左足もずるっと滑る。
両足で体を支えられずに体が前のめりに倒れ――その先にあるのは、階段。
(う、嘘でしょ!?)
――ぞくり、と恐怖を感じた体がせめてものあがきで両腕を前に突っ張らせるが、体全体を支えることはできない。
ガン、ゴン、と鈍い音と共に体中が痛み、世界が回転し、やがてうつ伏せ状態で倒れる。
何度も頭を打ち付けながら転げ落ちたからか、体中の痛みすらだんだん靄が掛かっていくかのように遠のいていく。
(私……また、死ぬの……?)
今度こそ、真実に近づいたと思ったのに。
震える指先が、湿っぽい何かに触れる。頭から、大量の血が流れているのかもしれない。
(……もう、疲れたな)
何度も同じ時を繰り返すのも、その都度後悔するのも。
もう、全てを投げ出した方が楽なのかもしれない。
……だが。
(私、やっぱりまだ……死にたくない)
ラウルへの勘違いの愛に縛られることなく、自分の選択で自分の人生を歩みたかった。
ようやくそれに気づいたのに、何もできなかった。
それが、悔しかった。